崩壊した文明の歴史を追って


「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの Callapse How Societies Choose to Fail or Succeed」
<PART 1>


- ジャレド・ダイヤモンド Jared Diamond -

<文明崩壊の歴史>
 「銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎」(2000年)でピュリツァー賞(ノンフィクション部門)を受賞した進化生物学者ジャレド・ダイヤモンド Jared Diamond の「文明崩壊」を読みました。世界各地の崩壊した文明には、それぞれの歴史があり、そうはならずに危機を乗り越えた例もあります。そうした「文明崩壊」の歴史を広く深く解説し、そこから人類社会がこれから生きのびて行くために必要なことを示そうとした超大作。
 ここでは、それをあくまでも僕の理解の範疇、僕の視点でまとめてみました。わかりやすくとは思いつつ書いてみましたが、なにせ大幅にカットしているわけなので、これはあくまでも「大筋」にすぎないとご理解ください。

 脆弱で対処しにくい環境に住む人々は、”短期的”には見事な成果をもたらす理に適った解決策を採用するが、長期的に見た場合、そういう解決策は、外因性の環境変化や人為的な環境変化 - 文書に記された史実を持たず、考古学者もいない社会では、未然に防ぐことができなかった変化 - に直面するとき、失敗するか、あるいは致命的な問題を生み出すことになる。

<社会を崩壊させる要因とは?>
 ある社会・文明の崩壊は、以下の五つの要因のどれかに関わって起きる。
(1)環境被害によるもの
 森林、土壌、魚介数など、人間たちが生きるために変えてしまった地域環境は、人間が生きて行けない状況を作ります。
 ただし、その影響は地域の気候風土によって大きく異なり、その環境の脆弱性(損傷の受けやすさ)、復元力(損傷からの潜在的回復能力)によっても違ってきます。
(2)気候変動
 長い地球の歴史において、太陽熱の変化、火山の噴火、地軸の傾きの変化、地表面の陸と海の配分変化、氷河期の到来・・・がもたらしてきた巨大な気候の変動は、人類にはいかんともしがたいものです。
 しかし、人間が引き起こしたものであっても、現代社会においては地球温暖化の問題もまたこの要因のひとつに含まれます。それぞれの文明は、こうした気候変動の波の中のどの状況下で生まれたのか(良い時か悪い時か)によって、その運命は大きく違ってきます。
(3)近隣の敵対集団との関係
 近隣の集団との関係は、その社会の未来に大きな影響を与えます。
 敵対する関係は、その社会が侵略する側か、侵略される側か、さらにその力関係にもよりますが、戦争によって一気に他方を崩壊させる可能性があります。帝国主義時代のヨーロッパの国々は、その軍事力の差によって多くの社会、民族を絶滅に追いやりました。
(4)友好的な取引相手としての関係
 近隣の集団と友好な関係を築くことで、二つの社会はそれぞれの欠点を補い合いより強力な社会を作り上げることが可能になります。しかし、その関係はある日突然途絶える場合、急激にその社会は危機に追い込まれることにもなります。過剰な依存関係は、文明崩壊の原因になりうるともいえます。
(5)問題への社会の対応
 政治的、文化的、宗教的、経済的な価値観の違いによって、それぞれの社会が直面する問題への対応は異なります。そうした対応の中でも歴史的に積み上げられたものは、それぞれの地域にとって有効な場合が多いのですが、他の地域から来た人びとの場合、その地域の特性に合わない対応をとる場合があります。それが成功する場合もありますが、厳しい環境の場合はその社会が崩壊の危機に追い込まれる場合もあります。

<なぜ彼らは危険な賭けに出たのか?>
 文明崩壊を防ぐ最大の方法は何か?
 実は、それは簡単なことかもしれません。崩壊する可能性が高い土地に進出しなければ良いのです。もちろん、崩壊した文明を築いた人々の多くは、好きで冒険の旅に出たのではないのでしょう。

 歴史上のどんな進出であれ、その契機となったのが”押す力”(母国の人口増加による圧力、そのための好機の減少)なのか”引く力”(外国を植民地化できる好機、未居住の魅力的な区域の存在)なのか、あるいは双方の力が働いたのかを追求する必要があるでしょう。
 例えば、ヴァイキング族の場合は、母国ノルウェーの人口増加と王権の強化による治安の安定が「押す力」になりました。そして「引く力」は、入手く可能な無人と土地、居住済みでも裕福だったり無防備なために略奪可能な土地の存在がありました。


