History of Coffee

- 世界を変えたもうひとつの黒い液体 -

<珈琲は世界を巡る>
  あなたは珈琲がお好きですか?たぶん僕は一日3杯ぐらい珈琲を飲んでいると思います。
 考えてみると今、世界ではどれだけコーヒーが飲まれているのでしょうか?
 なんとコーヒーが世界の貿易全体にしめる割合は、なんと石油に次いで二番目の金額になるといいます。将来、石油が枯渇することになるとコーヒーは世界一の産業になるのかもしれません。世界各地で消費される膨大な量のコーヒー豆を生産しているのは、ほとんどが「コーヒー・ベルト」と呼ばれる赤道周辺の第三世界の国々で、そこから船で先進国へと輸出されています。しかし、石油産出国が石油価格を操ることで巨万の富を築き上げたのに対し、コーヒーの生産国は昔も今も貧しいままです。それはなぜなのでしょうか?
 昔からカフェは、アートの発信地であり、アーティストたちが語り合う場でしたが、実はカフェからは、アートだけではなく世界を変える様々な文化が生み出されています。そして、それにはカフェ誕生の起源が関わっているようです。そんなわけで、ここではこのサイト初の試みとして「コーヒー」という飲み物に着目してみたいと思います。

<コーヒーの起源>
 まず初めに「コーヒー」の起源から始めましょう。
 「コーヒー」の語源は、アラビア語で「カフワ Qahwa」といいます。その意味は、直訳すると「何かへの欲望を払う、もしくは慎む」。そんな感じとなります。さらにこの言葉は、今でいう「コーヒー」だけを示すのではなく、アルコール飲料の「ワイン」と「カート」いう名の謎の飲み物のことも指していました。ではなぜ「カフワ」が「コーヒー」を示す言葉になったのか?どうやら、コーヒー直接の起源は「カート」という飲み物で、それがどこかの時点でコーヒーと入れ替わってしまったようです。
 謎の飲み物「カート」は、西アフリカ、エチオピア原産の木の葉から作る飲み物で、今でいうマリファナに近い幻覚作用をもたらすものだったようです。イスラム教徒の中でも厳しい修行を行うことで有名なスーフィーの修行僧が、夜中の祈りの際に眠気覚ましのために飲んでいたといわれます。その効果は絶大だったようですが、いかんせんカートはかなり希少な植物だったようで、いつの間にかカートの葉は入手困難となり、その代用品として用いられるようになったのが、コーヒー豆から作るスープ、すなわち「コーヒー」だったのです。

<コーヒーの産地>
 希少植物のカートの代用品として登場したコーヒーですが、「コーヒー」という植物もまた当時は珍しい存在でした。なぜなら、コーヒーという植物が育つ環境が特殊なものだからです。当時、コーヒーの産地として知られていたのは、アラビア半島の先っぽイエメンにあるノビ・チェアッペ山(3760m)で、その山の中腹1000mから2000mのあたりにだけ産地がありました。なぜ、その地域だけに育ったかというと、そこが冬も氷点下にならず、なおかつ豊富な降雨量が期待できる特殊な環境の土地だったからです。
 この地域で算出されたコーヒーの実は、山を降りると海辺の港から積み出され、各地へと輸出されることになりました。そして、その港の中で唯一ヨーロッパへの積出港となっていたのが「モカ」という港でした。コーヒーの銘柄モカはその積出港の名前からつけられたわけです。イタリアでは今でもコーヒーのことを「モカ」と呼ぶ場合があるようです。

<コーヒーの家>
 その後、コーヒーはスーフィーの修行僧たちによって、しだいにイスラム圏全体に広められてゆきましたが、それには理由がありました。厳しい戒律によってイスラム教徒は様々な行為を制限されています。アルコール飲料は禁止され、美食は当然否定されています。そんな彼らにとって、修行のための眠気覚ましだけでなく、食欲や性欲さえも抑えることができるコーヒーは、奇跡の飲み物といえました。
 こうして、コーヒーの人気が高まったことで誕生したのが「コーヒーの家」と呼ばれるコーヒーを飲ませる店です。もともとアルコール飲料が厳禁のイスラム教徒にとって、酒場という癒しの場所はありませんでした。そのため、彼らの社交場として人気があったのは「トルコ風呂」のような共同浴場でしたが、「コーヒーの家」はそれに代わる社交場として急速に増えてゆくことになりました。さらに当時はオスマン・トルコの黄金時代だったこともあり、「コーヒーの家」はしだいに贅を尽くした内装が施されるようになります。いつしか、「コーヒーの家」は豪奢なイスラム文化を代表する施設となり、そこを訪れる数少ないヨーロッパ人たちはその内装とそこで出されるコーヒーという飲み物の存在を知ることになりました。必然的にヨーロッパからやって来た貿易商たちの中に、コーヒー文化をヨーロッパに持ち帰りそれを広める役目を果たす者が現れます。こうして、コーヒーはヨーロッパへと渡り、独自の文化を生み出してゆくことになります。

