「ブラッド・メリディアン Blood Meridian,Or the Evening Redness in the West」

- コーマック・マッカーシー Cormac McCarthy -

<映画化困難な小説>
 テレビのゴールデンタイムに放映される映画が、子供が見ても問題ない暴力描写、SEX描写なのは今や当然のことです。(昔は、「エマニュエル夫人」あたりまでやっていたと思いますが、いまは乳首がでることすら、ほとんどありません)同じテレビでも深夜枠となると多少は過激な映画もありですが、絶対にテレビには登場しない作品も結構あるはずです。それでも、映画館の場合はR15や成人映画の指定があるので、より過激な作品を生み出す余地は残されていまが、巨額の利益が求められるハリウッド映画の場合は、そうした指定は観客層を限定してしまうため、回避することが求められます。当然、どの作品もディズニー映画のように「健全な作品」ばかりになるわけです。
 もちろん、芸術的価値を高く評価される作品の多くは、そうした指定を受けた作品であることも事実です。そして、この小説の著者、コーマック・マッカーシーの場合は、どれもみなそうした指定枠になるような過激な暴力描写の作品ばかりです。
 強烈な暴力描写で衝撃を与えた「血と暴力の国」(2005年)は、映画「ノーカントリー」として映画化され、見事アカデミー作品賞を受賞。ピューリッツァー賞を受賞したさらに過激な究極のサバイバル終末SF小説「ザ・ロード」も映画化されましたが、こちらは日本で公開されずに終わっています。映画化すれば凄い作品になることはわかっても、過激すぎる暴力描写がネックになるマッカーシーの作品中でも、最も過激と言われるのが、この小説「ブラッド・メリディアン」です。(いまだに映画化されていないのは、そのせいのようです)
 「血と暴力の黙示録」であり「聖なる暴力の書」でもある。とんでもない小説です。

<タイトルの意味>
 この小説のタイトルは「ブラッド・メリディアン Blood Meridian」、直訳すると「血の子午線」となりますが、作品の内容からすると「人生における絶頂の瞬間」とか「人類文明の絶頂期」、もしくは「滅亡への第一歩」と訳すのもいいかもしれません。しかし、この小説が映画化、視覚化が倫理的に「限界ギリギリ」であると考えると、そのまま「血の子午線」と訳した方がいい気もします。
 この小説には副題もあり、「Or the Evening Redness in the West」となっています。こちらは、「西に沈む夕日の赤い線」となるのでしょうか。となれば、やはり「血の子午線」でいいかもしれません。

 かりに神が人間の堕落した行動をどうにかするつもりならもうとっくに何かしていると思わないか。狼は群れのなかの役に立たないものを選り除ける。ほかにそういうことができるのは誰だ。人間は狼より貪欲でも凶暴でもないというのか。この世界のあり方は花が咲いて散って枯れるというものだが人間に関しては衰えというものがなく生命力の発現が最高潮に達する正午が夜の始まりの合図となる。人間の霊はその達成の頂点で燃え尽きる。人間の絶頂は同時に黄昏でもあるんだ。人間は遊戯が好きじゃないか。人間には何かを賭けた遊戯をさせてやるがいい。・・・

 この部分だけ読むと、まるで哲学書のようですが、この小説をジャンルで分けるなら「西部劇」となります。より正確に言うなら、サム・ペキンパーの「ワイルド・バンチ」とアメリカ先住民の虐殺を描いた「ソルジャーブルー」、二本の映画の脚本を混ぜ合わせ、それをクエンティン・タランティーノが監督した作品といった感じでしょうか。ただし、出来上がった作品の暴力描写は、「ワイルド・バンチ」の衝撃的な銃撃戦が「トムとジェリー」の追いかけっこにみえるほど過激なものになるはずです。たぶん現在のメイクアップやCG技術があれば、それをリアルに再現することは可能だと思われますが、そうなると僕は生理的に無理そうです。
 ある意味、文字によって作られた小説だから許される世界だといえる気がします。まあ、映画化されたら怖いもの見たさでヒットしてしまうかもしれませんが・・・。

<荒野を舞台にした「地獄の黙示録」>
 この小説は、前述のように西部劇なのですが、読んでみて誰もが気づくのは、ハーマン・メルビルの小説「白鯨」とコッポラの映画「地獄の黙示録」(原作はジョセフ・コンラッド)との類似でしょう。
 この小説の主人公ともいえる「判事」は、その独特の風貌と語り口から、どう考えても「地獄の黙示録」のカーツ(マーロン・ブランド)そのものです。

 剣をとる者はみな剣で滅びると聖書は言ってる、と黒人のジャクソンが言った。
 脂で顔を光らせた判事はにやりと笑った。正しい人間は当然そう言うだろうな。
 聖書はたしかに戦争を悪だとしているが、とドク・アーヴィングが言った。血腥い戦争の話がたくさん載ってるんだなこれが。
 人間が戦争のことをどう考えようと関係ない、と判事は言った。戦争はなくならないんだ。石のことをどう考えるかというのと同じだ。戦争はいつだってこの地上にあった。人間が登場する前から戦争は人間を待っていた。最高の職業が最高のやり手を待っていたんだ。


 「戦争」についての判事の見解は実に見事です。しかし、彼はただ単に「暴力」を善と見なして、そこに生きがいを見い出している異常な人間ではありません。殺戮と逃亡の旅を続けながらも、彼は様々な未知のモノを採取し、記録を取り続けます。世界のすべてを知ることは可能であり、人が神に近づくことは可能だという信念を持つかのような彼の生き方は、人間離れしていて、好感すらもてます。彼の部隊の男たちならずとも、判事のカリスマ的な魅力に読者もまた引き込まれてしまうでしょう。そこが、この小説の怖いところです。(まるで「地獄の黙示録」のカーツそっくりです)

