<沈黙からの復活、そして旅は続く(後編)>
- ボブ・ディラン Bob Dylan -

<ザ・バンドとボブ・ディラン>
 1965年、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演したディランは、今や伝説となったエレクトリック・バンドによる演奏を行い大ブーイングをあびました。ところがディランは、そんな状況に動じることなく、その後もホークス(後のザ・バンド)のメンバーをバックにツアーを行って行きます。そのツアーにおいても、やはり観客の多くはディランに批判的で、どこに行ってもブーイングの嵐だったようです。ついには、ホークスのリーダー格だったレボン・ヘルムも、ディランにアコースティックに戻すよう進言しますが受け入れられず、結局ひとりバンドを去ってしまいました。
 こうして、ビートルズが復活させたアメリカ生まれのロックン・ロールにディランは、シリアスな歌詞を乗せ、初めてメッセージをもつロックを歌い始めたのです。

「アメリカはビートルズの銅像を建てるべきだ。彼らはこの国にプライドをとりもどさせてくれた」
ボブ・ディラン

<トム・ウィルソンとボブ・ディラン>
 1965年ごろ「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」発表時、即興性の重視、ジャズのようなやり方を思案するようになる。とはいえそれまでの4作のアルバムは皆はぼボブの弾き語りだった。そこではボブは音楽的に伸縮自在だったわけで、そういうボブと渡り合っていくミュージシャンの即興性は否応なく重要になる。
 そこでプロデューサー、トム・ウィルソンの存在が重要になる。ウィルソンはもともとトランジェント・レーベルを主宰して、セシル・テイラーやサン・ラーのアルバムを手がけていたことで知られる。ジャズからプロデユーサー仕事を始めた人だった。だからこそ、ボブを手がけた後、フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インヴェンションやヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムを世に出せたのではないか、と想像させる。

 彼は「フリー・ホイーリン」録音中、ジョン・ハモンドがボブとうまくゆかなくなり、アルバート・グロスマンが代わりのプロデューサーとして、ウィルソンを抜擢した。こうして「フリー・ホイーリン」、「時代は変わる」、「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」を担当する。
 そして、彼は「ブリング・イット・オール・バック・ホーム」でのバンド・スタイルでの録音を任されることになります。

<セッション・バンドとボブ・ディラン>

 エレクトリック・ディランの本格的デビュー作とも言えるアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ ホーム Bringing It All Back Home」(1965年)は、わずか3日間で録音されました。彼のアルバムは彼自身が曲を準備さえしていれば、ほとんど数日で終わるのが普通だったようです。
 本番前のリハーサルはなし。曲についての説明や話し合いもなし。録音は一発録りで行われオーバー・ダビングもなしというのがほとんどでした。
 ディランがギターを弾きながら歌い出すと、バンドのリーダーはディランの左手の動きを見ながらコード・チェンジを判断し、他のメンバーに合図を送ります。こうして、バンドのメンバーは必死でディランの歌についていったのです。
 そして、この演奏方法はライブにおいても、ほぼ共通していました。彼のコンサートは、その日その日で曲目が違うだけでなく、演奏スタイルも違うし、歌詞も違えば曲の長さも違うという、究極の一発サウンド集だったのです。(もちろん、セット・リストはちゃんとあり、通常は1/3程度が変わっているようです)
 こう考えると、ザ・バンドのメンバーの能力がいかに高かったかを改めて思い知らされます。しかし、彼らはディランのツアーにおける裏方としてだけ活動していたわけではありませんでした。彼は一度は消えかかったディランの才能に再び火をつけるという重要な役割をも果たすことになります。
「ディランとリハーサルをする時は、よく耳を傾け、彼の指の動きを注意して見ていなければならない。それが最初で最後の録音かもしれないからね」
エリック・クラプトン

<隠遁者、ボブ・ディラン>
 1966年7月、ボブ・ディランは自宅近くの路上でバイク事故を起こし、長期間にわたる休暇生活に入ります。この事故は、どうやら当時言われていたような大事故ではなく、彼が音楽シーンから逃避するためのきっけだったのではないかと言われています。
 マネージャーであるアルバート・グロスマンに対する不信感と強行スケジュールによる世界ツアーの疲労、その合間を縫って行われたアルバムの制作のプレッシャー、そして何より彼を神格化しようとするマスコミ攻勢に対するいらだち、これらすべてから逃げるため、この事故はまたとない機会だったのかもしれません。彼はいくつかのイベントへの出演をのぞき、この後1974年までコンサート活動を行うことはありませんでした。