<イタリア、スイス、ドイツにて>
 トルコの首都、イスタンブールをのぞくと、初めてヨーロッパに誕生した「コーヒーの家」(カフェ)は、1648年ヴェネチアのサンマルコ広場周辺でした。当時、ヨーロッパを代表する貿易都市だったヴェネチアには、イスラム圏との貿易により多くのものが輸入されていました。その中で砂糖を扱う業者がお菓子の店を始めると、そこで一緒にコーヒーを出すようになったといわれます。こうして、コーヒーとお菓子というゴールデンコンビが誕生し、二つはセットとして、イタリア各地に広まることになりました。
 イタリアで広まったコーヒーは、イタリアの隣国スイスにも広まります。当時アイスクリームという画期的なスィーツを売りに活躍していたスイスのお菓子職人たちは、コーヒーとともに「カフェ」をドイツに持ち込みます。もともと傭兵としてドイツ国内に多く移住していたスイス人たちによるそうしたカフェは、ドイツ各地で大成功をおさめます。ちなみにこの後、ドイツで成功をおさめたスイス人たちの多くが母国に戻るとホテル業にその財をつぎ込みます。そして、スイスにアルプス観光の基礎を築くことになります。

<イギリスにて>
 イギリスでは、1652年ロンドンに最初のカフェが誕生しています。イギリス人貿易商ダニエル・エドワーズがトルコから連れてきたシチリア人のパスカ・ロゼという召使がその店主でした。もともとは雇い主のためにコーヒーを入れていたのですが、その味が近所で話題となり、それならばとエドワーズが出資して店を出させたのでした。
 しかし、コーヒーを最初に飲んだ時、いきなり「美味しい!」と思った人はそうはいないでしょう。コーヒーを流行らせるためには、そうなるためにある程度、店に通わせてコーヒーの味に馴染ませる必要があるはずです。イタリアやドイツでは、お菓子とセットでコーヒーを飲ませることに成功したのですが、イギリスの場合はちょっと違いました。
 イギリスの場合、コーヒーを飲ませる店の売りは、その店のもつ「公共の空間」でした。当時使われていた「公に入れて売られるコーヒー・ドリンク」というキャッチ・コピーでわかるように、人々は「コーヒー・ハウス」を公共の空間として利用するためにコーヒーを飲むようになりました。ではなぜ、イギリス国民はそうした公共空間を必要としていたのか?それは、イギリスに誕生したばかりの新しい階層「市民階級」にとって、昼間に情報交換をする場所がなかったからでした。彼ら市民の社交場は当時はなく、酒場では酔っ払って喧嘩になるし、教会では議論することはできませんでした。そのため、彼らにとってコーヒー・ハウスは最高の場所となったのです。こうしてコーヒー・ハウスは市民階級の社交場としての地位を獲得し、そこから市民階級によって様々な文化が生み出されることになります。
(1)イギリスの郵便制度は、コーヒー・ハウスを利用することで発展しました。(コーヒー・ハウスはポスト替わりになっていました)
(2)貿易関係の人々が船舶の情報を求めて集まっている店では、そうした情報を集めて新聞を発行し人気を獲得します。そうした店のオーナーだったエドワード・ロイドという人物はその後、船舶のための保険会社を設立します。そして、それが発展して、現在でも世界有数の保険会社ロイズ保険となりました。
(3)コーヒー・ハウスは政治討論の場としても重要な役割を果たすようになり、反政府活動グループの拠点となる店も現れます。そのため1675年、当時の検事総長によって、コーヒー・ハウスが強制的に閉鎖させられるこいう事件が起きることになりました。
 コーヒーはワインやビールより健康に良く、コーヒー・ハウスでは市民の議論から民主主義が生み出されただけでなく様々な新ビジネスも誕生。ロンドンにおけるコーヒー・ハウスは、18世紀前半には全盛期を向かえ、8000店を越えるまで増えていたといいます。
 ところが、18世紀も半ばになるとロンドンのコーヒー・ハウスはなんと500店にまで減っていました。なぜ、そこまで急激に減ってしまったのでしょうか?
 そのひとつの理由としては、公共空間としてのコーヒー・ハウスの役割が、様々な社交クラブにとって換わられたことがあります。そして、コーヒー・ハウスから排除されていた女性たちからコーヒー・ハウスは嫌われてしまったことも理由のひとつのようです。女性たちは、子孫を残すためと性欲を満足させるために、コーヒーの流行を嫌ったといわれます。そして彼女たちはその代わりの飲み物として、自国の領土であるインド名産の紅茶を選択したわけです。
 1917年にトーマス・トワイニングがイギリス初のティーハウス「ゴールデン・ライアンズ」を開店。女性を意識したお洒落な店作りにより、一躍女性客たちの心をつかむことになります。女性たちが紅茶を愛するようになったことで、イギリスにおけるコーヒー・ハウスの人気は失われてしまいました。

