からっぽの納屋を燃やすからっぽな青春


映画「バーニング(劇場版)」&小説「納屋を焼く」

- イ・チャンドン&村上春樹 -

<村上春樹原作映画>
 村上春樹が大好きな僕ですが、彼の小説を映画化した作品については今まで一度も取り上げてきませんでした。しかし、「納屋を燃やす」を韓国の巨匠イ・チャンドンが映画化した「バーニング」は、お薦めしなければなるまい!そう思いました。これは村上春樹原作という注釈が不要な傑作です。
 男二人と女一人による美しい映像世界はテレンス・マリックの「天国の日々」を思わせます。小説の映画化でありながら「映像詩」と呼ぶべき美しい世界を作り上げた監督の手腕と3人の俳優の魅力に脱帽です。
 村上春樹原作の映画はそもそも数も少なく、作者の知名度の高さの割にほとんど見られていません。唯一の長編小説の映画化「ノルウェイの森」の他は、どれも中編か短編の映画化なので当然かもしれません。ただ数は少なくても、著者が許可した作品なだけにそれぞれのレベルは高いようです。少なくても大森一樹監督の「風の歌を聴け」、市川準監督の「トニー滝谷」、トラン・アン・ユン監督の「ノルウェイの森」はそれぞれ見ごたえのある作品だったと思います。
 しかし、「バーニング」はそれらの作品をも上回る傑作に仕上がっているように思います。

<監督の二つのタイプ>
 一流の映画監督には、2つのタイプがあります。
 一つは、素晴らしい物語をそのまま一本の映画に収める職人タイプの監督。もう一つは、素敵なエピソードをモチーフにそこから映像による物語を構築する芸術家タイプの監督です。
 ハリウッド映画の巨匠たちのほとんどは、前者に属しています。後者のタイプは、ハリウッド以外に多く、ゴダール、ウォン・カーウエィ、アッバス・キアロスタミ、フェリーニ、小津安二郎、岩井俊二、ベルトルッチ、ブニュエルなど世界中の偉大な監督の多くはこちらのタイプです。
 アメリカ人で後者に属している監督は少なく、ジム・ジャームッシュ、トッド・ヘインズ、デヴィッド・リンチ、テレンス・マリック、ハル・ハートリー、ジョン・カサベテスくらいでしょうか・・・。そして、もっと少ないのが両方の才能をもつ巨匠中の巨匠ともいえる監督です。
 その数は本当に少なく、ロバート・アルトマン、マイケル・チミノ、フランシス・フォード・コッポラ、オーソン・ウェルズぐらいしかいません。ただし、彼らはいずれも一度は歴史的な失敗作を撮り、監督のキャリアを失う危機に直面しています。たぶん両方の才能を持つことは、呪われるべき運命を招くのかもしれません。
 そんな二つのタイプの監督は、職人タイプの前者なら長編小説の映画化が得意で、芸術家タイプの後者なら短編・中編小説の映画化を得意とするはずです。そして、この映画「バーニング」のイ・チャンドン監督はと言えば、ハリウッド映画的なエンターテイメント性を得意とする韓国映画には珍しい後者のタイプに属すると言えそうです。この作品も、韓国映画的なエンターテイメント性やアクの強さはあまりなく、村上春樹的な無国籍世界観が展開されています。しかし、監督のこだわりの強さは、様々なシーンの素晴らしい映像に表れて、小説の世界を見事に映像化しただけでなく、さらなる地点にまで高めることに成功しています。

<韓国のテレンス・マリック>
 美しい夕暮れ時に展開するこの映画のクライマックス、庭での3人のパーティーの場面の美しさは映画史に残るものです。しかし、なんとこのシーンの撮影には1か月をかけたと言います。日没(マジック・アワー)のわずかの時間はあっという間に終わってしまうので、それだけかかるのも当然かもしれません。それだけにこのシーンの美しさは本当に貴重です。あのテレンス・マリックの「天国の日々」を思い出しました。
 メイキング映像で解説がありましたが、この映画の中の鳥たちが編隊を組んで空を飛んで行く場面もまた苦労して撮られたようです。なぜ、そこまで鳥たちが空を飛ぶ映像にこだわったのか?それは原作の小説を注意深く読むとわかります。小説のラストにこうあるのです。

 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまさりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。
 どこかで納屋が焼け落ちたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は歳をとりつづけていく。
 夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。


 映画版にだけあるシン・ヘミがユ・アインに語る子供時代の井戸に落ちて助けられたという逸話。これもかなり印象的なエピソードですが、これは明らかに原作者、村上春樹へのオマージュでしょう。「井戸」といえば村上春樹ですから。さらに細かいところでは、原作にもあるフォークナーの小説とマイルス・デイヴィスの音楽も映画版で登場します。

 短い小説を映画化しているので、原作にはない場面を増やす余裕があることから、監督ならではの追加シーンがあり、それがこの映画に映画ならではの魅力をもたらしています。それはラスト30分に凝縮されていますが、その部分については後程。
 その前に原作に忠実な部分を3人の登場人物についてみてみます。

<シン・ヘミと蜜柑>
 映画でも描かれている蜜柑の皮をパントマイムでヘミが剥く場面、これはヘミの人格を象徴する重要な場面です。それは原作でも描かれています。この場面だけで、ヘミを演じるチョン・ジョンソの存在感は観客の心をつかんだはずです。

「あら、こんなの簡単よ。才能でもなんでもないのよ。要するにね、そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」

 チョン・ジョンソは、オーディションで選ばれたまったくの新人で、その新鮮さがこの映画に大きな魅力をもたらしています。特に彼女の踊りは素晴らしく、原作にはないアフリカのダンス「グレート・ハンガーとリトル・ハンガー」の部分は、小説では表現が困難な映画版ならではの魅力です。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」に登場する主人公ホリーを演じたオードリー・ヘップバーンを思せる不思議な魅力をもつキャラクターを見事に演じています。

