- カエターノ・ヴェローゾ Caetano Veloso -

<ブラジルが生んだ天才>
 2016年リオ・オリンピック開会式のラストに登場した3人の歌手のうちの一人がこの人です。年をとってもなおイケメンで、ブラジルの草刈正雄かチャーか、といった感じでしょうか。
 このサイトには数多くの天才アーティストが登場しています。その中でも、ジョン・レノンボブ・ディランマイルス・デイヴィスジェームス・ブラウンアンディー・ウォーホルらは、誰もが認める天才たちと言えるでしょう。
 しかし、もしアメリカがイギリスの植民地ではなく、別の国の植民地だったとしたら?そのために、英語以外の言語が世界の主流言語になっていたとしたら。そう考えると、世界の見え方は大きく違ってくるはずです。
 例えば、もしポルトガルがアメリカ大陸を植民地にしていて、ポルトガル語が世界の主流言語になっていたとしたら、今頃カエターノ・ヴェローゾはビートルズやマイルス・デイヴィス以上の偉大な天才アーテイストという評価を受けていたかもしれません。
 オリジナルの音楽だけでなく、映画音楽もつくり、自ら監督もし、絵を描き、テレビの司会者も勤め、本も出版している多彩なアーティスト、カエターノ・ヴェローゾ。しかし、彼は単に器用で多彩なだけの職人ではありません。過激なまでに斬新な芸術家なのです。

<控えめな天才>
 意外なことに、彼は初めからミュージシャンになろうと思っていたわけではありませんでした。彼の目標は、画家か映画監督だったそうです。たまたま彼の妹のマリア・ベターニヤが歌手としていち早く活躍を開始し、それに引きずられ、まわりの仲間たちに押されてレコーディングしたのがデビューのきっかけだったようです。そのためか、彼のデビュー・アルバムの「ドミンゴ 日曜日」は、ソロ・アルバムではなく、ガル・コスタとのデュエット・アルバムで、内容もいたってシンプルなボサ・ノヴァ中心の内容でした。
 しかし、彼と仲間たちが始めたトロピカリズモ運動は、そんな控えめな男を新しい時代の波の先頭に立たせることになります。その後の激動の時代をくぐり抜ける中で、しだいに彼はその才能を磨き、今や文句なしにブラジルを代表する最高の芸術家にまで登りつめたのです。

<バイーアからサルヴァドール、そして、リオへ>
 カエターノ・ヴェローゾは、1942年8月7日バイーア州のサント・アローマ・ダ・プリフィカサォンという町で生まれました。絵画と映画にのめり込んでいた彼は、州都サルヴァドールの大学で後の盟友ジルベルト・ジルと出会います。元々ジョアン・ジルベルトのファンだった彼は、この頃ビートルズの音楽とも出会い、新しい時代のための新しい芸術を生み出す決意を固め、リオデジャネイロへと向かいました。

<芸術における人喰い宣言>
 カエターノが友人たちと目指していた新しい総合芸術には精神的な柱がありました。それは地元ブラジル、サンパウロ出身の詩人オズヴァルド・アンドラージという人物がかかげた思想です。彼は「芸術における人喰い」を宣言。あらゆる国、あらゆる文化を飲み込んで多人種国家ブラジルならではの文化を創造しようと呼びかけていました。
 彼の影響を受けた環境芸術家エリオ・オイチシーカが制作した作品「トロピカリズモ」がもとになり、その意志を継ぐ活動が「トロピカリズモ運動」として世に知られることになりました。

