- 榎本武揚 Buyou Enomoto -

<なぜ榎本武揚か?>
 なんでこのサイトに榎本武揚が登場するわけ?そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。というより、榎本武揚って誰?という方の方が多いかもしれません。とりあえず、2006年新春にNHKで放映された「新撰組!!土方利蔵・最期の一日」をご覧になった方なら、ああ、あの人かと思われるかもしれません。
 幕末に幕府の残党を率いて函館の五稜郭に立て籠もり最期まで闘った指揮官が榎本武揚です。ただし、そこまでのお話なら「20世紀の基礎を築いた隠れた英雄」というタイトルにはならないはずです。実は、彼の人生にとって最も面白い時期は、それから始まることになるのです!
 ドラマ「新撰組!!」の作者である三谷幸喜の脚本はさすがでした。ドラマの中で少しずつ彼のその後の人生を暗示させるセリフが語られていて、榎本武揚ファンをニヤリとさせてくれます。
 是非三谷さんには、新撰組の番外編としてその後の榎本武揚のドラマを描いて欲しいものです。それでは、彼の人生のどこが面白いのか、まあ、読んでみて下さい。

<明治維新とは?>
 アメリカを代表する世界的経済学者ピーター・ドラッガーは、明治維新のことを「奇蹟の革命」と評しました。それはなぜか?
 わずか数年の間で前近代的な武士の社会から西欧型の民主主義社会へと体制を作り替え、なおかつ、混乱していたその移行期間に西欧諸国による植民地化の動きを許さなかったのは、奇蹟に近いというのです。(中国をはじめアジアのすべての国はこの間に植民地化されています)
 さらにこの革命は無血とは言えないまでも、それに近い形で革命は実行され、敗軍のトップでもあった榎本武揚らを処刑することなく、逆に彼らを政府要人に迎え入れたという点でも、世界の革命史においては画期的なことなのです。
 こうしたことを成し遂げることができたのは、その実行部隊の多くが30代の若者たち中心だったこと、さらに彼らの多くが平民の出身、海外留学の経験者だったため、過去にこだわらない柔軟さにあふれていたからだと思われます。
 そして、そんな優れた若手官僚たちの中心となり、あらゆる分野において活躍したのが日本最初のテクノクラート(技術官僚)とも呼ばれる榎本武揚、その人なのです。

<榎本武揚という人物>
 榎本武揚は1836年(天保7年)江戸下谷御徒町に生まれています。父親の武規は、もともと備後(現在の岡山県近辺)の出身で江戸の榎本家に養子として入り、その後あの有名な伊能忠敬の弟子となり日本各地を旅してまわった人物です。武揚はそんな優秀な技術者だった父親のもとに次男として生まれ、幼名を釜次郎と名付けられました。
 父親の才能を受け継いでいた彼は幼い頃から頭が良かったのですが、もともとが武家の出身ではなかったことと、長男ではなかったことで、彼が武士として出世することは困難でした。そこで彼は英語を学び、学問それも西洋文明や科学を研究する道へと向かうようになりました。(この時、彼と別の道を選択し武士としての出世を目指したのが、土方利蔵、近藤勇ら新撰組の面々でした)
 父親の影響もあり、彼は18歳の時、函館奉行堀織部正の小姓として蝦夷地から樺太までを探検しています。この時の経験が後の北海道開拓へとつながってゆくとは、本人も思わなかったかもしれません。そして、20歳の時、長崎伝習所の二期生に選ばれ、長崎で航海学を学んだ後、22歳の時オランダへと留学することになりました。

<オランダ留学>
 時は幕末。江戸幕府は海軍力増強のため新造艦、開陽丸の建造をオランダに発注。武陽はその船の操作法を学ぶだけでなく、砲術、蒸気機関学、兵学、化学、国際法、電信機などについても学ぶためオランダへと出発しました。

