- ラース・ビハーリー・ボース Rash Behari Bose -

<日本史における新鮮な驚き>
 このサイトでは、これまで数多くの歴史を変えた人物を取り上げてきました。しかし、日本の近代史、特に太平洋戦争までの歴史についてはほとんど取り上げていません。それは、日本史はもう誰でも知っていて、新たに取り上げたい新鮮なネタがない気がしていたからかもしれません。このサイトを成長させるモチベーションは、あくまで僕自身が面白く書けるか?にかかっているものですから。
 そうした観点から考えると、今回取り上げる「中村屋のボース」は、久々に日本史における大発見で、楽しんで書くことができました。「まだまだ日本の近代史にも知らないことがあるし、本質的なことで見落としていることがあるかもしれない」そう思わされました。(ちなみに「中村屋」とはあの新宿駅前にある中村屋です!)
 日本はなぜ、アジア全域を統一しようと太平洋戦争を始めたのか?その精神的な思想として「大東亜共栄圏」という言葉がよく登場します。それは日本が亜細亜全域を支配するためにでっち上げた「絵に描いた餅」にすぎなかったと今では言われていますが、その絵が描かれたのには理由があり、真面目にそれを亜細亜の人々のためになると信じていた人々がいたのは事実です。それも日本人だけでなかったというのは、大きな驚きでした。その一人が、「中村屋のボース」と呼ばれ多くの日本人に知られていた一人の在日インド人です。インドからやって来た彼の視点で日本の近代史を見ることで、僕は当時の日本人の多くが驚くほど素直に「大東亜共栄圏」という理想卿を信じていたことに驚かされました。
 直接、戦争に関わった人々の言葉には、それぞれの立場による違いが生じるため完璧な客観性はありえません。そうかといって、一般の人が戦争中どんなことを考えていたのか、これまた漠然としています。それだけに、日本人になったインド人という特殊な目は逆に20世紀前半の日本人の姿をそのまま映し出しているように思えるのです。
 日本という国を信じ、インドの独立を日本の運命に託した一人のインド人、ラース・ビハーリー・ボース。彼の小説よりも奇なる物語を追ってみます。

<独立運動にゆれるインドにて>
 「中村屋のボース」と後に呼ばれることになるラース・ビハーリー・ボース Rash Behari Boseは、1886年3月15日もしくは5月25日に生まれたとされています。生まれたのはインド東部カルカッタの北にある街チャングンナガル近くの小さな村でした。ベンガル政府の事務職員だった父親は転勤が多く、そのため彼は祖父や母によってチャンダンナガルの家で育てられました。当時チャンダンナガルの街は、イギリス領だったインドの中でも例外的にフランス領で、そのため、イギリスに対して独立運動を繰り広げる人々の拠点となっていました。(アメリカの中のニューオーリンズのような存在だったようです)ガンジーが帰国し独立運動を展開し始めていた当時のインドではイギリスからの独立を目指す動きが活発化していました。
 1857年に起きたインドの反乱(「セポイの乱」)の本を読んだボース少年も早くから独立運動に参加しようと学校を中退してしまいました。彼はまず軍隊に入り、そこで反乱の機会を待とうと考えますが、なかなか入隊できず、結局父親のコネで地方公務員として働き始めます。そして、すぐに彼は独立運動の急進派メンバーと知り合うようになり、反英テログループの中心メンバーとなってゆきました。
 当時インドでは独立戦争を始めようにも、武器を入手することができませんでした。(今なら、中国、ロシア、アメリカなどテロ支援国家がいくつもあるのですが、・・・)そのため、彼らにできる唯一の武力による闘争手段は爆弾テロでした。そこで彼らが計画したのは、1912年12月23日に行なわれたデリーにおける遷都記念パレードの襲撃でした。そのパレードに参加するイギリス人のインド総督ハーディングを爆殺しようと考えたのです。実行犯として志願したボースは、もうひとりの実行犯とともに手製の爆弾を持ってパレードに近づき、ハーディングに爆弾を投げつけ大怪我を負わせることに成功、逮捕されることなく逃走にも成功しました。
 しかし、次に計画したラホールでのイギリス高官の爆殺計画は大失敗に終わります。計画に関わったメンバーは次々に逮捕され、正体不明の存在だった彼の名もばれてしまいます。地下に潜らなければならなくなった彼は、なおもインド国内にとどまりラホール兵営での反乱計画に参加します。しかし、この計画はイギリス軍のスパイによって事前に察知されてしまい反乱組織のメンバーだけでなく反乱に参加したインド人兵士にも多くの死者を出すことになりました。ボースはからくもこの時も捜査の手を逃れることができましたが、いよいよ組織のリーダー的存在に対するイギリスの追求が厳しさを増してきました。
 インド人兵士による反乱の失敗により、今後もインド人兵士による独立運動は困難と考えた彼は、国外に逃亡し、そこで資金や武器の調達、さらには他国との協力関係を築き上げることを目指すことにします。そして、その活動拠点として彼が選んだのが日本でした。