<ビッグ・ピンクとボブ・ディラン>
 彼はウッド・ストックに家を建て、サラ・ラウンズと結婚、子供たちを育てながら隠遁者のような生活を送り始めます。(一時期のジョン・レノンを思い出させます)そして、この時期彼と同じようにウッドストックに住み着いたザ・バンドのメンバーとの本格的な交流が始まります。
 かつて、ロニー・ホーキンスというブルース・ロック系ヴォーカリストのバック・バンド、ザ・ホークスとして4年近いツアーを続けていたザ・バンドは、厳しい条件の中で筋金入りのツアー・バンドに成長していました。しかし、彼らは優れたテクニックを持っているだけではなく、それぞれが深い音楽的知識をもつ優れたアーティストたちの集合体でもありました。
 ザ・バンドのメンバーたちが住み着いた通称「ビッグ・ピンク」と呼ばれる借家の地下に造られた手作りのスタジオを訪れたディランは、そこでバンドのメンバーとセッションを行うようになります。そして、この時に録音されたテープがいつの間にか海賊版として出回るようになり、その評価の高まりとともにザ・バンドもまたディラン同様カリスマ的な人気を、もつようになって行きました。そして、これをきっかけとして、彼らはついに念願だった単独でのデビューを果たし、アルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク Music From Big Pink」(1967年)を発売することになったのです。

<海賊版とボブ・ディラン>
 ボブ・ディランほど海賊版が多いアーティストは他にいないと言われるほど、彼の海賊版は数多く世に出回っています。それは、彼が録音の際、テープを回し続けて次々に録音を行い、その量がいつしか膨大なものになっていたからかもしれません。あのロイヤル・アルバータ・ホールでのライブも長い間、海賊版として出回っていたものでした。そして、ザ・バンドとのセッションを収めたテープもまたいつの間にか海賊版として世に出回っていたのですが、これはその後1975年にアルバム「地下室(ザ・ベースメント・テープス)」として、正式に発売されることになります。

<ナッシュビルとボブ・ディラン>
 ザ・バンドとのセッションの後、活動を再開したディランはカントリーの聖地ナッシュビルでニュー・アルバムの録音を開始します。前作の「ブロンド・オン・ブロンド Blond On Blond」(1966年)でもカントリー・ロック誕生の先駆けとしてナッシュビルでの録音を行っていたディランは、多くのアーティストたちがサイケデリックな新しいサウンドへと向かっていたこの時期、あえて保守的な過去の音楽と思われていたカントリーの世界へと戻ったのです。(唯一バーズのグラム・パーソンズがカントリー・ロックへの接近を試みていましたが・・・)
 西部開拓時代のの無法者の名前からとられたアルバム「ジョン・ウェズリー・ハーディング John Wesley Harding」は、同じナッシュビルで録音されながらも、前作「ブロンド・オン・ブロンド」とは大きく異なり聖書がひとつのテーマとして初めて浮上してきています。この方向性は、70年代後半になるとさらにはっきりしてきて、多くのファンが彼のもとを離れるきっかけともなってゆきます。
 1969年「ナッシュビル・スカイライン Nashville Skyline」、1970年「セルフ・ポートレイト Self Portraite」、「新しい夜明け New Morning」、1971年「グレイテスト・ヒッツ第2章」を発表した後、彼はライブも行わず、オリジナル・アルバムも発表しない沈黙が続きます。

<サラ・ディランとボブ・ディラン>
 ディランの復活は、ザ・バンドとともに始めたコンサート・ツアーから始まりました。このツアーが好評だったことにより、同じ時期に発売した久々のオリジナル・アルバム「プラネット・ウェイブ Planet Waves」はディラン自身初の全米ナンバー1になりました。(この時のライブを収めたアルバムが、1974年発売の「偉大なる復活 Before the Flood」です。これもまた名盤です)
 再びディランにはエネルギーが満ちあふれ、1975年次なる傑作アルバム「血の轍 Blood On The Tracks」を発表します。この作品は、当時離婚寸前の状態にあったサラ・ディランとの心の葛藤から生まれたと言われていますが、そんな苦しみの中から生まれたにも関わらず、このアルバムは彼にとって70年代を代表する傑作と呼ばれることになりました。

