- ブッカー・T&The MG's Booker T. & The MG's -

<史上最高のバック・バンド>
 R&B界で最も有名なバック・バンド、ブッカーT&ザ・MG’s。忘れられかけていた彼らの存在を、世界中の人々に思い出させてくれたのは、1980年代ブルース・ブラザースの活躍でした。それに、清志郎と彼らの共演アルバム「メンフィス」とそのライブ盤「HAVE MERCY」も、彼らの名を日本中に広めてくれました。
 しかし、彼らが最も輝いていたのは、なんと言ってもオーティス・レディングを初めとするスタックスのヒーローたちとともに数多くの名作を生み出した1960年代ということになるでしょう。彼らこそ、サザン・ソウルだけでなくR&Bの世界における最大の影の功労者でした。

<スタックス・レコード>
 彼らのことを語るとき、先ずは彼らがハウス・バンドとして活躍したスタックス・レコードの話しから始めなければならないでしょう。
 スタックスは、メンフィスの銀行に勤めていた音楽好きの二人の白人姉弟エステル・アクストンとジム・スチュアートが1959年に始めたレコード会社でした。本社スタジオは、つぶれた映画館を改装したもので、音楽業界については素人ばかりの会社でした。しかし、そこには若いけれども素晴らしい才能を持ったスタジオ・ミュージシャンたちがいました。

<スタックスを支えた連中>
 先ず二人の白人、ギタリストのスティーブ・クロッパーとベーシストのドナルド・ダック・ダン、それに二人の黒人、キーボード奏者のブッカー・T・ジョーンズとドラマーのアル・ジャクソンの四人です。特に、スティーブ・クロッパーは、プロデューサーだけでなくソング・ライターとしても活躍し、その後オーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」などの名曲を生み出しています。
 この4人は、スタックスのハウス・バンドとして数多くのミュージシャンたちのバックを務めただけでなく、しだいに自らThe MG's(メンフィス・グループの略)と名乗るようになって行きました。
(その他にも、スタックスにはソング・ライター兼プロデューサーとして、後にB・J・トーマスやエルヴィス・プレスリー、ウェロン・ジェニングスを支えることになるアメリカン・スタジオの設立者チップス・モーマンもいました)

<アトランティックの配下へ>
 彼らは地道に地元のミュージシャンたちのレコードを録音し、販売を始めますが、所詮弱小会社のため、その販売ルートはメンフィス市内に限られていました。
 しかし、地元のベテラン人気アーティスト、ルーファス・トーマスと娘のカーラ・トーマスのデュエット曲"Cause I Love You"がアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーの耳に入り、その後スタックスはアトランティックの配下に入ることで全国へとその販売範囲を広げることになりました。こうして発売されたカーラ・トーマスのソロ・デビュー・シングル「ジー・ウィズ」(1961年)は見事にヒットし、スタックスはその名を全国に知られるようになりました。

<オーティスの登場>
 しかし、スタックスが本格的にブレイクし、サザン・ソウルの時代が始まったのは、1962年にオーティス・レディングが発表したデビュー曲"These Arms of Mine"のヒットからでした。さらに同じ年には、スタジオでのセッションで偶然生まれたブッカー・T&ザ・MG’sのインストロメンタル・ナンバー「グリーン・オニオン Green Onion」がまさかの大ヒットとなり、一躍彼らの名は全米中に知れわたることになりました。(この曲は、彼らがライブでのつなぎようにと軽い気持ちで作った曲だったようです)

<スタックス・スタイル>
 当時スタックスのように白人と黒人が混じって演奏するスタジオは、非常に珍しいものでした。それも、まだまだ人種差別が色濃く残る南部の街が舞台だったのですから、まさに異例のことでした。しかし、だからこそスタックスのサウンドは、どこにもない独自のサザン・ソウルを生み出すことができたのかもしれません。それは、南部の黒人たちがルーツとされるブルースの要素と同じ南部の白人たちがルーツとされるカントリーの要素が、この人種混合バンドによって見事にブレンドされ濃縮され、新たな音楽として再生されたからです。(ちなみに、スタックスの経営者の一人、ジムはカントリーのフィドル奏者でした)

