- ブルース・リー Bruce Lee -

<「燃えよドラゴン」の頃>
 僕がブルース・リーの「燃えよドラゴン」を映画館で見たのは、中学生の時、当然、学校中でブルース・リーは大ブームになっていて、放課後の掃除時間にはあちこちでカンフー・ファイティングが始まり、女子のひんしゅくをかっていたものです。ただ、僕はこの頃、いっぱしの映画通気どりになっていて、「燃えよドラゴン」以外の映画に目がいっていました。「ポセイドン・アドヴェンチャー」(映画館の前には行列ができていました)「男の出発」(二本立てだから見られたディック・リチャーズの渋い西部劇)「ジョニーは戦場へ行った」(泣きました)「ジャッカルの日」(大人の犯罪映画にしびれました)けっこう渋い映画も見ていたので、「燃えよドラゴン」はまだしも「ドラゴン怒りの鉄拳」や「ドラゴンへの道」はどう考えてもB級以下の内容だったので、映画ファンとしてはブルース・リーの人気に冷ややかな視線を送っていた気がします。とはいっても、やはり中学生です。当時、家でも学校でもブルース・リーのマネをしていたため、その動きはけっこう身に染み付いていました。そして、そのことは後に海外旅行の際、大いに役立ちました。
 1985年にトルコを一人で3週間旅した時、トルコ東部ヴァン湖で潜ってみました。その時、海パン姿の僕の回りに子供たちが物珍しげ集まって来て、僕に「ブルック・リーを知っているか?」と話しかけてきました。どうやら「ブルック・リー」とは「ブルース・リー」のことのようです。イスラム圏では空手の人気が高く、ブルース・リーは死んだ後もずっと英雄扱いされているとは聞かされていましたが、そこまで人気があるとは驚きでした。面白いのは、イスラムの人々にとって空手とカンフーはいっしょで、当然ブルース・リーは日本人だという認識だったことです。
 驚くほどの人気に調子に乗った僕は、さっそくブルース・リーのモノマネをしてみせました。すると子供たちに大受け、その中の一人が感動して兄ちゃんを連れてくるから待ってくれといいだしました。「僕の兄ちゃんはボックスをやっていて空手家に合いたがっていた」というのです。「ボックス」とは、どうやらボクシングのことのようでした。すると、その子はしばらくするとミドル級クラスのごっつい兄ちゃんを連れてきました。そして、その兄ちゃんが言いました。
「記念に是非お手合わせ願いたい」
 ここまできて、僕のはモノマネですから、というわけにはゆかず、僕は覚悟を決めて湖のほとりで対決することに。こうして、「カンフー」VS「ボックス」の戦いが始まりました。僕は足技を繰り出し、ボックスの重いパンチに対抗、向こうも客人に気を使ってくれたのか、本気でパンチを繰り出すこともありませんでした。いつしか二人は、観客として熱い視線を送る子供たちを満足させるように技を見せ合い、終了後はお互いの検討を讃えあい握手。こうして、トルコの奥地で、小さいながらも日本とトルコの親善行事が行われたわけです。
 もともとトルコでは、日本という国は自分たちにとっても敵対する隣国ロシアを倒した国として、第二次世界大戦後も経済力によってアメリカを圧倒した国として、アジアの英雄として認識されています。そのイメージが、カンフーによって巨人をも倒す小さな英雄ブルース・リーと重なっているのかもしれません。彼が死んでからすでに10年以上たっていたにも関わらず、子供たちは彼のブロマイドを大事そうに持ってました。
 こうした、第三世界におけるブルース・リーの人気は、同じ島国出身の英雄ボブ・マーリーの人気の高さを思い出させます。二人には共通点がいくつもあります。ボブ・マーリーはイギリス人とジャマイカ人の混血、ブルース・リーは香港人の血にドイツ人の血が流れています。そして、どちらも植民地として支配されていた小さな国の出身でありながら、それぞれの分野の才能を生かし、世界にレゲエとカンフーを広めた英雄です。そしてなお皮肉なことに、どちらも若くしてこの世を去り、自分たちが成し遂げた成果を最後まで見届けることができませんでした。第三世界に住む人々にとっては、アメリカ人にとってのジェームス・ディーンやエルヴィス・プレスリーのような存在、それがブルース・リーであり、ボブ・マーリーなのです。

