- バディー・ホリー Buddy Holly -

<もうひとりのロックン・ロール・ヒーロー>
 ロックの歴史は、ある意味ではエスニック・サウンドのポピュラー音楽化の歴史でもあります。その初期においては、R&Bという黒人エスニック音楽のポピュラー化によって、ロックン・ロールが生まれたわけですが、それはある意味では黒人音楽の白人化でもありました。そして、その立て役者の代表格こそ、あのエルヴィス・プレスリーであったわけです。
 彼はカントリー音楽という白人たちのダンス音楽をR&Bと組み合わせることによって、ロックン・ロールという新しいポピュラー音楽を白人層に広めることに成功しました。しかし、彼のあまりにセクシーな腰の動きは、当時かなりの反発をかったのも事実で、その拡がりは黄色い歓声をあげる十代の少女たちが中心とならざるを得ませんでした。
 そんな状況の中、白人の男の子たちの間にロックン・ロール・フィーバーが蔓延し、バンドを組んで演奏する者が急激に増えるきっかけとなったのが、もうひとりのロックン・ロール・ヒーロー、バディー・ホリーの登場でした。彼のもたらした影響の大きさは、日本においてはあまり知られていませんが、多くのロック・ミュージシャンたちは、彼の影響の元、バンドを結成し、後のロック時代を築いて行くことになります。

<映画「ペギー・スーの結婚」>
 例えば、フランシス・フォード・コッポラ監督の映画「ペギー・スーの結婚」は、バディー・ホリーの「ペギー・スー」、「ペギー・スーの結婚」を元にしたストーリーで、バディー・ホリーとその時代に捧げられた作品でした。
<映画「アメリカン・グラフィッティー」>
 今や「スター・ウォーズ」の監督としてアメリカを代表する存在となったジョージ・ルーカスの出世作、「アメリカン・グラフィッティー」においても、バディーの曲は取り上げられています。(「ザットル・ビー・ザ・デイ」、「メイビー・ベイビー」)作品中、町のヒーロー、ビッグ・ジョンは、バディーの死後登場したビーチ・ボーイズのおかげで「ロックン・ロールはもうお終りだ」と言っています。彼にとって新時代のヒーロー、ビーチ・ボーイズは、西海岸の軟弱な坊ちゃんバンドにすぎなかったのです。

<「アメリカン・パイ」におけるアメリカの死>
 そして極めつけは、1972年に世界中で大ヒットを記録したドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」において、「バディーの死によって、アメリカの音楽は死んだ」と歌われたことでしょう。ドン・マクリーンは、日本ではこの一曲しか知られていませんが、アメリカではその後、あの情熱の画家ゴッホのことを歌った「ヴィンセント」をヒットさせるなど、知的なシンガー・ソングライターとして人気のあるシンガー・ソングライターです。それだけ、バディーの与えた影響は大きかったということですが、それはアメリカだけに限ったことではありませんでした。

<ビートルズとバディー>
 バディーがロック界に与えた最大の影響は、なんと言ってもビートルズに関するものでしょう。それは、ビートルズが築いたロック・バンドの基本、二本のギターとベース&ドラムスという組み合わせは、バディーがその先駆けだったということです。ビートルズのメンバーは、元々バディーのファンで、彼らが最初に自宅で録音した曲もバディーの曲だったと言われています。(ジョンのソロ・アルバム「ロックン・ロール」にもバディーの「ペギー・スー」が取り上げられていました)そして、ザ・ビートルズ(かぶとむし)という名前自体も、バディ・ホリーのバック・バンド、「ザ・クリケッツ(こおろぎ)をマネたものなのです。
 ついでながら、同じイギリスのバンド、ザ・ホリーズは、そのまんまバディーの名前をいただいています。(かつてグラハム・ナッシュが在籍していたバンドで「バス・ストップ」のヒットが有名です)
 さらに言うなら、あのエルヴィス・コステロがデビューした時の、出で立ちもまたバディー、そのままでした。

<テキサスの真面目青年>
 バディー・ホリー(本名チャールズ・ハーディン・ホリー)は、1936年9月7日テキサス州のラボックという小さな町に生まれました。彼の家はごく普通の中流家庭でしたが、家族全員が音楽好きだったため、彼もピアノやスティール・ギターのレッスンを自然に受けていました。その後、高校に入ると彼は友人達とバンドを結成するようになりましたが、当時彼らが演奏していたのは、ほとんどがカントリー・ナンバーでした。時代は1950年代前半、まだまだロックン・ロールはテキサスの片田舎では、広まってはいませんでした。しかし、そんな状況を変えてしまう出来事が起きたのです。

