<フォーク・アイドルからロック・ヒーローへ(前編)>
- ボブ・ディラン Bob Dylan -

<ボブ・ディランの真実>
 ボブ・ディランの曲を聴くのに、彼の人物像を知る必要はないのかもしれません。というより、知らない方がよいのかもしれません。そのことを最も意識しているであろう本人は、デビュー当時から今に至るまで、そのプライベートをほぼ完璧に隠してきました。
 もし、それでも彼の人間性を知りたければ、2003年発売の「ダウン・ザ・ハイウェイ -ボブ・ディランの生涯 -」を読んでみて下さい。本人の協力をまったく得ていないにもかかわらず、よくぞまあというくらい彼の本質に迫っています。しかし、それでもなお彼自身による裏付けがない限り、どこまでが真実なのか、その答えはまさに「風の中」でしょう。もしかすると彼自身、真実を語る自信はないかもしれません。
 
「僕は自分がボブ・ディランだとは考えない。ランボーが『私は他者である』と言ったようにね」 ボブ・ディラン

<ヒビングの街とボブ・ディラン>
 ボブ・ディランこと、ロバート・ジママンが生まれたのは、1941年5月25日のこと。彼の故郷ミネソタ州のヒビングはアメリカ中西部の鉄鉱の街で、アメリカの経済発展とともに成長した典型的な地方都市でした。彼の父親は、その街で電気技師として働き、彼と弟を育てました。
 そんなロバート少年には、本名以外にもうひとつシャブタイ・ベン・アブラハムという名前がありました。それはユダヤ教徒がもつ宗教的な名前で、彼の家は当時その街では珍しいユダヤ系の一族だったのです。

<宗教とボブ・ディラン>
 彼の祖父はロシアにおけるユダヤ人迫害を逃れてアメリカに移民してきた人物で、当然彼もユダヤ教徒として育てられ、後にイスラエルを訪れるなどユダヤ教徒としての生活を続けています。しかし、1970年代の終わり以降、彼は熱心なクリスチャンになり、コンサートの前には今でもバンドのメンバーたちと祈りの時を欠かさないといいます。
 改めて彼の曲の歌詞をみてみると、宗教との関わりぬきに語ることができないほど、そこには聖書からの引用が多いことに気づかされます。彼の歌をより深く理解するには聖書について学ぶ必要があるのかもしれません。(ディランの曲の歌詞こそが聖書なのだと考えている人もいるようですが・・・)

<バディー・ホリーとボブ・ディラン>
 田舎町で育った彼と音楽の出会いは、他のアメリカの多くの若者たちとそう変わらないものでした。先ずはハンク・ウィリアムスやジミー・リードなど、カントリー音楽を聞くことから始まり、その後ロックン・ロールへとその好みは変わってゆきました。多くの人は、ボブ・ディラン=フォークの神様であり、ウディー・ガスリーのようにギター一本を持って放浪しながら青春時代を過ごしたと思っているのかもしれません。しかし、彼は高校時代に仲間たちとロックン・ロール・バンドをつくり、リトル・リチャードエルヴィス・プレスリーバディー・ホリーらの曲を演奏することから音楽活動をスタートさせているのです。
 特にバディー・ホリーについては、ちょっとした逸話があります。彼はバディー・ホリーのライブを見たことがあったのですが、その時ステージ上のバディーと目があった瞬間があり、その瞬間、彼と意志が通じ合ったというのです。そのコンサートの2日後にバディーは飛行機事故でこの世を去っているのですから、この出来事は彼にとってかなり大きな意味をもったのでしょう。(ただし、この話しはディランが得意とする、ある種のイメージ戦略的逸話のような気もしますが、・・・)