<なぜ日本を目指したのか?>
 なぜ、彼は日本を目指したのでしょうか?それは当時の日本が日露戦争に勝利したアジアで唯一西欧列国に対抗できる国だったからです。1970年代、経済大国として日本がアジアの人々にとって憧れの国になったように、当時の日本は西欧の植民地政策に追いつき追い越そうとするアジアの英雄だったのです。(もちろん、隣国の朝鮮と中国は日本が英雄どころか侵略者であることにすでに気付いていましたが)
 こうして、日本を目指し国外脱出を図ることにした彼ですが、すでに正体がバレていた彼は日本に入国することが困難なのは明らかでした。そこで彼が考えた方法は、1912年にノーベル賞をアジア人として初めて受賞したインドの詩人、ラヴィンドラナード・タゴールの親戚になりすまし、日本に入国しようというものでした。タゴールの親戚が日本に留学するのなら怪しまれないだろうというわけです。1915年6月5日、彼はタゴールの親戚として丁重に扱われ日本に無事入国することができました。

<孫文との出会い>
 日本に着いたボースは、7月28日自分と似た立場にいる亡命政治家、孫文に会うため箱根を訪れました。中国で辛亥革命を起こし中華民国の臨時大統領に選ばれながら、袁世凱との権力闘争に敗れた彼は日本に逃れ亡命生活を送っていました。彼もまたアジアにおける日本の存在を高く評価しており、日本の政治家たち(犬養毅)とつながりをもちながら、新しい中国を建設する計画を進めていました。当時は、政治家の中にも本気で中国のために闘おうという考えの持ち主がいたのです。日本はまだ単なる侵略者ではなかったのです。ただし、この時、日本は袁世凱政権に対し、二十一か条の要求を突きつけ着々とその植民地化を進めようとしたいました。それに対し、彼は日本政府への抗議行動を行なっていました。日本をアジアのヒーローとして信じてくれた孫文とボースはともに祖国を離れた活動家として交流を続けることになります。

<正体バレる>
 日本での生活が落ち着いたボースは在日のインド人らと反英闘争のために必要な拳銃と実弾の入手に成功。それをインドに持ち込むため、メンバーの一人が船で運ぶことになりました。ところが、そのメンバーが当時イギリス領だったシンガポールで逮捕されてしまい、そこからボースが偽名を使って日本に滞在していることもバレてしまいました。そのため、イギリス政府は日本政府に対し、ボースの身柄を引き渡すよう要求。
 ところが、当時の日本政府はその要求を拒否し続けました。当時の日本はイギリスと日英同盟を結んでおり、まだ敵対関係にはありませんでした。しかし、西欧諸国からの干渉に対して、独立国としての立場を守ることにこだわる姿勢は今の日本からは考えられないほど、強いものがあったのです。日本の国民世論に関しても同様で、インド人による反英独立運動に対する一般大衆の関心は今では考えられないほどの高さで、誰もがインドの独立を支持していました。しかし、日英同盟を結んでいるからには、いつまでも拒否し続けることはできず、逮捕送還はしないものの、ついに日本政府はボースを国外退去処分にすることに同意します。そして、その命令に従うと彼は期限内に日本を出向するホンコン行きの船に乗らざるをえなくなり、その目的地ホンコンに着くことはそのままイギリスの警察による逮捕、そして死刑へとつながることも明らかでした。
 すぐにこのことは新聞にも取り上げられます。当然、日本国内の世論は政府に批判的で、なんとかボースを救えないのかという議論が巻き起こることになりました。そんな中、彼と知り合いになっていた人々が彼を助けるために動き出します。特に右翼の大物でありナショナリスト団体玄洋社の中心的存在だった人物、頭山満は、ボースとその仲間グプターの二人を日本国内のどこかでかくまおうと考えます。そして、1915年12月1日、ボースともう一人のインド人が彼らを尾行していた警察の目の前から忽然と姿を消してしまいました。

