- バート・バカラック Burt Bacharach -

<偉大なるポップ・ソングライター>
 ロック登場以降の半世紀、アメリカのポピュラー音楽の世界において、作曲家として常にそのトップに立ち続けることのできた唯一の人物、それがバート・バカラックです。
 彼の築きあげたバカラック・サウンドの独自性は、フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」以上のものかもしれません。しかし、それだけ個性的でありながら、ポピュラー・ソングとして実に親しみやすく、聴く者を和ませる不思議な魅力をもっています。(人はそれをバカラック・マジックと呼びます)
 ところが、彼がこの世界でトップでいられたのは、けっして彼が大衆的で親しみやすいポップスを追求していたからではありませんでした。逆に彼はポピュラー音楽の世界において、常に異端派でした。常に革新的な手法を用い、異端派と呼ばれる存在であることこそ、彼が未だにトップ・クリエーターでいられる理由なのです。

<天才の生い立ち
 バート・バカラック Burt Bacharach は、1928年5月12日ミズーリ州カンザスシテイーに生まれました。母親が歌手を目指していたこともあり、彼は小さな頃からピアノやドラムなどを学んでいましたが、彼にとっての目標はミュージシャンではなくプロ・スポーツ選手だったようです。しかし、彼の家族がニューヨークに引っ越したことによって、その目標は大きく変わることになりました。それは、ジャーナリストの父に連れられていったジャズ・クラブで出会った素晴らしいミュージシャンたちの演奏がきっかけでした。

<彼に影響を与えたミュージシャンたち>
 デイジー・ガレスピーチャーリー・パーカータッド・ダメロンなど、バップ全盛期の革新的なジャズは、彼を新しい音楽の世界へと導くことになったのです。
 さらに、もうひとり彼を音楽の世界に導いた天才はラヴェルでした。近代クラシック音楽の世界において、常に革新的なサウンドを追求し続けた天才作曲家です。
 かたやジャズの革新者、かたやクラシックの革新者に憧れることで、彼は音楽の世界に飛び込んだのです。そう考えると、彼がこの後のポピュラー音楽の革新者となり得たのもうなずけます。

<下積み時代>
 彼は大学卒業後、ニューヨークのマンズ音学院、カリフォルニアのサンタ・バーバラ音楽アカデミーで学び、ピアニストとして数年間活動、その後ニューヨークに戻り作曲家としての道を歩み始めました。しかし、作曲家としての活動はなかなか上手く行かず、クラブでの伴奏でかろうじて食べて行く状態が続き、最初の妻とはこの苦しい時期に別れることになってしまいました。この精神的、金銭的に苦しかった状態から彼を救ったのは、なんとドイツの歌姫マレーネ・ディートリッヒでした。彼女のツアー・バンドの指揮者をしないかという誘い、それが彼をどん底生活から救うことになりました。(1958年から)

<作詞家、ハル・デヴィッドとの出会い>
 もうひとり、バカラック・サウンドの誕生に重要な役割を果たした人物がいます。それが1956年頃に知り合った後、1973年までコンビを組んだ作詞家、ハル・デヴィッドです。
 彼は1921年ニューヨーク生まれで、兄、マック・デヴィッドは1930年代から活躍している作詞家でした。二人は1957年マーティー・ロビンスの「The Story Of My Life 歌う人生」で、コンビとして初のヒットを飛ばし、その後黄金コンビとして活躍を続けることになります。