<李振藩(リー・ジュン・ファン)誕生>
 ブルース・リー Bruce Lee こと李振藩(リー・ジュン・ファン)は、1940年11月27日アメリカ西海岸のサンフランシスコで生まれています。父親の李海泉はホンコンで人気があった広東オペラとも呼ばれる京劇の大衆版的な芝居の役者でした。たまたま彼が母親のお腹の中にいた時、父親のいた劇団がサンフランシスコのチャイナタウンに公演旅行を行うことになり、しばらくアメリカに滞在。アメリカで産まれた子供は自動的にアメリカの国籍を取得する権利が得られることから、両親はあえて彼をサンフランシスコで産んだのでした。多くの中国系アメリカ人はこの方法によって子供にアメリカの市民権を獲得させ、その後家族でアメリカに移民するということを行っていたようです。
 この時、病院の看護師がアメリカ生まれには英語名も必要だと教えてくれ、「ブルース Bruce」という名をつけてくれました。したがって、「ブルース」という名前は芸名ではなく英語名の本名なわけです。(ちなみに、彼の香港での芸名は李小龍リー・シュー・ロンでした)
 ところで、彼には母方から受け継いだドイツ人の血が流れていたそうです。確かに彼の母親は中国人にしては堀が深く混血風な顔だちをしています。彼の母方の祖父は中国本土で実業家として成功した人物で複数の妻をもっていたらしく、その中にドイツ系の中国人がいたようですが、どんな女性だったのかはもう謎のままのようです。こうして、アメリカで生まれたことで二つの国籍をもつことになった彼は家族とともに、その後すぐに香港に戻ります。

<香港にて>
 香港にもどった彼は、父親の仕事の影響で赤ちゃんの頃から映画に出演するなど早くも芸能人としての仕事に関わるようになってゆきました。ただ小さな頃から有名人になってしまったため、彼は学校でも地域でもねたみの対象になってしまい、いじめのターゲットになることにもつながったようでした。もちろん、カンフーの本場香港では陰湿ないじめではなくケンカによる決闘が行われることになり、必然的にブルースは闘うための武道を身につけるべく道場に通いだしました。
 小林拳の系統に属する「詠奏拳」の道場に通いだした彼は、すぐにそれをケンカで使うようになりますが、香港ではケンカのために武術を習うのは当たり前のことだったようで、そのために破門されるようなこともなかったようです。日本でも芸能界とヤクザの世界のつながりは今でもよく取りざたされますが、香港では芸能界=ヤクザともいわれるぐらいに関係が深いといわれます。そのため、ブルースはしだいに学生生活から離れ、ケンカと決闘に明け暮れるヤクザまがいの人生へと歩みだしてゆきます。ただし、そんな生活の中でも、彼のダンスのセンスは素晴らしく、「チャチャチャ」のダンス・コンテストで優勝したこともあり、どんなステップもすぐに憶えてしまったそうです。彼の格闘における美しい動きは、こんなところから来ているのでしょう。
 それともうひとつ、彼は絵を描かせてもなかなかのものでした。残されている彼の絵(イラスト)は、ジョン・レノンの線画を思わせるシンプルで美しいものです。彼は独自の美的センスというものをもっていたのでしょう。
 1959年、香港での彼の危険な青春時代は、突然終わりを迎えることになります。それまでに何度も事件を起こしていた彼は、またもや決闘で相手を倒し、今度はあごの骨を砕いてしまいました。それまでは、父親が有名人ということもあり、なんとか大目に見てもらっていましたが、もうそれも無理でした。結局、彼は父親から100ドルほどのお金を持たされて、アメリカ行きの船に乗せられました。
 アメリカに渡った彼は、それまでのしがらみをすべて捨て、まったく新しい人生を歩み始めます。しかし、彼が選んだ道は、後に「燃えよドラゴン」で彼がつかむことになるハリウッド・スターへの道ではありませんでした。それは武道家として、まったく新しい総合格闘技のスタイルを築き上げる道でした。

