- ボブ・マーリー Bob Marley -

<第三世界が生んだ20世紀最大のポップ・ヒーロー>
 1979年4月10日火曜日6時30分、僕は中野サンプラザの前から13番目の席に座り、レゲエのスーパー・スター、ボブ・マーリーの登場を待っていました。
 チケットの発売日、良い席をとろうとオープンと同時に発券売場に向かうと、そこにはすでに長い行列ができていました。しまった、と思いながら、自分の順番を待っていると意外なことに前から13番目という良い席がとれました。その日の行列は、実はジェフ・ベックのチケットのためのものだったようです。この当時は、まだレゲエの人気は一部のマニア止まりでしたし、チケット・ピアもなかっただけに並べばチケットを入手できる良い時代だったのです。
 こうして、かぶりつきで見たボブ・マーリーのコンサートは、後に大きな影響を僕に与えてくれることになるのですが、正直言ってその当時の僕にとっては、それほど衝撃的なコンサートだったとは思えませんでした。ただ、それまで見てきたロックのコンサートとはまったく異なる不思議な雰囲気が僕の心にしっかりと残り、その後20年、僕はその体験の意味を解きほぐし続けることになります。

<追記>(2012年10月)
 2012年、雑誌「レコードコレクターズ」の記事でボブ・マーリーを日本に呼んだ方のインタビューが載っていました。それによると、当時、来日アーティストは過去の犯罪歴については厳しくチェックされましたが逆に逮捕歴さえなければ、ほとんど手荷物もノーチェックで入国できたそうです。そのため、彼の入国時、手荷物には大量の大麻があったらしいのですが、そのまま入国できてしまったそうです。当然、ステージ裏では大量の大麻が吸われていたのでしょう。どうりで、ライブ中、ステージ近辺は独特の香りに満ちていました。大麻など知らなかった僕には外国製のタバコかと思えましたが、・・・。(後にインドネシアのバリ島に行った時、僕は再び同じ香りに出会うことになります)
 もちろん観客の中には自ら持ち込んだ方もいたはず。ステージ下でも、観客の中にはハイになっていた方がいましたから。当時は会場内に入るのになんのチェックもありませんでしたから、まさか大麻チェックなんてあるわけないし・・・。もちろん当時小樽から出てきたばかりの学生だった僕にはそんなことわかるわけはなかったのですが、今思えば、すっかりハイになってステージの下で踊る人々もいました。
 あの日の会場の雰囲気は、僕が知っているロック・コンサートのそれとはまったく違うものでした。それは、僕にとって初のエスニック音楽体験でしたが、その価値がどれだけのものかを僕はまだ理解できず、ただただ「いったいこれは何だ?」と驚くばかりだっとことを今でも覚えています。

 ビートルズにも、ウッドストックにも遅れてしまった世代の僕にとって、ボブ・マーリーの存在は他のどのアーティストよりも大きなものです。そして、そのことは世界中、特に第三世界を中心に広がる彼のファンの多くにも当てはまるでしょう。少なくともアフリカ大陸においては、ビートルズよりも、ボブ・ディランよりも、文句なしにボブ・マーリーなのです。第三世界が生んだ20世紀最大のポップ・ヒーローは、間違いなくボブ・マーリーだと言ってよいでしょう。

<ボブ・マーリー誕生>
 ボブ・マーリー(本名ロバート・ネスタ・マーリー)は、1945年2月6日ジャマイカ北部海岸沿いの小さな村、ナイン・マイルズで生まれました。
 彼の父親ノーヴァル・マーリーは、ジャマイカ駐屯のイギリス軍大尉でもちろん白人ですが、母親は地元ジャマイカの黒人でした。白人と黒人との混血であり、支配者と被支配者との間に生まれた子供という彼の境遇は、彼を苦しめたと同時に、その壁を越えさせる運命を彼に与えました。
 彼がジャマイカという小さな島国を飛び出し世界を駆けめぐることになるのも、彼の生み出したレゲエが世界中へと広がって行くのも、すべてはこの彼の生い立ちから始まったと言ってよいでしょう。