<カエターノと仲間たち>
 カエターノとジルベルトは、このトロピカリズモ運動の先導者として、リオで仲間たちと共同生活を始めます。そして、いつしかそこはあらゆるジャンルの芸術家たち、詩人、クラシックの音楽家、舞踏家、俳優などが集まる運動の拠点になっていました。(その後、この拠点はサンパウロへと場所を移します)その頃の仲間で後に活躍することになったミュージシャンとしては、ガル・コスタ、オス・ムタンチス、トン・ゼー、シコ・ブアルキ、パウリーニョ・ダ・ヴィオーラ、トッキーニョ、そしてカエターノの妹マリア・ベターニアなどがいました。
 こうしたそうそうたる顔ぶれのリーダー格として活動していたカエターノは、控えめなデビュー・アルバムを発表した翌年、いよいよ本格的にトロピカリズモ宣言を発します。それが、アルバム「トロピカリア Tropicalia」でした。ジョアン・ジルベルトだけでなく、サンバのヒーローたちやルイス・ゴンザーガのような過去の偉人たちのサウンドを掘り起こし、ビートルズのようにそれらを電気楽器によって演奏するという雑食的なトロピカリズモ・サウンドはこうして誕生したのです。そして、1967年、このトロピカリズモ運動がアンダーグラウンドから、いっきに全国へと発信される時がやって来ました。それは当時一大ブームとなっていた歌謡音楽祭がきっかけでした。

<軍事政権の誕生と「奇跡のブラジル」>
 ブラジルがかつてない経済成長の波に乗っていた時期、1964年3月31日、ブラジルでは右翼グループによる軍事クーデターが起きました。当初、この時誕生した軍事政権は穏健な姿勢で国の統治を行っていたため、ブラジル国民は平穏な日々を送っていました。それは政府にも、国民にも、経済的な余裕があったからでした。
 ついでながら、ブラジルでは国技とも言えるサッカーが黄金時代を迎えていました。1958年、1962年と神様ペレの活躍を中心にワールド・カップ・サッカーで連続優勝を成し遂げているのです。この後、1960年代末までの急激な経済成長は、海外から「奇跡のブラジル」と呼ばれるほどでした。そして、そんな幸福な時代を象徴するひとつのブームが、1965年から始まったテレビ局主催による歌謡音楽祭でした。

<歌謡音楽祭が生んだスターたち>
 この頃の歌謡音楽祭は「音楽祭」とは言っても、ほとんどがコンテスト形式の番組だったことから、日本の「スター誕生」もしくは「イカ天」に近い内容のコンテスト&スカウト番組だったようです。しかし、多くのアーティストはすでにプロとしての活動経験があり、そのクオリティーは新人発掘番組としては非常に高いものでした。
 エリス・レジーナ、エドゥ・ロボ、ジェラルド・ヴァンドレ、シコ・ブアルキ、ナナ・カイーミ、ミルトン・ナシメントなど、後にMPBと呼ばれることになるブラジリアン・ポップスのスターたちの多くはこれらの番組によって発掘されています。

<カエターノ、メジャー・デビュー>
 カエターノはこの音楽祭のひとつテレビ・ヘコルヂ歌謡音楽祭に「アレグリーア・アレグリーア 喜び、喜び」という自作のロック・ナンバーで登場。保守的な観客たちから大ブーイングを浴びせられました。それでも彼はこの時のコンテストで4位になり、仲間のジルベルト・ジルは「ドミンゴ・パルキ 日曜日に公園で」で2位になりました。
ちなみにこの時の大賞は、エドゥ・ロボの「ポンテイオ」という曲でした)舞台で観客からブーイングを浴びたものの、時代はすでに彼らの新しい音楽へと風向きを変えつつあったのです。(アメリカではボブ・ディランがフォークからロックに転向し同じ目にあったいました)

<トロピカリズモ運動が反政府活動へ>
 もともとトロピカリズモ運動は革新的な芸術運動ではあっても政治運動ではありませんでした。しかし、時代の流れは容赦なく彼らをも政治の波へと巻き込んで行くことになります。自由を求める若者たちのデモとそれに対する軍事政権の弾圧は、1968年ついにその頂点に達します。政府は軍政令第五号を発令。議会は解散させられ、すべての権力が軍のトップへと集められました。
 カエターノは、この年サンパウロで行われた国際歌謡フェスティバルに出場し、そこで「エー・プロイビード・プロイビール(禁止することを禁止する)」を歌います。それは、まっこうから政府の検閲に反抗する歌でした。ちなみに、この時、彼のバックを務めたのが、後にブラジリアン・ロックの原点と言われることになるオス・ムタンチスでした。この関係は、まるでボブ・ディランザ・バンド、もしくは岡林信康とはっぴいえんどに匹敵するものでしょう。