<武道家への道>
 香港で「詠奏拳」を学んでいた彼は、それは以前にも父親から太極拳を学んでおり、格闘技全般について常に研究し続けていました。彼が目指していたのは、型を重視する空手や太極拳ではなく実際に「闘い」に応用できるあくまで実用的な闘いのシステムでした。そのための彼の修業と学習の日々が始まります。「詠奏拳」などの少林寺系の拳法各流派や太極拳以外にも、彼は空手、フェンシング、マーシャル・アーツ、キックボクシング(ムエタイ)、ボクシング、サバット、テコンドー、レスリング、柔道など、あらゆる格闘技を研究。彼はこの頃から格闘技に関する書籍を収集し始め、ウェイト・トレーニングや哲学に関するものまで2500冊もの蔵書を所有することになります。
 さらに彼は実践スパーリングを行うために必要な練習用防具の開発にも力を注ぎました。ヘッドガード、ボディ・プロテクター、金的ガードなどを装備することで、より実践的なスパーリングを可能にしました。中でも有名なのは、映画「燃えよドラゴン」の冒頭シーンで彼が用いていたオープン・フィンガーのグローブです。投げ技や決め技など、指の動きを必要とする技を可能にしたそのグローブの開発により、格闘技の技の範囲はいっきに拡大することになりました。こうして、彼が開発したまったく新しい総合格闘技「ジークンドー(截拳道)Jee Kune Do」を広めることこそ、彼にとって最大の目標となります。

<ジークンドーの道>
 「ジークンドー」の「ジー(截)」とは、「遮る」とか「遮断」のこと。「クン(拳)」とは、「攻撃」とか「形式」を表わし、「ドー(道)」は、「方法」や「究極の真実」という意味があるそうです。したがって、「ジークンドー」とは、「相手の攻撃を遮る方法」であると同時に「いかなる方式にもとらわれない究極の真実」でもあるわけです。
 彼がジークンドーのための道場「振藩国術館」を設立したのは、1961年シアトルの街でした。当時、彼はレストランで働きながらワシントン大学に通い、なおかつ高校で中国哲学の特別講師を勤めていて、そこで知り合ったイギリス、スウェーデンの混血女性リンダ・エメリーと知り合い、後に結婚することになります。
 その後、彼は1964年には、オークランドにも道場を設立、1967年には、ロサンゼルスにも道場を設立します。 彼の当時の目標はアメリカ中に道場を設立することでした。しかし、その目標は途中から方向を変えることになります。それは彼が役者としてハリウッドで活躍することになったことが原因でした。

<映画俳優への道>
 かつて、香港で俳優だったこと、ハンサムな青年だったこと、武道の達人だったこと、さらには芸能界に顔が利く興行師(エド・パーカー)との付き合いから、彼にテレビ出演の話しが舞い込みました。最初は、「チャーリー・チャン」のテレビ・シリーズへの出演依頼がありましたが、それは企画自体が実現せず、代わりにアメコミの実写版「グリーン・ホーネット」への出演依頼がきます。役は主人公の片腕カトーでした。彼は、テレビで自分の技を披露することができることになったのです。
 1966年、放映が始まったABC放送のテレビ番組「グリーン・ホーネット」は、当時大人気だった「バットマン」の後追いで始まったシリーズでした。そのため、「バットマン」の二番煎じ的な扱いを受け続けます。視聴率も、パッとせずわずか半年という短期間で放映打ち切りになってしまいました。あくまでも傍役だった彼にはその技を披露するチャンスもほとんどなく不完全燃焼に終り、その後の仕事も単発のものばかりとなります。「鬼警部アイアンサイド」へのゲスト出演(1967年)、ジェームス・ガーナー主演の映画「マーロー かわいい女」(1968年)での殺し屋役、あとは何本かのテレビへのゲスト出演しかなく、俳優としての彼の未来はここにきて閉ざされたように思えました。当時の東洋人俳優の役どころは、よくてカンフーを使う奇妙な殺し屋、そうでなければ背が小さくつり目のアジア人お笑いキャラ。そのどちらかしかなかったため、二枚目とはいえ、東洋人がハリウッド・スターになるための役は存在していなかったのです。ところが、1969年1月彼はこんな状況にも関わらず、一枚の紙に自らの決意をこう書き記しています。
「私の究極の目標
 私、ブルース・リーは、アメリカで最初の、最も出演料の高い東洋人スーパー・スターになるだろう。
 かわりに私は、一人の俳優に可能な限り最高のクオリティーで、最もエキサイティングな演技と演出をする。
 1970年から私は世界的名誉を手中におさめ、1980年には1000万ドルの財産を手にするだろう。
 私は、自分の好きなように生活し、心の調和と幸福を手にするだろう。
 ブルース・リー  1969年1月」
 こうして、彼は新たな目標に向かって、より厳しい道を歩み始めることになりますが、その目標の具体的な設定こそが、ブルース・リーという人物の偉大さを表わしているように思えます。彼にとっては、この目標を定めた瞬間、後の成功は決定づけられたといってもいいのかもしれません。ただし、心の調和と幸福が得られたのかどうかは、?かもしれません。