「ボブ、歌い始めたきっかけは?」
「始まりは・・・嘆きさ。そう嘆きから始まったんだ」

スティーブン・デイビス著「ボブ・マーリー、レゲエの伝説」より

<トレンチタウンからの出発>
 ボブの父親は1955年にキングストンで死亡し、彼は母親とともにキングストンのスラム街、トレンチタウンで暮らし始めます。歌手として生活費を稼ごうと、ボブはタレント・ショーに出ますが、その頃バーニー・ウェイラー(本名ネヴィル・オライリー・リヴィングストン、1947年4月10日キングストン生まれ)と知り合います。二人は、ジョー・ヒッグスの指導のもと、コーラスの練習を始めます。(後に、ウェーラーズとして活躍することになってから、バーニーがコンサート・ツアーをボイコットした際、その穴を埋めることになったのが、彼でした)同じく学生時代に知り合ったピーター・トッシュ(ウィンストン・ハバート・マッキントッシュ、1944年10月19日ウェストモーランド生まれ)が加わり、彼らはコーラス・トリオとして活動を開始します。しかし、1962年にシングル・デビューを果たすものの、まったく売れませんでした。

<ザ・ウェイラーズ誕生>
 1963年彼らはジャマイカを代表するスタジオ「スタジオ・ワン」のコクソン・ドッドに認められ、スカのナンバー1バンド、スカタライツをバックにシングル「シマー・ダウン」を録音、ザ・ウェイリング・ウェイラーズとして発売、大ヒットを記録します。
 その後、数人のメンバーを加えて、ザ・ソウレッツを結成しますが、結局元の3人に戻り、「ザ・ウェイラーズ」として活動して行くことになります。そしてこの頃、ボブはラスタファリニズムの長老、マーティモ・プランナーに弟子入りし、ジャマイカが生んだ偉大な思想家マーカス・ガーヴェイから始まったラスタファリニズムに入信します。そして、ザ・ウェイラーズは、ヘアー・スタイルをドレッド・ロックスにした最初のグループとなります。

<ザ・ウェイラーズの完成>
 1969年、ジャマイカの大物プロデューサー、リー・ペリーがザ・ウェイラーズのプロデュースをするようになります。彼はウェイラーズのバックにバレット兄弟(ドラムのカールトン・バレット Carlton Barrettとベース・ギターのアストン・バレット Aston Barett)を中心とするお抱えのバンド、ジ・アップセッターズ The Upsettersを抜擢し、彼らに強力なリズム隊という武器を与えました。1971年、さらにそこにタイロン・ダウニー Tyrone Downieという強力なキーボード奏者が加わり、オリジナルのウェイラーズが完成しました。

<ザ・ウェイラーズ、世界デビュー>
 ザ・ウェイラーズは、イギリスに渡り、「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ I Can See Clearly Now」のヒットで有名なジョニー・ナッシュ Johnny Nashのバックとしてロンドンで録音に参加。そこで彼らはジャマイカ出身のアイランド・レーベル社長クリス・ブラックウェルと知り合い、正式に契約を交わします。
 当時世界進出を目指していたアイランド・レーベルは、ウェイラーズをレゲエ・ブームの切り札とするべく社運をかけてプッシュすることになり、彼らの世界デビュー・アルバム「キャッチ・ア・ファイヤー Catch A Fire」(1972年)が発表されました。

<レゲエ元年>
 この1972年という年は、レゲエの世界進出元年とも言える年でした。ジミー・クリフが主演したレゲエの伝説的映画「ハーダー・ゼイ・カム Harder They Come」が、この年に公開され、サントラ盤が世界的に大ヒットします。さらに、サイモン&ガーファンクルを解散したばかりのポール・サイモンが、ジャマイカでレゲエ・ナンバー「母と子の絆」を録音、世界中で大ヒットとなりました。この曲は白人によるレゲエ・ヒット第一号ということになります。

<バビロンへの出発>
 1973年、彼らはイギリス・ツアーを開始します。すでに彼らの人気は、イギリス在住のジャマイカ系黒人層を中心に白人層にまで広がりをみせ始めていました。そして、彼らは初めてのアメリカン・ツアーに出発し、そこでブルース・スプリングスティーンスライ&ザ・ファミリー・ストーンの前座を務めます。

