「俺たちに明日はない Bonnie and Clyde」 1967年

- アーサー・ペン Arthur Penn、ウォーレン・ビーティー Warren Beatty -

<衝撃的なラスト・シーン>
 衝撃的なラストの映画はいろいろあります。海岸に埋まる自由の女神から、そこが地球だったことが明らかになる「猿の惑星」のラスト・シーン。燃やされるゴミの中に投げ込まれたソリこそが物語のキーワード「バラのつぼみ」であることが明らかになる「市民ケーン」のラスト・シーン。しかし、衝撃的なラスト・シーンとして最も一般的なのは、なんといっても主人公が壮絶な死に方をする作品でしょう。「明日に向かって撃て」、「ワイルド・バンチ」、「テルマ&ルイーズ」、「バニシング・ポイント」、「レオン」、「イージー・ライダー」・・・どれもまた伝説的な傑作ばかりです。そして、これらの映画すべての原点ともいえるのが、アーサー・ペン監督作品「俺たちに明日はない」です。(実は、さらにその原点となる作品として、J・R・ゴダールの「勝手にしやがれ」があり、そのさらに原点となる作品もまた存在するのですが、・・・)
 しかし、この映画のラストほど残虐な殺人のシーンはそれまでの映画には無かったことです。それまでの映画では、人が撃たれても血が出ることはなく、ただ倒れるだけでした。そのタブーをいち早く破ったからこそ、イタリア産西部劇(マカロニ・ウェスタン)は一大ブームを巻き起こしたのです。さらに遠く日本の映画監督黒沢明が「椿三十郎」(1962年)で見せた頚動脈から噴出す血しぶきや「七人の侍」(1954年)で見せた殺人シーンでのスローモーションの使用は、世界中の映画関係者に大きな影響を与えていました。しかし、ハリウッドではまだそうしたリアルな殺人のシーンはタブーとされており、そうした映画は作られていませんでした。

<時代の変化に対応する映画>
 時代は1960年代後半、時代は急激な変化の時を迎えようとしていました。社会は若者たちの生み出すカウンター・カルチャーによって大きく揺さぶられ、すべてが変わろうとしていたのです。ハリウッドもまた例外ではなく、「俺たちに明日はない」の登場によって、新しい時代、ニュー・シネマの時代を迎えることになります。ではどやって、タブーは破られることになったのでしょうか?やはり、それは一人だけの仕業ではなく、何人かの人間といくつかの偶然のおかげでした。先ずは、この映画を最初に企画し脚本を書いた二人組みから話を始めたいと思います。
 1959年公開のフランス映画「勝手にしやがれ」を見て衝撃を受けた二人のアメリカ人編集者デヴィッド・ニューマンとロバート・ベントン(後に「クレイマー・クレイマー」で1979年度のアカデミー作品賞、監督賞、脚色賞などを受賞することになります)が、ゴダールが生み出したアナーキーなヒーロー像をアメリカ映画でも描き出せるはずだと考えたことがきっかけでした。そして、そのアイデアにぴったりのキャラクターとして彼らが選んだのが、ボニー・パーカーとクライド・バロウという実在のギャングたちでした。テキサス出身のベントンにとっては、お馴染みのヒーローだったボニーとクライドは、1930年代の大不況時代に庶民が苦しむ中、のうのうとお金を溜め込んでいた銀行を襲うことで、大衆の人気者となったアイドル的存在でした。この若くして死んだ二人を主人公にすることで「勝手にしやがれ」に匹敵する青春映画が作れるに違いないと考えた二人は、さっそくその脚本に着手しあっという間に書き上げました。

