
「ブリキの太鼓 Die Blechtrommel」
- ギュンター・グラス Gunter Grass -
<謎の多い映画>
この小説の映画化作品「ブリキの太鼓」は1979年に公開され、カンヌ映画祭でグランプリにあたるパルムドールを受賞しています。この年は、もう一本パルムドール受賞作があり、それはあの伝説の映画「地獄の黙示録」でしたから、かなり価値の高いパルムドールだったといえるでしょう。さらにこの映画はアカデミー賞でも外国語映画賞を獲得していて、世界的な話題作となりました。監督は「カタリーナ・ブルームの失われた名誉」(1975年)「スワンの恋」(1983年)などでも知られるジャーマン・シネマ・ブームの立役者だったフォルカー・シュレンドルフ。彼が最も勢いがあった時代の代表作といえます。文句なしの名作ですので、未見の方は是非ご覧下さい!
公開当時、僕も映画を見て、その後小説も読みました。映画は、小説の第一部から第二部までを映像化したものだったので物語を最後まで知りたかったのもありますが、それ以上に映画ではわからないことがいろいろあったせいもありました。
今回、、もう一度本を読み直し、さらに物語の主な舞台となっているダンツィヒの街について調べ、さらに作者のギュンター・グラスがかつてナチス・ドイツの武装親衛隊に入っていたことを告白したことも聞いていたので、やっとこの物語りの奥深い部分の意味が理解できるようになりました。映画を見て30年、やっと作者の意図や苦悩がわかるとは・・・それでもこの作品には大きな魅力があったのは確かなのです・・・。エロティックでグロテスクなセクシャル・カタログとして、大人になることを拒否した超能力少年の冒険ファンタジーとして、第二次世界大戦下の戦争ドラマとして、様々な角度から楽しめるパワーあふれる魅力的な作品です。
ただし、この映画については、ダンツィヒというこの物語の舞台となっている街についての知識があれば、さらに面白さが倍増するはずです。
この物語の主人公オスカルの父親マツェラートは生粋のドイツ人でナチ党員。そのために命を落とすことになります。母親のアグネスはスラブ系の少数民族カシュヴァイ人で歴史的に差別される側にありました。そして、アグネスの不倫相手でありオスカルの父親となったヤン・ブロンスキーはポーランド人であったためにドイツとの戦いによって命を落とすことになります。そして、この三人の関係は、オスカルの住むダンツィヒの街を象徴していると同時に、その街で育った作者ギュンター・グラスの心の混沌をも表しているともいえます。
この物語の主人公は、オスカル少年であるのは当然ですが、ダンツィヒの街もまたもう一人の主役なのです。
<ダンツィヒ Danzigの誕生>
この物語の第一部、第二部の舞台となっている街、ダンツィヒは現在の名をグダニスク
Gdansk といいます。あのポーランド民主化運動で有名な街、グダニスクです!しかし、「ブリキの太鼓」の舞台となっている街はダンツィヒと呼ばなければなりません。それがなぜかは、街の歴史と大いに関っています。
ポーランド北部、バルト海に面したグダニスクの街は、遥か昔10世紀にはすでに城を中心とする街として発展し始めていたといいます。14世紀には貿易港として繁栄していましたが、ドイツの騎士団(チュートン騎士団)によって占領され、戦争の後、ポーランド王がチュートン騎士団に貸与することになります。こうして実質的なドイツによる支配の時代が始まります。(ただし、ドイツという国は当時まだありませんでした)チュートン騎士団による支配のもとで街の繁栄は続き、その間ドイツからの移民が増加します。さらに街は1361年、ヨーロッパを席巻していた有名な商業者の組合組織ハンザ同盟に加盟します。1410年「グルンヴァルトの戦い」でポーランド王国が勝利をおさめたことで街はポーランドに復帰しますが、翌年には再びチュートン騎士団の支配下に戻り、混乱が続きます。
1440年、ポーランド王国が再びチュートン騎士団との戦争を開始します。(13年戦争)1457年に勝利をおさめたポーランドの王カジミェシュ4世は、グダニスクを自治都市と認め、自治権と貿易に関する特権を与えます。その後、チュートン騎士団が所有していた利権を完全に奪うことに成功したグダニスクの街は、ポーランド最大の貿易港として16世紀から17世紀にかけて黄金時代を迎えます。
貿易港として発展した街の多くがそうであるように、グダニスクの街には様々な人々が移住し、多彩な人種の住む街となりました。元々ドイツからの移民が多かったのですが、その他にもユダヤ人、オランダ人、スコットランド人も多く住むようになり、ポーランドの他の街とはまったく異なる特異な文化が生み出されることになりました。
