- Alfred Lion , Frank Wolff -

<レーベルが個性をもっていた時代>
 あなたはCDを買う際にレーベルを意識したことがありますか?
 かつて「アナログ・レコードの時代」には、それぞれのレコード会社には独自の個性があり、なかにはアーティストの個性を上回るほどの存在もありました。
 しかし、ほとんどのレコード会社が大手の巨大企業数社の配下となった現在、その個性はミュージシャン自身のもつ個性に比べると無きに等しいものになってしまいました。
 とは言っても、レコード・ビジネスというものが生まれた20世紀の初めには、逆の意味でレコード会社の個性など存在しませんでした。なぜなら生まれたばかりの音楽ビジネスは、文字通りヤクザまがいの商売であり、経営者の音楽センスなどを持ち込む余裕などまったく無かったからです。当然レーベルの個性などというものは、無きに等しい状態でした。

<ブルーノート・レコードという存在>
 ブルーノート・レコードは、そんなレコード・ビジネスの初期にジャズの専門レーベルとして誕生し、確固とした個性をもつ最初のレーベルとして21世紀までその活動を続けている唯一の存在です。企業として、利益を追求するなら、これだけ長期に渡りモダン・ジャズ一筋のポリシーを貫き通すことは不可能だったでしょう。
 妥協を許さないジャズ・マニアのドイツ人二人、その存在があったからこそブルーノートは、ジャズ史に燦然と輝く名盤の数々を生み出すことができたのです。そして、その歴史は意外なことに最近になって再びその輝きを増しつつあります。(それはかつてのモダン・ジャズとは異なる新しいポップスよりの分野ではありますが・・・)

<ブルーノート誕生>
 ブルーノートの歴史は、そのまま1940年以降のジャズの歴史と重なっています。そして、そのスタートは1938年12月23日にカーネギー・ホールで行われたコンサート「スピリチュアルズからスイングまで」だったと言われています。カウント・ベイシーのオーケストラをメインに行われたこのコンサートを見に来ていた一人の青年が、この時の感動から自らレコード会社設立を決意したのが、その始まりでした。
 その青年こそ、ベルリン生まれで当時29才だったブルーノートの設立者、アルフレッド・ライオンでした。彼は故郷のドイツでジャズの魅力に取り憑かれ、アメリカへの移住を決意。その後数々の職と街を渡り歩いた後、ニューヨークの貿易会社に勤務するようになっていました。彼はジャズ専門レーベルの先駆けだったコモドア・レコードのショップなどに入り浸っていましたが、前述のコンサートに感動、それからわずか2週間後の1939年1月6日には、なんと初のレコード制作に乗り出していたのです。

<アルフレッド・ライオン>
 彼は元々労働者階級の出身であり、資産などまったく持っていませんでした。当然、レコード・ビジネスは、サラリーマンとして働きながらサイド・ビジネスとしてやらざるを得なかったわけです。おまけに彼は、レコード業界のことやレコード制作のノウハウもほとんど知らないズブの素人でした。ただあるのは、ジャズへの熱き情熱と鍛えられた耳だけだったのです。
 しかし、そんな不利な状況だったからこそ、ブルーノートならではの独自の録音スタイルが生み出されることになります。彼は録音にきたミュージシャンたちを大切に扱いました。録音の時には、食べ物だけでなくウイスキーなどの飲み物もたっぷり用意し、居心地の良い環境を整えました。40年代と言えば、人種差別はまだまだ当たり前のことであり、ほとんどの場所において白人と黒人は差別されていました。そんな時代にブルーノートは差別をしないどころか、彼らに対して尊敬をもって対応していたのです。当然ミュージシャンたちに支持されないわけはありませんでした。

<ブルーノート式録音>
 他のレコード会社とは違い、ブルーノートは、録音前に必ずリハーサルを行っていました。その上、リハーサルに要した時間に対しても、ちゃんとギャラを払っていたといいます。そして、ほとんどの場合、彼は録音中のミュージシャンに注文をつけませんでした。できるだけ自由に演奏を行わせ、演奏時間が長すぎてレコードの片面からはみ出してもけっして文句を言いませんでした。

<フランク・ウルフ>
 こうして、本格的にスタートを切った彼のもとに素晴らしい援軍が現れます。それはドイツ時代からの友人で写真家のフランク・ウルフでした。
 ユダヤ人だった彼は、ナチスの支配下となったドイツを逃れアメリカに渡ってきていました。カメラマンとして働いていた彼もまたジャズ気違いで、さっそくブルーノートの共同経営者となります。こうして、ブルーノートが動き出すと同時に、ここを訪れたミュージシャンたちの当時の姿が、フランク・ウルフのカメラによって撮られて行くことになります。
 ブルーノートによる音楽の記録の重要性は言うまでもありませんが、フランク・ウルフによって撮られたミュージシャンたちの生き生きとした姿は、後に大きな価値を持つことになります。(もちろん、彼の経営者として能力が優れていたことは言うまでもありません)