(1)崩壊した文明たち
モンタナ州(アメリカ) 
・・・大衆は一般に、木深い森の美しさを好み、自然に対する”不自然な”干渉を厭い、森を”自然な”状態にしておきたがり、増税という形で間引き費用を負担することをけっして望まない。彼らもまた、一世紀に及ぶ鎮火政策、伐採、ヒツジの放牧によって、西部の森林がすでにきわめて不自然な状態になっていることを理解できずにいるのだ。・・・

 自然の森では、乾燥した時期に雷などによって山火事が起きるのは当然のことです。それをすぐに消火してしまうと、森には燃えやすい木や雑草などが増えてしまいます。そうなると、一度火事が起きると、それはどうしても大きな山火事に発展してしまいます。これが21世紀にアメリカ西部で毎年のように起きたいる大きな山火事の原因です。

 モンタナ州だけでなく、アメリカ各地やインド、トルコ、オーストラリアなどの土壌には、水溶性の塩類(ナトリウム、カルシウム、硫酸マグネシウムなど)が多い土壌で、耕地化するために植物を刈り取ると、それまで根によって吸収され溜め込まれていたものが、そのまま土壌内に拡散されてしまいます。この状況が表面化しているのが、上記の国々です。
イースター島(南太平洋)
 イースター島は、いち早く繁栄した文明社会でしたが、ある時期に島の木をすべて失うことで社会が崩壊してしまった歴史があります。
<森林喪失の条件>
 ある土地の森林が失われてしまう条件とは何なのか?(島の場合)
(1)湿潤な島より乾燥した島(雨は植物に不可欠)
(2)赤道付近の温暖な島より、高緯度の寒冷な島(雨が少なく寒さも植物にとって不利な条件)
(3)新しい火山島より、古い安定した地盤の島(火山灰が土壌にとって栄養分となる)
(4)火山灰が大気中を降下してこない島(火山灰は土壌にとって栄養分となる)
(5)中央アジアの風送ダスト(黄砂)が届かない島(黄砂は土壌にとっての栄養分となる)
(6)サンゴ礁の隆起によってできた島(マカテア島のような)ではない土地の隆起でできた島(土壌の栄養分が少ない)
(7)標高が低い島(雲ができにくく雨量も少ないので)
(8)近隣関係のある島より、隔絶した島(貿易による物資の交換が困難)
(9)大きな島ではなく小さな島(簡単に環境が悪化してしまう)

 この条件は、イースター島についてどう当てはまるのでしょうか?
(1)乾燥した島である(2)緯度は太平洋の島で3番目に高い(3)中ぐらいの古さ(4)火山灰はほとんど降らない(5)黄砂は届かない
(6)サンゴ礁でできた島ではない(7)海抜は島全体が低い(8)近隣の島から遠い(9)小さい島