<フランスにて>
 イギリスでコーヒー・ハウスが女性たちに嫌われたのとは対照的に、フランスでカフェは女性たちに愛されます。フランスのパリにカフェの第一号店ができたのは1671年のこと。最初にコーヒーを持ち込んだのは、トルコの大使スレイマン・アヤ・ムスタファ・ラサという人物だったといわれますが、当時トルコと友好的な関係を保っていたフランスでは、王族や上流階級がいち早く流行のイスラム文化「コーヒー」に飛びついたようです。
 かの有名なマリー・アントワネットもその一人で、初めからフランスでは女性たちによってコーヒーは受け入れられたといえます。その後、パリのコメディー・フランセーズ(有名な劇場)周辺に観劇帰りの学者や作家、役者たちを客層としたカフェが増え始めます。中でも有名だったのが、パレ=ロワイヤルにあった大衆浴場を改装してオープンしたカフェ・プロコプです。1689年開店のその店は市民階級が民主主義を議論する場所となってゆき、ついにはフランス革命において大きな役割を果たすことになります。
 もうひとつフランスでコーヒーが人気を獲得した理由として、イギリスとの宗教の違いがあります。フランスはイギリスと同じキリスト教国ではあってもカトリックだったため、聖職者は結婚を禁じられ、必然的に禁欲を求められていました。そのため、アルコールとは異なり欲望を抑えるとされるコーヒーはイギリスよりも好まれることになったわけです。
 さらにコーヒーの弱点ともいえる胃を痛めることについては、フランスの特産物のひとつ牛乳と混ぜた「カフェオレ」という新しい飲み物が誕生することで見事に解決されました。こうして、フランスはヨーロッパにおけるカフェ文化の中心となります。ただし、ひとつ問題がありました。コーヒーが流行れば流行るほど、イエメン原産のコーヒー豆の価格は上昇。コーヒーは高級品として上流階級しか飲めない高級品となってゆきます。フランス人は、自国でコーヒー豆を栽培することを考え始めます。その模範となったのが、オランダによるコーヒー豆の生産でした。