ウディー・ガスリーとボブ・ディラン>
 「フォークの神様」という彼に対するイメージがあまりに大きいため誤解されがちですが、後に彼がエレキ・ギターを持ってブルース・ロックのミュージシャンへと変身したことは、実に当然の流れだったのかもしれません。もしかすると、彼がフォーク・ミュージシャンであったことの方が不思議なのかも知れないのです。
 とは言え、彼が最も影響を受けたアーティストは、やはり元祖プロテスト・フォーク・シンガーであり、放浪の吟遊詩人でもあったウディー・ガスリーに間違いないでしょう。彼に憧れていたディランは、ニューヨークに到着するとすぐにガスリーの元に押し掛けました。当時彼はハンチントン舞踏病という不治の病に冒され病状はかなり悪化していたため、どこまで彼がディランと意志が通じ合っていたのかは、どうやらはっきりしないようです。しかし、彼の息子のアーロ・ガスリーや奥さんに気に入られたことは確かであり、その後の彼の歌がウディーの歌い方とそっくりになり、歌詞のもつ社会性が増していったこともまた確かです。(実は、ウディーの歌い方も、かつて彼がいっしょに旅をした汽車で旅をする放浪者、ホーボーの人々のしゃべり方から大きな影響を受けていたのですが・・・)
 今に至るその後の彼の生き方を見ても、彼は「放浪の歌い手」ウディー・ガスリーの生き方を目指し続けているように思えます。

<グリニッチビレッジとボブ・ディラン>
 結局、彼は大学を中退しミュージシャンになる道を選びます。そして、一人ヒビングの街を旅立つとニューヨークの街に向かい、フォーク・ミュージシャンたちが集まる学生街、グリニッチビレッジ周辺のコーヒー・ハウスを舞台に歌い始めました。そこで彼は10ヶ月間着の身着のままの暮らしをしながらも少しずつファンを増やし、人脈を築いて行きました。彼はけっしてハンサムではないし、口が上手かったわけでもなかったにも関わらず、なぜか女性にもて、常に誰かが彼の生活のめんどうを見てくれていたといいます。(彼はいっさい音楽以外の仕事をしませんでした)

<アルバート・グロスマンとボブ・ディラン>
 1961年、ついにディランはコロンビアのA&R担当重役ジョン・ハモンドに気に入られ、契約にこぎ着けます。デビュー・アルバム「ボブ・ディラン」(1962年)は、さっぱり売れなかったのですが、このアルバムを聴いたある男が、ディランに接近を試みます。それが、後にロック界を代表する凄腕マネージャーとして一世を風靡することになるアルバート・グロスマンでした。
 ディランと同じロシア系ユダヤ人の家庭に育ったグロスマンは、経済学の学位をもつ秀才でしたが、シカゴの住宅局で働いていた頃に違法行為を行って首になったことのあるかなり怪しげな人物でした。しかし、商業的なセンスにかけては超一流の男と芸術的なセンスは一流でも社会生活に関しては二流のディランがタッグを組んだことで、いよいよ新たな時代の幕が切って落とされることになったのです。

<ディラン・トーマスとボブ・ディラン>
 当時、彼が体験していた旅らしい旅は、ケルアックの「路上」をまねたデンバーへの一人旅ぐらいでしたが、多くの人々が彼のことを十代から孤独な旅を続けている「放浪のシンガー」であると信じていました。このイメージは、どうやらディラン自身によって作り上げられたもののようです。彼は、そんなイメージづけのために自分の過去とプライベートを徹底的に隠し続けます。そして、この生き方は彼のカリスマ性をどんどん高めて行くことになるのです。
 そんな彼のイメージづけを象徴しているのが実は彼の名前です。アメリカ中を旅してまわりながら数多くの優れた詩を作ったウェールズ出身の詩人、ディラン・トーマス。アルコール中毒に苦しみ、1953年に39歳という若さでこの世を去ったカリスマ詩人に憧れていたディランは、彼の名をもらいボブ・ディランと名乗るようになったのでした。(後に正式にボブ・ディランと改名しています)

ビートニクとボブ・ディラン>
 しばらく後、彼は何人かの仲間たちと車によるアメリカ横断の旅に出ています。これは彼にとって重要なインスピレーションの源、ビート世代のヒーロー、ジャック・ケルアックの旅を追体験するものでした。しかし、その頃の彼にはすでにお金があったため、運転手付きの旅なだけでなく行く先々の街の郵便局にはマリファナが先に送られてるなど、「路上」の世界とは大違いの大名旅行だったのですが・・・。
 その後、彼はジャック・ケルアックの盟友アレン・ギンズバーグと親しくなりお互いに影響を与えあうようになります。(それどころか、アレンは一時ボブの取り巻きの一人となり、ライブでゲストとして詩の朗読を行うこともありました)彼は、まさにビート文化の直接の継承者でもあったのです。