 イースター島から森が失われたのは、単に島民が愚かだったからではない。上記のようにこの島の環境条件があまりにも森の再生に不向きだったからです。
 島には、紀元900年ごろには人間が定住したいたと考えられます。その後、島の文明は発展しますが、17世紀ごろには樹木が完全に消えていたようです。島の最盛期の人口は6000人から3万人と考えられ、当時は12の部族が存在していたようです。しかし、森林が伐採されることで、食糧の生産も困難になります。ついには社会の維持も困難になり、部族間の争いが激化。ついには食糧の不足が人肉食にまで発展してしまいます。
 1774年にクック船長が島に上陸した時、島の人口は往時の30%程度にまで減っていたようです。その後、1888年にチリが島を植民地として併合したため、島民の半分がチリ人となり、純粋なイースター島の住民はいよいよ消え去りつつあります。
ピトケアン島とヘンダーソン島(南太平洋)
 太平洋には、イースター島以外にも、文明に見捨てられた謎の島があります。ピトケアン島とヘンダーソン島という隣り合う二つの島も、その代表的存在です。この二つの島には、かつえ多くのポリネシア人が住んでいました。しかし、1790年にイギリスの戦艦バウンティ号で叛乱が起き、船から逃げた船員たちがピトケアン島にたどり着いた時、すでに無人島になっていました。隣のヘンダーソン島も無人化していて、その隣のマンガレヴァ島だけに細々と住民がいただけでした。
 元々これらの三つの島には、800年ごろにはポリネシア人が住み始めていたようです。
 マンガレヴァ島は、雨も降り、緑も多く数千人が住んでいたため農産物が取れていましたが、斧などに使う良質な石がありませんでした。(当時は金属はなく石器)
 ピトケアン島は、小さくて農地に適した土地も少なく火山島だったため、魚介類を獲るには困難な海岸線でしたが、火山ガラスに恵まれていたため、石器に使う石は豊富でした。
 ヘンダーソン島は、三島の中では一番大きな島ですが、サンゴ礁が隆起してできた島だったため、標高が低く、農地も水も不足し、石器用の石もありませんでした。その代わり、島の周辺では魚介類、ウミガメ、海鳥ら、食用の動物資源が豊富でした。
 三つの島は、交易を行うことでお互いが不足するものを補い合い共存することが可能だったともいえます。ただし、その安定は微妙なバランスの上に成り立っていました。ある時期に三つの島のうち、最も大きな島であり農業に向いていたマンガレヴァで異変が起きます。マンガレヴァ島は人口の増加と共に森林の伐採が進みましたが、イースター島と同じように土壌が痩せていて再生困難な土地でした。そのため一気に森林の喪失が進み、マンガレヴァ島の経済は崩壊。そうなると、マンガレヴァ島の農産物に頼っていた他の二つの島は、すぐにその影響を受けることになります。ついにはカヌーを作るための木もなくなり、航海もできなくなると、3島は分断され食糧不足から戦争、人肉食、動物たちの絶滅が進み、ついには人間も消えてしまうことになったのでした。
アナサジ族(北アメリカの先住民)
 アメリカ南西部(現在のコロラド、ニューメキシコ、アリゾナ周辺)に、11世紀から12世紀にかけて数千人規模で暮らしていたアメリカの先住民アナサジ族。後のホピ族などの先住民は、その文化を受け継いだとも言われます。当初彼らが住んでいた地域は、乾燥地帯でもあり土地も痩せていたため森林の再生能力が不足。1000年ごろには森林が喪失。それでも他の地域から木材を運ぶことで発展を続けましたが、1130年ごろ旱魃が発生し、それが4年続いたために一気に住民が消えることになったようです。それから600年後にナバホ族がその地域を領有するまで、そこは無人の土地であり続けたのでした。
マヤ文明(ユカタン半島)
 マヤ文明は、アメリカ人のジョン・スティーブンスとイギリスの画家フレデリック・キャザーウッドにより、1839年に再発見されることで知られることになりました。彼らはその後44か所の遺跡と都市を調査しました。
 実は、マヤ人は、再発見よりはるか昔の1502年にヨーロッパ人と接触していて、スペイン人によって1697年に征服されていました。この時、スペインの司祭ディエゴ・デ・ランダは「マヤ文字」で書かれた書物をすべて焼き払い、マヤ文明の痕跡を消し去ろうとしました。残った書物はわずかに4点。それでも、残された文字からマヤの歴史が少しずつ明らかにされることになりました。マヤ文明があったメキシコのユカタン半島は、熱帯雨林ではなく雨季が「季節熱帯林」で乾季が「季節砂漠地帯」と呼ぶべき地域で、旱魃や台風の影響を非常に受けやすい特徴がありました。食料はトウモロコシと豆が中心でタンパク質は常に不足していました。そのため、マヤ文明は常に食糧不足の危機にあり、畑に縛られていたため、それぞれの小国はその地域を離れられずにいたようです。
 わたしたちは、軍事の成否は食糧の供給よりむしろ武器の質で決まると考えがちだ。しかし、食料供給の実情を改善することで、軍事の成功率が確実に上昇することもある。
 食糧の運搬が困難な環境での戦争が起きた場合は、特に上記の問題が重要な意味をもちました。(マヤの山岳地での戦闘はまさにそれでした)

 800年以降、繁栄を続けていたマヤ文明は、最盛期の90%から99%の人口が失われました。その原因は?

