黒豹たちの闘いの日々


- ブラックパンサー党 Black Panther Party -
<ブラックパンサー党>
 1960年代、公民権運動の中から生まれたブラックパンサー党。それは誕生したその時から、失敗することを運命づけられていたようにも思えます。日本でもちょうど同じ頃、全学連から赤軍派が登場し、暴力革命を志向するようになったように、ブラックパンサー党の若者たちもまた暴力の使用を肯定し、そのために崩壊への道を一気に進むことになりました。ただし、その方向性は決して彼らだけのものではなく、時代の空気が必然的に選ばせたものであり、けっして社会から浮きまくっていたわけではありませんでした。少なくとも運動が始まった当初は・・・。
 ここでは、ブラックパンサー党の誕生の歴史を振り返ろうと思います。先ずは、その原点としてアメリカの都市部における新たな黒人文化の誕生から話を始めましょう。

<ハーレム・ルネッサンス>
 1920年代、ニューヨークのハーレムを中心に「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれるアフロ・アメリカン文化の黄金時代が訪れました。黒人アーティストたちによるジャズやダンスなどが全米を巻き込むブームとなり、さらには詩や小説のような文学の分野でも黒人が活躍する時代が訪れます。そうした動きは、黒人たちの意識を高め、人種差別撤廃に向けた運動の出発点となりました。しかし、1930年代の大恐慌が黒人たちの仕事を奪ってしまうことで状況を一変させてしまいます。さらには第二次世界大戦が始まると多くの黒人たちが戦場へと向かうことになり地位向上の運動は棚上げ状態となります。ただし、ヨーロッパでの戦争に参加した彼らの多くは、誰も黒人であることで差別されないことに驚き、自国における差別の異常さに気づかされることになりました。さらに彼らの多くが帰国後大学に入学し、知識を身に着けて行ったことで、1950年代に入り再び黒人たちの地位向上運動が本格化することになりました。

<公民権運動の中から>
 1950年代、アメリカでは経済的な発展の中で人種差別の撤廃に向けた公民権運動の拡がりがありましたが、それに対する反撃も起きています。
 1954年、ブラウン判決により教育現場における人種差別は違法とされました。
 1955年、ローザ・パークスの逮捕をきっかけにバス・ボイコット運動が広がり、この活動の中からキング牧師が登場します。この年には黒人少年が殺害される「エメット・ティル事件」も起きています。
 1956年、人種差別の厳しい南部のアラバマ大学に黒人女性ルーシーが入学し、州全体を巻き込む騒動となりました。
 1957年、黒人の投票権を保証する公民権法が成立。法的に黒人が差別されないことが法律的にも保証されることになりました。この年には、人種差別の厳しいアーカンソー州のリトルロック高校に8人の黒人の若者が入学。州兵に守られながら登校するという異常事態「リトルロック事件」も起きています。
 1960年、人種差別が続く中、差別を行うレストランでの抗議行動を行う「シット・イン・デモ」が活発化。
 1961年、公民権運動を南部へと広げるためのバスで移動しながら抗議活動を行う「フリーダム・ライダーズ」が始まります。

<1963年>
 この年は、
「アメリカにおける人種間対立激化」の年として歴史に刻まれることになりました。
米国アラバマ州バーミンガムでキング牧師指導による人種差別反対デモ発生。その後、人種暴動に発展し連邦軍が出動(4月2日)
ケネディ大統領が議会に人種差別撤廃の特別教書を提出(6月19日)
「ワシントン大行進」(8月)
人種差別反対を訴えるワシントン大行進が行われ20万人が参加(マヘリア・ジャクソン、オデッタ、ハリー・ベラフォンテ、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらも参加)この時、キング牧師のあの有名な「アイ・ハブ・ア・ドリーム…」の演説が行われ「We Shall Over Come」が大合唱されています。

しかし、ケネディー大統領が公民権法案を議会に提出するが右派の妨害により審議進みませんでした。
ミシシッピー州のNAACP支部長メドガー・エヴァース暗殺され、非暴力による活動へ無力感が人々を覆い始めます。
「ケネディー大統領暗殺事件」(11月)
 人種融和に積極的だったケネディの死により公民権運動は大きな後退を強いられることになります。