<バーニー、ピーターの脱退>
 しかし、厳しいスケジュールのツアーが続くうちに、オリジナル・メンバーのバーニー・ウェラーは、突然アメリカン・ツアーをボイコットし、その後すぐにバンドを去ってしまいます。そのため、この年発売のアルバム「バーニン Burnin'」はオリジナル・ウェイラーズ最後のアルバムとなり、1974年ジャマイカで行われたマーヴィン・ゲイ・コンサートの前座が彼ら3人にとってのラスト・ライブとなりました。

<隠遁者バーニー・ウェラーと悲劇のピーター・トッシュ>
 バーニー・ウェラー、彼ほど「バビロン的」都会文明を嫌ったレゲエ・アーティストも珍しく、この後彼はジャマイカの田舎にこもり隠遁生活を送るようになります。しかし、音楽活動をやめたわけではなく、たまに街に降りてきてはアルバムを録音し、着実に素晴らしい作品を世に送り続けます。
 それに対し、長身の伊達男だったピーターは、その後ストーンズのキース・リチャーズなどロック系のミュージシャンたちの作品に参加するなど、活発に活動を続け、核兵器の廃絶を訴える作品を発表したりして、ボブの意志を継ぐようなメッセージ性の高い作品を発表しました。しかし、1987年9月11日キングストンの自宅で暴漢に撃たれ、悲劇の死を遂げてしまいました。(享年42歳でした)

<ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ>
 バーニーとピーターが抜けたバンドは、この後ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして活動することになり、1975年リタ・マーリー(ボブの奥さん)、ジュディー・モワット、マーシャ・グリフィスからなるアイ・スリーズがコーラス隊として加わることになりました。
 そして、この年ロンドンで行われたライブの模様が録音され、発売されたのが彼の評価を決定づけた傑作アルバム「ライブ! Live!」です。続けてスタジオ盤の「ナッティー・ドレッド」が発売され、いよいよ彼の人気は高まります。さらに、だめ押しとなったのが、エリック・クラプトンがボブの曲をカバーした大ヒット曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」でした。

<ボブ・マーリー狙撃事件>
 アルバム「ラスタマン・ヴァイブレーション Rastaman Vibration」を発表した1976年の12月3日、ボブは自宅で5人組の狙撃者たちに撃たれます。その2日後、彼はフリー・コンサートに出演することになっており、そのコンサートはジャマイカを二分する野党(JLP)の支援コンサートであったため、与党(PNP)の新派が企てた暗殺計画だったと言われています。
 ボブは頭と左肩を撃たれ、マネージャーのドン・テイラーも両足を撃たれましたが、彼は怪我をおして2日後のステージに立ちました。しかし、あまりにも愚かで危険な国ジャマイカに嫌気がさし、ボブはバハマ、イギリス、アメリカへと移り住む亡命生活に入ります。(この後12月15日に行われた総選挙では、与党(PNP)が勝利し、マイケル・マンリーが首相の座につきます)

<死への旅の始まり>
 1977年ロンドンに移り住んだボブは、音楽活動に専念、アルバム「エクソダス Exodus」を発表します。しかし、ボブはヨーロッパ・ツアー中に足を怪我し、それが悪化、アメリカン・ツアーをキャンセルし、マイアミで手術を受けることになります。そして、この腫瘍が後に身体中に転移し、彼の早すぎる死の原因となります。
 1978年、彼はまるで自分の死を予見していたかのような安らかさに満ちたアルバム「カヤ Kaya」を発表し、久しぶりに故郷のジャマイカに戻ります。それは、4月21日に行われようとしていたワン・ラブ・ピース・コンサートへの出演が目的でした。
 このコンサートにおいて、ボブはジャマイカの政界を二分する政党の党首マイケル・マンリー(PNO)とエドワード・シーガー(JLP)を舞台に上げ、数万人の群衆の前で握手をさせました。このシーンは、非暴力それも音楽によって平和を築いた20世紀を代表する素晴らしい場面として、今や伝説となっています。

