ブラック・アスリートの苦難と栄光

- ジェシー・オーエンス、フレデリック・ポラード、ナンディ族 -


陸上競技  アメリカンフットボール  バスケットボール  黒人優位説とその弊害


 陸上競技と黒人選手
 20世紀以前、黒人アスリートが活躍できる場所はごく限られていました。野球とボクシングぐらいかもしれません。なぜならまだバスケットもアメフトも誕生しておらず、陸上などのアマチュア・スポーツに参加できる黒人の学生もいませんでした。食べてゆくことで精いっぱいだった黒人の子供たちにスポーツを楽しむ余裕はまだなかったのです。
 しかし、1920年代に入り、状況は少しずつ変化し始めます。北部の都市を中心に一般の市民がスポーツを楽しむ体育館やグラウンドなどの設備ができ始め、学校教育においてもスポーツは重要な科目として採用されるようになってゆきました。
 1930年代に優れた黒人アスリートを輩出し始めた5つの競技。バスケットボール、アメリカン・フットボール、ベースボール、陸上競技、ボクシングのうち、ボクシング以外はすべて学校の義務教育で導入されたものでした。アメフト界のF・D・ポラードのように大学、プロ選手、実業家として成功するという道筋は、黒人たちにとって新たな成功への道として非常に魅力的なものに見えたはずです。そのために多くの黒人たちがスポーツ界での活躍を目指すようになり、幸いアメリカ国内の環境も変化し始めることになります。
(1)教育環境の変化
 地域の教育環境が変化したことにより黒人アスリートの数が増加し、必然的に結果を残す選手が増えました。黒人のオリンピック代表選手数は、1932年(ロサンゼルス)が4名だったのに対し、1936年(ベルリン)では19名に急増しています。
(2)スポーツ競技の国際化
 世界的に様々なスポーツが普及し、さらにが交通網も発達したことでスポーツ界全体が国際化し、海外チームとの試合が増えました。そのため、優秀なメンバーである黒人選手を入れて補強する必要に迫られた。
(3)ナショナリズムの高揚
 国家間の緊張が高まる中、アメリカにおけるナショナリズムが盛り上がり、国全体の勝利のため人種の違いは一時的に棚上げされることになります。ナチス・ドイツの象徴だったボクサー、マックス・シュメリングを倒したジョー・ルイスやベルリン・オリンピックで活躍したジェシー・オーエンスなどはまさにその象徴でした。

<ジェシー・オーエンス>
 ジェシー・オーエンスは1913年アラバマ州に生まれ、幼少期に家族とともに北部の都市オハイオ州クリーブランドへと移住しました。そこで彼が通いだした中学校で出ったのが陸上部のコーチ、チャールズ・ライリーでした。彼の指導のおかげで彼はアスリートとしての基礎を固めることができたようです。
 高校時代には、当時の100ヤード走、走り幅跳びで世界タイ記録を達成し一躍有名になりました。その後、オハイオ大学に進学後、ベルリン・オリンピックへの出場メンバーに選ばれました。当時、すでにドイツにおけるユダヤ人迫害は、アメリカでも問題視されるようになっていて、一部にはオリンピック・ボイコットの動きもありました。
 アメリカ国民の多くもドイツの人種差別には批判的だったため、黒人ではあってもアメリカ代表として出場するオーエンスには大きな期待がかけられることになりました。そんなプレッシャーの中でも、彼は圧倒的な力を発揮。100m、200m、走り幅跳び、400mリレーで、すべて金メダルを獲得し、オリンピックの歴史にその名を刻みました。
当時、ドイツの新聞にはこんな記事が掲載されました。
「もし、黒人補助部隊がいなかったら、アメリカのナショナル・チームの成績は、本大会最大の失望であったことだろう」「デア・アングリフ」(ドイツの新聞)