<1964年>
 この年には人種差別を違法とする範囲がより広く扱われる「新公民権運動」が成立しています。しかし、それに対する人種差別主義者の反発も強まり、状況はより複雑で暴力的、混沌としたものになって行きます。
SNCC(学生非暴力調整委員会)が中心となり公民権運動に白人学生を動員する動きが活発化し、運動は拡がりをみせます。

マルコムXがアフロ・アメリカン統一機構結成(白人への積極闘争を表明)
ミシシッピー州で公民権運動活動家フリーダム・ライダーズ3人が殺害され、白人21人が逮捕されるます(6月)映画
「ミシシッピー・バーニング」(1988年)
ジョンソン大統領が新公民権法に署名(7月2日)
ジョージア州アトランタのレストランとモーテルでの黒人差別に新公民権法適用で改善命令が発令されます(7月)
「ハーレム暴動」(7月19日)
 黒人文化の発信地でもあったハーレムで白人のアパート管理人と争いを起こした15歳の黒人少年が私服の白人警官に射殺される事件が発生。少年の死を知った近隣住民らが暴動を起こし、二日間にわたり黒人の暴徒と白人警官の間で戦闘状態が続く事態となりました。

<1965年>
 ついに公民権法が成立するものの、状況の改善が程遠いことが明らかになる中、マルコムXが暗殺され、状況はより混沌、暴力的な様相を呈してきます。
アラバマ州セルマで投票手続きの差別に対するデモがキング牧師中心に始まります(自由の行進)
黒人投票権法(65年公民権法)成立
マルコムX暗殺される(2月21日)映画
「マルコムX」(1992年)(監)スパイク・リー(出)デンゼル・ワシントン
ロサンジェルスのワッツで黒人暴動発生(5日間、34人死亡、負傷者1000人、逮捕者4000人弱)

<1966年>
 SNCC(学生非暴力調整委員会)の委員長に就任したスト―クリー・カーマイケルが、「ブラック・パワー」を提唱。それまでの平和的な活動とは異なる路線への変更を主張し始めます。平和的な活動に閉塞感を感じていた若者たちの多くがこの姿勢に共鳴し、全米各地でより過激な活動が発生し始めます。そして、この年の8月、アメリカ西北部のシアトルでボビー・シール、ヒューイ・ニュートンらを中心に「ブラックパンサー党」が立ち上げられました。
 この時、指導者に選ばれたのは「ブラックパワー」の提唱者ストークリー・カーマイケルでした。しかし、彼はすぐに闘争方針の違いから党を脱退します。立ち上げから「ブラックパンサー」には失敗に向けた危うさがありました。

<ブラックパンサーの目標>
 ブラックパンサーは、暴力を容認することを宣言して誕生した団体でしたが、武装闘争を初めから望んでいたわけではありませんでした。党結成時の中心メンバーだったヒューイ・ニュートンは「ブラックパンサー党の十項目の綱領」を発表していて、そこには以下のようなことが書かれていました。
「ブラックパンサー党の十項目の綱領」
 僕たちを育てるために一生懸命がんばった母、僕たちを食べさせるために必死で働いた父、学校へ行ってもほとんど字を覚えないままブロークンな言葉しか話せなかった兄弟たち、そのすべての人に理解してもらうための十項目綱領。
 1 我々は自由がほしい。我々は、黒人社会の運命を決定する力がほしい。
 2 我々は、黒人大衆の完全雇用を望む。
 3 人間が住むに値する家がほしい。
 4 我々は、全ての戦争と攻略の即時終局を望む。
 5 地域社会において黒人大衆が受けるにふさわしい教育を望む。この退廃した人種社会の性質を我々に教え黒人の若い男女に、社会における自分の位置を教える教育制度を求める。もし、この社会と世界における位置を知らなければ、我々は、いかなるものとも自己を結びつけることはできないだろう。
 6 人種主義的白人商人が、黒人大衆を搾取することをやめてほしい。
 7 全ての抑圧された大衆に、完全無料健康保障を望む。
 8 黒人大衆及び他の有色人種に対する警官の残虐行為と殺人を、ただちにやめてほしい。
 9 都市、郡、州および連邦刑務所に収容中の黒人をすべて釈放してほしい。なぜなら、白人だけで構成される陪審によって裁かれることは、ユダヤ人がナチ・ドイツに裁かれたのと同じであるから、公平な裁判を受けられたとは考えらえないからである。
10 我々がほしいのは、土地、パン、家、衣服、教育、正義そして平和と近代技術をコミュニティでコントロールしうる力である。

