ボルダリングの生きる伝説となった数学者


- ジョン・ギル John Gill -
<ボルダリング>
 東京オリンピックの新競技として選ばれた「フリー・クライミング」は、「ロープ・クライミング」と「ボルダリング」の二つに大別されます。名前が示す通り、「ロープ・クライミング」はロープを使って体を支え、最悪の場合もロープが落下を防いでくれ、ロープを使って登る場合もあります。
 それに対して、「ボルダリング」はロープを使用せず、完全に身体一つで岩壁を登る競技です。当然、失敗すれば落下することになります。そのため、登る壁は2~4m程度とされています。(もちろん一般的にはです!)
 僕自身は昔、秩父でロッククライミングを体験したこともあり、屋内でボルダリングをやったこともあり、若かったら本格的にやりたかった気がしました。正直、高いところは苦手なのですが、登り始めるとアドレナリンがどっと出る感じで病みつきになる人の気持ちはわかります。海へ潜るフリー・ダイビングにはまっていたこともあり、その類似性も感じました。テレビでフリー・クライミングの大会が放送されているとけっこう見てしまいます。(今はもう身体が硬くて無理ですが・・・)
 そんなボルダリングの世界に「神」と呼ばれる存在がいるとのこと。フリー・ダイビングの世界にもジャック・マイヨールのようなカリスマがいましたが同じような存在のようです。先日読んだジョン・クラカワ―の「エヴェレストより高い山」の中にその人物のことが書かれていてその存在を知りました。その男、ジョン・ギルについて調べて見ました。

<ジョン・ギル、クライミングと出会う>
 ジョン・ギル John Gill は1937年2月16日アメリカ合衆国のアラバマ州タスカルーサに生まれています。大学教授の息子だったこともあり、父親と共に数年おきに引っ越しをしていたようです。そのせいなのか孤独を愛する少年で、一人で山の中を歩いたり、木登りが大好きだったとのこと。それでも中学、高校では聖歌隊のメンバーとして歌を歌うなど、ごく普通の少年としても育ちました。しかし、1954年の夏、高校を卒業した彼は友人たちとコロラドに行きロック・クライミングを体験。それがその後の彼の人生を大きく変えることになります。
 その後、ジョージア工科大学に入学した彼は、そこで数学を学びながら体操競技と出会い、肉体の使い方を学びます。ところが、ジョージアにはロック・クライミングに向く岩壁をもつ山がなかったため、彼は仕方なく近くの岩山や岩壁を使って訓練を続けることになりました。それが後の「ボルダリング」の基礎となるわけです。

<「ボルダリング」の誕生>
 1950年代当時、岩壁を自らの手と足だけを使って登「ボルダリング」は一部の登山家によって行われていました。しかし、それはあくまでも登山のための訓練の一つにすぎませんでした。それに対し、ギルが行っていたのは、より純粋に「岩を登る」スポーツとしての「ボルダリング」でした。当初、彼もロープも併用した岩登りを行っていましたが、その使用をやめ、ロープを使わない現在の「ボルダリング」のスタイルを完成させることになります。そうした彼のスタイルは、当然ながら登山界から異端児扱いされ、彼は一人黙々とその技を磨くことになりました。大学で学んだ体操競技の技術は、この時、大いに役立つことになります。(片手懸垂、指だけで身体を支えるなど)
 彼が求めるのは、頂上に至るための有効な技術の体得ではありませんでした。

 実際のところ、ギルは頂上というものをさほど重要ではないと考えている。「ボルダリング」のほんとうの喜びは、ゴールに到達することにより、登攀行為それ自体にあるというわけだ。「ボルダラーは、成功と同じくらいフォームに関心がある。ボルダリングは純然たるスポーツではなく、形而上学的で、神秘的で、知的な意味を含む登攀行動だ」とギルは言う。

 ただし、まるで修行僧のような彼の考え方は、単なる夢想家の理想論ではありません。そこには科学的、肉体的な鍛錬が下敷きとしてあり、身体を支え、より急な勾配を登るためにの物理学的、数学的なパターン認識を追求する必要があります。

