ギャングスタ・ラップの歴史とヒップホップの世界拡散

ヒップホップとアメリカ黒人文化史(6)

- N.W.A. (Niggaz Wit Attitudes) -
<ブラック・ギャングの歴史>
 アメリカにおけるギャングの歴史は、都市部にアフリカ系の人々が住み始めた頃から生まれ始めたといえます。奴隷解放によって農村部を出て都市部で工業労働者などとして働き始めた自由な黒人たちは、それぞれの都市で黒人居住区を生み出してゆき、そうした都市労働者たちの中から「ギャング」が現れました。
 それはある種、都会の地域文化ともなり、若者たちの多くがそうして生まれたギャング団に所属するようになります。重要なのは、経済状況が変わるごとに、若者たちの文化も変わり、それがギャングの歴史を大きく変えてきたことです。ブラック・パンサー党のような組織も、元々はギャング団のメンバーたちが黒人解放運動の思想に目覚めて始めたグループと考えることもできます。どちらも生きて行くために「暴力」を使う道を選択した集団であることに変りありません。ただその「暴力」の向かう先が、同胞か、白人か、その他の民族か・・その違いだったとも言えます。
 かつてブラック・パンサーの中心人物として黒人解放運動を指揮したマルコムXも、若い頃はギャング団のメンバーとして暴れ回る少年でした。(映画「マルコムX」の前半は、そんな時代のマルコムXをミュージカル・タッチで描いています)

<ロサンゼルスのギャング団>
 後に「ギャングスタ・ラップ」を生み出すことになるカリフォルニア州のロサンゼルスでも、1960年代にはブラック・パンサーが活動していました。しかし、1969年に警察による取り締まりが強まり、ブラックパンサー党のリーダーたちが逮捕されると、急激にその勢いを失うことになりました。
 人種解放運動が崩壊し、行き場を失った若者たちの中、レイモンド・ワシントンという若者が仲間を集めて、新たなギャング団ベイビー・アヴェニューズを結成します。ただし、彼らはもう白人たちと人種平等のために戦うのではなく、再び地域の暴力団の一つになり、若さを発散するようになります。彼らは各地域に生まれたそうした同じようなギャング団との抗争に勝利することで、LA最大のギャング団「クリップス Crips」へと成長します。しかし、1970年代にはこのメンバーも大人になって中心メンバーが離れ、世代が後退することでその勢いを失ってゆきました。
 大人しくなっていたアフリカ系ギャング団の復活のきっかけを作ったのは、あのレーガン政権でした。1970年代にベトナム戦争の影響などにより経済が悪化し続けたアメリカは、どん底の経済状況になり、全米が不況下で都市が荒廃することになりました。
 西海岸最大の都市ロサンゼルスでも130以上の工場が閉鎖され、12万4千人もの失業者を抱えていました。その状況で、大統領に就任したロナルド・レーガンは情け容赦のない弱者切り捨ての政策を実施。教育・福祉を中心に予算を大幅に削減したため、元々失業者の多いLAの黒人居住区サウスセントラル地区は最悪の状況になっていました。
 産業の空洞化、地方分権、冷戦時代の経済的なツケ、ドラッグ売買、ギャング組織の乱立とその対立抗争、銃器の違法売買、警察による暴力的な捜査・・・これらの問題によって、どの街のコミュニティも崩壊の危機に瀕していました。都市に住む若者たちにとって、未来は見えなくなり、皮肉なことに警察だけがその勢力を伸ばす状況になっていました。

「60年代には、サウスゲートの隣にあるゼネラル・モーターズが未来だった。70年代はキング病院が未来だった。今のワッツとサウスセントラルの未来は、刑務所さ。77ストリートに新築されたロサンゼルス市警を見てみろよ。綺麗だろ。このあたりで、あの刑務所より綺麗なところなんてあるか」
グレッグ・ブラウン(LAの住人)

 そうした中、ロサンゼルスの黒人街ワッツは、最も危険な地域となり、その街で大きな人種暴動が起きることになりました。

「ギャングスタ・ラップも脱工業化時代のギャングも、コンプトンで生まれたわけではない。コンプトンから北へ少し進んだ位置にあるワッツこそが発祥の地なのだ。・・・」

 ただし、暴動はただ単に社会を混乱に陥れ、暴力を蔓延させただけではなかったとも言われます。そこから生まれた「混沌」が芸術を生み出す源泉になった部分もあるのかもしれません。
「ワッツは暴動後、熟成が進んだ状態となった。誰もが詩人、哲学者、芸術家、もしくはエキゾティックな何かになっていた。そんな柄でもない人間までもが、そういったものになりきっていたのだ」
オディ・ホーキンズ(作家)