18世紀に入ると、ポーランド王国では王位継承での揉め事が起きたことをきっかけに内乱が相次ぎ、国力が急激に失われてゆきます。1734年、その隙をつかれるように街はロシア軍によって占領されてしまいます。その後、1793年にはポーランドは分割され、グダニスクの街はプロイセン王国(その後のドイツ)の領土となり、街の名前はこの時からドイツ名ダンツィヒ
Danzig に変更されることになりました。1807年から1815年にかけてナポレオンの支配下となった時期に一時的に自治都市にもどったものの、その後、ナポレオンの敗北とともに再びプロイセンの領土に戻ると、ドイツへの同化政策が本格化することになります。
<20世紀のダンツィヒ>
20世紀に入ってもダンツィヒはドイツ領のままでしたが、第一次世界大戦がドイツの敗北で終わると、街は国際連盟の保護下におかれ、この物語に登場する自由都市ダンツィヒが誕生することになりました。住民の多くはドイツ人、しかし、ポーランドが外交権をもっていたため、貿易港としての街の発展は押さえ込まれてしまいます。ポーランド政府はダンツィヒのすぐ近くに貿易港を建設し、富の独占にストップをかけます。そうした政府の対応にドイツ系の住民は反発を強め、ドイツから意図的に送り込まれた反ポーランド系の住民を中心にナチス・ドイツの秘密警察、軍事警察が暗躍することになります。
1939年にドイツがポーランドへと侵攻を開始するとダンツィヒの街に移民として侵入していた民兵組織がいち早く反乱を起こし街を制圧します。この時、ポーランドの守備隊はわずか180人で3500人の兵士と大量の武器を保有するドイツ軍と戦闘を繰り広げますが、7日間の激戦の後に降伏。(ヤンとオスカルが巻き込まれた戦闘もその一部なのでしょう)そして、その後、ナチスの秘密警察によって、密かにリストアップされていた数千人のポーランド人が逮捕され、強制収容所に送られるか、射殺されることになりました。
1945年、第二次世界大戦の終結によって状況は逆転します。そして今度はドイツ系の住民が強制的にドイツへと移住させられることになりました。(オスカルとマリーアは、こうしてどいつへ強制移住させられることになります)
こうして、いかにダンツィヒという街が異常な状況にあったのかがわかると、「ブリキの太鼓」に描かれている悪魔的で異常な世界が、作り物には思えないリアリティーをもって見えてくるはずです。この物語の作者ギュンター・グラスの生い立ちを知れば、さらに深くこの物語が理解できるようになるでしょう。
<ギュンター・グラス>
ギュンター・グラス Gunter Grass は、1927年10月16日ダンツィヒに生まれました。父親はドイツ人の食料品店を経営し、母親はスラブ系の少数民族カシュヴァイ人ということで、この小説の主人公オスカル一家と同じです。多民族からなる自由都市ダンツィヒでさまざまな人々の中で育ったことは、彼の作品に大きな影響を与えることになりました。しかし、彼自身は反ポーランド的なドイツ人として育てられたこともあり、15歳の時には労働奉仕団としてドイツ軍のために働き始め、17歳で武装親衛隊に入隊。ソ連軍を迎え撃つドイツの戦車隊に配属されて戦闘にも参加しています。
彼がドイツ軍の兵士だったという事実は、2006年になって彼が自伝的作品「玉ねぎの皮をむきながら」(このタイトルのもとは、「ブリキの太鼓」の中にあります)の中で彼自身が初めて明らかにしたことで、ドイツ国内だけでなく世界的な話題となりました。それは彼が、小説家として活躍するのと並行して、社会民主党のシンパとして政治的発言を積極的に行なう思想家として活動してきたこともドイツ国内で高く評価されていたからです。そのため、彼に対して「自らの戦争犯罪を隠蔽していた卑怯者」と批難する声が高まったのでした。
しかし、こうした批判は、実際にはごく一部のものであることがすぐに明らかになりました。ドイツ国民の多くは、それまでの彼の作品や活動を評価していて、彼の過ちはあくまで若かりし頃の失敗であると認めてくれていたようです。それでも、改めて彼がかつてドイツ軍に所属していたことを考えながらこの本を読んでみると、そこには彼の複雑な心境が反映されており、そこから彼の作品ならではのリアリティーが生み出されたことがわかるはずです。少なくとも、彼がオスカルと同じように3歳で成長を止めていればナチス・ドイツの一員とならずにすんだのでしょうが、それはあまりに単純な見方でしょうか?