<映画の実現に向けて>
 脚本は出来上がったものの、二人は映画界にまったくコネがありませんでした。そのため、脚本を売り込む先に困った二人は、なんとアメリカではなく彼らが愛するフランスの映画界へと送りつけることにしました。それもゴダールと並ぶヌーベル・バーグの旗手、フランソワ・トリュフォーのもとに送りつけたのでした。幸いトリュフォーはその脚本を気に入ってくれましたが、もともとバイオレンス映画に興味のない彼は、自分が映画化しようとはまったく思いませんでした。結局彼は二人の脚本のために推薦文を書いてくれ、それを持って二人は再び映画会社を回り始めますが、反応はいまひとつでした。
 実は、この時どの会社も相手にしてくれなかったは当然のことでした。彼らの書いた原作では、主人公のクライドはバイセクシャルとして描かれ、ボニーともうひとりの男性が加わる三人によるセックス・シーンが描かれていたのです。三人でのセックスでなければ燃えない性的に異常な人間とされていたわけです。しかし、そこまで過激な映像は到底不可能とされたため、この部分については、最終的にクライドを性的に不能な男性として描き、だからこそ暴力に走ったとすることに変更されます。これでなんとか映像化は可能になりました。
 とはいえ、どこにしても映画会社が彼らの脚本に興味を示してくれなければ、映画化など到底不可能だったはずです。しかし、運命は彼らに意外なところからチャンスを与えてくれました。なんとフランス経由で彼らに映画化の話がもたらされたのです。

<ウォーレン・ビーティー>
 当時若手の俳優として人気はあったものの「草原の輝き」以降、伸び悩んでいたウォーレン・ビーティーは、自ら撮りたい作品を選ぶとことで人気復活を図ろうと考えました。そこで考えたのは、世界的に注目を集めていたヌーベル・ヴァーグの旗手であるフランソワ・トリュフォーに監督をしてもらおうというアイデアでした。そこで彼はフランスに乗り込むと、トリュフォーに伝説のシャンソン歌手、エディット・ピアフの伝記映画を撮ってほしいと依頼したのです。残念ながら、彼はその申し出を断りましたが、その代わり、彼はビーティーに逆の提案をします。それは前述の「ボニー&クライド」の脚本を彼に見せ、これを撮ってはどうかと推薦したのです。
 さっそくその脚本を見た彼はすぐにその価値に気づきました。実の姉が早くからハリウッドで活躍しているシャーリー・マクレーンということもあり、彼には映画製作についてのコネやノウハウがありました。そこで彼は自らのプロダクションを設立すると、ワーナーの社長に頼み込んで製作費を出してもらい、自ら製作を担当することにしました。

<アーサー・ペン>追記(2016年7月)
 彼はさっそく映画の製作に向けて動き出し、監督にはアーサー・ペンArthur Pennを起用することに決めました。新進気鋭の映画監督アーサー・ペンもまたビーティー同様撮りたい作品を模索しているところでした。もともとブロードウェイの演出家だった彼は、ヘレン・ケラーの伝記映画「奇跡の人」という舞台劇の映画化で成功をおさめたものの、その後ヒット作に恵まれずにいました。そのうえ前作の「雨のニューオーリンズ」では、ラスト・シーンについて映画会社ともめてしまい、作品を選ぶ余裕もなくなっていました。こうして、ハリウッド映画の枠の外で撮りたい映画を探していた男たち、撮りたい映画の脚本を書き上げた男たちが集まることで、ついにニューシネマの原点となる作品が誕生することになったのです。
 アーサー・ペンは1922年9月27日フィラデルフィアに生まれています。幼い頃に両親が離婚し、当初は母親と兄と共に暮らしていましたが、母親の再婚を機に実の父親と暮らすことになります。
「それがなんでであれ、幼年時代の最初の出来事というのは、最も重要なものである。何をしても、結局はそこへ戻ってくるのだ。自分の映画を見ると、私が決してそこに盛りこもうとして意識していなかったのに、当時のことと、ある関係を持っている何かを見出して、私は驚くのだ」
 彼は父親のもとで時計職人の仕事を継ぐよう働かされ、その生活に耐えきれずに兵士となってヨーロッパに向いました。しかし、性格が優し過ぎる彼は人を殺せるとは思えず、すぐに軍隊入りしたことを後悔し始めます。それでも彼がヨーロッパに着いたのは1944年、すでにノルマンディー上陸作戦も終わり、彼は戦場を敵と交戦することなく進むことができました。ただし、その進軍の途中、何度となく戦争の傷跡を目にし、血だらけの死や残虐な戦闘の後を目撃することになりました。
 この時の衝撃的な体験は、後に「俺たちに明日はない」のあのラストの血だらけの殺戮シーンを生み出すきっかけになります。彼にとっては、血の出ない銃撃戦などまったくナンセンスだったのです。
 終戦後、彼は一度アメリカに戻るものの、すぐにイタリアの大学に留学。そして文学や演劇を学んだ後、アメリカ東海岸のテレビ局(NBC)で働き始めます。時代は、テレビが急激に普及し、彼も人手不足の中、ニュース・バラエティーなどの制作助手や脚本の執筆などをしながら舞台劇の演出もするようになります。そして、ニューヨークを拠点にハリウッドで映画を撮るチャンスを得ます。しかし、ハリウッドでの仕事は当初はなかなか上手くゆきませんでした。
「・・・ハリウッドで映画の仕事をするというのは非常に難しいことだ。まわりには、仕事の関係の人しかいない。人は仕事の話しかしない。そのうちに、金の話しかしなくなり、思想的なことなど話さなくなる。こういう特殊な共同体で、自らを養い、腰を落ち着ける可能性はない」

