戦時下の日本史、そのB面


- 1926年~1945年 -

半藤一利「B面 昭和史」より
<1926年>
<歴史的年号スクープ・ミス事件>
 12月25日午前3時半、東京日日新聞(現毎日新聞)が号外を配ります。
 そこには「聖上崩御」・・「元号決定」と記され、新元号は「光文」とスクープした記事が掲載されていました。
 ところが、正午近くになり、朝日新聞と時事新報が号外で勅語を発表。そこには新元号が「昭和」と記されていました。
 当時、宮内省の草案には43の候補がありました。伸和、恵和、休和、神化、観化、敦化、天光、大光などがありましたが、スクープされた「光文」はそれらの候補の中にもなかったことが後にわかりました。(枢密院側の候補にはあったようです)

「昭和の子供」
昭和 昭和 昭和の子供よ 僕たちは
姿もきりり 心もきりり
山 山 山なら 富士の山
行こうよ 行こう 足並みそろえ
タラララ タララ タララララ
(昭和に入ってすぐに流行した歌)

<1927年(昭和2年)>
「どん底の歌」
夜でも昼でも 牢屋は暗い
いつでもオニめが あああ
えいやれ 窓からのぞく
(ゴーリキーの「どん底」がモチーフの流行歌で「ロシア革命」の成功が生んだヒット曲。1925年治安維持法の公布により、左派への弾圧が強まった時代を反映した曲)

<円本ブームが生んだ出版バブル>
 円本のブームは、出版界に莫大な利益をもたらしましたが、そのバブルは作家たちの暮らしを大きく変えました。

 そこで、ぞくぞく欧米旅行を企てたり、軽井沢に別荘を建てたり、高級自動車を買ったりという豪勢さ。たとえばソ連へは中条(宮本)百合子、吉屋信子、小山内薫など。正宗白鳥夫妻はアメリカへ、久米正雄夫妻はヨーロッパ、林芙美子もヨーロッパへ・・・。軽井沢に別荘組は室生犀星、掘辰雄・・・。谷崎潤一郎は阪急沿線岡本に、460坪の土地を求め、中国風の豪奢な住宅を新築した。・・・

 しかし、そんな状況に漠然とした不安を抱く者もいたのも事実です。7月24日に35歳で自ら命を絶った芥川龍之介はその一人でした。

<1928年>
「ヨーイドン!」
 陸上競技のスタートの合図が正式に「ヨーイドン!」に統一されたのがこの年でした。
 1928年5月6日に明治神宮競技場で開催された第一回全日本学生陸上大会がその最初の大会でした。
ちなみに、それまでは様々な合図がありました。
「いいか、ひ、ふ、み」
「支度して、用意」
「よろしゅうごわすか、用意」

<1929年>
「緊縮小唄」
(作詞)西條八十(作曲)中山晋平
咲いた花でもしぼまにゃならぬ
ここが財布の あけた財布の締めどころ
時世時節じゃ手をとって
緊縮しよや 緊縮しょ

 日本中が不景気に苦しむ中、政府は予算を大幅に縮小し、国民にも協力を求めます。
 当時の首相、浜口雄幸はラジオでこう訴えました。
「今日のままの不景気は底の知れない不景気であります。これに反して緊縮、節約、金解禁によることろの不景気は底を衝いた不景気であります。前途に皓々たる光明を望んでの一時的の不景気であります」

<1930年>
 世界恐慌が起きた年、いよいよ日本国内も経済状況が厳しくなります。多くの労働者が失業し、仕事があっても賃上げはなし。
 労働争議が起き、それが共産主義者への弾圧へと発展することになります。

「ルンペン節」
(作詞)柳水巴(西條八十の変名)(作曲)松平信博
金がないとてくよくよするな
金があっても白髪は生える
お金持ちでもお墓はひとつ
泣くも笑うも 五十年
ワッハッハ ワハッハッハ
スッカラカンの 空財布
でもルンペン のんきだね

<ストライキの替え歌>
「草津よいとこ」を基にした替え歌が流行。
薫る新緑四月の二十日 ドッコイショ
市電争議だ コーリャ 火蓋切るよ チョイナチョイナ
賞与一割惜しくはないが ドッコイショ
カタリ取られりゃ コーリャ 腹が立つよ チョイナチョイナ