<ハリケーンとボブ・ディラン>
 翌年発表のアルバム「欲望 Desire」もまた素晴らしい作品でした。殺人犯として留置されていた黒人プロボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターを救済するために作られた曲「ハリケーン」は、彼にとって久々のシングル・ヒットとなりました。そして、その勢いに乗り、新たなライブ・ツアー「ローリング・サンダー・レビュー」が始まったのです。
<ローリング・サンダー・レビューとボブ・ディラン>
 ローリング・サンダー・レビューは、コンサート・ツアーというよりは一つの大がかりなショーと呼ぶべきものでした。主役はもちろんボブ・ディランですが、その他ロジャー・マッギン、ジョーン・バエズ、T・ボーン・バーネット、ロニー・ブレイクリー、アレン・ギンズバーグ、ロバータ・フラック、ジョニ・ミッチェルらがゲストとして出演。彼はこのツアーでも素晴らしいライブ・パフォーマンスを披露、していますが、さらに、このツアーを元に、ドキュメンタリーともちょっと違う奇妙な映画「レナルド&クララ」をディラン自身が製作するなど、エネルギーに満ちていました。(この時のライブ・パフォーマンスが2002年「Bob Dylan Live 1975,The Rolling Thunder Revue」として発売されました。これは、凄く良いみたいです)

<苦悩の日々とボブ・ディラン>
 
しかし、そのツアーも後半に入ると、しだいにそのテンションは下がり始めてゆきました。毎回4時間に渡る長いコンサートは、しだいにメンバーの体力、精神力を消耗させてゆき、そのためにバンドのメンバーはコカインなどの薬物を使用するようになってゆきました。長年の友人だったフィル・オクスの自殺や妻サラとの離婚問題により、しだいに彼はやる気を失って行きます。高いテンションの後、ディランには再び沈黙の時が訪れようとしていました。
 しかし、彼には以前のように活動を停止する余裕がなくなっていました。サラとの離婚訴訟、アルバート・グロスマンとの法廷闘争はともに膨大な弁護士費用を必要としており、その資金を生み出すには印税収入だけでは到底足りなかったのです。そのうえ、キリスト教の要素が強まった新しいアルバムの売れ行きは、ぱっとせず、彼の収入は減る一方だったのです。彼にとって、唯一の解決法は、ツアーに出て現金を稼ぐことでした。こうして、1978年彼は日本も含むワールド・ツアーへと出発することになりました。

<1980年代のボブ・ディラン>
 ワールド・ツアーの後、彼は休むことなくアルバム制作に望みます。
スロー・トレイン・カミング Slow Train Coming」(1979年)、「セイブド Saved」(1980年)、
ショット・オブ・ラブ Shot Of Love」(1981年)、「インフィデル Infidels」(1983年)、
エンパイアー・バーレスク Empire Burlesque」(1984年)そして、LP5枚組の大作となった貴重な未発表曲も含めたベスト・アルバム「バイオグラフ Biograph」(1985年)
ノック・アウト・ローデッド Knock Out Loaded」(1986年)、「ダウン・イン・ザ・グルーブ Down In The Groove」(1988年)、「ディラン&ザ・デッド Dylan & The Dead」(1989年)
 次々と彼はアルバムを発表し続けましたが、高い評価を得て、なおかつ売れたのは皮肉なことに過去の曲の集大成作の「バイオグラフ」とロイ・オービソンらの仲間たちとともにお遊びとして作った「トラベリング・ウェルベリーズ Vol.1」(1988年)ぐらいでした。
(ボックス・セットの元祖、「バイオグラフ」)
 彼のインタビューに基づく伝記や彼自身によるライナーなど、それまでになかったファン重視の内容が盛り沢山のこのセットは当時まだ珍しい企画でした。この作品のヒットにより、この後数多くのアーティストたちはこのボックス・セットをマネする事になります。

<助っ人たちとボブ・ディラン>
 この頃、アイデア不足に悩んでいた彼は、多くの助っ人たちの助けを得るようになります。デビュー当時「ニュー・ウェーブ界のボブ・ディラン」と呼ばれたダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーは、「スロー・トレイン・カミング」に本格参加。その他にも、トム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズが、ディランのツアー・バンドを勤めたり、ブルース・スプリングスティーンのバック・バンド、Eストリート・バンドが録音に参加したり、スライ・ダンバー&ロビー・シェイクスピアのレゲエ界最大のリズム・コンビが加わったりしました。それ以外にも、サンタナがディランとともにツアーを行ったり、グレイトフル・デッドが参加したこともありました。それは、ボブ・ディラン単独でのライブでは集客が困難になっていたためでもありました。
 この頃、彼はかなり自身を失っていたようで、グレイトフル・デッドとのツアー中にデッドのメンバーに加えて欲しいと申し入れた事があったといいます。するとデッドのメンバーは真剣にその対応を考え、投票まで行ったそうです。もしこの時、メンバーが全員一致で賛成していたら、音楽界からボブ・ディランが消えてしまうところだったのです。これは、嘘のような本当の話です。