 ギルが優秀なボルダラーであると同時に数学者であるのは単なる偶然ではない。一見何の関係もなさそうに思えるこの二つの活動には、大きな共通点があると彼は考えている。
「俺がクライミングをやり始めた頃、何人もの数学者クライマーに出会った。・・・
 ボルダリングと数学の研究にはある共通点が存在する。それはパターン認識に関わるものだと思う。つまり、パターンを分析したいという人間の本能と結びついているのだ」
ギルはこんなふうに言う。
「一見不可能に見える数学上の証明は、直観の大きな飛躍によって解かれる。そして、ボルダリングにも同じことが言える」
 ボルダーのルートのことを、クライマーたちが「問題プログラム」と呼んでいるのは偶然ではない。


 もちろん彼が目指すのは単に数学的に正しい解だというわけではありません。自然界というのは、答えが一つだけという数学的な世界ではないのですから。しかし、自然界にはその場所ごとにある種のパターンがあり、それを体感しながら認識することは可能かもしれません。あとは得られたパターンを自らの肉体によって戦略的に攻略すればよい。それはある意味、芸術であり、究極の肉体表現と言えます。
 そして、自然界には二つと同じ岩も山もないし、常に変化し続けていて、無限に問題は存在します。これほど壮大な数学の問題はないのです。

 誰も登っていない岩を見つけるのが楽しいんだ。岩の表面にあるホールドのパターンを思い描き、それから登る。もちろんパターンがわかりにくく、難しそうな岩であればあるほど満足感も増す。そこには創造的な何かがある。洞察力と直観力を働かせて大きな飛躍を可能にしさえすればの話だが。ボルダリングのルートは、個々の極小なホールドをひとつひとつ見ていくのでなく、プロブレム全体を見ることで完成される。

「ボルダリングでも数学でも、目的のひとつは興味深い答え - 欲をいえば、予想外の答え - を得ることだ。それも、洗練された方法でスムーズに、そしてできるだけ単純にね。つまり、スタイルが重要なんだ」

<肉体と精神のバランス>
 こうした彼の思想・哲学は、脳内と肉体との両方がバランスをとることで初めて可能になるという信念に基づいているのでしょう。だからこそ、僕はそんな彼の考え方が、フリーダイビングのカリスマ、ジャック・マイヨールとよく似ていると思えるのです。彼もまたギルと同じようにヨガや瞑想により精神をコントロールすることでより高いレベルへと自らの能力を進化させていました。脳と肉体のバランスの良い改造、これを続けることで「ボルダリングの神」と呼ばれることになったのです。

 クライミングの探求に常につきまとう疑問がある - それは人を共同体へ引き戻すものなのか?それとも内面への道に導いてくれるのか?この疑問によって生まれた緊張は幻滅を知ることでますます高まる。ついには、人は虚無に到達する。その時点で人間に内在する自発的な本能が、この道の出発点に導いてくれる・・・それから先は、クライミングの外的世界に常に超然としていられるようになり、また、ときに逆にそういった世界と深く関わることができるようになる。この二つの世界が深く関わることができるようになる。この二つの世界が融合したとき、哲学的で神秘的な次元が現れるのだ。

 ある種の「ゾーン」を体験するために彼は体操競技の練習で得た知識と訓練のノウハウを用いて高度な運動能力を身につけることも重要としています。究極の体験を得るためには、究極の肉体を作り上げることも必要なのかもしれません。そのための訓練の仕方についても彼は語っています。

 技術的な苦労を意識しなくなる段階にまで達して初めて、ルートを心で感じることができる。もがいていたのでは動きの楽しさを味わえるはずがないからね。クライミング技術を学び、筋力をつけて、究極の軽さを感じられる域に達するべきだと思う。もちろんその感覚は幻想ではあるけれど、幻想を感じられる域にまで達するのは素晴らしいことだ。僕自身、その軽さの感覚を得られないときは、ひとつのプロブレムを完全に征したとは思えない。

 同時に彼は多くのスポーツマンが指摘するルーティンの重要性についても指摘しています。同じルートを繰り返し登ることで得られる無意識でも登れる感覚が自らの肉体を岩の一部になったかのような感覚をもたらすというのです。優れた冒険家が感じる「自然との一体感」の究極のかたちがそこにあるのです。

 何度か興味深い経験をした。こういう長く簡単なルートを何度も登るために、ある意味で”鍛えすぎた”からね。これらのルートをすっかり自分のものにしてしまったので、この登攀を意識レベルで考える必要がなくなった。登攀の流れや型にすっかりはまり込んで、自分が誰なのか、何なのかという感覚を失い、岩の一部になる - 実際、岩の内外を縫うように進んでいると感じるときもあるんだ。