<NWA誕生>
 1980年代末、こうした社会状況の中、ロサンゼルス近郊の住宅地コンプトンから、イージーEらを中心とするヒップホップ・グループが登場。彼らは地元のギャング団の影響をそのままラップに乗せることで注目を集めることになりました。

フッドのやつらはいつもハードに決めている
生意気なこと言っていると、お前をぶっ殺すぞ
リアルにやることしか知らない俺たち
俺が言ったこと、他のヤツらには言うなよ

 全米のブラック・キッズは即座にイージーが自分たちが求めるキャラクターを演じていることに気づきました。そして、イージーのラップを支持するだけでなく、彼らの真似をして、親や教師、警察や保護観察官に激しい反発の態度を示すようになって行きます。
 こうして若者たちからの支持を得たイージーらは、若者たちが求める暴力的で反体制的なキャラクターを演じ続けることになりました。当初は単に金目当てだった彼らは、突如として話題の人気グループとなり、若者たちにとってのカリスマ的存在をなって行きました。そこで、イージーはこのグループを自ら「Niggaz Wit Attitudes」(主張するニガーたち)NWAと名付けます。それはどう考えても、ポップ・グループとしては明らかに危険な名前でした。しかし、彼らは、自らのイメージを決定づけることで、名前どおりのイメージを維持し続けるよう自らを追い込むことになったのです。こうして彼らは、その名前同様、社会規範上あり得ない歌詞をラップしてゆくことになります。

「リスナーに『マジかよ。こんなことを言うなんて信じられねえ』って思わせたかったんだ。とことん過激に行きたかった。周りは皆、ブラック・パワーだのをラップしてるだろ。だから、リスナーに別種のラップを与えてやろうと思ったのさ。ニガー、ニガーニガー、ニガーニガー、あのビッチ、ビッチ、ビッチ、ビッチをやっちまえ、俺のチンコにしゃぶりつけって感じでな。わかるか」
ドクター・ドレー

 抗議するなら、イデオロギーなどそっちのけでそのまま暴動に走る。セックスとなれば、口説きを省いてそのままベッドへ直行する。己を知り、黒人を力づけるなんて大仰なことは考えない。これがイージー言うところの、ストリート・ナレッジ「ストリートの知恵」の強さである。

<「Straight Outa Compton」の大ヒット>
 1989年1月25日、NWAの代表作となったアルバム「Straight Outa Compton」が発売されました。そのアルバムのレコーディング費用は1万ドル以下と低予算でしたが、ラジオ局が放送を自粛したために発売元のプライオリティ・レコードはほとんどプロモーション活動をすることができませんでした。それはアルバムの売り上げにとって、決定的なマイナス要素だったといえます。ところが、アルバムが発売されると、状況は彼らの予想をいい意味で裏切ることになります。あれよあれよという間に、口コミで売り上げが伸び、6週間で50万枚を売り上げてしまったのです。
 この後、この衝撃的な現象によって、音楽業界の上層部はヒップホップに対する考え方を改めることになります。こうして、ポピュラー音楽界の流れは大きく変化して行くことになります。そして、多くの若者たちが成功を目指してヒップホップの世界での活動を志すようになって行きます。

「セックス・ピストルズと同様に、NWAはストリート出身者なら誰でも簡単にギャングスタ・ラップのテープを作れるという風潮を作り、DIYの動きを推し進めた」
ビリー・ジャム(ヒップホップ評論家)

「ストレイタ・アウタ・コンプトン」以降、ヒップホップ界では「どこにいるか」ではなく「どこから来たのか」が最も重要になった。NWAは、伝説と場所を融合させ、それぞれの地域に根ざした語りを助長した。どこの地域もコンプトンになり得るし、誰にでも語るストーリーはあるのだ。・・・