<最後の反乱軍>
 ところが、彼が開陽丸とともに西洋の最新知識を持ち帰った1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、あっという間に武陽の属する幕府の海軍は反乱軍の立場に追い込まれていたのです。すでに勝敗は明らかでした。しかし、彼は薩長よりなる政府軍に対し降伏せず、海軍の主要鑑を率いて逃亡を図ります。例え勝てないとは分かっていても、彼には賭けてみるべき最後の作戦があったのです。
 それは敗軍となり録を失うことになる徳川側の侍たちの生きる場所として、さらには西洋に匹敵する国つくりを目指す新生日本を支える資源庫として、北海道の移住、開拓に向かうべき時と考えたからでした。彼は開陽丸に乗り、海軍の最強艦隊7隻と各地から集まった生き残りの幕府軍の兵士たちとともに北の大地、北海道を目指したのでした。(この中に新撰組の土方利蔵もいたわけです)

<幻の蝦夷共和国設立>
 函館に着いた彼は、そこで臨時政府を樹立します。この時、彼は日本で初めて選挙による組閣を行い、その結果蝦夷島新政府の初代総裁に選ばれました。日本人として、最も国際法や海外の情報に通じていた彼は、諸外国に対し蝦夷共和国の存在を認めてもらうため、徹底的に民主的な政府作りを目指したのです。これは実に画期的なことでした。彼はそうして自分たちの存在をを認めさせ後、明治政府と交渉を行い旧幕府軍兵士たちをこの地に迎え入れ、和平に持ち込みたいと考えたのです。しかし、こうした彼の計画も理解されることはなく、明治政府の総攻撃により、あえなく夢と消えてしまいます。
 戦いを前にして台風で開陽丸を失うなど不運にみまわれた蝦夷軍に勝機はありませんでした。そのことを悟った彼は、オランダから自らが持ち帰った国際法について書かれた貴重な書物「万国海律全書」を政府軍に寄贈します。その本を見て、薩摩出身の参謀長官、黒田清隆はこのまま武陽を失うことは日本国にとって大きな損失になると実感。その後、彼は武揚が処刑されることのないよう政府軍幹部の説得にまわることになります。幸いにして、切腹を部下たちに止められた武揚はこうして、死を免れることになりましたが、彼にとってそれは自分だけが生き残ったという負い目ともなります。

<再び、北の大地へ>
 彼は牢で3年間自分の判決を待ちました。しかし、その間も牢の中に本を持ち込むことを許され勉学を続けます。さらにそこで同じ牢内の犯罪者たちとも親しくなり、彼らからも多くのことを学んだといいます。(彼は時代劇によく出てくる牢名主として、犯罪者たちに慕われることになりました)その間も、黒田は自ら頭髪を剃り出家してまで武揚の放免を願い続け、その動きに福沢諭吉らの知識人らも協力、世論や西洋諸国の目もあったため、ついに彼ととの仲間たちは無罪放免となります。
 1872年、放免となり途方に暮れていた彼に渡りに船となる以来が舞い込みます。それは北海道開拓支庁のトップとなったばかりの黒田のもと、北海道の知事にあたる職に就くようにというものでした。北海道、それに樺太を知り尽くし、その開拓に必要な技術や知識を知り尽くしている彼にとって、それは最適の人事だったと言えるでしょう。

<彼が無視されてきた理由>
 こうして、彼は第二の人生を歩みだしましたが、再び彼は自分の恵まれた境遇に罪悪感を感じることになります。さらには彼を助けたはずの福沢諭吉をはじめ、それまで味方だったはずの世論も、彼の明治政府要人への転身を裏切り者と批判するようになります。かつての?日本人的な感覚からすれば、武揚は函館で死んでこそ英雄になれたものを、生き延びたことで生き恥をさらし、ついには裏切り者になったという解釈になるのでしょうか。そして、こうした世論の動向が彼の仕事の多くを評価せず、歴史の影に追いやった原因ではないかと言われているのです。
 彼の活躍がその実績のわりに知られていないのは、さらにもうひとつ理由があると思います。それは彼の実績があまりに広い範囲に渡っていて、その全体を正統に評価できる人がいなかったことです。彼のもつ優れた能力とその実績をここでざっとあげてみましょう。