<成功への道>
 東洋人が主役となるハリウッド映画が撮られる時を待っていては、永遠にチャンスは巡ってこないと悟った彼は、いよいよ自らその企画を立ち上げることになります。それが、彼の死後、1978年にデビッド・キャラダイン主演で映画化されることになる「サイレント・フルート」の企画です。当時、アメリカNo.1のカンフー使いとして、彼は多くの弟子を抱えていました。その中には、当時カラテのアメリカ・チャンピオンになったジョー・ルイスやチャック・ノリスもいましたが、その他にもハリウッドにスティーブ・マックィーンやジェームス・コバーン、スターリング・シリファントらの弟子がいました。そこで彼は「夜の大捜査線」でアカデミー脚本賞を獲ったばかりの脚本家スターリング・シリファントに脚本を依頼。主役にジェームス・コバーンを設定して自らが助演となる映画「サイレント・フルート」を企画します。ワーナー・ブラザースの製作で映画化が実現するところまでこぎつけました。ところが、その映画の製作にはひとつ条件がつけられていました。それはインド国内にワーナーが持っていた国外に持ち出きない収益金を用いて、インドで撮影を行うというものでした。そこで3人はインドへと出発しロケハンの旅を敢行します。しかし、旅の途中で3人の関係が悪化、ジャームス・コバーンが企画から降りてしまい、結局コバーンが抜けたことで企画自体も流れてしまったのでした。
 「サイレント・フルート」には、ブルース・リーが目指していた格闘技の哲学がたっぷりと収められるはずだっただけに、この幻の企画は大いに残念です。この失敗でショックを受けた彼は、ハリウッドをしばらく離れる決心をします。そして、アメリカでの活躍とその知名度を活かしm故郷の香港で本格的な主演映画を撮る道を選択することになります。

<「ロング・ストリート」>
 1971年、彼はもう一本「ロング・ストリート」というテレビ番組のパイロット版に特別出演しています。その回のタイトルは「The Way of the Intercepting Fist(拳を截る道)」といい、まさにジー・クン・ドーそのものの内容になっていました。その番組の主役は、ジェームス・フランシスカスで、ブルース・リーは、その盲目の主人公にカンフーの奥義を教える謎の師匠という役どころでした。それは「カンフー版座頭市」ともいえるストーリーで、脚本は彼の愛弟子のひとりだったスターリングシリファントが担当していました。その番組には、彼の格闘技に対する哲学が注ぎ込まれていましたが、彼の出演は場面はパイロット版だけだったため、撮影終了後、彼はハリウッドを離れ、その活動の舞台を香港に移します。いよいよ、彼の映画主演第一作となる「ドラゴン危機一髪」の撮影が始まります。(「ロング・ストリート」のパイロット版は評判が良かったため、すぐにシリーズ化されることになり、3作目に再び彼が出演しています。この作品はちょっと見てみたいものです)

<映画スターへの道>
 ブルース・リー第一回主演作品「ドラゴン危機一髪」は、香港ではなくタイで撮影が行われました。監督はロー・ウェイでゴールデン・ハーベスト社が製作。香港で公開されると、空前の大ヒットとなりました。そのヒットを受けて、すぐに彼はロー・ウェイ監督とともに第二作となる主演作「ドラゴン怒りの鉄拳」が撮影されます。日本人を敵にまわしたこの映画で、彼は初めてあの有名な「アチョー!」という怪鳥音を発しています。実は、この声は元々彼の一番弟子の一人、ダン・イノサントが発していた掛け声だったようです。
 もうひとつ、この映画で彼はかつて「グリーン・ホーネット」で使用したヌンチャクを再び登場させ、それが彼のトレード・マークのひとつとなります。実は、ジー・クン・ドーでは武器を格闘では使用しません。しかし、映画での効果を考えて、怪鳥音とともにヌンチャクを登場させたのでしょう。
 第3作「ドラゴンへの道」は、前ニ作の大ヒットのおかげで、ついにブルース・リー自らが監督、脚本、武道指導も兼任することになります。さらに彼はこの時、香港の大物製作者レイモンド・チョウとコンコルド・プロダクションを設立。いよいよ映画製作全般に関わるようになります。製作予算が大幅に増えたこともあり、撮影をイタリアのローマ、格闘技家にとっては伝説の舞台ともいえるコロシアムを使って行われました。さらに敵役には、彼の弟子の一人でもある空手チャンピオンのチャック・ノリスが登場し、映画は再び大ヒットとなります。
 1972年9月、休むまもなく彼は次なる作品「死亡的遊戯」(原題)の撮影に入ります。彼の弟子たちを敵にまわし、彼にとってジー・クン・ドーの集大成ともなったこの作品は、先にアクション・シーンが撮られ、その後製作が中断されることになります。前三作の大ヒットの話題がハリウッドにまで及び、ワーナー・ブラザースから主演映画の企画が送られてきたのです。こうして、ついに彼にとっての世界デビュー作となる作品「燃えよドラゴン」の撮影が始まります。