<陸上競技における黒人選手の優位性>
 2012年の陸上競技のハードルも含む徒競走の世界記録12の保持者を見ると、興味深いことがわかります。
100m  200m  110mハードル  400m 400mハードル 
ウサイン・ボルト(ジャマイカ) ウサイン・ボルト(ジャマイカ) ダイロン・ロゴレス(アメリカ) マイケル・ジョンソン(アメリカ) ケビン・ヤング(アメリカ)
800m 1000m 1500m    
デヴィッド・L・ルディシャ(ケニア) ノア・ヌゲニ(ケニア) ヒシャム・エルゲルージ(モロッコ)    
3000m 5000m 10000m 42.195km(マラソン)   
ダニエル・コーメン(ケニア) ケネニサ・ベケレ(エチオピア) ケネニサ・ベケレ(エチオピア) パトリック・マカウ(ケニア)  

 このメンバーを人種によって分類すると、短距離と言われる400mまでの記録保持者は国籍は違っても、全員が西アフリカ系の黒人です。中距離の800mと1000mの二人は東アフリカ系の黒人で、ヒシャムは中東系。
残る長距離走者たちは全員が東アフリカ系になっています。
 短距離から中距離にかけては西アフリカ系で、長距離になると東アフリカ系が強いという傾向が表れています。その原因は何なのか?体格、内臓、環境、メンタル、文化…さまざまな理由が考えられます。

<ナンディ族の謎>
 スポーツ地理学者にジョン・ベイルとジャーナリストのジョン・マナーズが興味深い研究を行っています。
 マラソン・ランナー世界ランキング100位以内の選手を生み出している数を世界平均を1として、地域ごとにデータ化し比較を行ったのです。(1992年)そのデータによると東アフリカのケニアは平均の1に対してなんと6.03という数字になっていました。2位の南アフリカでも2.54ですから圧倒的な数字です。ところが、このデータをさらに細かく調べると驚くべきことが明らかになりました。ケニア国内でケニアの平均を1として、さらに部族ごとに細かく分けて調べると、ケニア内陸部に住むナンディ族が22.9という驚くべき数字を示したのです。2位のバリンゴ族が4.6ですから圧倒的です。
 マラソン王国ケニアという言い方は実は間違ていて、「マラソン部族ナンディ」と呼ぶべきだったのです!
ではナンディ族はなぜ強いのか?部族全体に共通する特徴があげられています。
(1)どの部族よりも高いプライドを持ち、戦いを恐れない。(エチオピアの独立運動におけるナンディ族の活躍は有名でした)
(2)歴史的にナンディ族は他の集団から牛を奪いそれで生計を立てる特殊な部族でした。
(3)トップレベルの選手は子供の頃、10キロ以上の距離を走って学校に通っていました。
 アメリカン・フット・ボールと黒人選手
<アメリカンフットボール誕生>
 1874年、ハーバード大学とカナダのマギル大学との間でフットボールの対抗戦が行われました。当時、フットボールのルールは、現在のサッカーとラグビーが混ざったもので、共通のルールというものがありませんでした。そのため、この時の試合は「ボストン・ゲーム」と呼ばれていた現在のサッカーに近いルールによる試合と、マギル大学が得意としていたラグビーに近いルールの試合が両方行われました。この時、ハーバード大学は「ボストン・ゲーム」では勝利し、ラグビー・タイプの試合でも引分けました。この試合でラグビー・タイプのルールが気に入ったハーバード大学は、イエール大学にもこのルールをすすめ、それをきっかけにアメリカの名門大学はほとんどがこのラグビー・タイプのルールを採用するようになりました。とはいっても、まだルールは正式なものではなく、共通化もされていませんでした。
 そこでイエール大学のウォルター・C・キャンプによって新たなルール作りが進められ、スクリメージ(規定の位置に両チームがつき、攻撃側のスナップから試合を始めるスタイル)や3ダウン制(攻撃側が3回攻撃し、10ヤード進めなければ攻守が自動的に入れ替わる)などのアメフトならではのルールの原型はこの頃誕生したと言えます。
 こうして、ウォルター・C・キャンプは「フットボールの父」と呼ばれることになりました、