<消えたインド人>
 意外なことに二人のインド人は政治とはまったく関わりのない一般人の家にかくまわれていました。それは、新宿にある人気の店でグルメな文化人の間でも知られていたパン屋、中村屋でした。中村屋といえば、今でも新宿西口にあるあの有名な中村屋です。元々中村屋の創業者、相馬愛蔵という人物は、現在の早稲田大学にあたる東京専門学校を卒業し養蚕の研究者だった人物でパンとはまったく関わりがありませんでした。
 彼は自分と同じクリスチャンだった元小説家の女性黒光と結婚後1901年に、故郷の信州から東京に出て生活することになり、当時はまだ目新しかったパン屋を開業しました。その後、日本初の「クリームパン」を売り出して大ヒット。一躍新宿を代表する人気店となりました。そうした商品の目新しさと店主と妻の人柄は一般のお客さんだけでなく多くの芸術家や文化人たちをもひきつけ、いつしかそうした人々のサロンとなって行きました。(常連客の中には、俳優の松井須磨子、岩波書店の岩波茂雄、詩人、彫刻家の高村光太郎など)ちょうど、ボースの動向が新聞などで話題になっていたころ、たまたま玄洋社と関係がある人物が中村屋を訪れた際、店主の愛蔵が「うちのような店なら、彼らをかくまえるんでしょうけどね」といいました。そして、その言葉がきっかけとなり、まったくの一般人の家なら絶対に見つからないだろうということで、急遽中村屋でかくまってもらうという案が浮上したのでした。
 それにしても、いかにインテリの家庭とはいえ、亡命してきた外国人の政治活動家であり日本政府にも追われている人物を家の中にかくまうとは、大変な決断だったはずです。(二人がクリスチャンだったことも理由の一つだったのでしょう)妻の黒光はいざという時は、自分が一人でやったと逮捕される決意を固めていたといいます。二人は従業員たちを集めて、そのことを正直に説明し協力を求めましたが、全員が感動の面持ちで協力を誓ったといいます。当時の日本人のなんとカッコよかったことか!
 こうして、中村屋にかくまわれることになった二人のインド人たちの決死の逃避行の物語は後に新劇の芝居として上演されるほど、日本人の心をつかむことになります。その後、イギリスと日本の関係はしだいに悪化しだしたため、日本政府はボースの国外退去処分を取り消します。そのため、彼は自由の身となりますが、イギリス政府はまだ密かに彼を追っていたため、隠れて暮らす日々は続くことになりました。そんな状況の中、転々と住所を変える彼のために通訳をしたり、情報を届けるため、英語をしゃべることができた愛蔵の娘、俊子が活躍することになりました。

<驚きの国際結婚>
 ある画家との恋に破れ落ち込んでいた俊子は、ボースのために献身的に働いていました。そんな彼女の様子を見ていた母親の黒光は、ボースの人柄が気に入っていたこともあり、実の娘にボースの嫁になることを進めました。そうでなくても外国人であり、いつまたインドに戻って死んでしまうことになるかもしれない人間に自分の娘を嫁がせるとは・・・!凄い日本人がいたものです。母も母なら娘も娘です。俊子はその提案を素直に受け入れボースとの結婚を了承します。驚いたのは、婿となるボース本人でした。彼は俊子が結婚を受け入れるといった言葉が信じられず、ある時、僕のことが本当に好きで結婚するというのなら、その橋から飛び降りることができるかい?と問いかけました。すると、なんと彼女は橋へと駆け出し、そこから飛び降りようとしたというのです。凄い!
 こうして、ボースは中村屋の長女、俊子と結婚し、後に男の子と女の子をもうけ、「中村屋のボース」が誕生しました。そして、もうひとつ「中村屋のボース」という名を世に知らしめることになるものがこの頃誕生しています。それは今でも中村屋の看板メニューとして人気の商品「インド・カリー」です。元々は、ボースが中村屋にかくまわれていた時に、厨房で自分たち用にカリーを作ったものを店の人々に振舞ったところ、大好評だったことからこの新メニューが生まれたのだそうです。本場の作り方にこだわりスパイスの調合にもこだわった彼のカリーは、イギリス伝来(イギリス海軍の乗務員用に作られていた食事)の「カレーライス」と区別するため、あえて「インド・カリー」という名前でメニュー化されました。しかし、味以上にその名前にはボースの独立にかける熱い思いがこめられたいたのです。

<アジアの理想の未来>
 彼は日本で作りつつあった人脈を利用し、政府の協力を得ることで必ずインドの独立を成し遂げられると確信していました。その思いを支えてたのは、彼が信じていたアジアの理想の未来像でした。

「白人と違い、アジア人は決して、その権力を指導権とを濫用することなしに、人類の幸福の増進と、そして不正と暴力に基礎をおくものではなく、万人の権利と基礎をおく本当の平和を確立するために、それを利用するであろう」
ボース

 彼はそうしたアジア主義の中心として日本に活躍してもらおうと考え、日本主体による第一回全亜細亜民族会議を長崎で開催することを企画し、見事実現にこぎつけました。
 日本以外に中国、インド、アフガニスタン、フィリピンなどの参加により行なわれたこの会議には、当時すでに日本の植民地化の犠牲になっていた朝鮮代表の参加についてもめるなど、存在の危うさが懸念されていました。現在の視点から見れば、その会議が日本政府にとってアジア進出の格好の理由付けに利用されるのは明らかかもしれません。しかし、ボースは日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件も英国が仕掛けた謀略であり、日本はそれに巻き込まれたと信じていたようです。
 彼はインドがイギリスから独立することでアジアにおける西欧の植民地支配はいっきに終わらせることができるとも考えており、当時日本が掲げていた大東亜共栄圏構想の中にインドの独立も加えるよう積極的に日本政府に働きかけるようになります。日本の国内世論もこうした彼の活動に同情的でついには、その活動がひとつの形になります。