<ハリウッド・スターへの道>
 この映画のオープニングで彼がサモ・ハン・キンポー相手にみせる戦いこそ、究極のジー・クン・ドー・スタイルでした。オープン・フィンガー・グローブや関節技も含め、そこにはその後K−1など、総合格闘技の選手たちが目指すことになる戦いの基本形が見事に提示されていたといえます。ハリウッドのスタイルを取り入れつつも、彼のジー・クン・ドー哲学をも盛り込んだこの映画は、世界中で大ヒットとなりますが、その成功を彼は知ることなくこの世を去ることになります。
 1973年7月20日、彼はベッドに横になったまま、大脳浮腫という病で32年の人生に幕を下ろしました。いまだに、その死を原因不明とする場合もありますが、彼が頭痛薬として飲んだアスピリンの成分と腰痛の痛み止めとして使用していたメプロバイトという薬を併用したことによるアレルギー反応という見方が一般的なようです。
 麻薬による死亡説や香港マフィアによる暗殺説、筋肉増強剤の使いすぎによる病死説などもあるようですが、少なくとも彼が肉体的な疲労と精神的なストレスのピークにいたことは間違いなさそうです。わずか2年半の間に彼は次々に映画を撮り、世界を飛び回りましたが、それでもなお彼は世界制覇に向けた挑戦のスタート地点に立っただけでした。
 それは東洋人であるがゆえの人種的偏見をついに乗り越えたところだったといえるでしょう。そこから先の栄光を彼は味わうことなく力尽きてしまったのでした。しかし、彼が命を縮めてたどり着いたカンフー俳優の地位とカンフー映画というジャンルは、その後、ジャッキー・チェンやジェット・リーなど多くの俳優たちによって受け継がれることになります。
 彼にとって、それが夢半ばの悔しい死だったのか「心の調和と幸福」に至る死だったのか、それはわかりません。しかし、少なくとも彼はカンフー・ヒーローとして、永遠の生命を得たことだけは間違いないでしょう。21世紀に生まれた我が家の次男ですら、ブルース・リーを知っているのですから! 

<格闘シーンの奥深さに感動>
 先日、BS2でブルース・リー特集「最強の秘密」というドキュメンタリー番組を見ました。そのなかで行なわれたブルースの愛弟子による格闘シーンの解説に感動しました。まさかそれぞれの格闘の手順に必然性があり、それぞれの動きに意味があるとは・・・。そこで再現された格闘の美しさ感動しました。それは完全に一つの芸術作品として完成されていたのです。
 いかに彼の格闘が他の俳優たちと違うのか、そのリズム感やアクションの複合性、それぞれの動きの意味などについて知れば知るほど、その奥深さに感動するとともに、その後を継ぐことが困難であるのかを思い知らされました。
 肉体俳優として、ブルース・リーはチャップリンに匹敵する。だからこそ彼は永遠の存在になりえたのでしょう。ブルース・リーよ永遠なれ!

<締めのお言葉>
「あらゆる男は、命をもらった死である。
 もらった命に名誉を与えること。
 それだけが、男にとって宿命と名づけられる」

ウィリアム・サローヤン

[参考資料]
「ブルース・リー 駆け抜けた日々」上野彰郎著(AIRYUDO)
「世紀のブルース・リー」中村頼永著(ベースボール・マガジン社)

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