<ガールの時代>
 エログロナンセンスの時代は、「モダンガール」ブームから始まる「ガール」の時代でもありました。
「カフェ・ガール」(カフェの女給)、「ステッキ・ガール」(金持ちのステッキ代わりの女性)、「タク・ガール」(タクシーに同乗しその他のサービスへ)
その他、「キッス・ガール」、「ワンサ・ガール」、「ガソリン・ガール」、「ボート・ガール」、「エンゲルス・ガール」、「ショップ・ガール」・・・

「エロ演芸取締り規則」
(イ)ズロースは股下二寸未満のもの、及び肉色のものはこれを禁ずる。
(ロ)背部は上体の二分の一より以下を露出せしめざること。
(ハ)胸腹部は乳房以下の部分を露出せしめざること。
(ホ)片方の脚のみ股まで肉体を露出するがごときものはこれを禁ずる。
(ト)ダンス(例えばインディアン・ダンス、ハワイアン・ダンス等)にて腹を部分的に前後左右に振る所作は、これを禁ずる。
(リ)日本服の踊りにおいて太ももを観客に現すが如き所作はこれを禁ずる。

<エントツ男事件>
 1930年11月16日、川崎市富士ガス紡績川崎工場の45mの大煙突のてっぺんで赤旗を降る男が籠城を開始。
 「エントツ男」と呼ばれた男、田辺潔(27歳)観たさに見物人が現場に押し寄せ、屋台のおでん屋、焼きそば屋まで現れてお祭り状態になりました。
 130時間22分居座った彼は、組合側の要求を会社に認めさせることに成功しました。
 ただし、この成功は昭和天皇のお召し列車が近くを通るために当局から早く解決しろと指示があったおかげだったと言われます。
 2年4か月後、彼は横浜で溺死体となって発見されています。特高警察が彼を殺したという説が有力と言われます。

<1931年>
<「のらくろ」誕生>
 漫画「のらくろ二等卒」(のちの「のらくろ二等兵」)が「少年倶楽部」に連載開始。
 彼は家族に恵まれなかった自分自身の寂しかった少年期の思いをこの作品に投影していました。
「当時は雑誌を買える子供より、借りて読む子供のほうが圧倒的に多かった。その借りて読む子供たちに、劣等感をいだかせぬような内容の漫画をかこうと思った。物のない子、家のない子たちまでが、優越感にひたることのできる性格の主人公 - 野良犬の黒吉つまり”のらくろ”はこうして誕生したのですよ」
田川水泡

<1932年>
「爆弾三勇士」
 第一次上海事変で2月2日、中国軍が設置した鉄条網を爆破するため、三人の工兵が爆薬を身体に巻き付けて突撃し爆死。
 一等兵の江下武二、北川丞、作江伊之助は、事件後、「爆弾三勇士」として日本で英雄としてブームとなった。
 「爆弾三勇士の歌」の歌詞募集に8万4千の応募があり、選ばれたのは与謝野鉄幹の歌詞でした。
 3本の三勇士映画が製作され、明治座では新派の芝居にもなり、浅草のカジノ・フォーリーではレビューにまで登場しました。

「坂田山心中事件」
 5月9日、神奈川県大磯で男女二人の遺体が発見されました。2人は両親に結婚を反対され、永遠の愛のために心中。事件は一大ブームとなり、後追いの心中が20件に達しました。
 五所平之助監督によって「天国に結ぶ恋」として映画化されますが、不謹慎であるとして上映中止に追い込まれます。
 しかし、主題歌はヒットし、ブームは続きました。
「天国に結ぶ恋(坂田山心中)」
(作詞)柳水巴(西條八十の変名)(作曲)松平信博
ふたりの恋は 清かった
神様だけが御存じよ
死んで楽しい天国で
あなたの妻になりますわ

「国防婦人会」
 1931年12月大阪で井上清一中尉に赤紙が届き、その妻が夫に心置きなく戦ってもらうためとして自ら命を絶つ事件が起きました。
 その事件が、あろうことか「軍国主婦の鑑」としてもてはやされます。
 3月18日、同じ大阪の主婦、安田せいが近所の婦人たちと結成したのが大阪国防婦人会でした。この組織はこの後全国に広がります。
 こうして10月には大日本国防婦人会が発足することになりました。この組織は1942年終戦まで存在することになります。