<パレ=ロワイヤル>(追記2013年12月)
 パレ=ロワイヤルとは、ルイ十三世の宰相だったリシュリュー卿が自分の館として建てた建造物で、完成したのは1639年です。(リシュリュー卿といえば、あの「三銃士」の敵役。ということは、映画版「三銃士」に出てきたあの巨大な王宮がパレ=ロワイヤルです)当時はパレ=カルディナル(枢機卿)と呼ばれていました。しかし、その後彼がルイ十三世に贈ったことで、「パレ=ロワイヤル」(王宮)となったわけです。しかし、ルイ十四世は弟のオルレアン公に与えたため、以後は王室の分家オルレアン公が代々住むことになりました。
 オルレアン公は庭園を一般公開し、官憲が宮殿と庭園に立ち入ることを禁じました。こうして、パレ=ロワイヤルは「自由」を謳歌する場であると同時に政治的な過激派が集まる場となります。その上、フランス革命時には五代目オルレアン公が議員としてルイ十六世の処刑に賛成票を投じていて、より反王政的な地域となりました。
 当時は革命と戦争により、フランスは不景気が続いて、多くの王侯貴族は多額の借金を抱えていました。オルレアン公も例外ではありませんでした。そのため、オルレアン公はその借金を払うために、パレ=ロワイヤルを使って不動産業で稼ごうと考えます。パリ中心地の一等地にある巨大なスペースを再開発して、巨額の賃貸料を集めようというわけです。こうして、1781年から1784年にかけて庭園は一大ショッピングモールへと造り変えられることになります。改造は大掛かりなもので、庭園の南端にあるオルレアン公の館以外は屋根裏部屋も含めて4階建ての巨大建築物となり、一部にはアーケードも造られました。
 こうしてパリの最新人気スポットとなったパレ=ロワイヤルは、新作ファッションを扱うブティックや宝石店、書店や画廊、レストランや酒場そして最新流行のカフェなどの飲食店、人形劇やダンスを見せる劇場、それにカジノや高級売春宿とすべてが揃うことになりました。ないのは警察署だけという無法地帯であることは、多くの人を集め、他の場所にはない娯楽やSEXが提供される特別地域となったわけです。フランス革命から恐怖政治へ、そしてその崩壊からナポレオンの独裁時代と彼の追放まで、パレ=ロワイヤルは常に反体制側の拠点として様々な陰謀の発信地となりました。

 カフェの原点のひとつが生まれた場所「パレ=ロワイヤル」について気になったので調べてみました。
 そのものずばり「革命の館 パレ=ロワイヤル」という本があります。パレ=ロワイヤルについての研究書かと思いきや、パレ=ロワイヤルを舞台にパリを描いた群像時代小説でした。正直、フランス史はあまり詳しくないので分からない部分もありましたが、それでも面白く勉強させてもらいました。特にリアルに描かれていた当時のSEX産業の凄さです。といっても、凄いのは売春婦ではなく貴族や庶民までもが売春や同性愛、少年愛などに溺れていたパレ=ロワイヤルという場所の魔力でした。マリー・アントワネットだろうが、十代の少女だろうが、男だろうが、女だろうが、売春婦だろうが、主婦だろうが・・・パレ=ロワイヤルの「自由」いや「乱れぐあい」は半端じゃないのです。
政治思想の宣伝、王政打倒の革命論議、売春婦の逢引き、文学や芝居の批評、要人暗殺の陰謀、最新ファッションのプロモーション・・・様々なジャンルの人々がそこで自由な時を過ごしていたわけです。まさに「ロックな現場」です。今もなお、カフェはそんな熱い現場であってほしいものです。

<オランダにて>
 オランダの首都アムステルダムに最初のカフェができたのは1666年のことです。当時のオランダは東インド会社を中心に世界の貿易における最強国のひとつとして君臨していました。ところが、そのオランダにとって「コーヒー」は貿易のための商品として非常にやっかいな存在でした。なぜなら貿易で稼ごうにもコーヒーの原産地イエメンで生産できる量には限りがあり、価格の吊り上げにも限度があったからです。
 そこで1680年に当時のバタヴィア長官ファン・ホルンは自国の植民地であるジャワ島でコーヒーの生産を始めます。実は、コーヒーを生産するためにはその収穫までに5年の歳月を必要としますが、そのために必要な初期投資を東インド会社が負担。そして現地での安い労働力を用いることでコーヒーの生産を軌道に乗せれば、後はそれを輸出して大もうけできるという計画でした。
 もともとコーヒー農園のための土地は現地の人々が米を作っている場所でしたが、それを強制的にコーヒー農園に変えさせることで、今でいう「モノ・カルチャー」の環境を作り上げました。そのためコーヒー農園の農民たちは、これ以後コーヒー豆を作ることでしか収入を得られなくなります。そのため、ジャワ島では米の不足による飢餓の危機が続くことになります。(米さえ作っていれば飢餓は避けられたはずですが、彼らにはそれも許されませんでした)
 こうして、コーヒーを生産する貧しい農民たちとそれを買い叩く地元の資本家と彼らとつながった政治家、そしてそのコーヒーを海外の各地へと輸出する商社、それを商品として販売する巨大企業。この巨大な収益構造は現在まで続き、そのおかげで我々は今日本で安くて美味しいコーヒーを飲むことができるのです。