 まるであやしげな宗教指導者の講和を聞いているようですが、実際、多くのトップクラスのボルダーたちが彼を教祖のように崇めているようです。そこもまたフリー・ダイビングにおけるジャック・マイヨールの存在と似ています。
 多くの天才たちに共通するのは、誰よりも危険な領域にまで自分を追い込みながらも、最後の最後には現実社会に戻るだけの客観的な意識を保てたということです。これができる人だけが到達できる境地はどんな場所なのでしょうか?それこそが「ユートピア」なのかもしれません。

<カリスマ・ボルダラー誕生>
 僕は中毒にはなりたくなかった。落ちるわけにはいかないものを登っていると、緊張が高まるだけでなく、性格まで変わってしまう。ことばではうまく言えないけれど、ロープなしで危険な場所を登ると、普段とは異なる精神状態になることがわかった。手足がとても軽くなり、呼吸が浅くなる。当時は意識しなかったが、血流に変化が起きていたことも確かだ。生命の危険のあるルートでは、自分の肉体がそういう異常な状態に陥ることに気づいたんだ。精神面では、気分がハイになり極度に緊張していながら、ある意味でリラックスした状態。それは感動的な瞬間だし、登っているあいだずっと、このリラックスした気分が続くこともある。たしかに魅力的ではあるけれど、僕はそれにはまりたくなかった。

 世代的にはビート族に属する彼ですが、山が中心の生活で、そうした退廃的な暮らしとは縁遠かったかもしれませんが、それでも60年代末に出版され多くの若者たちに影響を与えたカルロス・カスタネダのドンファン・シリーズには影響を受けていたようです。
 実は僕も一時期この本にはまり、ギルと同じ「夢を操る」という部分を読んだ頃、ジョギング中にちょっとした不思議な体験をしたことがあります。

「夢を見ている状態、あるいは夢うつつの状態にはさまざまな段階があって、現実とのあいだを行ったり来たりする。完全に意識はある。目が覚めている状態より、もっとはっきりと意識があると言ってもいいくらいだった。ときには、町の上を飛ぶとか、そういうこともできるけれど、大抵は普段どおり引力の法則に支配されている状態にある。ただ、どこか別の場所にいるだけでね」

「この夢うつつの状態に一番すんなり入れるのは真夜中だということに気づいた。目が覚めた状態から、ゆっくりと眠りの中へ漂っていくときにね。それから、登っているときにも同じような状態になる。特に、長く簡単なルートを一人で登っているとき - 自分が岩に縫い込まれていくように感じるときに。そして、もうひとつの現実、軽さの感覚にもかなり迫ることができる。そうなると、その登攀はほんとうに超越的な詩になる。この夢うつつの状態を経験するほうが、まだ誰も登っていない極端に困難なプロブレムをやるより、僕にとってははるかに重要だと思っている」


 現実世界のマンネリに飽き飽きしている方は、是非「ドンファンの教え」を読んでみてください!ただし、はまり過ぎて現実社会に戻れなくならないようにお気を付けください。

<東京オリンピックへ>
 どんなマニアックなスポーツでも、競技化し、プロ化し、エンタメ化し、番組化してしまうのがアメリカという国です。ボルダリングに関しても、1950年代に早くも採点基準が設定され、ルートの難易度の基準が生まれ、2020年の東京オリンピックではついに正式競技に選ばれました。
 メダル獲得が期待される種目として今や、日本でも注目されるスポーツとなった「ボルダリング」(正確にはフリー・クライミング)ですが、その元祖の一人ギルさんは、それを順位づけする競技としての「ボルダリング」に何というでしょうか?
 未だに彼は現役バリバリで、80代のクライマーとして岩を登っているようです!

<β-エンドルフィン>
 ちょうどこれを書きながら、テレビで「チコちゃんに叱られる」を見ていたら、「なぜ人は辛い物を食べるのか?」をやっていました。
 辛さの刺激物質「カプサイシン」は舌を刺激し、人体への危険を伝えます。それが「危機」が生み出す快感物質「β-エンドルフィン」を生み出すことになるわけです。
 「人はなぜ、危険を冒してまで岩を登るのか?」
 それは、β-エンドルフィンを得たいから。
 というわけで、ボルダリング大好きとキムチ大好きは同じことだったわけです。

<参考>
「エヴェレストより高い山 Eiger Dreams」
 1990年
登山をめぐる12の話
(著)ジョン・クラカワ― John Krakauer
(訳)森雄二
朝日文庫 

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