<トロピカリズモの終焉?>
 しかし、運動の盛り上がりを懸念し始めた軍は彼らの活動をつぶしにかかります。1968年12月31日、大晦日にも関わらず、カエターノとジルは軍によって拘束され、その後4ヶ月にわたって拘留されます。その間、彼らはどんな扱いを受けたのか、それはわかりませんが、釈放後彼らは国外退去を余儀なくされます。こうして、二人はその後2年間に渡り、イギリスの首都ロンドンで亡命生活をすることになりました。この間彼らはロンドンでロックだけでなく、当時人気を獲得しつつあったレゲエなどのカリビアン音楽とも出会い大いに影響を受けることになります。(彼はブラジルのミュージシャンの中で最初にレゲエを取り上げたと言われています)このことが、後にカエターノの幅広い音楽性の基礎となるのですから、人生何が幸いするかわかりません。とにかく、彼らがブラジルという国と音楽を愛し続けたことだけは確かです。
 二人が去った後、トロピカリズモ運動を背負って立つことになったのは、二人の女性ガル・コスタとカエターノの妹マリア・ベターニアで、ともにその後ブラジルを代表する大歌手へと成長して行くことになります。(このお話はまた別の機会に!)

<カエターノの帰郷>
 70年代に入ると軍による厳しい弾圧は弱まり、亡命していた二人は故国にもどることができました。帰郷したカエターノはすぐに活動を再開します。しかし、以前のように直接政府を批判するような曲を書くことはなく、難解で前衛的な曲を発表し始めて、軍だけでなくファンをも煙に巻いてしまいます。これはまともには曲を発表できない検閲に対する彼のギリギリの妥協が生んだ方法だったのかもしれません。しかし、ここから彼独自の音楽が生まれることになったとも言えるでしょう。もちろん、難解にも関わらずポップで複雑な歌詞は、彼だけでなく当時のMPBアーティストたちの多くが身につけることになりました。ジョアン・ボスコ、シコ・ブアルキ、エドゥ・ロボ、イヴァン・リンスなど、同世代もしくはトロピカリズモ以降のアーティストたちもその影響を受けています。テロや暗殺事件が頻発する危険な時代には、誰もがそんな微妙なセンスを身につけねばならなかったのでしょう。厳しい現実は高度な芸術を育てるのかもしれません。

<再び、テレビでの人気復活>
 1980年代に入り、再び彼の人気に火がつくことになります。そのきっかけはまたもテレビでした。テレビ番組「シコとカエターノ」で、シコ・ブアルキと共同司会を務めることになった彼は一躍お茶の間の人気を獲得したのです。(芸術的才能だけでなく、彼には素晴らしい顔、頭、声も与えられているのです)彼はその大衆的人気とは別に音楽においては、より進化した作品を発表し、その才能の奥深さを世界中に知らせるようになりました。
 「Caetano フェラフェリーダ」(1987年)、「エストランジェイロ Eatrangeiro」(1989年)と傑作を立て続けに発表。いよいよ黄金時代へと突入して行きます。「エストランジェイロ」では、ニューヨークで活動していたラウンジ・リザース The Lounge Lizardsのギタリスト、アート・リンゼイをプロデューサーに迎え、ノイジーな前衛的ギターサウンドを取り込んだ新しい世界を展開しています。

<アート・リンゼイとカエターノ>
 アート・リンゼイは、元々少年時代をブラジルで過ごしたため、ポルトガル語が堪能です。そのため、彼はカエターノやその他のブラジル音楽の歌詞を英訳したり、紹介記事を書くなど音楽以外の仕事としてブラジル音楽に関わり続けていました。それがきっかけで彼とカエターノは親しくなり、プロデュースを以来したのです。その後彼はマリーザ・モンチやカルリーニョス・ブラウンらブラジル新世代の大物たちのプロデュースも担当。ついに彼はブラジルに移住し、ブラジル音楽の世界発信になくてはならない役割を果たし続けることになりました。

