- ブライアン・イーノ Brian Eno -

<多彩な奇才ブライアン・イーノ>
 ブライアン・イーノというアーティストをロック・ミュージシャンとして括るのは、21世紀の現在では当然不十分ということになるでしょう。確かに1970年代までは、ロック系アーティストとして活動していましたが、その後は、様々なアーティストとのコラボやスタジオ・ミュージシャン、様々な大物ミュージシャンのプロデューサー、「環境音楽」の生みの親といわれる現代音楽の作曲家、映像と音楽の融合を狙ったビデオ・アーティストなど、様々なジャンルで彼は活躍してきました。
 多彩であると同時に、奇才と呼ばれるだけの才能を常に発揮してきたマルチ・クリエーター、ブライアン・イーノについて調べてみました。

<聖なる少年の生い立ち>
 ブライアン・イーノ Brian Eno は、1948年5月15日イギリスのサフォーク州ウッドブリッジで生まれています。彼の本名は、Brian Peter George St.John de Baptiste dela sall Eno といいます。要するに、「聖ペテロ」と「英国王ジョージ」、「バプテストの聖ヨハネ」が合体した超キリスト教的な名前が彼には与えられていたわけです。ところが、そんな「聖なる名前」の持ち主である彼は、残念なことに聖書では禁じられている同性愛者でした。7歳の頃には、すでにそのことを自覚していて美しさをもとめて化粧をするようになっていたといいます。そのせいもあったのか、16歳の時、学校をドロップアウトした彼は、イプスウィッチ・アート・スクールに2年、ウィンチェスター・アート・スクールに3年通った後、音楽活動を開始します。時代が1960年代末というロックの新時代だったこともあり、彼は仲間たちとバンドを組み、アバンギャルドで前衛的なロックを演奏するようになります。
 1969年にアート・スクールを卒業した彼は、電子機器のセールスや地方紙のデザイナーなどをしながら生活費を稼ぎます。そのかたわらでアート・ラブというバンドを結成し、同じようにアバンギャルドな音楽を演奏していたアンディ・マッケイと知り合います。そして、彼からの誘いにより、ロキシー・ミュージックの結成に参加、1972年にデビューすることになりました。(ここからのロキシー・ミュージックの活躍については、ロキシー&ブライアン・フェリーのページへ!)

 ロキシーで彼はシンセサイザーを担当し、それまでのロックンロールとは異なる前衛的な要素を付け加えることで、人工的、SF的でキッチュな新しいロックのスタイルを展開します。しかし、よりポップ指向が強かったブライアン・フェリーとの対立が深まると、1973年に彼はバンドを脱退します。(彼が参加したロキシーのアルバムは、「ロキシー・ミュージック Roxy Music」(1972年)と「フォー・ユア・プレジャー For Your Plesure」(1973年)の二枚)

<ソロ活動開始>
 ソロとなった彼はすぐに同じようなプログレ的方向性をもつミュージシャン、ロバート・フリップ(元キングクリムゾン)との共作でアルバム「ノー・プッシィフッティング No Pussyfooting」(1973年)を発表。テリー・ライリーが広めつつあったミニマル・ミュージックの要素とわざと歪ませたロック・サウンドの融合を目指し、二人は1976年にもアルバム「イブニング・スターIvening Star」を発表しています。さらに二人は、その音をライブで再現するためにツアーも行い、ステージ上では暗闇の中、彼のシンセサイザー演奏がフィルムでエンドレスで流されるなど、映像的なミニマル・サウンドが展開されました。これは時代の先駆ともいえる「映像と演奏」のコラボレーションでもありました。
 こうした前衛的な音楽活動と並行して、彼は当時旬のサウンドだったグラム・ロック的でポップな音楽をアルバム「ウォーム・ジェット Here Come the WarmJets」(1973年)として発表。そこでの彼は中性的な衣装やメイクアップを行っていて、ファッション的にも時代の先駆となっていました。
 1974年、彼はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの中心メンバーだったジョン・ケイル John Cale のアルバム「スロー・ダズル」、「ヘレン・オブ・トロイ」の録音に参加。さらにそのジョン・ケイルとケヴィン・エアーズ、ニコらとロンドンでライブを行い、ライブ・アルバム「悪魔の申し子たち」として発表しています。これら彼が参加した作品は、1970年代後半のパンク以降に登場するニューウェーブ系アーティストたちの先駆だったともいえます。ただし、当時は売り上げも一般的な評価も今ひとつでした。

<環境音楽の創始とソロ活動>
 1975年、彼は交通事故で大怪我を負い、数ヶ月に渡り音楽活動を離れることになります。そんな時期、彼は病院で暮らす生活の中で新たな音楽のインスピレーションを得ます。それが後に自ら「アンビエント・ミュージック(環境音楽)」と呼ぶことになるインストロメンタル音楽です。
 1976年、彼は自分が立ち上げた音楽レーベル「オブスキュア」からアルバム「ディスクリート・ミュージック Discreet Music」を発表します。同じ年、彼はロキシー・ミュージックのメンバー、フィル・マンザネラのプロジェクト801に参加し、アルバム「801 Live」を発表。
 1979年には、環境音楽の専門レーベル「アンビエント」を設立し、そこから第一弾アルバム「Music for Airport」を発表。(文字通り、空港で聞くための環境音楽です)
 ニューヨークに移住した彼は、音楽だけでなく当時ブームとなりつつあったビデオ制作にも進出。さらにはアート関係の本を出版するなどアート全般にも関わるようになりま す。
 1982年、ソロ・アルバム「On Land」をアンビエント・レーベルから発表。
 1983年、彼は弟のロジャー・イーノとともにアメリカ航空宇宙局NASAの創立25周年記念フィルムのためにサントラ・アルバム「アポロ(宇宙への道)」を制作。
 1984年、ソロ・アルバム「Music for Films Vol.1」発表。
 1990年、ジョン・ケイルと再びコンビを組み、アルバム「Wrong Way Up」を発表。さらにケイルのソロ・アルバム「Words For Dieing」のプロデュースも担当。
 1992年、9年ぶりとなるソロ・アルバム「Ne RVE Net」発表。このアルバムには、ゲストとしてロバート・フリップやレッドツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズらが参加。 彼は久々にヴォーカルも担当しています。
 1993年、彼は新たなレーベル「オール・セインツ」を設立し、そこからアルバム「Neroli」を発表。