<アトランティックとの提携>
 そんな彼らにいち早く目をつけたアトランティック・レコードの経営者の一人ジェリー・ウェクスラーは、スタックスとの販売契約を取り付けただけでなく、スタジオに秘蔵っ子のミュージシャンたちを連れて行き、そこで録音を行わせるようになります。
 その中でも、デトロイト出身のウィルソン・ピケットは、スタックスのスタジオで大ヒット曲「634−5789」や「イン・ザ・ミッドナイト・アワー In The Midnight Hour」などを録音し、スターへと躍進するきっかけをつかんでいます。スタックスには、全米各地からヒット曲を求めるアーティストたちが集まるようになります。それは、スタックスの黄金時代であると同時に彼らスタジオ・ミュージシャンたちの黄金時代でもありました。

<スタックス黄金時代の終わり>
 このスタックスの黄金時代は、1968年オーティス・レディングの飛行機事故による死によって終わりを向かえたと思われがちです。しかし、オーティスの死は、直接の原因ではありませんでした。それは、当時ピークを迎えようとしていた公民権運動の盛り上がりがきっかけでした。
 アメリカ中で人種差別の撤廃を実現するための運動が拡がりをみせる中、当時黒人文化、黒人企業の象徴となっていたスタックスは、常に注目を集める存在でした。
 しかし残念なことに、白人と黒人が協力し合うことで生まれた理想的とも思えるこの企業を、黒人解放運動の側は、差別の構造の縮小版にすぎないと見なしていました。(確かに、スタックスの経営陣のほとんどは白人でした)そのため、しだいにスタックスには黒人解放運動グループからの圧力がかかるようになります。(脅迫事件や誘拐事件など、危険な事件が相次ぎました)
 そんな状況に嫌気がさした白人経営者たちは、次々にスタックスを去って行きました。創設者のジム・スチュアートもついにその経営権を、黒人のアル・ベルへと譲り渡し、しだいにスタックスは政治色の強い黒人企業へと変化して行きました。
 そして、この黒い企業のパワーは、「ワッツタックス」という巨大イベントへと発展しますが、企業としての経営は逆に危機を迎えるようになります。(このあたりのお話は、また別の機会で・・・)

<スタックスからの離脱>
 こうして、スタックスは崩壊への道を駆け足で進んで行くことになりますが、すでにこの頃スティーブ・クロッパーとブッカー・Tは、スタックスを離れており、MG’sは過去のものになっていました。(彼らもまた当時脅迫にあうなど危険な目にあったようです)こうして、彼らの存在は、その後「ブルース・ブラザース」の結成と活躍が始まるまで、記憶の中に埋もれることになったのです。
 白人と黒人がなんの偏見も無しに自然に混ざり合うことによって生まれた素晴らしい曲の数々。彼らの音楽には、本当の意味の優しさと寛容の精神がありました。それは「人種差別の世紀」と呼ぶこともできた20世紀における奇蹟の一つだったのかも知れません。
 2002年、今再びアメリカはこの「優しさと寛容の精神」を思い出すべき時だと思います。
 "Try A Little Tenderness"

<締めのお言葉>
「スタックスのやり方はこうなんだ。どんなことでもいいから、感じたことを演奏する。ホーンもリズムも歌も、全部一緒に録音する。3回か4回やった後、聞き直してみて一番できのいいのを選ぶ。誰か気に入らないところがあったら、また全員でスタジオに戻って曲の最初から最後まで演奏し直す」

オーティス・レディング

こちらからブッカー・T&ザ・MG’sのファン・サイトへどうぞ!(ブルース・ブラザースなども充実)

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページヘ