君はボ・ディドリーを覚えているか?


- ボ・ディドリー Bo Diddley -
<ジャングル・ビート>
 ドラムとギターによる独特の連打音からなる「ジャングル・ビート」によって、ロックの歴史にその名を残しているボ・ディドリー。その独特のスタイルは、ロックンロールの基礎となったチャック・ベリーリトル・リチャードと同じようなロック・レジェンドとして今もなお多くのミュージシャンたちに影響を与え続けています。
 そんなロック・レジェンドである彼も、ロックンロールの時代が終わると同時に一時は忘れられかけていました。しかし、彼らロック・レジェンドのカバー曲からスターになった英国のバンドたちによって、再評価がなされると再び脚光を浴びることになります。(レコード・コレクターズ誌で評論家が選んだ20世紀のベスト・ギタリストランクでは62位)
 ブルースとロックンロールをつないだ重要な結び目となったギター&ヴォーカル、ボ・ディドリーの生涯に迫ります。

<ミシシッピーからシカゴへ>
 ボ・ディドリー Bo Diddley こと、オーサ・エリス・ベーツが生まれたのは、1928年12月30日アメリカ南部ミシシッピー州マコーム。母親の親戚ガッシー・マクダニエルの養子となった彼は、生まれてすぐ北部の大都市シカゴに住むことになりました。ということは、ブルースの本場ミシシッピー出身と言っても、マディ・ウォーターズのようにブルースマンとしてシカゴに移住してきたわけではなかったのです。とはいえ、南部出身の彼の家では故郷のブルースが聞かれていた可能性は高いでしょう。当初は、親戚からプレゼントされたヴァイオリンを演奏していた彼が、ギターに惹かれたのは彼と同じミシシッピー州で生まれ北部へと移住したブルース界の大御所ジョン・リー・フッカーを聞いたからでした。
 やはり彼には、マディ・ウォーターズと同じデルタ・ブルースの血が流れていたのかもしれません。

<ストリートからデビューまで>
 ブルース・ギターの魅力にはまった彼は、後にバンドのメンバーとなる仲間たち、ドラムのフランク・カークランド、マラカス奏者のジェローム・グリーンらとブルース・バンド、ヒップスターズを結成し、ストリートでの演奏をスタートさせます。
 1951年頃からは、シカゴのクラブ708などでも演奏できる実力もつけましたが、プロと言えるほどの稼ぎはなく、建設現場などで働いたり、ボクサーになる訓練も受けていたようです。
 1955年、彼は前述の二人に加え、ハーモニカのレスター・ダヴェンポート、ブルース・ピアノのオーティス・スパンらと「ボ・ディドリー」、「I'm A Man」、「You Don't Love Me」などのデモ録音を行いチェス・レコードとの契約に成功します。デビュー・シングルとなった「ボ・ディドリー/ I'm A Man」は、いきなりR&Bチャート2位のヒットとなりました。
 この時代、R&B(黒人音楽)とロック(白人音楽)というその後に生まれるジャンル分けはまだなかったこともあり、彼はクロスオーヴァー的存在として活躍を開始します。そのため、黒人音楽の殿堂ハーレムのアポロ劇場でライブを行い、全米向けの人気番組「エド・サリバン・ショー」にも出演し、一躍人気者となりました。ただし、このテレビ出演の際、勝手に演奏する曲を変えたことから二度と番組に出演させてもらえなるという事件があったようです。これはその後の彼の活動にとって、少々悪い兆候だったかもしれません。
 その後、チャック・ベリーリトル・リチャードが、ロックンロールの人気アーティストとして大活躍することになったのに対し、彼はR&Bシンガーの枠にとどまり、ポップチャートでの活躍は目立ったものではありませんでした。
 「Who Do You Love」(1956年)、「Crackin' Up」(1959年)、「Say Man」(1959年)はポップチャートの20位以内に入ったものの、「Road Runner」は75位、「You Can't Jungle A Book By It's Cover」は48位などで結局大ヒットには恵まれませんでした。

<低迷期>
 1960年代にはロックンロールのブームが終わり、彼の人気もまた下火になります。そのまま彼の名は消えても不思議ではなかったのですが、そこで英国から再評価をもたらす追い風が吹き始めます。
 1963年白人ロック・コーラスの人気者エヴァリー・ブラザースをヘッドライナーとするツアーに、彼はブレイク前のローリング・ストーンズと共に招かれました。当時、ローリング・ストーンズは初期のヒット曲バディ・ホリーのカバー「Not Fade Away」(1963年)では、ボ・ディドリーのビートを使っていました。彼との共演を知ったストーンズのメンバーは、憧れの存在であるボ・ディドリーに敬意を表し、そのツアーでレパートリーにあった彼のカバー曲を封印したといいます。
 1963年に発表したアルバム「Bo Diddley Is A Gunsringer」は、R&Bに立ち返った作品でイギリスのポップチャートで20位となりました。
 1964年には、チャック・ベリーとの共演アルバム「Two Great Guitars」を発表。
 1968年には、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルターとの共演アルバム「Super Blues Band」などを発表しましたが、母国アメリカではまったく評価されませんでした。

<さらなる再評価も英国から>
 1970年代の終りになって、彼が再び脚光を浴びるきっかけとなったのは、やはりイギリスのバンドからのリスペクトでした。当時、大ブレイクしていたパンク・ロック・バンド、クラッシュがアメリカでのツアーのオープニング・アクトを彼に依頼してきたのです。
 さらにローリング・ストーンズのギタリストとして活躍していたロン・ウッドからの共演依頼があり、そこから生まれたアルバム「ロン・ウッド&ボ・ディドリー」(1978年)は大きな話題になりました。こうした様々なアーティストからのリスペクトもあり、彼はロックの殿堂が設立されて2年目に早くも殿堂入りを果たしました。

 1990年、メジャーリーグ・ベースボールのオールスター戦に合わせて放送されたナイキのテレビCMで、彼は再び皮肉なブレイクを果たしました。当時、アメリカのスポーツ界で大きな話題になっていたボー・ジャクソンという選手がいました。彼は、夏はメジャーリーグ・ベースボールの選手として活躍し、冬はアメリカンフットボールの選手として活躍するという二刀流の選手として大活躍。ということで、CMにはボ・ディドリーが登場してジャクソンに「君はディドリーを知らない」と語りかけました。このCMは大うけで、ディドリーの名は再びアメリカで知られることになりました。
 1998年、「ブルース・ブラザース2000」に出演し、元気なところを見せました。
 2007年、彼はツアー中に脳卒中で入院。一命はとりとめたものの、後遺症が残り音楽活動は困難になりました。
 2008年6月2日、フロリダ州アーチャーの自宅で心不全により安らかにこの世を去りました。享年79歳でした。
 ご冥福をお祈りします。

 彼が生み出した独特のビートは、多くの曲で使われていますが、チャック・ベリーのようにそのオリジナルが知られる機会は少ないと言えます。(映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)それでも彼は、ミシシッピー生まれのブルースにこだわり続け、ロックンロール・ブームの波に乗り損ねたことで、逆に大きな浮き沈みなく活躍を続けることができたのかもしれません。
 そして、多くのアーティストからのリスペクトが彼を助け、やる気を起こさせたことも幸だったでしょう。
 ちなみに日本のバンド、BO GUMBOSの名前も、ボ・ディドリーへのリスペクトからつけられた名前だそうです。 

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