「自分のまわりにこれほど多くの技術者たち、そして腕のある人たちがいっぱいいて、その中で、映画を撮るというのは恐ろしいことだ。もし私に何かアイデアがあっても、煙草の煙だらけの雰囲気の中で、直ぐにフィルターをかけられてしまう。まわりの人たちの一人一人が、私のアイデアをどう演出するか、自分たちで呑みこんでしまっている。そして、皆のこうした明確な努力から生まれたものは、もう私のアイデアではなくなっており、ハリウッド的な型にはまったものに変形されているのだ。・・・」

 困難ではあっても、彼はハリウッドでの仕事に人生を賭けていました。そこには映画への愛もあったのでしょうが、実はブロードウェーで自分ができる限界を感じていて、より表現の自由が期待できるのは映画であるという確信が彼にはあったようです。

「いいかい、合衆国における状況は非常に変わったんだ。かつては、真面目な芸術家として演劇で働いていて、ハリウッドへ入ったなどというと、多かれ少なかれ売春行為をしていたものだ。だが現在ではそれが逆だ。映画でのほうが、人はより真面目な真実なものを作ることができる。ブロードウェーではもう、何も真面目なものは実現されない。すべてはまtったく投げやりだ」

 これは1960年代末、「小さな巨人」を獲った頃の彼の言葉で、それまでの舞台中心の仕事を映画へとシフトさせていた時期のものです。そして、それはニューシネマの誕生時期とピタリと重なって行ったのです。「俺たちに明日はない」は、彼が目指していた新しいリアルな映画を実現する第一歩となり、歴史的な一歩となったのです。

<求められていた作品>
 「俺たちに明日はない」を求めていたのは、製作側のスタッフだけではありませんでした。1967年という年は、歴史上まれに見る変動の年でした。ベトナム反戦運動の盛り上がりはワシントンで10万人の歴史上最大のデモとなり、公民権運動の盛り上がりはデトロイトなど各地で暴動を起こし「長く熱い夏」と呼ばれることになります。そして、若者たちの間ではフラワー・ムーブメントが一大ブームとして盛り上がっていました。そんな時代を生きる人々が、血の出ない銃撃戦や警官がヒーローとして描かれる代わり映えのしない犯罪映画、セックス・シーンのないラブ・ストーリーで満足できているはずはなかったのです。人々は、かつて「悪」と呼ばれていた反権力の側が活躍し、「善」であるべき権力が腐敗している現実の世界をリアルに描いたドラマを求めていました。
 もちろん、それだけ状況が変化してはいても、ハリウッドの経営陣の顔ぶれが変わったわけではなく、そうした変化に対応することが映画界にとって良い結果を生むという保障もありませんでした。それだけに「俺たちに明日はない」の公開にあたっては、セックス・シーンや暴力シーンについて数々の修正がなされましたが、出来上がった作品を配給もとのワーナーはまったく評価せず、なんとこの歴史的傑作は初回公開時、アメリカ全体でわずか25の映画館でしか公開されず、そのうえわずか3週間で公開が打ち切られてしまったのです。
 映画評論家の間での評価も当初はパッとしませんでした。しかし、一部の評論家が非常に高い評価を与えたことで、少しずつ映画の評判が広がり始め、タイム誌がニューアメリカン・シネマの誕生として「俺たちに明日はない」を表紙に用いたことで、ついに全国的にブレイク、あわてたワーナーは今度は全国規模での再上映に踏切りました。
 こうして、求められていた映画は、ついに人々のもとに届いたのです。そして、この映画はその後の青春映画、犯罪映画、すべての基準となり続けることになると同時にニューシネマの原点として歴史に残ることになります。

