-カサンドラ・ウィルソン Casandra Wilson -

<ジャズに囲まれた生い立ち>
 カサンドラ・ウィルソン Casandra Wilsonは、1955年12月4日アメリカ南部ミシシッピー州のジャクソンに生まれています。ジャズ・ミュージシャンの家庭に生まれた彼女は、生まれた時からジャズに囲まれて育ちました。父親はベーシストでしたが、それだけでは食べられず、郵便局や保険会社などで働きながら彼女を育ててくれました。当時、聞いていたアーティストは、デューク・エリントン、セロニアス・モンク、ナンシー・ウィルソン、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドだったそうです。しかし、彼女が少女時代を過ごした1960年代末は、すでにジャズの黄金時代は終わり、ロックの時代が始まった時期でした。そのため、彼女が青春時代にお気に入りだった音楽は、女性シンガー・ソングライターの先駆けとなったジョニ・ミッチェルやリッチー・ヘヴンスのフォークや黒人シンガーソングライターの先駆けロバータ・フラック、そしてロック・ミュージシャンたちから再評価された伝説のブルース・ミュージシャン、ロバート・ジョンソンの演奏するブルースでした。こうして彼女は、ごく自然にピアノやギターを演奏しながら、ジャズではなくフォークやジャズを演奏することからミュージシャン人生をスタートさせました。
 1975年、彼女は20歳の時、白人のブルース・バンド、「ブルー・ジョン」にヴォーカリストとして参加。本格的にミュージシャンとしての人生を歩み始めます。しかし、路線はなかなか定まらず、R&Bのバンドなど数多くのバンドを渡り歩いた後、彼女のルーツ・サウンドでもあったジャズにもどる決意を固めます。1981年、彼女は26歳になって初めて、ジャズを学ぶためサックス奏者アール・タービントンに弟子入りします。ジャズ・ヴォーカリストとして活動することに決めた彼女は、その活動の場として、ミュージック・ビジネスの中心地ニューヨークを目指します。

<ニューヨークにて>
 1981年頃、夫の転勤によりニュージャージーに引っ越した彼女は、活動の拠点をいよいよニューヨークに移します。そして、当時ジャズ界に新風を吹き込んでいた話題のサックス奏者スティーブ・コールマン率いるファイブ・エレメンツに参加するチャンスをつかみます。ファンク、ロックだけでなくヒップ・ホップまでも取り込んだまったく新しいスタイルのジャズは大きな話題となります。
 その後、彼女は1986年に初リーダー・アルバム「ポイント・オブ・ビュー」を発表。1988年には初のスタンダード曲集「ブルー・スカイ」を発表。彼女は前衛的ではあってもジャズの伝統を理解したアーティストであることを証明しました。この頃の彼女は同世代の女性ヴォーカリスト、ダイアン・リーブス、ダイアン・シューアとともに女性ジャズ・ヴォーカルの新御三家とも呼ばれたそうです。(ちなみに、元祖御三家といえば、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエです)
 しかし、当時の彼女はバンドのファンキーなリズムにのってアドリブ色の強いヴォーカルを楽器のように用いるアーティストということで、オーソドックスなジャズ・ファンからは、あまり高い評価はえられていませんでした。そんな彼女の隠された才能に注目し、その「歌声」を前面に打ち出すべき、と考える人物が現れます。それはジャズの老舗レーベル「ブルーノート」を復活させ再び黄金時代を築くことになるブルース・ランドヴァルでした。

<ブルース・ランドヴァル>
 当時、ブルース・ランドヴァルは新社長としてブルーノートに招かれ、その復活のために次々と新しい作戦を打ち出していました。その中のひとつに、ブルーノートを企業として成り立たせるために、収益を上げられるアーティストを探すことがありました。彼が特に重視したのは、かつてブルーノートでは力を入れてこなかったヴォーカルものの充実でした。ヴォーカルもののアーティストは、インストロメンタルものと違い、ジャズの枠をこえてポップ・チャートでヒットすることも可能であり、大きな利益を生み出すことができます。もともとがブルーノートの大ファンであった彼は、王道とも言えるジャズ・アルバムを出し続けるためには、それとは別に企業として成り立つための確実な収益源が必要だと考えているのです。
 そんな彼の狙いが生み出した大ヒットが、1988年にポップ・チャートにまで食い込んだボビー・マクファーリンの「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー」です。こうした、ヒットによって利益をあげつつ、彼はダイアン・リーブスのように、よりオーソドックスなヴォーカリストとも契約し、ブルーノートに優れたヴォーカリストを集めてゆきました。
 そして、彼はカサンドラ・ウィルソンの才能にも目をつけ、彼女をブルーノートに迎えることに決めました。しかし、社内からは反対の声もあり、彼は契約の際、彼女に条件を出しました。ブルーノートでは、彼女に自由な曲の選択権を与えるが、その代わり今までのバック・バンドはやめさせろというものでした。こうして、彼女の「歌声」には、それぞれの曲によってその声を生かすシンプルな演奏が与えられることになりました