<1933年>
「桃色ストライキ」
 6月15日、東京松竹歌劇団の踊り子百数十人が「首切り減給反対」「衛生設備の完備」など28項目の要求をかかげストライキに突入。
 闘争委員長は当時まだ19歳のターキーこと水之江瀧子。「男装の麗人」て人気の俳優でした。
 この闘いにその後大阪の松竹のレビュー・ガールたちも参加。会社からの圧力によって、大阪の団体は高野山に籠城。
 129人が東京を脱出し湯河原温泉に立てこもりますが、ターキーら46人が検挙されます。
 それに対し多くのファンが「彼女たちを助けろ!」と抗議し、応援の動きが活発化。
 会社側が降伏することになり、女性たちが勝利を収めました。
 7月19日、「松竹レビューガール争議団解団式」が行われました。

「東京音頭」
 関東大震災から10年、日本各地で盆踊り大会が開催。そのために制作された「東京音頭」が日本中で大ヒット。
 ビクターが社運をかけ、日本中で踊りのデモンストレーションを行いながらプロモーション活動を実施。
 これにより日本中で盆踊りがブームとなりました。
 この後もレコード会社は同じようにレコードと踊りをセットにした販売方法を展開することで多くのヒット曲を生み出します。
 時代が暗いムードに包まれていたからこそ、人々はそのことを忘れようと必死で踊ったとも言われます。

<1934年>
「さくら音頭」
 大ブームの音頭と日本人が大好きな花「桜」を合体させた「さくら音頭」をレコード会社4社が競作。どれも作詞・作曲が別という異色の競作。
 さらには同じタイトルの映画まで各映画会社が競作することになりました!
 コロンビアは、芸者さんユニット、歌丸、富勇
 ポリドールは、東海林太郎、喜代三など
 キングは、美ち奴。
 しかし、レコード売上としてはビクター・レコード盤が勝利したようです。
「さくら音頭」
(作詞)佐伯孝夫(作曲)中山晋平(歌)小唄勝太郎、徳山璉
ハァー 咲いた咲いたよ 
弥生の空にヤットサノサ
さくらパッと咲いた咲いた咲いた咲いた
パッと咲いた

<パーマネント・ブーム>
 国産のパーマネント機が発明され、パーマネントが低料金化し、大衆レベルにまで広がりました。
 山野千枝子のような「美のカリスマ」も登場し、女性が美しくなった時代。
 戦前最後の平和で明るい時代だったとも言えます。

<1935年>
<レコード会社の急増>
 ラジオ、蓄音機の販売数が急増し、レコード会社も急増。
 ビクター、コロムビア、ポリドール、キング、ニットー、パーロホン、テイチク、タイヘイ、オーゴン、ツル、アサヒ、コロナ、ミリオン、ショーチク、ゼーオー、テレビ、国鉄、エジソン、日本グラモフォン、フタミなどのレコード会社がこの年には存在していました。

「二人は若い」
(詞)サトウハチロー(曲)古賀政男
あなたと呼べば あなたと答える
山のこだまの うれしさよ
「あなた」「なんだい」
空は青空 二人は若い

<1936年>
<二・二六事件>
 2月26日午前5時、完全武装した陸軍部隊1400人によるクーデターが始まりました。
 陸軍大尉、野中四郎、安藤輝三以下22名の青年将校が指揮。
 内大臣の斎藤実、教育総監の渡辺錠太郎が即死。蔵相の高橋是清は重傷で後に死亡。
 侍従長だった鈴木貫太郎が重傷で、首相の岡田啓介は義理の弟の松尾伝蔵大佐が身代わりとなって死亡したため助かりました。
 この事件の際、陸軍の首脳、内閣は無力で、テロ犯ではなく決起部隊として事態の収拾を図ります。
 この時、昭和天皇だけは、彼らを「反乱軍」と呼び、その討伐を命じました。
「自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を締めるに等しい行為である」と語ったといいます。

<1937年>
<神風号>
 4月6日に出発した国産の飛行機「神風号」が東京とロンドン15357Kmを94時間17分56秒での飛行に成功し、9日に無事着陸。
 朝日新聞社が主催し、三菱重工が製造した機体での挑戦でした。パイロットは、飯沼正明(朝日新聞航空部)で、機関士は塚越賢爾。
 神風号はこの後、陸軍の97式司令部偵察機となりました。それは軍用機としての実地訓練を兼ねていたと言えます。
 自力でこの機体を開発した日本の技術力は世界を驚かすことになりました。