「俺たちに明日はない」 Bonnie and Clyde  1967年
(監)アーサー・ペン
(製)ウォーレン・ビーティー
(脚)デヴィッド・ニューマン、ロバート・ベントン、ロバート・タウン(クレジットなし)
(撮)バーネット・ガフィ
(音)チャールズ・ストラウス
(出)ウォーレン・ビーティー、フェイ・ダナウェイ、ジーン・ハックマン、マイケル・J・ポラード、エステル・パーソンズ

<参考>
「海外の映画作家たち 創作の秘密」
 1971年
(著)田山力哉
ダヴィッド社



アメリカの「TIME]誌で初めてニューシネマという言葉が使用される

「アポロンの地獄」(監)(脚)ピエル・パオロ・パゾリーニ(原)ソフォクレス(出)フランコ・ツィッティ、シルバーナ・マンガーノ
「俺たちに明日はない Bonny and Clyde」(監)アーサー・ペン(出)ウォーレン・ビーティ、フェイ・ダナウェイ、ジーン・ハックマン
(ここからアメリカン・ニューシネマの時代が始まった!エステル・パーソンズがアカデミー助演女優賞受賞)
「仮面ペルソナ」〈監)〈脚)イングマル・ベルイマン〈撮)スヴェン・ニクヴィスト〈出)ビビ・アンデルソン、リヴ・ウルマン
「キャメロットCamelot」(監)ジョシュア・ローガン(音)アルフレッド・ニューマン他 アカデミー編曲賞
「ジプシーの唄をきいた」(監)アレクサンドル・ペトロヴィッチ(カンヌ映画祭グランプリ受賞)
「007/カジノ・ロワイヤルCasino Royal」 (監)ジョン・ヒューストン他(音)Burt Bacharach (バカラック・サウンドの代表作のひとつ)
「卒業 The Guraduate」(監)マイク・ニコルズ(音)ポール・サイモン、デイブ・グルーシン(アカデミー監督賞受賞)
「できごと」(監)ジョセフ・ロージー(出)ダーク・ボガート(カンヌ映画祭グランプリ受賞)
ドリトル先生不思議な旅 Doctor Dolittle」 (監)リチャード・フライシャー
(音)レスリー・ブリッカス、アルフレッド・ニューマン他 アカデミー歌曲賞(レックス・ハリスン主演、歌)
Don't Look Back (監)D.A.ペネベーカー(カリスマ、ボブ・ディランをとらえたドキュメンタリー映画の傑作)
「昼顔」(監)ルイス・ブニュエル(出)カトリーヌ・ドヌーブ、ジャン・ソレル(ヴェネチア映画祭金獅子賞
冒険者たちAventuriers」 (音)Francois de Roubaix フランソワ・ド・ルーベ(ロベール・アンリコ監督の冒険青春映画の傑作)
「暴力脱獄 Cool Hand Luke」 (音)Laro Schifrin (監)スチュアート・ローゼンバーグ
(ポール・ニューマンの代表作、ジョージ・ケネディーがアカデミー助演男優賞受賞)
「まぼろしの市街戦 Le Roi du Coeur」(監)フィリップ・ド・ブロカ(音)Georges Delerue(最高にお洒落でユーモアに満ちたおとぎ話)
「招かれざる客 Guess Who' Coming to Dinner」(監)スタンリー・クレイマー(キャサリン・ヘップバーンアカデミー主演女優賞受賞)
「マルキ・ド・サドの演出のもとシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」
(監)ピーター・ブルック(原)(脚)ペーター・ヴァイス(出)イアン・リチャードソン、パトリック・マギー
「みじかくも美しく燃え」(監)ボー・ウイデルベルイ(ピア・ゲデルマルクがカンヌ映画祭主演女優賞受賞)
「モダン・ミリーThroughly Modern Millie」(音) Elmer Bernstein アカデミー作曲賞(ジョージ・ロイヒル監督の出世作)
「冷血 In Cold Blood」(監)リチャード・ブルックス(音) Quincy Jones
(ドキュメンタリー・タッチの画期的犯罪映画、トルーマン・カポーティー原作)
「夜の大捜査線 In the Heat of the Night」(監)ノーマン・ジェイソン(音) Quincy Jones
(レイ・チャールズの「イン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト」など、音楽も格好良かった。アカデミー作品賞、助演男優賞受賞(ロッド・スタイガー)の超名作)