 ト・ドヴァインは焚き火の前でブーツを履いた足を交差させた。この地上のことを何もかも知るなんて無理だろ。
 判事は大きな頭を傾けた。世界の秘密は永遠に解けないと信じる者は神秘と恐怖のもとで生きることになる。いずれ迷信がそういう人間を引きずりおろすだろう。雨がその偉業を浸食するだろう。だがタペストリーから秩序の系を選り出す仕事を自らに課す人間はその決意だけで世界を引き受けたことになるのであってそういう引き受けによってのみ自らの運命を定めることができるようになる。
 それと鳥を捕まえるのがどう関係してるってんだい。
 鳥の自由はこの私への侮辱だ。鳥は全部動物園に入れてやりたい。


 主人公の旅は、ベトナムの奥地へ、人類の心の闇へと迫っていった「地獄の黙示録」のようであり、伝説の巨大鯨を追って大海原を旅し、ついにはその神のごとき存在と相対する「白鯨」のようでもあります。
 その旅の途中、彼は様々な体験をし、様々な人々と出会います。時には、「ワイルド・バンチ」のような戦闘シーンが繰り広げられ、読者はその銃撃戦に引き込まれ、その残虐さに目をそらしたくなります。
 そうかと思えば、「地獄の黙示録」における最後のカーツとの暗闇での問答のような「動」に対する「静」の対話がまた魅力的です。たとえば、森に住む隠者の言葉。主人公たち討伐隊の運命を予見していたかのような彼の言葉は実に印象的です。

・・・濡れた目をした老人はゆっくりと話す。神の怒りは眠っている、と老人は言う。それは人間が現れる百万年前に隠されたが人間だけがそれを眼醒めさせる力を持ってるんじゃ。地獄はまだ半分も埋まっていない。よく聴いとけ。狂人が始める戦争をよその国へ持ち込んでみろ。犬ども以上のものを眼醒めさせることになるぞ

 マッカーシーの作品は、映画化もされた「すべての美しい馬」も「血と暴力の国」も「ザ・ロード」も、そしてこの作品も、どれもが冥府魔道の世界を旅しながら人が成長してゆく究極のロード・ムービーです。(ロード・ノベル)
 しかし、主人公は何のために旅をしているのでしょうか?生き延びるため?大人になるため?人として成長するため?もしかすると、それはマリオ・ブラザースの究極のゲームに過ぎないのかもしれません。
 それは自らの命を賭けたゲーム、もしくは人類の存亡を賭けたゲームという「究極のゲーム」をパソコンの画面ではなく文字によって読者に体験させるものなのかもしれません。そう考えれば、少しは気楽にこの小説を読めるのかもしれません。しかし、振り返って現実を見た時、そこには2013年アルジェリアで起きたアラブ・ゲリラによる人質虐殺事件があり、アメリカの小学校で起きた銃の乱射事件があります。そして、北朝鮮では「子供」が父親の後を継いで国家元首となり、核ミサイルという究極のオモチャを手にしようとしています。
 残念ながら、この小説をフィクションとして楽しめる世の中とはほど遠いのが21世紀の現状のようです。

 判事は笑みを浮かべた。人間は遊戯をするために生まれてきたんだ。ほかのどんなことのためでもなく。子供は誰でも仕事により遊戯のほうが高貴であることを知っている。遊戯の価値とは遊戯そのものの価値ではなくそこで賭けられるものの価値だということもね。偶然の勝負を愉しむ遊戯は何かを賭けてこそ意味を持つ。運動競技の場合は力を技の勝負だがそこで問題になるのは競技者の値打ちであり勝負によってその者が何者であるかが決まるのだから敗北の屈辱と勝利の誇りそのものがかけるに値するものだ。しかし、偶然の勝負であれ実力の勝負であれあらゆる遊戯は戦争の域に達することを渇望する。なぜなら戦争においては遊戯そのものや参加者も含めたすべてを呑みこんでしまうものが賭けられるからだ。

 おそるべき世界は、この小説の中ではなく外にあるのかもしれません。マッカーシーの世界が小説の中にとどまってくれていることを願わざるをえませんが、・・・。

<あらすじ>
 主人公は家出をした名前のない少年です。時代は19世紀半ば。アメリカの南西部は、隣国メキシコとの戦争や先住民(インディアン)との内戦が続き無法地帯に近い状況が続いていました。物乞いや盗みをしながら放浪の旅を続けていた少年は、ある時、「判事」と呼ばれる謎の人物に誘われて、グラントン大尉が率いるインディアン討伐隊に加わります。
 哲学、科学、外国語、人類学、博物学に詳しく、誰よりも上手くダンスを踊ることができる「判事」は、そのカリスマ性によって部隊を精神的に支配し、彼らを暴力と堕落の世界へと導いて行きます。
 インディアンの部落を襲い、女子供も含め全員を殺し、頭の皮をはぐだけでなく、メキシコ人や白人たちまでも平気で殺してゆく部隊は、しだいに行き場を失ってゆきます。そして、最後にインディアンたちに襲われると、ほとんどの隊員が命を落とします。生き残った判事と少年は対立し、別れて行きますが、その後、再び二人は出会います。
 最後の最後に舞台でダンスを踊るのは、いったい誰なのか?

「ブラッド・メリディアン Blood Meridian,Or the Evening Redness in the West」 1985年
(著)コーマック・マッカーシー Cormac McCarthy
(訳)黒原敏行
早川書房

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