<ホットなジャズにこだわったライン・アップ>
 「ホットなジャズ」にこだわった二人のドイツ人は時代の流れを気にせず、自分たちの好きなジャズを録音し始めます。そして、このブルーノートからの最初のヒットは、ソプラノ・サックス奏者でルイ・アームストロングの先輩にあたるシドニー・ベシェの「サマー・タイム」でした。
 その後もファンキーなラグタイム・ピアニスト、ジェームス・P・ジョンソン James P.Johnsonやテナー・サックス奏者のアイク・ケベック Ike Quebecら、どちらかと言えば古いタイプのミュージシャンを中心にレコード制作を行っていたブルーノートですが、40年代の後半に入ると新しいジャズの流れ「ビ・バップ」を取り入れることになります。そのきっかけが、セロニアス・モンクでした。

<セロニアス・モンク>
 残念なことに、セロニアス・モンクがブルーノートで録音したレコードは、どれもヒットすることはありませんでした。しかし、この異色のピアニストの魅力にひかれていたライオンは、何度も彼の録音を行っており、その録音は後に大きな価値をもつことになります。("Genius of Modern Music" By Thelonius Monk)
 こうして、モンクをきっかけにブルーノートは、バド・パウエルやファッツ・ナバロなど、ビ・バップのアルバムを発表して行きますが、彼らが求めていた「ホットなジャズ」の録音も平行して行われ続け、それがレーベルの個性を決定づけることになって行きました。

<ブルーノートの看板を生んだ男>
 その頃、音楽以外の面でもうひとりブルーノートにとって重要な助っ人が現れます。彼はブルーノートに音楽だけではない見た目の統一感を与えるための重要な役割を果たして行くことになります。それが主任デザイナーとしてブルーノートのアルバム・ジャケットのデザインを担当するリード・K・マイルズでした。ブルーノートのジャケットに多く見られる独特の文字スタイルと写真の組み合わせは、彼がデザインしたものです。
 フランク・ウルフが撮る写真は、あくまで彼の個人的趣味でしたが、マイルズのデザインと組み合わさることで、ひとつの商業芸術作品と呼べるジャケットが生まれることになったのです。

<ブルーノートの音を生んだ男>
 さらに、忘れてはならない人物が加わります。それは、ある意味「ブルーノートの音」を決定づけた人物と言えるかもしれません。
 1940年から50年代は、音楽の進歩以上に録音技術やレコーディング技術が進歩をとげた時代でもありました。そのため、レコード制作における技術者の役割は、しだいに大きなものになっており、設備投資に回す資金の少ないブルーノートは、その対応に常に苦労していました。
 そんな状況を改善し、他社に負けない音質を実現したのが、検眼技師を本職としていたアマチュア・エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーでした。彼は自宅の居間に手作りのスタジオを持っており、そこでの録音が当時ブルーノートが借りていたスタジオを持っており、そこでの録音が当時ブルーノートが借りていたスタジオを上回る高い質であることを知ったライオンは、その後の録音をルディの「居間」で行うようになって行きます。

<高品質、しかし厳しい経営状況>
 こうして、優れたスタッフがそろったブルーノートは、いよいよその真価を発揮し始め、ピー・ウィー・マーケットの有名なアナウンスで始まる本格的ジャズ・ライブ・アルバムの決定版となったアート・ブレイキーの「A Night at Birdland」など、素晴らしい作品を発表して行きます。
 しかし、1950年代半ばブルーノートは財政的にかなり厳しい状況に追い込まれてしまいます。次々と高品質のアルバムを発表してはいたものの、ヒット作品が生まれなかったのです。不運なことに、ブルーノートには一般受けするジャズ界の大スターがいませんでした。(もちろん、それはそれだけのアーティストと契約するだけの資金がなかったからでもあるのですが・・・)

<幻の買収計画>
 ついには、アトランティック・レーベルによる買収話しが持ち上がり、一時はそれが決まりそうになっっていたといいます。アトランティックと言えば、当時R&B界のブルーノート的存在として、最も勢いのある企業でした。さらにアトランティックの経営者、アーティガン兄弟は元々大のジャズ・マニアでブルーノートは彼らにとって憧れの存在でもありました。もし、この買収が実現していたら、ポピュラー音楽の歴史はかなり違ったものになっていたかもしれません。少なくとも、後に「フュージョン」と呼ばれることになるジャズのエレクトリック化は大幅に加速されていたかもしれません。しかし、ブルーノートのファンにとって幸いなことに、この買収は実現しませんでした。