<プロデューサーとしての活躍>
 1977年、彼はベルリンに渡り、そこでデヴィッド・ボウイの歴史的名盤「ロウ」「ヒーローズ 英雄夢語り」に参加します。そこでの彼は正式なプロデューサーではなかったものの、歌詞の共作、シンセサイザー演奏やヴォーカル・ハーモニー、インスト部分の追加や音響処理など音作り全般に関わりました。
 この時、彼は曖昧な指示を記した1セットのカードを用意してシャッフル、一曲ごとにそこから一枚選んで録音に使ったということです。これぞまさに、ジョン・ケージが提唱した「偶然性の音楽」です。
 この2枚のアルバムは、ボウイにとっても新たなスタイルを示した傑作として彼の代表作となり、1979年には再び彼はボウイとのコンビでアルバム「ロジャー(間借り人)」を発表。これらの3作品は、ボウイの頂点ともいえる作品であり「イーノ3部作」とも呼ばれています。そして、この頃から彼のプロデューサーとしての手腕が高く評価され始めます。
「頽廃的美学論 Q,Are We Not Me? A.We Are Devo」(1978年)
インダストリアル・パンクもしくはテクノの歴史的名盤となったDEVOのデビュー・アルバム

「モア・ソングス More Songs About Building and Food」(1978年)
「フィア・オブ・ミュージック Fear of Music」(1979年)
「リメイン・イン・ライト Remain in Light」(1980年)
1980年代を代表する存在となるエスニック・ファンク・ロックの最高峰トーキング・ヘッズ初期の代表作。
 その他、彼はウルトラ・ヴォックスやクラスターなどのアルバムもプロデュースしています。

ブッシュ・オブ・ゴースツ My Life in the Bush of Ghosts」(1981年)
デヴィッド・バーンとの共演作。このアルバムは、ラジオ放送や宣教師の説教、様々なノイズをサンプリングしてコラージュした当時としては最先端のデジタル・サウンドであり、アフリカ的でイスラム的なリズムを導入した新しいファンク・サウンドの誕生でした。

「焔 ほのお The Unforgettable Fire」(1984年)
1980年代を代表する名盤のひとつU2のブレイク作。90年代を代表するプロデューサーとなるダニエル・ラノアとの共同プロデュース作品。
「ヨシュアズ・トゥリー The Josha Tree」(1988年)
U2に1988年度のグラミー賞最優秀アルバム賞をもたらした大傑作アルバムも彼がプロデュース。
 さらに彼はU2の「ZOOROPA」ツアー(1993年)において、その目玉のひとつだった大スクリーンを用いたビデオ映像による演出を担当。このツアーは、その後、多くのアーティストのコンサートの演出に影響を与えることになりました。この年、彼はローリン・アンダーソンのアルバムのプロデュースも担当しています。

 1995年、彼は久しぶりにデヴィッド・ボウイの録音に参加。アルバム「アウト・サイド」のプロデュースを担当。さらにU2とパバロッティのジョイント企画のプロデュース。元パブリック・イメージ・リミテッドのベーシスト、ジャー・ウォブル Jo Wobble と共作アルバム「スピナーズ Spinner」を発表。さらには、あの人気テレビ番組「Xファイル」のサウンド・トラックにも参加しています。

<イーノの仕事再考>
 ロキシー・ミュージックから始まり、ロバート・フリップやジョン・ケイル、デヴィッド・ボウイ、、デヴィッド・バーンらと共作アルバムを制作。デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2、DEVOなどのプロデューサー業。「環境音楽(アンビエント・ミュージック)」の創始など、新たな音楽文化の創造。ファッションと音楽とライブとビデオ映像、これらのコラボレーションを芸術の域にまで高めたクリエイター業。そして、こうした総合的なアート活動を普及させた評論家、教育者としての活動。
 1980年代以降のロック界は、パンクからニューウェーブへと変化する中で、レゲエだけでなくアフリカン・リズムなど様々なエスニック音楽の要素を持ち込みました。さらにはそこにMTV文化が加わることで、音楽は映像とコラボレートすることが当たり前の時代になりました。「環境音楽」は、今や空港、病院、商業施設、美術館、スポーツ施設などで欠かせないものになりつつあります。
 こうした様々なジャンルにおける彼の先駆的活躍は、もっと高く評価されていいはずです。残念ながら、彼の存在は、ロックのファンからは優れた裏方扱いで、現代音楽ファンからも「環境音楽」という名の商業音楽の作曲者と思われがちです。どんなジャンルのアーティストもジャンルの壁を壊すことはなかなか評価されずらいものです。いつか彼の再評価が行われることになる日が来るのでしょうか。 

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