<太平洋戦争始まる>
 1941年12月8日、ついに太平洋戦争が始まります。真珠湾攻撃から始まったこの戦争はすぐに東南アジアにも拡大。当時イギリス領だったマレーシアとシンガポールにおける日本とイギリスの戦闘、も始まりました。そんな中、イギリスによる植民地支配のため多くのインド人が移住させられていたマレーシアにはインド人部隊も多くあり、彼らは微妙な立場になろうとしていました。そこでボースらインド人独立運動のメンバーは、彼らインド人部隊に反乱を起こさせ、日本軍の側につくよう密かに宣伝工作を行い始めました。もちろん、日本軍はインドの独立を確約しているという前提の下に彼らを説得しました。そのおかげでインド兵の多くが戦闘せずに日本軍に投降、そのため兵力の多くの失ったイギリス軍は一気に弱体化し、日本軍はクアラルンプール、シンガポールと次々に制圧します。こうして、インド兵と日本軍の共闘が実現。さらに日本軍によるインド侵攻にインドの反乱軍であるインド国民軍も参加することになりました。
 ボースはその軍の設立にあたり、その代表者に就任していましたが、持病の糖尿病が悪化。久しぶりに日本を離れ、バンコクに行くものの、ドイツに亡命していた独立運動の闘士チャンドラ・ボースに自らの後を託し日本に帰国します。しかし、その後彼にとっての夢だったインドの独立がかかった日本軍とインド兵の侵攻作戦「インパール作戦」は、多大な犠牲を出し失敗してしまいます。それでもなお、彼はインドの独立を信じ闘病生活を続けますが戦況は厳しくなり、同時に彼の体調も悪化してゆきました。そして、1945年1月21日、ついに彼は58歳でこの世を去りました。彼が夢みていたインドの独立が実現したのは、それから2年後、1947年の8月15日のことです。あと少し長生きしていれば、彼はそれを目にすることができたのですが・・・。

<大東亜共栄圏にかけた夢>
 日本に帰化していたとはいえ、インド人のボースでさえ「大東亜共栄圏」という考え方を信じていたのですから、アジアがひとつになって西欧の植民地政策から脱しようという理想は広く日本人の考え方として浸透するのも当然でした。だからこそ、日本人の多くがその理想のためなら命を犠牲にできると思い、若く純粋な人ほどその理想論を信じて疑はなかったのでしょう。神風特攻隊として自らの命を捧げた若者たちと同じようにインドの独立に人生のすべてをかけたボースもまたそんな純粋な人物の一人だったのでしょう。いや、もしかすると彼は「大東亜共栄圏」という理想論が日本の植民地政策のための欺瞞に過ぎないことを知っていたのかもしれません。知っていてもなお、それを利用してでもインドを独立させたい、それが本当のところだったのかもしれません。
 それにしても、そこまでアジアの人々からの信頼を得てい素晴らしい日本人がなぜアジアの侵略者としてナチス・ドイツ並みの侵略者になってしまったのでしょうか?日露戦争での勝利から日本人は「アジアの救世主」になることを目標とするようになり、そのためには多少の犠牲はやむを得ないと考えるようになったのかもしれません。それは、第二次世界大戦後のアメリカが「世界の警察国家」を目指して、世界各地に紛争の種をばら撒き続けたのと似ています。いつの世にも、「勝利」とは敗北の始まりなのえしょう。

「十九世紀の後半、ヨーロッパは急膨張をして世界中がヨーロッパの支配下に入りそうになる。しかしそうなって、たった一つへんな例外があった。東のはずれの小国日本である。他の非ヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ化することを拒んで、みんなヨーロッパに吸収された。しかしこの極東の小国だけは、自ら進んでヨーロッパ化への道を選んだ。そのことによって日本は、”加害者”となることをまぬがれたのである。そして日本はどうなるのだろう?やがて、”加害者”への道をたどるようになるのである。それが大国化を目指すヨーロッパ化の必然だからである。
 日本は勝って”加害者”になる。日露戦争は、そんな近代化の曲がり角だっったのである。・・・」

「二十世紀」橋本治

<追記>
 彼の波乱にとんだ人生には、まだまだ面白い逸話があります。気になる方は、白水社さんから出ている中村屋のボース」(中島岳志著)をお読み下さい!お奨めです!

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