 しかし、彼らの過激な歌詞は、それまでヒップホップに対し、好意的だった評論家たちの一部を敵に回すことになってしまいます。

「人種差別的なステレオタイプや女性に対する残虐行為を語るこの種の作品を消費することは、マーティン・ルーサー・キング牧師を称える言葉が入っていても、堕落を招くものである。この種の消費によって植えつけられる価値観は、黒人の若者が殺し合いをする過激な表現となる。こうして、映画やレコード、全国のあらゆるストリートで、黒人の若者が殺し合いをするのを簡単に目にするようになる」
デヴィッド・サミュエルズ(ニューリパブリック誌)

 こうして「ギャングスタ・ラップ」に対する批判が高まる中、1991年に発表された彼らのアルバム「Death Certificate」に対しては、全米中でボイコット運動が起きました。しかし、かつてエルヴィスやビートルズに対して起きた保守派によるボイコット運動と同様に、それによって売れ行きが衰えることはなく、逆に売り上げは伸び続け、150万枚を売り上げることになりました。

<音楽作品への規制強化>
 「ギャングスタ・ラップ」の大ブレイクは、白人層だけでなく黒人層からも問題視されることになり、音楽ソフトへの規制が強まるきっかけとなりました。もちろん、それ以前にも時代の先を行く若者たちが生み出す音楽、文化への規制の動きは常にありました。
 この時代では1985年に音楽ソフトの性的な歌詞に対する規制を行うための団体ペアレンツ・ミュージック・リリース・センター(PMRC)が設立されています。この団体設立の中心となったのは、1992年に誕生するビル・クリントン政権で副大統領となるアル・ゴアの妻ティッパー・ゴアでした。彼女がある日プリンスの「Darling Nikki」(アルバム「パープル・レイン」収録)を聴き、その歌詞の過激さにショックを受けたのがきっかけと言われています。そこで、前述の組織が立ち上げられ、プリンスだけでなくトゥイステッド・シスター、シンディ・ローパー、デヴィッド・リー・ロス、マドンナなどの作品を規制対象に選定。その曲が収められたCDに「Parental Advisory」(保護者の指導が必要)というステッカーが貼られることになりました。
 当然、過激な歌詞が売りの「ギャングスタ・ラップ」はすぐにその規制の対象となります。ただし、そうした動きに対し、音楽界で積極的に抵抗したロック界のレジェンド、フランク・ザッパは当時こう語っていました。

「標的がメタルからラップへと移行したのは、人種差別が原因だろう。ラップを糾弾するヤツらの動機はいかがわしい。悪魔的なネタは軌道に乗らなかった。悪魔の話は信心深い連中にしかアピールしないが、黒人を攻撃すれば、多くの人の興味をひけるからな」
フランク・ザッパ

 1992年アイスTがヴォーカルをつとめるヘヴィ・メタルバンドBody Countのデビュー・アルバムに収録された「Cop Killer」が警察組織に挑戦する暴力的な歌詞が問題とされ、アルバムからはずされることになりました。ロドニー・キング事件以降、アメリカの警察は世界中から批判を受けていましたが、その批判をかわすため、この曲を象徴とするギャングスタ・ラップはスケープゴートにされたとも言われます。実際にレコード会社は警察から脅迫まがいの圧力をかけられていたことを認めています。
 この後、レコード会社はそれまでに契約を結んできた多くのヒップホップのアーティストを切り捨てることになります。

<利益を生み出すアーバン・ライフスタイル>
 ヒップホップはいつしか若者たちにとって共通のライフ・スタイルの基準となり出します。そのことは、アメリカの企業すべてにとって大きなビジネス・チャンスの鍵になり得るということでした。とうぜん、そのことに気がついたやり手のビジネスマンがヒップホップを利用し始めることになります。その象徴ともいえる商品が、「エア・ジョーダン」です。

 ある晩、W&Kの広告マン二人は「シーズ・ガッタ・ハブ・イット」を鑑賞していた。劇中、スパイク・リーの演じる変わり者のマーズ・ブラックモンは、エア・ジョーダンを履いてドタバタと歩き回っている。ここで二人にアイデアがひらめいた。そしてW&Kはスパイク・リーに連絡を取り、マイケル・ジョーダンとコマーシャルを作ってほしいの依頼したのだ。1988年、リーとジョーダンは、後に広告業界に衝撃を与える一連のCMを作り始めた。
 この頃、リーボックの市場価値は180億ドル、一方ナイキは120億ドルで後を追っていた。一年後、二人のCMが功を奏し、ナイキはリーボックを一気に追い抜くと、それ以来、業界1位の座を維持している。