 マヤでは、人口の増加により食糧の供給が追い付かなくなります。そのため農地を増やすための森林伐採が進み、彼らの住む丘陵地はどんどん浸食されてゆきました。減少する食糧をめぐる争いは激化。(この時期には人口が500万に達していたとも言われます)
 さらにその状況を旱魃が襲いました。マヤ族の各部族の王たちは、それぞれが小国だったこともあり、バラバラの戦いを続け生き残りを目指します。しかし、彼らには長期的展望などなく、結局は共倒れとなりました。
ヴァイキング族(北欧)
 かつて北の海を支配したヴァイキング族。彼らは現在のスカンジナビア半島(ノルウェー)を中心にヨーロッパ各地にその活動範囲を広げ、西はアメリカ大陸にまで、コロンブスよりも遥かな昔に到達していました。彼らは、アイスランド、グリーンランドを領土とした後、北アメリカ(ニューファンドランド島近辺)にも移民を行おうとしましたが、それには失敗したようです。それだけではなく、グリーンランドからもしばらくの地に撤退していて、当時の街が廃墟として残されていました。向かうところ敵なしだった彼らは、なぜそれらの島々から撤退してしまい、その後はヨーロッパ全域でもその勢いを失っていったのでしょうか?
 ノルウェー西部で暮らしていたヴァイキング族たちは、元々は農耕民族で豊かな農地を利用して繁栄を築きました。しかし、繁栄は人口の増加と共に農地の不足による食糧危機をももたらしました。そこで彼らは、700年ごろアジアから伝わってきた帆の技術を利用した新型船を建造。その船に乗って、イギリス、アイルランド、アイスランドなど西へ西へと開拓を進めて行きます。
 フェロー諸島には800年ごろに到着し、アイスランドには870年ごろ、グリーンランドには980年ごろに到達。1000年ごろにはついに北アメリカのニューファンドランド島、セントフローレス島などを発見し、そこを「ヴィンランド(ワインの国)」と名付け、移民を開始しました。
 そもそも彼らが西の海へと旅に出たのには、いくつかの理由がありました。例えば、793年に彼らがリンディスファーン修道院の襲撃によって、簡単に大量の略奪品を手にしたことで味をしめます。守りの手薄な島や街を攻撃すれば、楽に稼ぐことができると考えた彼らは、船に乗って西へ西へと略奪と移民の旅に出るようになったようです。フェロー諸島やアイスランドの発見は、まさにその成果でした。その勢いに乗って彼らは、グリーンランド、アメリカ大陸を発見したわけです。しかし、そうした彼らの戦略にも落とし穴がありました。

 ヴァイキング族たちは、移住先のアイルランドやグリーンランドで寒冷地に適応できるよう羊やヤギを飼っていましたが、広い牧草地を必要とするためしだいに草地や森林が失われて行きました。それでも氷河によって削られた土壌をもつアイスランドでは草地の再生は可能でしたが、痩せた土壌しかないグリーンランドでは、それが上手くゆきませんでした。なおかつその土地には先住民のイヌイットがいて、ヴァイキングたちと対立していたようです。厳しい土地で生き抜くためには、長年その土地に住んできた住民たちとの交流は必要だったはずが、彼らは逆にイヌイットたちを攻撃し、自らの首を絞める結果となりました。なぜ、彼らはそこまでイヌイットたちとの交流を拒否し続けたのか?

 元々は故郷のノルウェーを飛び出したはみ出し者だったはずのヴァイキング族でしたが、しだいに故国であるノルウェー王国の一員となり、故国の宗教であるキリスト教を受け入れて行きます。(それまでは土俗的なケルト民族独自の信仰を持っていました)キリスト教の教会組織にも所属しながら、ヨーロッパの一員としてのメンタリティーをもつようになってゆきますが、それは逆にキリスト教以外の宗教をもつ民族を蛮族と見なし差別するようになることでもありました。
 北アメリカのヴィンランドでの生活を始めたヴァイキングたちも、すぐに先住民と対立。しかし、500人程度の人口しかなかった集落では、多勢に無勢だったために、結局は自分たちが追い出されることになったのでしょう。わずか10年ほどで、彼らはその土地を捨て去ることになったのでした。
 グリーンランドでも彼らがもし、イヌイットたちに北の海に適応したカヤックの技術やクジラ漁の方法などの知恵を学んでいれば、きっとその地で生きて行くことは可能だったはずです。彼らはそうした方法を受け入れることをせずに自ら絶滅への道を選択したといえます。
 こうして北の海へと進出したヴァイキング族は、多くが撤退を余儀なくされたわけですが、その他、フランスやアイルランドに住み着いた人々は、それぞれその土地の住人としての道を歩み出し、その名残は「ゲール語」やケルト音楽などに見ることができます。