<人生を変えたエルヴィス登場>
 町にあのエルヴィスがやって来たのです。そのライブを見て衝撃を受けたバディーは、なんと自分の学校にエルヴィスを招くなど、さっそく彼への憧れをかたちにし始めました。そして、すぐにロックン・ロールを演奏するためのバンド、クリケッツを結成しました。
 ベースはジョー・モールディン、ドラムスがジェリー・アリソン、ギターがニキ・サリヴァン、そしてもうひとつのギターとヴォーカルを自らが担当しました。このバンドによって、すでにカントリーのナンバーとして吹き込みを行っていた「ザットル・ビー・ザ・デイ That'll Be The Day」をロックン・ロール・ナンバーとして録音し直したところ、さっそくブランズウィック・レーベルから発売されることになりました。(当時エルヴィスの驚くべき人気にあやかろうと、多くのレーベルが第2のエルヴィスを探していた)

<ヒット連発>
 「ザットル・ビー・ザ・デイ」は、一気に全米5位のヒットとなり、彼はその後もヒットを連発して行きます。
ペギー・スー Peggy Sue」、「メイビー・ベイビー Maybe Baby」、「オー・ボーイ Oh Boy!」
レイブ・オン Rave On」、「シンク・イット・オーヴァー Think It Over」など
 どれも今やロックン・ロールのスタンダード・ナンバーといっていい名曲ばかりです。これだけのヒットを連発したバディーですが、彼の音楽はエルヴィスのロックン・ロールとは全く違うものでした。

<ロックン・ロールの新しいスタイル>
 エルヴィスの派手な衣装やヘアー・スタイル、そして白人としては誰よりもセクシーな腰の動き、誰よりも不良っぽい歌詞に比べると、バディーはあまりに真面目な好青年でした。逆にそんな真面目さを誇張するかのように地味なスーツに四角いべっこう縁のメガネという独特のスタイルで舞台に立っていました。と言っても、それは計算ずくの自己演出というよりは、素直な自分らしさの表現だったようです。彼の書いた曲の歌詞を見ても、そこには彼の素直さ生真面目さが、にじみ出ています。実際、彼は、酒もドラッグも、あらゆる世俗の堕落から縁遠い存在だったのです。(彼は酒をほとんど飲まなかったようです)そして、そんな彼こそがアメリカに住む若者たちを代表する普通の姿だったのです。世の若者たちは、みんながエルヴィスを求めていたわけではありませんでした。実際、アメリカに住む若者のほとんどは、エルヴィスではなくバディーに親近感を感じていたのかもしれません。(もちろん、エルヴィスへの憧れは強烈なものでしたが・・・)アイゼンハワー大統領のもとアメリカは、まだまだ平和でのどかな国だったのです。
 そんなわけで、彼の歌はアメリカの多くの若者たちの心を代弁するものだったわけです。

<突然の死>
 1959年2月3日、彼はパッケージ・ツアーをいっしょに行っていた二人のスター、ビッグ・ボッパーリッチー・バレンスとともに飛行機をチャーターし、次のコンサート会場へと出発しました。しかし、その途中アイオワ州のトウモロコシ畑に飛行機が墜落、全員が帰らぬ人となったのです。この時、バディーはまだ22歳という若さでした。
(この時、飛行機に乗らずに命拾いをしたのが、後にカントリー界のスーパー・スターになるウェロン・ジェニングスでした)

<古き良きアメリカの終焉>
 彼こそは古き良きアメリカが生んだラスト・アメリカン・ヒーローだったのかもしれません。そして、その人生は結局、堕落やマンネリに陥ることもなく終わりを向かえました。それはアメリカが古き良き時代に別れを告げた年、1950年代最後の年の出来事だったというのも、象徴的です。
 だからこそ、彼の生み出したロックン・ロールは、どこまでも純粋無垢な音楽だったのです。それは、ドラッグにも、人種問題にも、ベトナム戦争にも影響を受けることがありませんでした。それは、アメリカの黄金時代をタイムカプセルに詰めたものだったのです。

<締めのお言葉>
「・・・人間の数ばかりやたらに増えただに、良心の方は昔どおりで増えはしねえんだべ。それで良心を薄く伸ばして間に合わせることになっただよ。こうなると良心は、もう自分のためのもんでも、人のためのもんでもねえ、ただ見せびらかす分だけありゃあええだから、薄っぺらいもんで充分つうことなっちまったんだな」
ラスプーチン著「マチョーラとの別れ」より

<参考資料>
「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著(音楽之友社)

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