<あらすじ>
アンナ・ブロンスキーのスカートの中に逃げ込んだ放火犯ヨーゼフ・コリヤイチェク。二人はこの時に子供をつくり、結婚することになります。こうして生まれた娘アグネスは看護婦として働いて食料品店を営業するドイツ人アルフレート・マツェラートと知り合い結婚します。実は彼女はそれ以前にポーランド人のヤン・ブロンスキーとも付き合っていて、結婚後も彼女はヤンと関係をもち続け、その二人の子としてオスカル・マツェラートが誕生することになりました。その後も三人は微妙な三角関係をお互いに了解の上で続けてゆきます。
3歳になったオスカルは誕生日のプレゼントとしてブリキの太鼓をもらいますが、その日から彼は自らの意志で身体の成長を止めてしまいます。それはすでに大人の思考力をもっていた彼が大人になることを拒否するために選んだ道でした。
その後、彼は精神的にも3歳の子供のままでいることを装うようになり、密かにゲーテとラスプーチンの本を読み、その思想に憧れるようになります。しゃべることのできない子として生きることになった彼は唯一太鼓によって意思表示をするようになります。しかし、普段まったく言葉を発しないにも関らず、彼の声には不思議な能力があり、その声によってガラスを破壊したりカットすることができました。そんな不思議で異様な子供だったにも関らず、家族は彼を愛し、三角関係+1の生活が続きます。
しかし、永遠に続くかと思われた平穏無事な生活は長くは続きませんでした。それは、母親のアグネスが嫌いだったはずの魚を大量に食べ続け、中毒死することであっさりとわりを迎えてしまったのです。
ここから先も含め、全体のあらすじを本文から引用しておきます。
「これ以上ぼくはなにを言うことがあろう。
電灯の下で生まれ、三歳のときにわざと成長を止め、太鼓をもらい、ガラスを歌で砕き、ヴァニラを嗅ぎ、教会の中で咳をし、ルーツィエに餌をやり、蟻を観察し、成長を注意し、太鼓を埋め、西行きの汽車に乗り、車を失い、石工の仕事を習い、モデルをやり、太鼓へもどって、コンクリートを視察し、金を儲け、指を保存し、その指をひとにやって、笑いながら逃走し、エスカレーターで上昇し、逮捕され、有罪判決を受け、収容され、そのあとで無罪釈放され、今日ぼくの三十回目の誕生日を祝い、そして三十にもなって相変わらず黒い料理女をこわがっている・・・・アーメン」
小説「ブリキの太鼓 Die Blechtrommel」 1959年
(著)ギュンター・グラス Gunter Grass
(訳)高木研一
集英社
映画「ブリキの太鼓 Die Blechtrommel」 1979年
(監、脚)フォルカー・シュレンドルフ
(製)フランク・ザイツ、アナトール・ドーマン
(脚)ジャン=クロード・カリエール
(撮)イゴール・ルター
(音)モーリス・ジャール
(出)ダーヴィット・ヴェネント、マリオ・アドルフ、アンゲラ・ヴィンクラー、シャルル・アズナブール
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