・・・異変の少ない現代社会に住むわたしたちにとって、グリーンランド人たちが陥った苦境のほどを推し量るのはむずかしい。とはいえ、生物学的な生存と同じくらい社会的な生存にも関心を払っていたグリーンランド人たちにとっては、単に現世のひと冬を乗り切るためだけに、教会への投資を減じ、イヌイットのまねをしたりイヌイットと婚姻関係を結んだりしたあげく、永遠に地獄の業火を浴びることなど、論外だったのだ。ヨーロッパのキリスト教徒の理想像に執着したことが、前述したグリーンランド人の保守性を形作る一因となったと言ってもいいだろう。つまり本物のヨーロッパ人よりヨーロッパ人らしくあろうとしたことが、文化上の足枷となった、その生活様式に抜本的な変更 - 生存に役立ちうる変更 - を加えられなかったわけだ。



<危機を乗り越えた成功例>
 人類の歴史には、文明崩壊の歴史とは異なり危機を乗り越えることに成功した例もあります。その中で、人々がそれぞれ知恵を出し合い、指導者からの指示待ちではなく個々の対応によって危機を達した例があります。
(2)危機を乗り越えた文明
ニューギニア(南太平洋)
 太平洋の南に位置するニューギニアにおいて、文明は早くから発達。約4万6千年前には社会と呼べるものが存在しました。現在でも原始的な文明しか存在しないように思えるニューギニア高地の人々ですが、彼らは様々な危機を乗り越えてきた歴史があります。
 王も文字も金属ももたない人々が、なぜ文明の危機を乗り越え続けてこられたのか?

 高温多湿、1万ミリの雨が降る土地で畑を作る方法を、彼らは長年の経験によって少しづつ改良し現在の形を作り上げたようです。(雨にも崩れない排水路の作り方、有機土壌の作り方、効率的な段々畑の作り方、モウクマオウの木を用いた育林・・・
 かつてニューギニアでの森林が伐採や焼き畑によって危機に陥った歴史があります。その中で、住民たちは様々な試行錯誤の後、「モクマオウ」などの木を植林することで森を再生させることに成功します。しかし、人口が増加を続けたため、食料不足、環境破壊が深刻化。それに対しても、住民たちは様々な方法で対応します。その多くは、あまり倫理的とは言えないものですが、当時としてはそれしかありませんでした。戦争、嬰児殺し、避妊、堕胎・・・。
 ただし、こうしたやり方を長い年月をかけて見出すことができたのは、この土地が多雨、高温だったことや、アジアからの黄砂が届き、火山もあるために火山灰という栄養が降る好条件に恵まれていたからです。
ティコピア島(南太平洋)
巨大な島ニューギニアに比べ極端に小さな太平洋の島、ティコピアの森もまた歴史的に環境の保存に成功した例と言われます。
 この島の面積は、5平方キロで人口はわずか1200人ほどです。この島は3千年に及ぶ歴史の中で、森を含めた自然環境を見事に守り続けてきました。

「友よ、海の響きが聞こえない土地が、どこかに存在するのか?」
島の住民の言葉
 あらゆる種類の空間を示す際に、彼らは”陸側”と”海側”という表現を使う。したがって、家の床に置かれた斧の位置も、その方法で言い表される。

 この島は小さいだけでなく周囲のどの島からも離れていました。そこで住民たちは、よその島に頼ることなく自力で生き延びる様々な方法を考え出さざるをえませんでした。

 ティコピア島民の生存を支えるだけの主食を輸入することなど、望むべくもなかった。とりわけティコピア島では、乾季の5月と6月、そして予測不能な間合いで菜園を破壊するサイクロンの襲来後に備えて、飢餓を避けるためのじゅうぶんな余剰食糧を生産し、貯蔵しなくてはならない - ティコピア島は太平洋の主要なサイクロン・ベルト内に位置し、十年間に平均20個のサイクロンに見舞われる。つまり、ティコピアで生き延びるには、3000年にわたってふたつの問題を解決する必要があった。どうすれば、1200人の住民を養うに足る食糧供給を確実に生み出せるのか?そして、どうすれば、人口を維持可能な水準にとどめておけるのか?