<ヒット・メーカーの誕生>
 バンドの指揮者という定職を得た彼は、生活が安定しただけでなく、その知名度が広がったことで、再び作曲家としての活動が可能になり、ハル・デヴィッドともコンビも出来上がったことから、いよいよその活動が本格化します。その中から生まれた彼の出世作が、黒人女性ヴォーカリスト、ディオンヌ・ワーウィックのヒット曲"Don't Make Me Over"(1962年)でした。
 ところが、この曲をデモの段階で聴いたレコード会社の社長は、その良さがまったく理解できず涙ながらに酷評したという伝説が残っています。そして、このエピソードこそ、バカラック・サウンドの本質を最も良く表しているのものかもしれないのです。なぜなら、音楽を良く理解しているはずのプロにとって不協和音に聞こえるほど、当時彼の音楽は斬新だったということだからです。たしかに改めてこの曲を聴いてみると、それ以前のR&Bヴォーカリストたちが持ち味としていた「ソウルフル」な表現は極力抑えられており、歌い出しの部分などはソウルフルどころか弱々しくさえ感じられます。(しかし、このディオンヌ・ワーウィックのヴァーカルこそ「地上でもっとも美しい」と表したのはロジャー・ニコルズでした)音楽業界の常識を無視した彼の曲作りは、この時すでに始まっていたのですが、それでもこの曲は全米チャート21位まで上がり、彼は人気ソングライターとなりました。その他、当時ヒットした曲は"Walk On By"、「(They Long To Be)Close To You 遙かなる影」(1963年)、「What The World Needs Now Is Love 世界は愛を求めてる」(1965年)、「I Say A Little Prayer 小さな願い」(1967年)などがあります。

<新たなる挑戦>
 しかし、彼のヒット曲に対して音楽業界の評価は今ひとつでした。そこで彼は作曲家として一人前の評価を得るため、ミュージカルの作曲にも挑戦します。それが1968年ブロードウェイの人気作家ニール・サイモン脚本の「プロミス・プロミス」で、彼はこの作品でグラミー賞を受賞、さらに劇中歌の"I'll Never Fall In Love Again"(1969年)がディオンヌ・ワーウィックらの歌によって世界的な大ヒットになり、いよいよ一流作曲家の仲間入りを果たすことになりました。

<映画音楽での活躍>
 彼はこの頃同時に映画音楽の世界でも活躍し始めていました。「何かいいことないか子猫チャン」(1965年)、「007/カジノ・ロワイヤル」(1967年)、「失われた地平線」(1973年)、そしてなんと言っても、「明日に向かって撃て」(1969年)ではアカデミー作曲賞、歌曲賞を受賞、テーマ曲の「雨にぬれても」(歌はビリー・J・トーマス)もまた世界的大ヒットとなりました。なお、彼は1981年にも「ミスター・アーサー」で再びアカデミー歌曲賞を受賞しています。

<バカラック・サウンドの魅力>
 バカラック・サウンドの魅力は、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドのような積み上げによる分厚い音づくりとは、まったく異なります。意表をついた間(リズム)と意表をついた楽器の使い方がその最大の特徴であり、フリューゲル・ホーンの使い方は、その象徴と言ってよいでしょう。それと中南米のサウンド(ボサノヴァやマリアッチなど)をいち早くポップスに取り入れたワールド・ミュージック指向の元祖とも言える存在でした。

<ペインテッド・フロム・メモリー>
 最後に、20世紀末に再び巻き起こったバカラック・ブームのきっかけともなった彼とエルヴィス・コステロとの共作アルバム「ペインテッド・フロム・メモリー」のことを書いておかなければならないでしょう。コステロは以前にもバカラックの「ベイビー・イッツ・ユー」(1961年シレルズでヒット)のカバーを歌っていただけに、このコラヴォレーション・アルバムはそれほど意表をついた企画ではなかったかもしれません。さらに近年ヴォーカリストとしての存在感を増してきたコステロにとっては、バカラック・サウンドへの挑戦はやりがいのあるものだっただろうし、そのうえデビュー以来、彼にはアメリカでのヒット曲がありませんでした。それだけに、このアルバムのアメリカでの大ヒットは彼にとって予想外の喜びだったでしょう。おまけに、このアルバムはグラミー賞まで受賞してしまったのです。これぞバカラック・マジックというわけです!

<締めのお言葉>
「現代音楽の歴史は不協和音の許容の歴史である」
 チャイコフスキー

<参考資料>
「ポップヒット・メーカー データ・ブック」 VANDA監修 (シンコー・ミュージック)

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