<終わり無き活躍>
 1991年、カエターノは再びアート・リンゼイのプロデュースでアルバム「シルクラドー Circulado」を発表。このアルバムには我が日本の坂本龍一もゲストとして参加しています。
 1993年、彼はかつて不本意なかたちで終わりを迎えてしまったトロピカリズモ運動の落とし前をつけるべく盟友ジルベルト・ジルとのコンビを復活させます。こうして、作られたのがポップと前衛が見事に融合した名作「トロピカリズモ2」でした。このアルバムを発表することで、彼「トロピカリズモ運動」が時代が生んだ単なるブームではなく、現在進行形の運動であることを証明してみせたと言えるでしょう。
 その後も彼の勢いは衰えませんでした。
 「シルクラドー」のアコースティック・ライブ・アルバムである「ポートレイト Circulado Vivo」(1993年)
 スペイン語によるラテン・スタンダード・アルバムの傑作「粋な男 Fina Estampa」(1995年)リオで録音されたそのライブ盤「”粋な男”ライブ Fina Estampa Ao Vivo」(1995年)
 そして、僕が大好きな目もくらむような傑作アルバム「リーブロ Livro」(1997年)
 続くライブ・アルバム「ブレンダ・ミーニャ」(1998年)をヒットさせると、彼は映画「オルフェ」のリメイク版の音楽を担当、分厚い自伝を発表したりと、その才能が尽きることはなさそうです。
(リメイク版「オルフェ」もなかなか良いです。さすがに音楽が素晴らしく、ラストシーンの「複合リズムによるエンディング」には驚かされます。迫力あります。それと途中で窓辺で歌う男の役でカエターノ自身がちょい役出演していますので、お見逃しなく!)
<音で聴く文学作品>
 まったくポルトガル語がわからない僕ですが、彼の声と言葉と音楽が織りなす世界は、時に「音で聴く文学作品」だったり「音で聴く前衛映画」だったりします。
「書物は超常的なもの
 だが僕らはこれに触れ愛することができる
 煙草のパックに触れるように愛しく
 飼い慣らし育てるのだ
 水槽の中で 本棚の上で 檻の中で 焚き火の中で
 あるいは窓から投げ捨てるのだ
 (僕ら自らが窓から投身するのを免れ得るかもしれない)
 あるいは さらに悲惨なことだが、僕ら自身を憎むことを免れ得るかもしれない
 もしくは ただたんに一冊
 自分でも書いたりできるかもしれない ・・・・・・」

「リーブロス Livros(書物)」より

「僕らが色あせてしまえば、他の誰かが僕らに代わり
 カルナヴァルで活躍することになるだろう
 ならば僕らは、時の神の目を盗もう
 そして、完璧な美にこの身を委ねて踊ろう
 おいで・・・」

「オス・パシスタス Os Passistas」より

 彼の歌は、歌詞の対訳を読んでいるだけでも十分に人を感動させる力をもっています。これは本当に驚くべきことです。また例え、意味不明の歌詞の曲だとしても、その歌詞を音楽に乗せることで人を感動させてしまう魔力をもっているのです。
 考えてみると、彼は少年時代に目指していた画家や映画監督、それに小説家をすべて食い尽くし、ついにはブラジルという複合民族国家が目指すべき新たな雑種芸術を生み出すに至ったのかもしれません。
「・・・・・
 来るものは拒まずって奴さ
 見たいものは
 聞きたいものは
 言いたいものは
 拒まないんだ
 さあ 食べよう
 さあ 食べよう ジョアン
 さあ 食べよう マリーア ・・・・・」

「" Vamo " Comer さあ 食べよう」より

<締めのお言葉>
「死んで行く生物が失う幸福よりも、その死骸をう食う別の生物が得るだろう幸福のほうが大きく、こうして世界は有機物が存在することによって徐々に幸福を増大させる」

エラズマス・ダーウィン(「進化論」で有名なダーウィンの叔父さんにあたる博物学者) 
荒俣宏著「理科系の科学史」より

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