 エア・ジョーダンの成功以降、ヒップホップは黒人層だけでなくすべてのアメリカ人(海外でも)通じる最新文化として、トレンドを代表する存在になります。

 ヒップホップのライフ・スタイル化は、広告業界の言葉を借りると、複雑ながらも「憧れを刺激する」特質があった。ヒップホップは、公民権運動が成し得なかった形でアメリカを征服した。人種、階級、居住地を問わず、若者は同じ服を身にまとい、同じ言葉を話し、同じ音楽を聴いている。このような進展について、アイスTとチャックDは、文化的融合が紛れもなく成功したと考え、「だから白人の親たちは、ラップをひどく恐れているのだ」と語った。

 ヒップホップは年間4億ドルのレコードを売り上げるだけでなく、スニーカーにジーンズ、一流デザイナーの服、ソーダ、ビール、蒸留酒、ヴィデオゲーム、映画など、何億ドル分もの商品を売っていることが明らかとなっている。
 マーケティング用語では、ヒップホップはアーバン・ライフスタイルと同義になったのだ。


<ヒップホップの未来>
 ヒップホップは、様々な批判の声やレコード会社による自主規制などにより、表現の自由を狭められることになりますが、それでもなお世界中で若者たちの心をつかみ、その市場を広げて行きます。そのおかげで、ヒップホップに関わるアーティスト、プロモーター、マネージャー、レコード会社幹部らの中には、巨額の富を獲得する者も現れ、音楽だけでなくファッション業界、映画界、広告業界など、サイドビジネスにより一大ビジネス帝国を築く者まで現れます。
 そのうえ、自由競争の果てに世界の音楽産業はかつてない寡占状態になりつつありました。

 この頃までに、わずか10社の企業が、音楽、映画、雑誌、TV、ヴィデオゲームにインターネットといったアメリカにおけるメディアの大半を支配していた。1983年には50社あったメディア企業が、一挙に減少したのである。2000年の初頭には、ヴィヴェンディ・ユニバーサル、ソニー、AOLタイム・ワーナー、ベルテルスマン、EMIという5社が、音楽業界の80%を支配していた。

 しかし、その一方で、メジャー・レーベルを通じて聞くことのできる声は限られるようになり、大衆に届けられるサウンド、意見、アイデア、ニュース、アートの多様性は薄れていくことになりました。こうした様々な要因により、ヒップホップの勢いは今後、少なくともアメリカでは衰えることになるかもしれません。しかし、すでにその種は日本をはじめ世界中の国々に住む若者たちの間にまかれています。すでにその花が各地で咲いており、ヒップホップはもうアメリカだけの文化ではなくなっています。
 かつて「ロック」が音楽だけでなく一つの文化として世界中に広がって行った様に「ヒップホップ」は音楽・ダンスの文化として、当たり前の存在になったようです。すでに「ヒップホップ」の生い立ちは、20世紀に生まれた文化の歴史の1ページとして刻まれようとしているようです。
 ここでは、その歴史を素晴らしい名著「ヒップホップ・ジェネレーション」を参考にまとめさせてもらいました。参考になればと思います。

「オバマが大統領に就任したとき、俺たちは浮かれまくっていた。彼が任期を満了してホワイトハウスを去る日には、政府がブラザーたちに奴隷労働の賠償金を支払うかもな、なんて話で盛り上がっていたっけ、俺だって、夢をもてるはずだ。
 なあ、そうだろ?別にオバマのことをディスるわけじゃない。でも、彼が掲げたチェンジはいまだに見えてこない。オバマが目指した道はきっと正しかったが、もう変えられないシステムができあがっていたんだ。彼にどうにもならないことがあるってわかったときは、本当に悲しくなった」

「なにかに打ちのめされそうになる。でも、立ち上がらなくちゃいけない。もう突っ立ってるだけじゃダメだ。傍観してたらダメなんだ。俺たちの望みは、ただ自由になりたいだけ。自由になりたいだけなんだよ。この鎖をはずしたいだけなんだ」

J・コール(ラッパー)2014年12月「Late Show with David Letterman」にて

<参考>
「ヒップホップ・ジェネレーション」 2005年
Can't Stop Won't Stop( A Histry of the Hip-Hop Generation)
(著)ジェフ・チャン Jeff Chang
(訳)押野素子
リットー・ミュージック

黒人音楽の歴史へ   トップページヘ