<ブラジルの独立とコーヒー>
 オランダによる海外植民地でのコーヒー生産の成功は他国にも影響を与えます。フランスもさっそくカリブ海にある植民地でコーヒーの生産を計画します。こうして、ハイチ、マルチニーク、グアダルーペなどにコーヒー農園が作られることになり、ドイツの植民地だったアフリカのキリマンジャロ周辺(現在のタンザニア)もコーヒーの生産地となります。
 1727年、ポルトガルが南米の植民地ブラジル、サントスでコーヒーの生産を開始します。後にコーヒー豆の生産で世界のトップに立つことになるブラジルは、南米の中でいち早く独立国となりますが、意外なことにその誕生にはあのナポレオンが深くかかわっていました。
 1807年、ヨーロッパ中を征服中だったナポレオンはポルトガルの首都リスボンを占領します。この時、ポルトガル王室は国を捨て、当時のポルトガル領ブラジルに渡り、リオデジャネイロを新たな首都として再スタートを切りました。しかし14年の後、ヨーロッパでナポレオン体制が崩壊したために再びポルトガル政府は故国に戻ることになります。ところが、ポルトガル王の子ドン・ペドロはブラジルに残ることを決意し、ポルトガルからの独立を宣言します。こうして、1822年南米に新しい国ブラジルが誕生することになったのでした。
 独立後、ブラジルはコーヒー生産で世界一となり、経済的にも大きな繁栄を遂げることになります。ところが、コーヒーの生産量をあまりに増やしすぎたことで、コーヒー豆の価格が暴落。それにより国家経済自体が破綻してしまうことになります。(一時期ブラジルの輸出総額の70%はコーヒーでした)
 1931年、世界恐慌の翌年、ブラジルはコーヒー豆の価格が下落することを避けるため、大量の豆を国が買い上げて燃やしてしまいます。その後、しばらくブラジルは豆の焼却処分を続け、世界の消費量の2年半分を灰にしてしまったそうです。なんともったいない。
<コーヒー農業の困難さ>
 コーヒー豆という輸出商品は、他の農産物とは異なる要素がある異色の農産物でもあります。
(1)生産可能な環境条件が限られているため、生産できる土地も限られている。(温度、湿度などの条件が厳しい)
(2)生産を開始しても、出荷するまでに最低5年はかかるため、初期投資のための資本を必要とする。(企業の参入が必要)
(3)気候の変動による生産量の変化が激しく生産量の調整が困難。
(4)ネズミなどに食べられる心配がなく、腐りにくいために長期保存が可能。そのため出荷調整が可能ですが、そのためには設備投資が必要。
 そんなわけでコーヒー産業は価格の変動が激しく投資も必要であるため、投機のための商品として常に注目されてきました。

<ハイチの悲劇>
 フランス領ハイチでは、コーヒーとさとうきびの生産が集中することで、自分たちが食べるための食物を生産できず、飢餓に苦しむ状況が続くことになります。(ブラジルのようにコーヒーを大量生産する国が現れることで価格が暴落してしまったことも原因でした)そんな状況をきっかけにして、地元の農民たちを中心に独立運動が起きます。しかし、当時フランスを支配していたナポレオンの妻ジョセフィーヌの父親がマルティニークのプランテーション所有者だったこともあり、ナポレオンはハイチの独立運動を徹底的につぶそうとします。ところが、ダサリーヌ率いる反乱軍はゲリラ戦でナポレオン軍を圧倒。1804年ついに独立を宣言します。ハイチはいち早くカリブの島々の中から独立を果たすことになりました。コーヒー豆の悲劇は、こうしてハイチの人々を独立に導くことになったわけです。しかし、独立によって問題は解決しませんでした。典型的なモノ・カルチャーの国となったハイチは、この後もその経済体制から抜け出すことができないまま20世紀を向かえ、世界最貧国のひとつとしていまだに経済危機から抜けられずにいます。
カール・マルクスはこう書き残しています。
「ナポレオンの大陸封鎖によって生じた砂糖とコーヒーの欠乏はドイツ人を対ナポレオン蜂起に駆り立て、このようにして1813年の輝かしい解放戦争の現実的土台となったことで、砂糖とコーヒーは十九世紀においてその世界史的意義を示したのである。」