 この島は、高温多湿、火山灰、黄砂など植物の育成には良い条件がそろってはいました。しかし、人口の増加によって島の農地はあっという間に失われる可能性はありました。その危機に対し、島の住民は島民全体による徹底した管理によって望みました。

 島のほぼ全域は、細部まで管理され、他の太平洋上の島々で普及している焼き畑式農業とは一線を画す、持続可能な安定した食糧生産に充てられている。ティコピア島のほとんどすべての植物種は、なんらかの形で人々に利用され、雑草でさえ菜園の根覆いの役を果たし、野生の樹木は飢饉の際の食糧源となる。

 海産資源については、魚を獲ったり食べたりするには、首長の許可が必要だったため、乱獲は防げていたようです。そして、保存食としては、パンノキの実を穴に埋めて発酵させ、でんぷん質のペーストにする食べ物が生み出され、それにより2~3年の保存が可能となりました。食用として飼われていた豚の飼育をやめ、動物性の食糧には魚介類とウミガメのみにしました。(豚1ポンドの肉のためには、野菜10ポンドのエサが必要です)
 さらに重要な対策として、島民たちによる人口の抑制策もありました。性交中絶法による避妊、堕胎、嬰児殺し、未婚、自殺、戦争・・・。
日本(江戸時代)
<江戸時代における日本の森林管理>
 日本は、人口過密国でありながら、先進国の中で第一位の森が多い国です。(約74%)しかし、そんな日本にも森が失われる危機がありました。特に戦国時代の終わりには、多くの武将たちが城を築くため、食糧を得るために森を切り開き、一気に緑が失われることになりました。それでも1615年に徳川家康が豊臣家を滅ぼしたことで戦国時代が終わり江戸時代が始まると、日本は長い平和の時代に入ります。もちろん、そうなると城は不要となるものの、人口は増えることになり、それを支えるために再び、より広い農地と大量木材が必要となります。
 1650年ごろには、都市部近辺から森が消えてしまい、木材は遠くまで行かなければ手に入らなくなります。そこで、江戸幕府はそのための対応策に着手します。
 農地の拡大を止めるため、漁業に力を入れ、アイヌ民族との交易を増やし、食糧輸入を増やしました。
 幸い平和の訪れと共に人口の増加は抑制され始めます。晩婚化、避妊、堕胎などが普及したことで、1721年から1828年の間の人口は2610万から2720万になっただけでした。(一時は倍増ペースでした)
 17世紀末に石炭が新たな燃料として登場し、その普及により薪の使用量が減り出しました。
 
<森林管理システムの確立>
 江戸幕府は、森林の減少に歯止めをかけ、再生させるための管理システムを作り始め、1700年ごろにはそれが確立されました。それにより、森を直接管理する専従上級役人の設置。森を村の共有財産にして、他の村には利用できないようにします。これにより、森は村人たちの財産となり、彼ら自身が責任をもって管理。その森で育った木は、幕府の許可を得ることで販売できるので飢饉などの際、村の資金源として利用できることになりました。平和になって仕事を失った侍たちは森の管理者となり、木の一本一本までも目録に収め詳細な管理目録を完成させました。
 管理システムは、森の管理だけでなく木材の運搬や販売に関しても行われました。すべての木が誰のもので、何のために利用できるものかが把握されデータ・ベース化されていました。さらにこの管理システムの導入と並行して、1697年には宮崎安貞の「農業全書」など育林の専門書を作られ、森を再生させるための研究も行われていました。
 1750年から1800年にかけてこの管理システムは、全国へと拡大し、材木の生産量は上昇に転じます。
 元々日本は植物の成長に向いた土地柄ではあります。多雨、火山灰、黄砂、土壌の豊かさ・・・さらにヤギや羊など草を食べる家畜も少なく、魚介類などの食糧資源も豊富でした。しかし、日本における森林管理システム成功の最大の原因は、「平和」にあったと言われています。
 長きにわたる「平和」は、将軍だけでなく大衆にも長期的ビジョンをもたらし、誰もが自分たちの孫子の代にまで資産となる森を残したいという気持ちを育てたのです。「平和」=「将来への希望」となり、それが環境の保持を意識させる社会を生み出したのです。
 平和なき場所に環境保護はあり得ない・・・これは歴史も示しているのです。


「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの Callapse How Societies Choose to Fail or Succeed」 2005年
(著)ジャレド・ダイヤモンド Jared Diamond
(訳)楡井浩一
草思社
ジャレド・ダイアモンドの他の作品
銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎 

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