<心の故郷、アフリカの地へ>
 1979年、ボブは最初で最後の来日コンサートを行います。その後、ボストンで行われた南アフリカ、ジンバブエ、ナミビアのためのコンサートに出演。アフリカの統一を呼びかけたアルバム「サヴァイバル Survival」を発表します。これがアフリカでも大ヒットし、彼はいよいよジャマイカ、欧米以外、第三世界のヒーローとしての地位を確立します。そして、その貢献が認められ彼はジンバブエの独立式典に出席し、そこで記念ライブを行いました。アフリカへの回帰を呼びかけるラスタマンにとって、それは夢のような出来事だったに違いありません。

<母のもとでの静かな死>
 1980年、ボブは彼にとってのラスト・オリジナル・アルバム「アップ・ライジング Uprising」を発表します。この作品には、かつてアフリカからアメリカへと荷物のように運ばれ悲劇の人生を歩むことになった奴隷たちに捧げられた名曲「リデンプション・ソング Redemption Song」が収められるなど、彼のラストを飾るに相応しい重く且つポジティブな内容になっていました。
 この年の9月、アメリカン・ツアーの途中で急激に容体だ悪化したボブは、ドイツの診療所に入院します。しかし、そこでの治療も効果はなく、彼は再び母親の待つアメリカのマイアミに戻り、そこで翌1981年5月11日午前11時45分静かに息をひきとりました。
 彼の遺体は、その後ジャマイカへと戻り、キングストンのナショナル・アリーナで国葬にふされました。

<残された者たち>
 彼の死後も、アイ・スリーズのジュディー・モワットリタ・マーリーは、それぞれソロ・アーティストとして活躍を続け、彼の息子ジギー・マーリー、スティーブ・マーリーを中心とするザ・メロディー・メイカーズもまた世紀を越えて活躍を続けています。(それと別の息子のひとりは、あの歌姫ローリン・ヒルと結婚しています。いつか、ボブも子孫の中から、新たなスーパー・スターが生まれるかもしれません)

<残された音楽>
 改めて彼の残した音楽を聴いてみると、その意外なほどの「クール」さに気づかされます。最近のレゲエやポップスを聞き慣れた耳には、それはちょっと物足りなく感じるかもしれません。しかし、そのクールさは、まるでジャズにおけるマイルス・デイヴィス、ロックにおけるルー・リードグレイトフル・デッド、そして、ソウルにおけるマーヴィン・ゲイのように、ゆったりとした中にテンションの高さを合わせ持つ貴重な存在です。
 実際、彼のライブもまた一般的なレゲエがイメージさせる単純にホットでダンサブルなものではなく、逆にある種宗教的儀式のような厳粛さをも感じさせるものでした。それは、もしかすると日本でのライブは、彼にとって死が近づいていた時期にあたっていたからなのかもしれませんが・・・。その頃の僕は、もちろんそんなことを知るはずもなく、その不思議な感覚がなんなのか?、そのカリスマ的な雰囲気はどこから来るのか?まだまだ自分には理解できない音楽の力が存在することを思い知らされた気がしました。
 死の直前まで闘い抜いた男の「誇り高い音楽」をもっともっと素直に楽しむためには、自分も「誇り高い人生」を生きなければならない。そんなことを最近になって思うのです。
 彼の死後もライブ映像やに発表曲集が数多く発表されていますが、はっきり言ってどれも素晴らしいものばかりです。特に「Confrontation」(1983年)、「Talkin' Blues」(1991年、インタビューも貴重です)は、必聴ものです!

<締めのお言葉>
「街に行くと、ほとんどの連中が金の話しをしている。それを得ることを目指すと、きりがなくなる。人は神の存在を知ったなら、どんな時でも精一杯の努力をしようとするだろう。・・」
「俺の音楽を愛してくれる人々は、現実を真剣に受けとめている人々だ。俺の音楽をバリー・ホワイトの音楽と同じように好きにはなれないはずだからさ」
「「アイ・ショット・ザ・シェリフ」という曲をどうして書いたと思う?誰も巻き込むことなく、自分自身の内面との葛藤を表現した結果、俺はすべての保安官を撃っちまったのさ」

「薬となる者がいれば、板となる者もいる。我々は根だ」
ボブ・マーリーのインタビューより

<ボブ・マーリー関連ページ>
ボブ・マーリーについては関連ページがかなりあります。アーティスト名索引からご覧ください!
特に、ラスタファリニズム用語集を是非ご覧ください。

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