<コーヒーを巡る未来>
 こうして、ヨーロッパを中心に発展したきたコーヒーとカフェの文化を調べてみると、「カフェ」は様々な文化を生み出しただけでなく民主主義の揺りかごだったことがわかります。しかし、問題はそれが現在につながる先進国と第三世界との経済格差を生むための会議の場でもあったということです。皮肉なことに民主主義と植民地主義は同じところから生まれたということです。
 コーヒーこそ植民地主義の象徴なわけですが、だからといってコーヒー産業にたよる多くの国々は、それなしで経済的にやってゆくことは困難です。それだけに21世紀になって日本でも広がりつつあるフェア・トレードの動きは非常に有効と考えられます。(フェア・トレードとは、巨大商社を通さず農家にできるだけ利益をもたらすようにした農産物などの国際取引)
 最近さかんに広告をしている某インスタント・コーヒー屋さんの機械とセットで売っているコーヒー。あれってどうなんでしょう?フェア・トレード商品の増加に対抗した新たな戦略のように見えるのですが?

「現在のように消費量の格差がある限り、世界は不安定なままです。ですから安定した世界が生まれるためには、生活水準がほぼ均一に向かう必要がある。たとえば日本がモザンビークより100倍も豊かな国であるということがなくなり、全体の消費量が現在より下がる必要があります。・・・」
ジャレド・ダイヤモンド

 問題は世界の経済が均一化する時、我々日本人は1日3杯もコーヒーを飲めるほど裕福ではなくなっていることです。では、我々はそれに耐えられるか?
かつて、イスラムの修行僧たちは、コーヒーを飲んで禁欲生活に耐えたのですが、今度は我々が耐えなければならないかもしれません。もちろん、コーヒーがなくても生きてゆくには何の問題もないのですけどね。要するに、もう少し大切にコーヒーを飲めばよいだけのこと。
 ああ、美味しいコーヒーが飲みたくなってきた。

 思えばこのサイトでは、20世紀のアーティストたちについて様々な面から語って来ましたが、彼らの多くはコーヒー片手に仕事をしていたはずです。
 例えば、コーヒーに関する歌だけでも、ボブ・ディランの「ワン・モア・カップ・オブ・コーヒー」、オーティス・レディングの「コーヒー&シガレット」、アイク&ティナ・ターナーの「ブラック・コーヒー」、西田佐知子の「コーヒー・ルンバ」、コースターズの「スモーキー・ジョーズ・カフェ」、アルバムでは、佐野元春の「カフェ・ボヘミア」、スタイル・カウンシルの「カフェ・ブリュ」、他にもペンギン・カフェ・オーケストラというバンドや映画では「バグダッド・カフェ」なんてのもありました。

<コーヒーに関するデータ>(2011年)(「データ・ブック」二宮書店)
<コーヒー豆の原産国ランキング>
(1)ブラジル(2)ベトナム(3)コロンビア(4)インドネシア(5)エチオピア(6)メキシコ(7)インド(8)グアテマラ(9)ペルー(10)ホンジュラス
<コーヒー豆の輸出国ランキング>
(1)ブラジル(2)ベトナム(3)コロンビア(4)ドイツ?(5)インドネシア
<コーヒー豆の輸入国ランキング>
(1)アメリカ(2)ドイツ(3)イタリア(4)日本(5)フランス
<コーヒーの消費量(一人当たり)
(1)ルクセンブルク?(2)フィンランド(3)ノルウェー(4)スウェーデン(5)デンマーク(6)スイス(7)ドイツ(8)オーストリア(9)スロベニア(10)日本

<参考>
「コーヒーが廻り世界史が廻る」
- 近代市民社会の黒い血液 -
(著)臼井隆一郎
中公新書 1992年
「革命の館 パレ=ロワイヤル」
(著)ルネ・スウェンネン Rene Swennnen
中央公論 1983年

<献辞>
 このページは、東京谷中の素敵なカフェ「萩荘カフェ」と北海道小樽市のジャズ喫茶「フリーランス」に捧げます。

トップページへ