<苦境からの脱出>
 買収計画がご破算になった頃、経済的苦境から救ってくれるヒット作がやっと生まれます。それがホレス・シルバーのヒット曲「ドゥードリン」と「ザ・プリーチャー」でした。ハード・バップ期を代表するピアニストのひとりのホレス・シルバーは、この後もブルーノートの看板スターとして、売れる作品を生みだし続け、経営を助けることになります。
 そして、もうひとりジャズ・オルガン・ブームの火付け役となったジミー・スミス Jimmy Smithという新しいスターがブルーノートから生まれました。彼のデビュー・アルバム「A New Sound A New Star」は大ヒットとなり、その後の彼の作品もブルーノートにとって貴重な利益を生み出し続けることになります。

<新たなジャズ・ブーム>
 1950年代も半ばになると、ジャズ・ファンの中に新たな購買層が現れ始めます。それはビート族に代表される白人の若者たちでした。彼らの中にはコレクターとしてブルーノートの旧作を集める者も多く、ファンの絶対数は減ったもののLPの登場による単価の上昇もありジャズ市場にとっては追い風が吹き始めていました。ホレス・シルバーやアート・ブレイキーら、ブルーノートのミュージシャンたちはそんなハード・バップのブームに上手く乗って行きました。そんな中、ブルーノートからはジャズ史に残る名盤も生まれました。ジョン・コルトレーン John Coltrane唯一のブルーノート作品「ブルートレイン Blue Train」は、その中でも最重要の作品でしたが、その他にもソニー・クラーク Sonny Clarkの「ソニー・クラーク・トリオ」、ソニー・ロリンズ Sonny Rollinsの「ソニー・ロリンズ第2集」、「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」、アート・ブレイキーの「モーニン」、キャノンボール・アダレイ Cannonball Adderleyの「サムシン・エルス Somethin' Else」などが発表されています。この時期ブルーノートは黄金時代を迎えようとしていました。

<フリー・ジャズの時代へ>
 1960年代に入ると、ジャズは再び変革の時代を迎えました。オーネット・コールマンの登場によるフリー・ジャズの時代が始まり、それに答えるかのように大物たちが次々に新しい試みを開始します。(ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズ、ビル・エヴァンス、チャーリー・ミンガス、そしてセロニアス・モンク)
 しかし、ブルーノートはそんな時代の変化とはまったく別の道、変わらぬハード・バップ路線を歩み続けます。(唯一オーネット・コールマンの代表作となったストックホルムでのライブ・アルバム「ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン」は、ブルーノートの作品ですが、これもまた今聴くとフリー・ジャズというほど前衛的ではなく聞き易いアルバムなのですが・・・)

<「サイドワインダー」の大ヒット>
 ファミリーを形成していたブルーノートのミュージシャンたちの中でも、トランペッターのリー・モーガンはその代表格的存在でした。彼はホレス・シルバーやジミー・スミス並みにブルーノートに貢献していましたが、1963年に彼が放った大ヒット曲「サイドワインダー The Sidewinder」は、同社の運命を大きく変え、その終焉を早めることになってしまいます。それは実に皮肉な結末でした。
 CMに使用されるなど、大ヒットとなったこのインストロメンタル曲の売上は、それまでのジャズ界の常識を覆すものでした。そのため、ブルーノートは未だかつてない量産体制をとらざるを得なくなります。しかし、当時の業界の常識では、納品したレコードの支払いは次回の納品が行われるときとなっていました。ということは、大ヒット作が出ても、その後にヒット作を続けて出さなければ納品した分の代金を回収できないということになるのです。これは、まぐれに近い大ヒットを飛ばしてしまった企業にとって大変な事態を生み出すことになります。
 ブルーノートはまさにこの状況に追い込まれてしまったわけです。そのうえこの危機に、元々心臓の弱かったライオンが体調を崩してしまいます。当時いっきに進んでいたレコード市場の巨大化は、膨大な資金力がない企業が淘汰される状況を生みだしていたのです。
 こうして、1965年経営的に行き詰まったブルーノートは、リバティー・レーベルに売却されることになりました。

<ブルーノートの終焉と英雄の死>
 幸い売却先のリバティーでは旧経営陣がそのまま残ることになり、それまで通りブルーノートを運営してゆくことになりました。しかし、心臓に不安を抱えるライオンはこの時引退を決意、1967年同社を去りました。
 残されたフランク・ウルフは、ミュージシャンでもある黒人のデューク・ピアソンらとともに、なんとか経営を続けて行きます。しかし、彼の体もまた長年の苦労によってすっかり衰えており、1971年3月8日、病に倒れた後、手術後の心臓発作によって命を落としてしまいました。
 二人の創設者が去った後も、残された人々によってブルーノートの活動は続けられましたが、1979年ついにその活動を停止してしまいます。たぶんこの時、誰もがブルーノートは永遠に消えたものと思ったに違いないでしょう。