「あかね雲」〈監)篠田正浩(原)水上勉〈脚)鈴木尚之(出)岩下志麻、小川真由美、山崎努
「上意討ち・拝領妻始末」(監)小林正樹(出)三船敏郎、加藤剛(ヴェネチア映画祭国際映画評論家連盟賞
「智恵子抄」〈監)〈脚)中村登〈原)高村光太郎、佐藤春夫〈出)岩下志麻、丹波哲郎、南田洋子
「日本のいちばん長い日」〈監)岡本喜八(原)大宅荘一(脚)橋本忍(出)三船敏郎、笠智衆、宮口精二、山村聡
「人間蒸発」(監)(企)今村昌平(撮)石黒健治(出)早川佳江、露口茂(ATGによる最初の作品)
「忍者武芸帳」〈監)〈脚)大島渚〈原)白土三平(脚)佐々木守〈出)山本圭、小沢昭一、小山明子
「華岡青洲の妻」〈監)増村保造(原)有吉佐和子(脚)新藤兼人〈出)市川雷蔵、若尾文子、高峰秀子
「乱れ雲」(監)成瀬巳喜男(脚)山田信夫〈音〉武満徹(出)加山雄三、司葉子、加藤大介
「ジャングル大帝」アニメ劇場版(原作は手塚治虫)がヴェネチア国際映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞



国際宇宙テレビ放送成功
<アメリカ>
ヴェトナム戦争反戦運動激化
アメリカ軍がヴェトナムで「枯れ葉作戦」開始
キング牧師がヴェトナム反戦を初めて主張する
(それまでは、黒人は国家の防衛に参加することで平等を勝ち取ろうという意識が強かったため、反戦を支持してはいなかった)
アメリカでヴェトナム反戦週間、ワシントンでの集会は10万人規模となる
デトロイトなどアメリカ国内で黒人による暴動が多発、過去最大規模に発展。この後3年間で101の都市で暴動が起き、130人が死亡することになります。
(この年は「長く熱い夏」と言われるようになる)
アメリカを中心とするフラワー・ムーブメントが世界中でピークを迎える
モハメッド・アリが徴兵を拒否し、ヘビー級の世界タイトルを剥奪される。
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラ、ボリビアで死亡
<ヨーロッパ>
ヨーロッパ共同体(EC)が発足
ギリシャで軍事クーデター、独裁政権が誕生する
<アフリカ>
第三次中東戦争始まり、スエズ運河が閉鎖
ナイジェリアで、ビアフラ内戦が始まる
南アフリカで世界初の心臓移植手術実施
<アジア>
中国が初の水爆実験実施
東南アジア諸国連合(ASEAN)結成
インドネシア、スカルノ大統領失脚
<日本>
ジョンソン、佐藤による日米首脳会談実施
公害対策基本法成立
吉田茂元総理大臣が死去
東京都知事に革新系の美濃部氏が当選

<芸術、文化、商品関連>
「百年の孤独」ガルシア=マルケス著(コロンビア)
「修理屋」バーナード・マラマッド著(全米図書賞)(ピューリツァー賞受賞)
アルベルト・コルダによるチェ・ゲバラの有名なポートレート写真誕生
「大きな水しぶき」デヴィッド・ホックニー
ピーター・ブレイクのデザインによる「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」のジャケットが話題になる
ラルフ・ローレン・ポロ、カルバン・クライン、アメリカの二大ブランド設立
赤塚不二夫「天才バカボン」ちばてつや「あしたのジョー」連載開始
寺山修司らが演劇実験室「天井桟敷」を結成
「オールナイト・ニッポン」「パック・イン・ミュージック」が放送を開始(深夜放送ブームの始まり)
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