「皇国臣民の誓詞」(年少用)
一 私共は大日本帝国の臣民であります。
二 私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。
三 私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。

「軍歌」と「軍国歌謡」
 今ではひっくるめて”軍歌”という言い方になっているが、この頃はいわゆる陸海の軍隊内でもっぱら歌われるものと、国民すべてが愛唱できる軍国歌謡とはわけられていた。つまり、8月には文部省・内務省によってレコードの統制がはじまり、9月には内閣情報部ができ、秋のはじめごろから国民精神総動員の運動がどんどん強まってくる。これにいち早く応じたのがレコード会社で、競っていわゆる軍国歌謡を大々的に売り出したのである。
 大阪毎日・東京日日が戦意昂揚のため懸賞募集した軍国歌謡の中、第二位となったのが、薮内喜一郎(作詞)、古関祐而(作曲)の「露営の歌」。一位の「進軍の歌」本多信寿(作詞)、陸軍戸山軍楽隊(作曲)のB面として発売されたが、曲の良さと哀調な歌詞が受けてB面が人気となった。
「愛国行進曲」
内閣情報局が公募し選定する国民歌謡歌謡曲。
詞には、5万7578通から森川幸雄という青年詩人の作品が選ばれ、曲には、9555通から退役海軍軍楽隊の戸口藤吉の曲が選れました。
そして、6つのレコード会社から強制的に発売され、100万枚を突破するヒットとなりました。

見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば
天地の正気はつらつと 希望は躍る大八州
おお晴朗の朝雲に そびゆる富士の姿こそ
金おう無欠揺るぎなき 我が日本の誇りなれ

この曲の替え歌もできていました。

見よ東条のはげ頭 旭日高く輝けば
天地にぴかりと反射する 蠅がとまればつるとすべる・・・

<大本営設置>
 11月20日、宮中に大本営が設置されました。
 大本営とは、戦時下の陸海軍の統一した統帥(軍隊指揮)補佐機関のこと。
 近衛首相の要望により、文民統制のために設立されるはずだったが、その構成メンバーは武官のみとなり、文官が除外。
 軍による軍のコントロール体制が始まり、日本は完全に軍国主義一色となりました。

<1938年>
「国家総動員法」
 4月に成立した全文で50条からなる法律。
「政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは勅令の定る所に依り帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしむることを得但し兵役法の適用を妨げず」

<「麦と兵隊」誕生>
 4月芥川賞授賞式が中国、杭州で行われました。受賞者の火野葦平(「糞尿譚」)が伍長として、中国に出征していたため、上海に行く予定があった小林秀雄が菊池寛に代わって現地で授与式を行いました。
 この後、火野は兵士から従軍ルポライターへと移動になり、名作「麦と兵隊」を書き上げます。そして、それが120万部を超える大ベストセラーとなりました。

<1939年>
<戦況悪化と近衛首相の辞任>
 あまりに広い範囲に戦線を拡大し、なおかつ石油などの資源を失っている日本は戦線維持が精一杯の状況に追い込まれます。陸軍は密かに前年の12月6日に進攻作戦の打ち切りを決定。近衛文麿は首相を辞任し、平沼騏一郎内閣が1月に誕生します。
 陸軍は、日独防共協定にソ連も組み込もうと考えます。しかし、5月11日にノモンハンで日ソ両軍の戦闘が始まってしまいます。
 6月14日、天津で事件が起き、日本軍が英国租界を封鎖。日英関係も急速に悪化してしまいます。
 7月26日、米国が日米通商航海条約の破棄を通告。その間にドイツがソ連との不可侵条約を締結。平沼内閣が総辞職し陸軍大将阿部信行が首相に就任し新内閣が発足します。
 9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まります。これで日本はアッという間に世界を敵に回すことになりました。

<国民精神総動員委員会>
 戦争へと向かう日本は、国民をまとめるための委員会を設置。委員長は文部大臣で元陸軍大将の荒木貞夫。
「遂げよ聖戦 紅瀬ヨ興せよ東亜」
「建設へ 一人残らず御奉公」
「聖戦へ 民一億の体当たり」
 これらの標語が作られました。

<1940年>
<議会における最後の抵抗>
 民政党の斎藤隆夫議員最後の反抗とも言える議会での発言
「支那事変がはじまってからすでに2年半になるが、10万の英霊をだしても解決しない。どう戦争解決するのか処理案を示せといいたい」
 この発言により、斎藤議員は議会から除名処分となりました。そして、この発言が議会における最後の抵抗となりました。