<榎本武揚、その才能と実績>
(1) 江戸幕府時代、彼は初めて海軍に洋服を導入しています。自ら西洋文化を愛した彼は洋服だけでなくヒゲの手入れにも熱心な伊達男でした。おまけに背が高く洋服が実によく似合っていました。顔もイケメンです。こういうタイプの人間はたぶん当時の日本では浮いていたに違い有りませんが、・・・。(ドラマ「新撰組!!」でも土方はそんな武揚のオシャレぶりに批判的でした)
(2) オランダ留学の際、自ら電信機を購入。それを持ち帰り、日本人としては誰よりも早く使いこなした人物と言われています。
(3) 獄中で「開成雑ソ」という本を書き、そこに石鹸や西洋ろうそくの作り方などを載せて世に広めようとしました。その他、知人や家族が食べていけるようにと、製茶法、焼酎醸造法、鶏卵の人工孵化、金銀メッキ法、ブランディーの製造法などを書き送ったり、実用雑学の博士でもありました。
(4) 函館に気象観測所を日本で初めて設置。これはかつて彼が開陽丸など自らの船の多くを嵐によって失ったことの反省からきたものとも言われています。さらに彼は気象学会の設立者でもあります。
(5) アメリカから来たケプロンやライマンらのお雇い外国人とは別に石炭調査を行い幌内炭坑を発見。炭坑による北海道発展の基礎を築いた。
(6) 国際法の専門家として、ロシアと千島・樺太交換条約の締結の日本代表として活躍。その後も外務大臣として活躍しています。
(7) ロシアとの条約締結交渉の帰り、日本人として初めてシベリアを横断。まだシベリア鉄道などない時代であり、ほとんどは馬車の旅。この記録は後に彼の死後、「シベリヤ日記」として発表されています。
(8) 日本植民地協会を設立。メキシコに移民団を派遣した。
(9) 東京農業大学の前身となった私立育英農業学校を設立。
(10)日本にロシアから石炭ストーブを持ち帰り、それを普及させた。
(11)オランダ語、フランス語、ロシア語、英語、ラテン語を使いこなす語学の達人。
 彼が敵軍の長でありながら、明治政府で多様な任務を与えられることになったのは、彼が薩長どちらにも属していなかったせいもあったようですが、どちらにしても彼の持つ多才な能力なくしてはあり得ないことでした。だからこそ彼は、政治とは別に技術屋としての観点を重視した新しいタイプの官僚であるテクノクラート(技術官僚)の先駆けと言われるのです。

<客観的な政治姿勢>
 もともと武揚は幕府軍に属していたのですが、決して徳川家に対し盲目的に従っていたわけではありませんでした。彼はいち早く降伏することを望んだ徳川最後の将軍慶喜に対し、「慶喜公は臆されたか!」と怒鳴りつけたと言われています。(世が世なら切腹ものです)
 西洋の進んだ文明を現場で学んできた彼にとって政治とは、義理人情や損得勘定ではなく理性と知性によって行うべきものでした。こうしたある意味当たり前の感覚をいち早く身につけていたからこそ、彼は明治政府の最終兵器として、便利な道具として使われることを良しとしたのだと思います。もちろん、彼の部下として戦い命を落とした数多くの兵士たちに対する罪滅ぼしの気持ちもあったのでしょうが、・・・。

<武揚がもしいなかったら・・・>
 彼がいなければ千島・樺太交換条約は締結せず、日露戦争はもっと早く起き、そのため準備がととのはなかったため日本はロシアに破れていた可能性もあります。
 北海道が炭坑により発展したのも、さらに第一次世界大戦の後、日本が北海道から大量の穀物を輸出することで莫大な利益をあげることができたのも、彼のおかげです。
 明治維新という社会革命の混乱の中、日本は一歩間違えばロシア、アメリカなどの植民地ともありかねませんでした。その危険を乗り切るためになくてはならなかった存在、外交のエキスパート、殖産興業のエキスパート、そしてどの派閥にも属さず、富も権力も求めない誠実な指導者、そのすべてに当てはまっていた彼無かったら、今の日本はもったく違う日本だったのではないだろうか?と僕は思います。

<武揚、その後の仕事>
 その後、彼は明治政府において数々の役職につきます。1882年(明治15年)駐清特命全権大使として天津条約を締結。1885年逓信大臣就任。1887年農商務大臣に就任。1888年文部大臣就任。1889年枢密顧問官就任。1890年外務大臣就任。1893年再び農商務大臣に就任。しかし、この時有名な足尾銅山鉱毒事件が起きます。日本初の公害訴訟事件となったこの事件に対し有効な手を打てなかったことで自らの無力さを痛感した彼は大臣を辞任。その後一切の公職につくことはなく政界から完全に引退しました。日本初のテクノクラートが日本初の公害事件でその職を失ったというのは、その後の日本を暗示させる皮肉なできごとでした。
 その後、1908年(明治41年)10月26日武揚は73歳でこの世を去りました。
 土方利蔵の壮絶な最期は確かに格好いいかもしれません。しかし、牢獄につながれ、生き恥をさらしていると非難されながらも生き延びて、自分の夢を実現させた武揚をこそ僕は見習いたいと思います。生きていればこそ、夢にまで見た北の大地で再び自らの力を発揮できたのですから。