<「長く熱い夜」の始まり>
 ブラックパンサー党は武器の携帯を認め、空手などの武道を身に着けさせることで軍隊に近い組織をつくり始めます。しかし、それは彼らだけではなく社会全体の変化でもあり
アメリカ全土で人種暴動が起きつつありました。後にその夏は、「長く熱い夏」と呼ばれることになります。
「ニューアーク暴動」
 1967年7月12日ニュージャージー州ニューアークで起きた暴動では26人が死亡。
「デトロイト暴動」
 1967年7月23日から27日にかけて、デトロイトで起きた暴動では130名が死亡したとされています。
 アメリカ政府はそれらの事件における黒幕としてブラックパンサーへの攻撃を開始します。それは決して正当な捜査とはいえないものでした。
 1967年4月7日には、創設メンバーの一人まだ17歳のボビー・ハットンが警官によって射殺され、1968年4月にはベストセラーとなった「氷上の魂」の著者であり機関紙「ブラックパンサー」の編集長エルドリッジ・クリーバーが、パンサー党本部での会議中に警官隊からの攻撃を受けて逮捕されました。その後、彼は仮釈放中に逃亡し、キューバへと亡命することになります。
 1968年4月には、平和的に公民権運動を指揮していたキング牧師が暗殺され、いよいよ平和的な運動への閉塞感が強まります。その反動によってブラックパンサーの勢いは増しつつあり、翌年1969年1月にはアメリカ各地に45の支部が誕生していました。
 この年には、ボビー・シールがシカゴで逮捕され、16の罪状で4年の刑が科され、さらに警官殺害の罪で起訴されます。(これは結局不起訴)
 12月には、イリノイ州のブラックパンサー議長フレッド・ハンプトンが自宅で射殺されます。

<1970年>
 1970年1月、FBI長官のフーバーは、黒人急進派が外国からの資金援助を受けていると発表。その危険性を国民に訴えました。(実際、ジョン・レノンは彼らに資金提供していたことが後に明らかになっています)当時は、ブラックパンサーへの不当な圧力を批判する白人層も多く、同じ路線を目指す左派急進派が増えたことからブラックパンサーへの支持が広がっていたことも事実でした。
 4月にはニューヨークで21人のブラックパンサー党員がビル爆破テロ計画と警官殺害の容疑で逮捕されます。
 6月にはエール大学で大規模なブラックパンサー党支持の集会が開催され、ベトナム反戦運動とブラックパンサーとの共闘は同時進行していました。
 8月にはブラックパンサーの党員でもあった黒人の女性大学教授アンジェラ・デイヴィスが殺人幇助の容疑で逮捕されます。(これもまた結局冤罪だったことが後に明らかになります)
 1970年12月ニューヨークのハーレムで全米第三世界結集大会が開催されています。その大会には、中国、日本、アフリカ・アラブ諸国、東南アジア、キューバ、プエルトリコ、中南米、アメリカ先住民などの参加者があり、有色人種同士のいがみあいをやめ、白人優越のアメリカ社会の現実と闘おうと話し合いが行われました。人種問題だけでなく、反戦、反核実験、CIAによる海外活動への批判、アメリカによる植民地政策への批判、日米安保条約、沖縄の基地問題などについても話されたようです。
 5000人におよぶ各国、各地域の左派活動家がマイナス17℃のハーレムに集まりました。

 ブラックパンサーだけでなく左派の活動が勢いを増す中、アメリカ政府はそうした活動の中心人物への攻撃を強めて行きます。ジョン・レノン夫妻への盗聴や攻撃もその流れの中で行われていました。多くのブラックパンサーの党員がそのために逮捕、拘留され、しだいにその活動は失速して行くことになりました。
 1970年代も半ばになると、ブラック・コミュニティーでは、公民権運動は一気に過去のものになり、それに代わってディスコと薬物が流行し始めます。
 再び、彼らは自分たちの置かれた不当な状況に怒りをもって立ち上がるのは、1989年にスパイク・リー監督の映画「Do The Right Thing」が公開され、3年後に「ロドニー・キング事件」が起きてからのことになります。

「Right On ! 異議なし!」
「All Power to the People  すべての権力を人民に」

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