- 公民権運動の原点となった裁判 -

<公民権運動の原点>
 アメリカにおける人種差別の歴史をたどるとき、必ずといっていいほど出てくるキーワードのひとつに「ブラウン判決」というのがあります。それは、「分離すれども平等」としていたそれまでの人種隔離政策を憲法上認めないとするアメリカの最高裁判所が下した判断のことです。人種差別の撤廃に向けたすべての運動の原点とも言えるこの判決は、どんな経緯で生まれたのか?なぜ1954年という人種差別が当然のように行われた時代にいち早くこの判決を下すことができたのか?もしかすると、そこには知られざる英雄がいるのではないか?
 というわけで、「ブラウン判決」に迫ってみようと思います。その前に、先ず「ブラウン判決」によって覆されることになった重要な判例「プレッシー判決」について知る必要があります。

<「プレッシー判決」>
 南北戦争の後、1863年に憲法修正13条により奴隷制度が廃止され、第14条により法の下での人種差別も許されないことになりました。ところが、そうした動きに対し南部の差別主義者たちは新たな法によって対抗。時計の針を逆戻りさせようとします。彼らは「分離すれども平等」という法解釈に基づいて人種隔離を認める法律を次々に成立させてゆきました。
 南部を中心とする多くの州では、あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場までがその対象となり、旅客列車においても黒人用、白人用の席を分離することが義務づけられ、その区分けを無視するものは逮捕されることになりました。
 1892年6月、ルイジアナ州に住むホーマー・アドルフ・プレッシーという黒人男性がこの法律の違法性を問うため、あえて白人席に座って逮捕されました。この裁判は最高裁にまで持ち込まれましたが、そこでの判決は「隔離を認める州法は一方の人種を劣等とみなすものではない。従って、憲法第14条に反するものではない」というものでした。逆に別人種との同席を強要することの方が違法である、と判断を下しました。「プレッシー判決」と呼ばれることになったこの判決は、その後世紀を越えて50年以上有効性を保ち続けることになりました。

<ブラウン氏の挑戦>
 時は流れて1951年、カンザス州のトピーカという街でオリヴァー・ブラウンという黒人の溶接工がその街で小さな裁判をおこしました。それは、彼の自宅そばにある学校が白人専用であるために、娘をバスで遠くの黒人学校へと行かせなければならないのは不当であるというものでした。彼はそのことを理由に何度も転向させてくれるよう願い出ましたが無視され続け、ついにトピーカ市の教育委員会を訴えたのです。後に「ブラウン判決」を導き出すことになるこの事件は、正確には「ブラウン対トピーカ市教育委員会事件」と言われていました。この裁判は当然人種分離の根本を問うものとなったため簡単に決着はつかず最高裁へと判決が持ち越されることになりました。「プレッシー判決」から50年、この裁判は時代がどう変わったかを問うものになりました。
 裁判の重要性を十分認識していた最高裁の判事たちは、当然裁定に慎重にならざるを得ず、当時の最高裁長官フレッド・ヴィンソンは裁決に逃げ腰になっていました。それはどちらの判決を下しても大きな批判を浴びることは確実だったからです。
 ところが、長官のフレッド・ヴィンソンが突然心臓麻痺でこの世を去るというアクシデントが起きます。そこで当時の大統領アイゼンハワーによって新長官に任命されたのが、その後の主役となる人物アール・ウォレンでした。

<最高裁長官アール・ウォレン>
 ノルウェー系で1891年カリフォルニア生まれのアール・ウォレンは、けっして恵まれた環境に育ったわけではありませんでした。鉄道の車両整備をしていた父親は組合活動に熱心で、そのため家族は常に苦労させられました。それでも、彼はそんな父親の姿を見て育ち、肉体労働でためた貯金でカリフォルニア大学のバークレー校を卒業。その後、共和党左派の政治家としてカリフォルニアの州知事にまでなり、当時アメリカで最も勢いのある州を率いる最高の知事と言われていました。
 彼はたたき上げの苦労人らしく、不正とは無縁、質実剛健の政治家として高く評価されており、軍隊出身の大統領アイゼンハワーにとっても信頼のおける人物でした。だからこそ、彼は自分より年上のベテラン・メンバーよりなる最高裁の長官という重責を任されることになったのです。当時はマスコミも、アイクとウォレンは堅物同志で馬があうだろうと評していました。
 ところが、ウォレンと大統領には大きな違いがありました。大統領が軍隊とホワイトハウス以外の場所を知らないのに対し、ウォレンはカリフォルニアという土地を治める仕事をすることで、庶民の生活も黒人たちの生活も、よく見てきていました。さらにもうひとつ大きな違いがありました。彼にはけっして忘れることができない悔やむべき過去があったのです。

<ウォレン知事の汚点>
 第二次世界大戦中の1943年、カリフォルニア州知事になったばかりの彼は、カリフォルニアに住んでいた10万人を越える日系人から土地や建物を奪い、収容所に送り込む書類にサインをしました。それもけっして嫌々ながらではなく、自らその先頭に立って罪なき人々の生活を奪ってしまったのでした。彼はこれが大きな過ちだったことを悔やみ、生涯このことで苦しんだといいます。自らの行為に明らかに人種差別的意識が働いていたことは明らかでした。そして、このことが「ブラウン判決」に大きな影響を与えることになったのです。
 彼は「ブラウン事件」を自らの犯した罪を償うために神が与えてくれた試練と考えたのかも知れません。

<判決に向けての活動>
 こうして始まった「ブラウン事件」の裁判で人種差別隔離政策に違憲判決を下し、なおかつそれを有効に機能させるためにはどうしたらよいのか?そこで彼が考えたのは、先ず最高裁判事全員が違憲判決に賛成し、それがアメリカ合衆国を司る司法の総意であるということを世に強く認識させる必要があるということでした。こうして彼はこの採決に対し反対に回ると予想される判事たちの説得に動き出しました。
 彼は就任当初の会議の席でこう言ったそうです。
「法律は”この日この時”と無縁であってはならない」
 この言葉に表されているように、彼は時代が確実に変わっていることを保守的な判事たちに粘り強く主張し続けました。自分が判事を務めている間は事を起こしたくないと考えていた判事たちもウォーレンの強い意志にしだいに押され、ついに彼は、反対派全員の説得に成功。こうして、1954年5月17日彼は下記の歴史的一文を読み上げることになりました。
「我々は、公共教育の場における”分離すれども平等”の原則は成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が本質的に不平等だからである」
 こうして、有名な「ブラウン判決」が下されたのでした。

<ブラウン判決以後>
 この判決により、差別され続けてきた黒人たちだけでなく、マスコミやリベラルな政治家、そして良識ある一般白人大衆の多くが、時代の変化をはっきりと認識し、それぞれが人種差別の撤廃に向けた活動へと動き出すことになります。
 もちろん、それはまだ現実とはかけ離れた法律の世界だけの変化であり、「法は変えられても心が変えられるわけではない」ことはすぐに明らかになります。そして、この法律がさらなる差別主義者の反発を招き事態はさらに悪化することになるのですが、この判決が現実を見据えた重要なスタート地点であったことは間違いありません。大衆の意識より早く司法がこうした判断を下すアメリカという国、確かにこの頃のアメリカには民主主義があったのかもしれません。

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