<マイケル・カスクーナ登場>
 ところが、ブルーノートの倉庫には再び会社を立ち直らすだけのお宝の山が眠っていました。それは、かつて録音はされたもののレコード化できずに埃をかぶったままにされた膨大なテープや貴重な原盤の数々でした。資金が常に不足していたブルーノートは、素晴らしい録音をもちながら、それを発表できずにいたのです。しかし、その価値に気づく者が現れなかったため、危うくそれは永遠に失われるところでした。
 神様は、そこでひとりの白人青年を選びました。それが、当時弱冠24歳だったジャズ・マニアのジャズ評論家、マイケル・カスクーナでした。彼は自らレコードの制作を手がけるなど、ジャズへの思い入れが深いだけでなく知識も豊富で、過去の録音に関しての掘り起こしを行う「ジャズの考古学者」でもありました。そんな彼がブルーノートの持つ音源の復刻を行うべく倉庫にこもり始めたのです。

<ブルース・ランドヴァル登場>
 1984年、ブルーノートを復活させるため、そのトップにブルース・ランドヴァルという業界のやり手が抜擢されます。彼はかつて、ブルーノートへの就職を希望しながら断られた経験があり、まさにぴったりの人物でした。彼はその手始めとして、再スタートを人々に知らせるためのイベントを企画します。それが「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」という記念コンサートでした。

<「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」>
 1985年2月22日ニューヨークで行われたこのコンサートには、完全に業界から身を引いていたアルフレッド・ライオンを初め、リード・マイルズ、ルディ・ヴァン・ゲルダーら、かつてのスタッフが出席。アート・ブレイキー、フレディ・ハバード、マッコイ・タイナー、セシル・テイラー、トニー・ウィリアムス、ケニー・バレル、ルー・ドナルドソン、ジミー・スミス、当時新人だったスタンリー・ジョーダンなど数多くのミュージシャンがかけつけました。

<モダン・ジャズへの追い風>
 このコンサートの成功を祝うかのように、時代はモダン・ジャズに追い風を吹かせます。
 ウィントン・マルサリスらによるモダン・ジャズの復興活動。ジャズをアメリカの正式な芸術文化として認め、それを研究しようとするアカデミックな動きの活発化。ピッグ・バッグ、リップ・リッグ&パニック、それにワーキング・ウィークなどのロック系ジャズ・ファンク・バンドの活躍。レコード・コレクターによる中古盤市場の活況。そして、極めつけは、レコードからCDへの以降による膨大な買い換え需要と旧作の再発ブームと好条件がそろいました。
 こうして、ブルーノートは息を吹き返しましたが、この勢いは旧作の復刻だけでなく意外なことに新作の分野にも及びました。世界中を驚かせた脅威のギタリスト、スティーブ・ジョーダン、「Don't Worry Be Happy」の大ヒットで一躍世界的なスターとなったボビー・マクファーリン。アルバム「Blue Light 'Til Dawn」「New Moon Daughter」などの大ヒットで、ジャンルの枠を越えてその名を知られることになった大人気の女性黒人ヴォーカリスト、カサンドラ・ウィルソン Cassandra Wilson。そして、つい最近登場したばかりとはいえ、グラミー賞をとった超大物新人ノラ・ジョーンズ Norah Jones(彼女は、なんとあのビートルズにシタールを教え、精神的師匠としても有名だったラヴィ・シャンカールの娘なのだそうです!)
 かつて、黄金時代にブルーノートが売り上げたレコードの枚数を遙かに上回る枚数を今のブルーノートは売り上げています。これはちょっと皮肉なことかもしれませんが、音楽文化への貢献度はけっしてその売上枚数には比例しないはずです。だからこそ、今でもなお優れたアーティストたちがブルーノートというレーベルを選んで作品を発表しているのかもしれないのです。
 ブルーノートの遺産は、けっして倉庫に眠っている原盤に収められた素晴らしい音楽だけでなく、それらの録音に注がれたジャズへの愛情にこそあるのかもしれません。

<アルフレッド・ライオンの死>
 1986年「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」の日本版とも言える「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」が開催され、アルフレッド・ライオンは日本を訪れました。日本のジャズ・ファンの熱烈な歓迎に感動した彼でしたが、帰国後再び体調が悪化。1987年2月2日ジャズに憧れて海を渡ったドイツ人は、夢の国アメリカでのジャズに捧げた人生を静かに終えました。

<締めのお言葉>
「薄紫色の夕暮れに、僕はデンバーの黒人地域にあるウェルトン街27番地の灯火の中を体中ずきずきさせながら歩き、自分が黒人であればよかった思った。
 というのは、白人社会がこれまで与えてくれた一番良いものでも、僕には十分な陶酔とまでいかず、十分な生活、喜び、興奮、暗黒、音楽とならず、満足な夜とはならなかったからだ。・・・・・」

ジャック・ケルアック著 「路上」より 

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