<ベンと納屋>
 謎の青年ベン役のスティーヴン・ユァンもまた重要なキャラクターを見事に演じています。彼のやくどころは、まさに「華麗なるギャツビー」の主人公ギャツビーです。

「じゃあ、そうなんでしょ。でも・・・よくわかんないのよ。だってべつに働いているようにも見えないんだもの。よく人に会ったり電話をかけたりしてるみたいだけど、とくに必死になっているって風でもないし」
「まるでギャツビィだね」
「なあに、それ?」
「なんでもないよ」と僕は言った。


 彼は現代のギャツビィです。彼と同じように心がからっぽで、それを埋めるためにパーティーを開いたり、旅をしたりしているのです。「大麻」や「女性」もそんな心を埋めるために必要な存在ですが、それ以上に大きな存在が「納屋を燃やす」という行為なのです。残念なことに、ベンにはデイジーのような生きるための目標となる存在はいなかったのでしょう。

「ということは」と僕は言った。「他人の納屋を焼くわけですよね?」
「そうです」と彼は言った。
「もちろんそうです。だから要するに、犯罪行為です。あなたと僕が今こうして大麻煙草を吸っているのと同じように、はっきりと犯罪行為です」

・・・・・
「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っている気がするんです。海辺にぽつんと建った納屋やら、たんぼのまん中に建った納屋やら・・・とにかく、いろんな納屋です。十五分もあれば綺麗に燃え尽きちゃうんです。まるでそもそも最初からそんなもの存在しなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただ - 消えちゃうんです。ぷつんってね」
「でもそれが不必要なものかどうか、君が判断するんだね」
「僕は判断なんかしません。観察しているだけです。雨と同じですよ。雨が降る。川があふれる。何かが押し流される。雨が何かを判断していますか?いいですか、僕はモラリティーというものを信じています。モラリティーなしに人間は存在できません。僕はモラリティーというのは同時存在のことじゃないかと思うんです」
「同時存在?」
「つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。それ以外に何かありますか?」


<イ・ジョンスと小説>
 ヘミとベン二人の不思議な男女を観察することになるのが、ユ・アインが演じる作家志望の青年イ・ジョンスです。(原作では主人公は既婚の小説家です)彼はある意味、二人に選ばれた存在でした。

「あなたは小説を書いている人だし、人間の行動のパターンのようなものについてくわしいんじゃないかと思ったんです。それに僕はつまり、小説家というものは物事に下す以前にその物事をあるがままに楽しめるんじゃないかと思っていたんです。だから話したんです」

 ユ・アインは、こうして信頼され、秘密を打ち明けられろだけでなく、いつしかその影響を受け始めることにもなります。

 時々僕は彼が僕に納屋に焼かせようとしているんじゃないかと思うことがあった。つまり納屋を焼くというイメージを僕の頭の中に送り込んでおいてから、自転車のタイヤに空気を入れるみたいにそれをどんどんふくらませていくわけだ。たしかに僕は時々、彼が焼くのをじっと待ってるくらいなら、いっそのこと自分でマッチをすって焼いてしまった方が早いんじゃないかと思うこともあった。だってそれはただの古ぼけた納屋なのだから。

<NHK版との違い>
 どうやら原作の小説「納屋を燃やす」の映像化権はNHKがもっていたようです。そのために、この映画の製作は権利問題が絡むことになり、その解決策?として誕生したのが、映画の公開前にNHKで放送されたテレビ版だったようです。劇場版が2時間版弱なのに比べ、NHK版は1時間半ぐらいなのでかなりの短縮版ということになります。しかし、改めて比べてみると、実際はテレビ版は短縮版というよりも、ある意味原作に忠実な本当の映画化版と言える作品だったことがわかりました。
 NHK版は、劇場版でもクライマックスだった主人公の家でのパーティーシーンをメインに、その後、ヘミの行方がわからなくなり、主人公がベンを疑って後を付け回すが、彼女の行方はわからないまま。というところで終わります。それはほぼ原作通りの終わり方です。
 そう考えると、NHK版はそれはそれで「納屋を燃やす」の完全な映像化作品だったわけです。劇場版は、そこに続編もしくは完結編を加えたイ・チャンドンのオリジナル版と言えそうです。映画として見るなら確かに劇場版の方が見ごたえがあります。ただし、原作に忠実なテレビ版もまた魅力的なのではないか?そんな気がしています。
 燃えて消えてしまっても誰も気が付かない存在。
 それはからっぽの納屋かもしれないし、からっぽの人間なのかもしれません。

「だから見落とすはずはないんだけどね」と僕は言った。
「ずいぶん綿密なんですね」と彼は楽しそうに言った。
「綿密で理論的です。でもきっと見落としたんですよ。そういうことってあるんですよ。あまりにも近すぎて、それで見落としちゃうんです」
・・・
「僕はよく知っているんだけれど、彼女はまったくの一文なしです。友だちもいません。住所録はぎっしりいっぱいだけど、あの子には友だちなんていないんです。いや、でもあなたのことは信頼してましたよ。お世辞じゃなくね」


映画「バーニング(劇場版)」 2017年
(監)(製)(脚)イ・チャンドン
(製)イ・ジュンドン
(原)村上春樹
(脚)オ・チョンミ
(撮)ホン・クンピョ
(音)モグ
(出)イ・ジョンス(イ・アイン)、スティーブン・ユァン(ベン)、チョン・ジョンソ(シン・ヘミ)

小説「螢・納屋を焼く・その他の短編」 1984年
(著)村上春樹
新潮社
「納屋を焼く」(1983年「新潮」に掲載)

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