<激動の時代とボブ・ディラン>
 こうして、人種のるつぼであり文化の発信地だったグリニッチビレッジでの生活は、ディランにデビューのチャンスを与えてくれただけでなく、「フォークの歴史」や「ビート文化」などを一気に学ばせてくれたわけですが、彼を音楽界の表舞台へと登場させたのは「時代」の劇的な変化だったと言えるでしょう。
 そのきっかけは、1963年のアルバム「フリー・ホイーリン・ボブ・ディラン」から「風に吹かれて」がピーター、ポール&マリー、スティービー・ワンダーのカバーによって大ヒットしたことでした。この曲の他にも、戦争を食い物にする人間たちに対する強烈な批判の歌「戦争の親玉」や核戦争の問題を取り上げた「激しい雨が降る」のようなプロテスト・ソングが収められたこのアルバムは、ディラン自身にとっての傑作であるだけでなく激動の60年代を象徴する作品となったのでした。こうして、彼が見事に社会情勢をとらえたことで、世界の目は彼に注がれることになったのです。

<感情移入の天才、ボブ・ディラン>
 「英雄、色を好む」という言葉は、音楽の世界でもかなり有効ですが、ディランとマイルスほどピッタリくる英雄も珍しいかもしれません。そのうえ彼はそんな女性たちとの思い出を数多くの曲として残しています。もちろん、そんな彼お得意の人間関係からの曲作りは、女性関係に限ったことではありません。それは彼が持つあらゆる種類の人に偏見無く感情移入できる優れた能力によるもので、誰にもマネできることではなかったのです。
 彼にはアレン・ギンズバーグやフレッド・ニールなど、数多くのゲイの友人がいました。それに黒人ミュージシャンともすぐに仲良くなり、ジョン・リー・フッカーらの主のブルースマンたちにも気に入られていたといいます。

<女性たちとボブ・ディラン>
 「フリー・ホイーリン・ボブ・ディラン」のジャケット写真にも登場しているスージー・ロトロに捧げた「くよくよするなよ」、学生時代の恋人エコ・ヘルストレムもしくはボニー・ビーチャーをイメージして書かれたと言われている「北国の少女」、最初の妻サラ・ラウンズのために書かれた「サラ」は、本人の前で録音が行われ一度は離婚の危機を救ったと言われています。彼を自らのステージに上げ、スターへの道を手助けしてくれただけでなく、長きに渡り恋の相手でもあったジョーン・バエズのために書かれた「ローランドの悲しい目の乙女」(ただし、サラ・ラウンズのための曲という説もあり)。「女の如く」「ひょう皮のふちなし帽」もまた別の恋人、イーディ・セジウィックに捧げられた曲と言われています。ついでながら「ミスター・タンブリンマン」は、大きなタンブリンを持ち歩いていたシンガー、ブルース・ラングホーンのことを歌った曲で、それにフェリーニの「道」のイメージが加わってできたものでした。

<ウッドストックとボブ・ディラン>
 1902年、アーツ&クラフツ運動を指導していたイギリスの社会思想家、ジョン・ラスキンの影響を受けた人々がニューヨーク近郊の森の中に自分たちの理想郷を目指して街を作りました。そこは、後にヒッピーたちがアメリカ中につくることになるコミューンの元祖とも言える存在でしたが、1960年代後半になるとそこには芸術家やニューヨークの喧噪を嫌う金持ちたちが移り住む特殊な場所となっていました。
 ディランのマネージャー、アルバート・グロスマンはそんなウッドストックに家を購入し、ディランはそこに居候するかたちで住み始めます。しかし、すぐにこの街が気に入った彼は、ここに家を建てて住み着くことになります。こうして、彼はウッドストックの住人となり、そこで結婚、子育てと良き父親としてのプライベートな一時を過ごすことになります。

<1965年、運命のニューポート・フォーク・フェスティバル>そして後半へ

<中締めのお言葉>
「世に出ようとしているソング・ライターやシンガーに言いたいのだが、今流行しているものはすべて無視し、忘れるようにした方がいい。ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ロバート・ジョンソンやウディー・ガスリーを聞いた方がよっぽどいい。・・・」

ボブ・ディラン

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