<アメフト初の黒人コーチ>
 1920年11チームによって、アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション(APFA)が創設されました。1922年にナショナル・フットボール・リーグ(NFL)に改名。そして、そこ頃には早くも黒人のヘッドコーチが誕生していました。アメフトにおける黒人選手の活躍の先駆となったフレデリック・ダグラス・フリッツ・ポラードです。
 フレデリック・ダグラス・フリッツ・ポラードは、1889年イリノイ州シカゴに生まれました。幸いなことに、北部の都市シカゴは多人種の街としてんも有名な大都市で、人種差別の少ない土地柄です。ブラウン大学時代の1916年のローズボウルにハーフバックとして出場。それは黒人選手として初の快挙でした。彼の活躍によりブラウン大学は黄金時代を築くことになりました。彼は全米の大学選抜にも指名され、さらにAPFA初の黒人選手として1920年にプロ入り、1921年早くもその才能を買われてヘッドコーチに就任しています。
 彼の父親は、独立農民のコミュニティーで生まれ、南北戦争にも志願して出征し、第83黒人歩兵隊に太鼓兵として参加。終戦後、白人から理髪師の技術を学んだ後、ミズーリ州に渡り、そこで1874年に黒人、先住民、白人の混血だったキャサリンと結婚。そして、二人の7番目の子供として生まれたのがポラードでした。(黒人ではあっても白人の血が混じっていたことも彼の活躍には幸いしました)奴隷制廃止運動の活動家として有名なフレデリック・ダグラスの演説に感動した両親がフレデリックの名前から「フリッツ」の名をもらいました。
 理髪業で成功した一家は、1886年にシカゴに移住。その住まいは白人居住区にあり、当時としては珍しい裕福な黒人家庭に育ったといえます。学力は今一つだった彼は、スポーツの能力を高く評価されて、ブラウン大学に進学。そこでの活躍によりプロへの道が開かれて、NFLで活躍。引退後は実業家としても活躍しています。(2005年NFL殿堂入り)
 黒人選手として彼は、肌の色や金銭的に恵まれていたこと、大学でできた友人や人脈にも恵まれていたことなどが幸いしました。それに黒人選手はまだまだ珍しくある意味貴重な人材でした。その点、その語活躍するほとんどの黒人アスリートとは異なる状況にあったといえるかもしれません。

「コーチも白人、選手も白人、観客も白人。60年たったいまになって、そんな状態に文句をいうつもりはない。当時はそれが当たり前だった。1900年代に大学に入るよう黒人は、ほとんどいなかったし、運動で白人と争おうなんてやつはもっといなかったんだから。」
F・D・ポラード

 当時、彼は「白人よりも白人らしい選手」として讃えられ、差別の対象となることはありませんでした。比較するまでもなく、黒人は白人よりも劣る人種とみなされていたのです。

<差別の終わり>
 プロのアメフトの世界では、NFLのオーナーたちが1933年に紳士協定として黒人選手を採用しないという方針を決定してから、1945年の第二次世界大戦の終戦まで黒人選手は消えていました。しかし、1946年に設立された新リーグ、オール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(AAFC)は、選手の不足をおぎなうこともあり、黒人選手を採用。後を追ってNFLも黒人選手の採用を許可します(AAFCは1949年に解散し、49ersなどがNFLに加盟します)
 1962年、最後まで差別を続けていたワシントン・レッドスキンズ(チーム名からして、なんだか人種差別的に思えてきます)が黒人選手、ボビー・ミッチェルを入団させ、やっと黒人選手が全チームでプレーできるようになりました。 
 バスケットボールと黒人選手
<バスケットボール誕生>
 1891年、マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCA(キリスト教青年会)職業訓練校の体育教師でカナダ人のジェームス・ネイスミスが上司からニューイングランドなど雪の多い地域に冬期間屋内でできるスポーツを考案してほしいと指示されたのがきっかけでした。
 こうして、彼はわずか2週間でバスケットボールのルールを考え出すことになりました。もともと冬期間に身体を持て余している労働者階級の若者たちが気軽に狭い屋内でできるようにと考案されたスポーツなだけに、バスケットボールには早くから黒人の若者たちが親しんでいました。さらにアメリカ北部は早くから奴隷制を廃止し、人種差別の意識が薄い土地柄なだけに黒人白人が早くから一緒にバスケットボールを楽しむことになりました。