「基本国策要綱」
「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき世界平和の確立を招来することをもって根本とし、まず皇国を核心とし日満支の強国なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するにあり。これがため、皇国自ら速に新事態に即応する不技の国家体制を確立し、国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す」

<1941年>
「国民学校令」発令
 4月1日から、小学校は国民学校へと名称を変更。 国民科、理数科、体練科、芸能科にまとめられました。
 「操行」の項目がなくなり、音楽では「ドレミファソラシド」は「ハニホヘトイロ」に変更。

<敗戦の予言>
 6月22日、陸軍中佐、秋丸次朗はこう報告しました。
「対米英戦となった場合、経済力の比は20対1程度と判断されます。開戦後、最長にして2年間は貯備戦力によって抗戦は何とか可能ですが、それ以降は、わが経済戦略は経済戦力はもはや耐えることができません」
 この報告書はすぐに焼却処分となりました。しかし、この報告は残念ながら正確な予測でした。

<「はなし塚」建立>
 10月30日、浅草寿町の本法寺境内に「はなし塚」が建立され、花柳ダネ、妾ダネ、間男ダネ、艶ダネ、残酷ダネなど計53の落語が葬られました。
 このことは、落語協会が自主的に行ったものでした。

重光葵(外交官)
「国民は現状ではやりきれない。なんとか決りをつけてもらいたい。このようにじりじりやられてはかなわぬといっている。このようにデスパレートになっているものは、また大戦争にでもなっていよいよ行き詰まらねば過ちを悟らぬ。・・・何かの破壊的勢力が動いているとしか考えられぬ。国を挙げて狂気にあらずんば神経衰弱に陥っている有様は見るに忍びぬ気がする」

<1942年>
<日本政府の集結構想>
この年、大日本帝国が目指していた対英米戦争の終結構想とは?
(1)初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。
(2)敏速積極的な行動で重慶の蒋介石政権が降伏したとき。
(3)独ソ戦がドイツの勝利で終わったとき。
(4)ドイツのイギリス本土上陸が成功し、イギリスが和を請うたとき。
 これらの条件がそろえばアメリカも日本との交渉にのぞまざるを得なくなるはず。
そう目論んでいたが・・・まったくそうなならなかった。

<衣料切符制公布>
 1月20日に公布・即日実施となり、1年間に一人が購入できる衣料品は、都市居住者は100点、地方農村居住者は80点と決められた。
 背広三つ揃えが50点、ツーピース27点、ブラウス8点、スカート12点、パジャマ20点、セーター20点、タオル3点など。
 結婚する女性は500点をもらえた。
 女性には婦人標準服を提案。(女性版国民服)甲型(洋装)、乙型(和装)、活動着(防空着)
 しかし、女性の多くはその指示にほとんど従わなかった。

<「月月火水木金金」>
朝だ夜明けだ 潮の息吹き
うんと吸い込む あかがね色の
胸に若さのみなぎる誘い
海の男の艦隊勤務
月月火水木金金

夜の夜中の 真っ暗闇で
うんと踏ん張る あかがね色の
クソの太さとみなぎる匂い
裏の畠のこえだめ便所
けつけつかいかい ノミシラミ


<1943年>
<敵性音楽禁止令>
 1月13日内務省情報局から発表。
「米英そのほか敵性国家に関係ある楽曲1千曲を選び、この演奏、紹介、レコード販売をすべて禁止する」
 禁止された曲は、「ダイナ」「アラビアの唄」「私の青空 My Blue Heaven」「上海リル」¥「サンフランシスコ」など。
 「ラスト・ローズ・オブ・サマー」は「庭の千草」に、「ホーム・スイート・ホーム」は「埴生の宿」と日本語に変更。
 ショパンの曲は、ポーランド人なのでOK。ドビュッシーはフランス人だが、ドイツに占領されたのでOK。
<敵性英語追放>
 英語の使用が禁じられ、既存の名前も変更させられます。
 雑誌「サンデー毎日」は「週刊毎日」、「キング」は「富士」など。
<疎開の本格化>
「疎開」とは?
 そもそもが軍隊用語で、戦況に応じて隊列の距離や間隔を疎らに開くという意味。防火帯をつくるなど。それが都市防衛のための新語として用いられることに。
 10月5日、閣議決定で本土空襲が不可避として、主要都市の疎開方針が定められることに。
 「都市疎開実施要綱」「改正防空法」が制定され、この後「疎開」は「田舎に引っ越す」という意味で使われるようになります。