<ブルーノートにて>
 ブルーノートでの一作目「ブルー・ライト・ティル・ドーン Blue Light 'til Dawn」(1993年)では、彼女の最も好きなアーティストのひとり、ジョニ・ミッチェルの曲やロバート・ジョンソン、アイリッシュ・ブルー・アイド・ソウルの大御所ヴァン・モリソンらの曲が取り上げられ、ジャズ界だけでなくロック界からの注目も集めることになりました。
 1995年発表の「ニュー・ムーン・ドーター New Moon Daughter」ではビリー・ホリディの伝説の名曲「奇妙な果実」をカバー。かつてアメリカで行われていた黒人に対するリンチ殺人。腐りかけた果実のようにぶら下がる死体が揺れる様が目に浮かぶような彼女の不気味な歌声は、「奇妙な果実」を見事に現代に現代に蘇らせ、多くの人々に衝撃を与えました。僕自身も、このアルバムで初めて彼女を知り、一曲目に入っているこの曲に衝撃を受けた一人です。彼女はこのアルバムでグラミー賞の最優秀ヴォーカル賞を受賞。このアルバムの成功で自信を得た彼女は、ジャズ界最大のヒーロー、マイルス・デイヴィスの曲に挑戦、彼の曲を集め独自の解釈を加えたアルバム「トラベリング・マイルズ」(1999年)を発表します。
 彼女のアルバムは、スタンダードなジャズを愛する人からは、邪道と見られる傾向もあります。しかし、「ジャズ」という音楽を新しい音楽を常に取り入れ変化し続けることと定義し、それを体現し続けたマイルス・デイヴィスなら、きっと彼女に共演を申し込んだのではないでしょうか。
 ジャンルを越えた音楽の旅を続ける彼女は、ジャズ界に失われつつある「新しいジャンルへのチャレンジ精神」をマイルス同様「クール」に表現し続けています。「クール」な歌声に隠された彼女のホットな情熱を是非感じていただければと思います。

<代表的アルバム>

「ジャンプ・ワールド Jump World(1989年発表)
 ファンキーかつ前衛的なスティーブ・コールマンなどのメンバーの協力を得て作られた80年代の代表作。彼女の器楽的でパワフルなアドリブ唱法を聞くことができます。

「ブルー・ライト・ティル・ドーン Blue Light ‘til Dawn(1993年発表)
 彼女のフェバリット・アーティストたち、ジョニ・ミッチェル、ロバート・ジョンソン、ヴァン・モリソンらのカバー曲などを収録したブルーノートでの第一作。このアルバムで彼女はポップ、ロック界のファン層も獲得することになりました。

「ニュー・ムーン・ドーター New Moon Daughter(1995年発表)
 グラミー賞最優秀ヴォーカル賞受賞の彼女の代表作。リンチによって殺された黒人が木からぶら下げられた様子を歌ったビリー・ホリディの名曲「奇妙な果実」のカバーは衝撃的。カントリー、ブルース、ロックとバラエティーに富んだ内容ながら、「Solomon Sang」など彼女のオリジナル曲もまた魅力的。

「トラヴェリング・マイルス Traveling Miles(1999年発表)
 ジャズ界の巨人マイルス・デイヴィスの曲に独自解釈で挑んだアルバム。あまりに偉大な存在への挑戦は賛否両論を巻き起こしました。しかし、常に新しいジャンルに挑戦し続けたマイルスなら生きていればきっと彼女を高く評価し共演を望んだことでしょう。

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