<ネバー・エンディング・ツアー開始>
 1989年発売のアルバム「オー・マーシー Oh Mercy」は、ダニエル・ラノアをプロデューサーに迎えたことでスランプを脱しつつある作品でしたが、やはり売れ行きは今ひとつでした。1990年には、当時売れっ子だったウォズ兄弟をプロデューサーに迎えアルバム「アンダー・ザ・レッド・スカイ Under The Red Sky」を発表。しかし、これもまた売上にはつながらず、これ以後7年間彼はオリジナル・アルバムを発表しなくなります。
 そんな状況の中、彼は「ネバー・エンディング・ツアー」と銘打つコンサート・ツアーを開始します。これは、二人目の妻との離婚問題や音楽的なインスピレーションの不足に悩む彼にとって、ある種逃避の場となっていたのかもしれません。
 1992年1年間に彼は通算105回のコンサートを行っています。3日に一度は世界のどこかで歌っていたことになります。それ以後も、彼は年間100回近いペースでツアーをこなし続けています。

<復活の兆し>
 もし、このまま彼がツアーに身を捧げる人生を送ったとしても、それはそれで幸福だったのかもしれませんが、彼はやはり天才でした。彼は見事復活をとげたのです。その兆しは、1990年代に発表された2枚のアルバム「Good As I Been Too You」(1991年)「奇妙な世界 World Gone Wrong」(1993年)に現れていました。
 この2作品は、ディランが昔から愛していたトラッド・ナンバーの数々を現代版として甦らせたカバー集で売れ行きは今ひとつだったものの、高い評価を得ていました。

<偉大なる復活>
 1997年ディランは「Oh Mercy」以来、久しぶりにダニエル・ラノワとコンビを組み、マイアミの古びた建物にあるクリテリア・スタジオで7年ぶりのオリジナル・アルバムを録音しました。
 このアルバム「タイム・アウト・オブ・マインド Time Out of Mind」は、けっしてポップではないブルースっぽいフォーク・ロック・ナンバーにかつての名作「血の轍」をさらに深めた重い歌詞を乗せ、ダニエル・ラノアが生み出したロー・ファイ・サウンド空間で録音した古くて新しい作品集となっていました。この作品で彼は初めてグラミー賞を受賞。再び、ロック界の頂点に返り咲きました。しかし、彼はその成功の後も止まることはなく、すぐにツアーを開始します。1998年には、「タイム・アウト・オブ・マインド」を引っさげて、103回ものコンサートを行っています。

<終わり無き旅の始まり>
 妻と別れ、子供たちは大人になって離れて行き、J.ガルシア、ダグ・ザーム、リック・ダンコ、リチャード・マニエルらの数少ない友人たちは、この世を去り、アルバート・グロスマンだけでなく、かつては親友だったツアー・マネージャーからも訴訟を起こされてしまった孤独な男、ボブ・ディラン。
 21世紀に入っても、彼は相変わらずコンサート・ツアーを続けています。私生活を隠し続けたカリスマ・ヒーローは、自らその私生活を消してしまったのかのようにコンサートに人生を費やしています。
 私生活を失った天才は、それでも決して寂しげな顔などせず、今日もまた世界のどこかで観客にあの突き刺すような鋭い視線を向けつつ歌っているに違いありません。

<締めのお言葉>
どんな気がする         How does it feel
どんな気がする         How does it feel
ひとりぼっちで          To be on you own
帰り道のないことは       with no direction home
ぜんぜん知られぬ       Like a complete Unknown
落伍者であるということは   Like a complete Unknown


<追記>2014年9月
・・・どのように歌えるか、それまでの歌唱法以外の唱法を自分に問い続けている。自著に朱筆を入れ続ける作家、詩人と同様、音楽には改訂の余地が無限にあるというのだ。作者自らが決定稿を認めない。むしろ音楽は日々変容することが健全だとディランを聴いているといつも思う。ひとつの世界/物語の結末を変えることも厭わないだろう、ディランなら。

 創作上、活動上の欲望は歌うこと以外の何物にも向けられていないのではないか、と思う。音楽に何にができないのか、という問いに不遜にでも皮肉を込めてでもなく、「何もできない」と答えて納得のいく唯一ひとりの男、それが今のボブ・ディランである。「何もできない。だから歌うのだ」と歌で答え続けているからである。

湯浅学「音楽が降ってくる」

<ノーベル文学賞受賞>
 2016年ノーベル文学賞受賞!そして、まだまだ彼の旅は続きます!
21世紀のボブ・ディラン 

<参考資料>
「ダウン・ザ・ハイウェイ Down The Highway」ハワード・スーンズ著
アルバム「バイオグラフ」資料など
関連ページ 1965年「追憶のハイウェイ」 映画「ドント・ルック・バック」 ザ・バンド
映画「ビリー・ザ・キッド21才の生涯」 映画「ノー・ディテクション・ホーム」 「ボブ・ディランの21世紀」
 

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