<1944年>
<雑誌の統合と特高の圧力>
雑誌の統廃合が進み、総合雑誌として残ったのは「現代」「公論」「創造」「中央公論」のみ。
「改造」は「時局雑誌」。「日本評論」は「経済雑誌」。「文藝春秋」は「文芸雑誌」として残されました。
 1月29日、神奈川県の特別高等警察が雑誌編集者、記者などの一斉検挙を実行。49人が治安維持法違反で逮捕。「横浜事件」と呼ばれました。
 7月、「改造」「中央公論」が廃刊。
「竹槍事件」
 陸軍と海軍の兵力の奪い合いから対立が激化。
 その状況に対し、「竹槍では戦えない」と陸軍を批判する記事を書いて海軍を擁護した毎日新聞に陸軍が激怒。
 陸軍は毎日新聞に発行禁止を命じます。それにも反抗した毎日新聞に対し、陸軍はその記事を書いた記者、新名丈夫を召集してしまいます。
 大正生まれの兵役免除者を召集するとは何事だ!と陸軍が抗議。すると、陸軍は同じような大正生まれの兵役免除者を250人も召集してしまいます!
 これで新聞社、出版社は完全に萎縮。マスコミの存在は無意味になってしまいました。

<マスコミによるフェイクニュース>
「これが敵だ、野獣民族アメリカ」(「主婦の友」12月号より)
「働ける男を奴隷として全部ニューギニア、ボルネオ等の開拓に使うのだ。女は黒人の妻にする。子供は去勢してしまう。かくして日本人の血を絶やしてしまえ。日本本土に上陸したら、虐殺コンクールをやろう。女は別である。女については自ら道がある。子供には奴隷としての教育を施すのだ」
こんな記事がルーズベルトによる日本処分案であるとして発表されていました。

<寇敵撃滅神州奉護の祈祷>
 全国16000人の神官神職に訓令が発布。
 米英に神罰を下すため、全国で一斉に祈祷を行うこと。
 ついに神頼みまでする事態に。非科学的の極み。これじゃあ、勝てるわけがない。

<1945年>
<無差別爆撃開始>
3月10日、カーチス・ルメイ将軍の指示により、都市部への無差別爆撃が本格化しました。
ルメイ将軍はこの作戦で英雄となり、ベトナムでも北爆を指示を出すことになります。まさに「死の将軍」です。
「人間が焼き鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼き鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。・・・」
坂口安吾「白痴」より
「戦争というものの恐ろしさの本質はそこにある。非人間的になっていることにぜんぜん気付かない。当然のことをいうが、戦争とは人が無残に虐殺されることである。焼き鳥のように焼け死ぬこと。何の落ち度もない、無この人が無残に殺され転がるだけのことである。・・・」
半藤一利

<特攻隊の悲劇>
 武器も弾薬も燃料も尽きた日本軍は、最後に「特攻作戦」という愚かで悲劇的な戦法を実行し、その最後を迎えることになります。
一人乗りの潜水艦(魚雷の方が近い)「回天特別攻撃隊」で亡くなった人は80人。
ロケット爆弾(実質は人間爆弾)「桜花」で亡くなったのは56名。
戦闘機による「特攻作戦」のため2483機が帰らぬ飛行に出発。そのうちで戦艦などに命中したのは244機のみ。
その成功率は、わずか16.5%でした。まさに犬死でした。

<戦争終結発言>
 6月22日、御前会議にて天皇陛下が初めて戦争終結について初めて言及しました。
「戦争を継続するのは当然であるが、また一面においては、戦争終結についても、この際いままでの観念にとらわれることなく、速やかに研究することもまた必要であると思う」
政府はソ連を仲介として工作を進めることを求めます。

<国民総兵士化>
 6月23日、「義勇兵役法」「戦時緊急措置法」が成立・施行。これにより、国民すべてが軍の指揮下に入りました。
 15歳から60歳の男子、17歳から40歳の女子、すべてが義勇兵として召集対象になりました。その数は2800万人。

<参考>
「B面昭和史 1926 - 1945」 2019年
(著)半藤一利
平凡社

トップページヘ