<なぜ武揚のファンになったのかというと>
 最後に、なぜ僕が榎本武揚のファンになったのか?それは実は彼の存在こそ我が町小樽にとってなくてはならないものだったことを知ってしまったからです。例えば、
(1)幌内炭坑の発見後、ケプロンとライマンはその石炭を太平洋側の港から積み出すことを主張。それに対して武揚は日本海側の小樽港からの積み出しを主張。それが通ったおかげで、港町小樽の発展が始まったのです。
(2)僕の店がある小樽の駅前地域は、彼が自腹を切って買い取り、開拓を行った土地です。彼はそこに神社を建て、開発会社(北辰社)をつくり、区画整理を行いました。まさに街の生みの親的存在なのです。
 歴史というのは、どこでどう自分とつながっているかわからないものです。実は、街おこしのために榎本武揚について調べていたおかげで、以前榎本武揚の曾孫にあたる方とお会いすることできました。我ながら筋金入りの武揚マニアかもしれません。しかし、全国には「隠れ武揚ファン」がかなりいるとも言われています。NHKの「プロジェクトX」があれだけヒットした今、日本最初のテクノクラート榎本武揚にもっと光があたってよいのではないかと思うのですが、・・・。

<締めのお言葉>
「人の心はいつでもその人を助けるのですか?」
「ほとんどは、夢を実現しようとしている人の場合だけだ」

パウロ・コエーリョ著「アルケミスト」より

<追記>
 先日本屋さんで偶然「石の扉 フリーメーソンで読み解く世界」という本をみつけました。20世紀の歴史をたどる作業をしていると以前から「フリーメーソン」の名前は何度となく登場してきて、以前から気になっていました。それでさっそくその本買って読んでみました。すると、びっくり、えー、へーの連発。
 「フリーメーソン」という組織(秘密結社)は、ヨーロッパにおいて石工(メーソン)たちが作った秘密結社がもととなり、その後は業種を越えた技能者、技術者の情報交換、協力のための組織として発展してきたものと言われています。現在では、世界中に400万人もの会員を有する巨大な秘密結社として、多くの秘密を抱えながら今なお活動を続けています。
 ある意味、現代の西欧とイスラムの対立は、「キリスト教」と「回教」の対立である以上に、「フリーメーソン」と「回教徒」の対立であるとも言われています。
 ただし、この本を読み終える頃には、僕はフリーメーソン嫌いになっていました。この本を読んでフリーメーソンに憧れるか、嫌いになるかで、人ははっきり二つに分かれるかも知れません。
 ところで、なぜ「榎本武揚」と「フリーメーソン」なのか?です。実は、この本の中に「明治維新の英雄、坂本龍馬は実業家として有名なグラバーによって操られていた」という記述があります。そしてその部分に、榎本武揚といっしょにオランダに留学した幕臣で後に徳川慶喜のブレーンとして活躍する西周(あまね)が、この時オランダでフリーメーソンに入会していたということを明らかにしているのです。他にも、この時フリーメーソンに入会した人物がひとりいて、もしかすると他にもいたかもしれないと書かれているのです。
 さらに榎本武揚と函館でいっしょに戦い生き残った幕府軍の中に林薫(ただす)という人物がいました。彼はその後釈放された後、英国大使に任命され、その在任中にフリーメーソンに入会しました。この林という人物は、僕が調べたところでは武揚の妻の実家である林家の一人らしいのです。ということは、武揚とは親戚ということになります。
 榎本武揚は、もしかするとフリーメーソンのメンバーだったのではないか?だからこそ、彼は表だった地位に着くことを嫌っていたのではないか?まだまだ歴史には明らかになっていない部分があるのです。
(この本、テレビ化されて「歴史ミステリー 龍馬の黒幕」TBSテレビで放映されました)

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