<大学バスケット>
 元々北部のスポーツだったこともあり、黒人の文化的色合いが強かった大学のバスケットボール界では黒人選手は、アメリカンフットボールよりも早くから黒人選手を受け入れていました。しかし、南部のチームは黒人選手の出場をなかなか認めず、北部や西部のチームはそうした南部のチームとの対戦を拒否するようになってゆきます。かつて南アフリカのスポーツ選手が海外での試合に参加できなくなったことを思い出させます。
 そうした状況に南部の大学も動きだし、1956年、テキサス・ウエスタン・カレッジ(TWC)が初めて黒人選手2名を入団させ流れを変えることになります。まったくの無名のチームだったこの学校、TWCはその後さらに黒人の優秀な選手を入団させ、1966年の全米大学体育協会大会でなんと決勝戦まで勝ち上がります。この時の決勝戦に勝ち上がってきたのは、大学バスケットの超名門校ケンタッキー大学。(1980年代に来日した時、僕はケンタッキー大の試合を見に行きました。大学生チームといっても、日本のチームでは到底歯が立たない感じでした)当時のケンタッキー大は、まだ全員が白人選手で、それに対するTWCは全員が黒人という対照的な2チームによる決勝となりました。結果は、72対65という接戦の末、TWCがまさかの勝利。この結果に衝撃を受けた南部の大学がすぐに黒人選手の獲得に乗り出したのは当然のことでした。その意味では、TWCと選手たちの活躍は時代の流れを大きく先に進めたことになります。
 1975年になると、大学のバスケットボール・チームにおける黒人選手比率は45%に達しました。

<プロ・バスケット>
 1920年代、バスケット界最強のチームはすでに黒人のチームでした。全米各地を巡って、その土地の最強チームと試合を行う黒人プロチーム、レンズは1932年シーズンに120勝8敗という驚異的な記録を残しています。同じく黒人プロチームのハーレム・トロッターズは、1940年に159勝8敗というさらに凄い成績を記録しています。ただし、チームは白人チームと黒人チームが分かれていて、人種混合のチームはほとんどありませんでした。
 1937年、中西部の都市を中心に全米バスケットボル連盟(NBL)が結成されます。ここにはすでに黒人選手が所属していました。バスケットボールにおいては、当初から黒人選手の存在は珍しくなはかったようです。第二次世界大戦後、ニューヨークやボストンなど北部の大都市ではアイスホッケーのアリーナを運営するオーナーたちが休みのアリーナを使用してプロバスケットボールの試合を行うことを計画。そして、1946年アメリカ・バスケットボール協会(BAA)が設立されました。
 1949年にはBAAとNBLが合併し、NBA(ナショナル・バスケットボール協会)が設立されます。この時、ボストン・セルティックスは初のドラフト会議で黒人選手チャック・クーパーを指名。他にもニューヨーク・ニックスがナサニエル・クリフトン、ワシントン・キャピトルズがアール・ロイドを氏名。NBA初の黒人選手3名が誕生しました。
黒人優位説とその弊害
「いい成績をとるために勉強したり、時間を厳守したりするものは、白人ぶっていると見なされた。学業でがんばろうとする黒人生徒は、頭でっかちというラベルを貼られ、乱暴な黒人たちに疎外され、仲間外れにされ、暴力さえ振るわれたのである」
ジョン・ホバマン
 黒人男性で弁護士や医師になったのが6万人以上いるのに対し、プロのアスリートとして生活できるのはわずかに3000人程度です。従って、多くのアメリカの黒人はスポーツでのアメリカン・ドリームに執着することで、より堅実な職業を選択するチャンスを失っていることになります。
 21世紀の時点で、明らかに黒人選手が有利で活躍しているといえる競技は20世紀よりは減っているかもしれません。「陸上の短距離」、「陸上の跳躍(幅跳びと3段跳び)」、「バスケットボール」、「アメリカン・フットボール」ぐらいかもしれません。ボクシングなどの格闘技や野球などにおける優位性は失われているようです。

<注>
 ここで用いている「黒人」という言葉は、サハラ以南のアフリカに住む黒人と彼らをルーツとするその他の土地に住む人々のことを指します。したがって、北アフリカ、インド、南太平洋などに住む人々も肌の色は黒人といえますが、ここでは黒人とは扱いません。
<参考>
「人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか」 2012年
(著)川島浩平
中公新書

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