芸術の都パリを生んだカフェ文化

「カフェから時代は創られる」

- 飯田幹 Miki Iida -

<フランスのカフェ文化>
 フランス映画、それもパリを舞台にした作品でカフェが出てこない作品はないかもしれません。映画によってフランスという国を知ってきた人間にとって、カフェの風景、カフェでの会話のシーンは、小津安二郎作品における家族の食事の風景であり、西部劇における町一軒のさびれたバーのような存在です。そこにはフランスという国の文化が凝縮されているのです。
 「カフェから時代は創られる」という日本人研究家によるカフェ研究本を読みそのことを再認識することができました。そして、カフェはフランス文化の象徴的存在というだけではなく、「自由と創造の象徴」でもあることが理解できました。
 フランス革命はカフェから生まれたというのは以前読んだ本「革命の館パレ=ロワイヤル」に書かれていて知っていましたが、ここではそんなカフェの文化が新たな文化を生み出してきた理由について勉強しようと思います。カフェが「自由と創造の象徴」となったのは、その場所を多くの伝説的アーティストや作家、ミュージシャンたちが、創作の場、討論の場として利用していたからと言えます。
コーヒー文化源流への旅

 ではなぜ、パリに滞在するそうした人々がカフェを利用するようになったのか?
 その前に、先ずはそんな創造的な空間であるカフェを生み出した人々のことから始めます。
パリの街の地図と歴史

<カフェの創業者たち>
 パリのカフェのほとんどの創業者は、フランス南西部の内陸にあるアヴェイロネ地方の出身者でした。(アヴェイロネ地方はワインの産地としても有名です)

 ロトンドのビリオン、ドームのポール・シャンボン、ク―ポールの創業者ルネ・ラフオンとアーネスト・フロー、ブラッセリー・リップのマルセル・カゼズ、そしてフロールのブバルは皆この地方の出身者です。20世紀半ばには、パリのカフェ経営者の8割くらいがアヴェイロネであり、現在でも割合は減ったとはいえ、パリのカフェの6割くらいを支配しているのはアヴェイロネだと言われています。
 どういう経緯でそうなったのかというと、山岳地帯で貧しいその地域の中でパリに出稼ぎにきた男たちが、屋外で身体を張って働くために選んだのが、家庭や店舗用の炭の販売でした。しかし、炭は夏には売れなくなります。そこで、その売り上げを補うために、店にカウンターを設置し地元でとれるワインを飲ませるようになりました。そのうちに、店ではワインだけでなくコーヒーも出すようになり、炭屋兼ワインバー兼カフェとなっていったようです。
 そんな中、パリの中心部から離れたモンマルトルやモンパルナスは家賃が安かったことで、多くのアヴェイロネが店を出すようになりました。家賃が安い地域ということは、住んでいる住民たちも貧しいわけで、彼らはコーヒー一杯で長居ができるカフェを利用するようになりました。そうした住民の多くは海外からの留学生や移民労働者など、お金がない者も多く、ツケは当たり前となり、人種差別もされない場所として愛されるようになったのです。

「この神聖なロトンド、みんなここに自分の家に帰るような気持ちで行くのだった。私たちは家族のような気持ちでいた。リビオン父さんは最も素晴らしい人だった。彼は悪戯っ子の芸術家たちを愛してくれていた」
キキ「回想録」より

 貧しかった頃にツケを貯めただけでなく、家で使うために食器を盗み出した者も多く、有名なモディリアーニを巡るこんなこともあったとか。
 モディリアーニがやっと認められるようになり、彼の作品が売れたことでパーティーが彼の部屋で開催されました。するとそこにロトンドのオーナーだったリビオンが現れます。出席者の誰かが世話になった彼を招待したようでした。そころが彼を見たモディリアーニは大慌て・・・。
「馬鹿野郎!彼をここに連れてくる必要があったのかよ?俺だって、そりゃお前たちと同じくらい彼のことが好きだけどさ、彼は招待しなかったのはここにある食器が全部彼の店から盗んだものだからなんだよ!」
 すると怒って出て行ったのかと思ったリビオンがワインをもって戻ってきました。
「うちの店から来てないものはワインだけだったからね、それを探しに行って来たのさ。さあ食べよう!腹ペコで死にそうだよ!」
 リビオンは多くの客に「パパ」と呼ばれてしたわれる存在でした。なんという太っ腹!

モンマルトルが多くの画家たちに愛された理由>
 モンマルトルが多くの画家たちに愛され理由は、家賃が安かっただけではありませんでした。他にもいくつかの理由がありました。
(1)オスマン男爵のパリ大改造により、モンマルトルにアトリエ付きのアパルトマンが数多く誕生した。ある程度成功した画家たちがそのアトリエに住み出し、それが広がっていった。
(2)モンマルトルの丘の向こうに田園風景が広がっていたこと。画家たちは徒歩でその風景を目にし、描くことが可能だった。
(3)坂の多い街の雰囲気がパリの他の場所とは違い反体制的なアーティストたちに居心地が良かった。
 多くの外国人たちが寂しさを紛らわせる場所を求めていました。特に「パリ症候群」に悩む人々にとってカフェは救いの場でした。
「パリ症候群」
 パリのイメージに憧れて、パリに住んでみたものの、フランス人の無関心さや現実に自分が無価値だと感じ、うつ状態になってしまう病のこと・・・

マン・レイとカフェの出会い>
 写真家マン・レイはアメリカからパリにやってきたアーティストでした。そして彼もまたパリのカフェを愛し、そこで多くの仲間たちと出会いシュルレアリズムの中心的存在となります。

 ある時、あらゆる国から流れてきた人々がキャフェにたむろしている界隈がパリにあることを知った。それがモンパルナスだった。仕事のないある晩、地下鉄に乗って出かけて行ったが、実際そこはまったく国際的な場所だった。わたし同様のひどいフランス語も含めて、そこではあらゆる言語がとびかっていた。キャフェを次々まわってみると、様々なグループがまことにきちんと区別されていることに気が付いた。つまりあるキャフェでは顧客はほとんどフランス人で占められ、別のキャフェではいろいろな国籍の人が入り混じっており、また別の所ではアメリカ人はイギリス人がカウンターを占めていていちばん騒々しくしている、という具合だった。わたしは前二者のほうのタイプが好きだった。そこでは客は卓についていて、ときおり、席を変って別の友人たちのグループに加わったりしていた。全体的にみて、ここの活気が気にいった。そこで、パリでもここよりは落ち着いた、しかももう慣れ始めていた界隈を離れて、モンパルナスに引っ越することに決めた。

「洗濯船」の住人たち>
 モンマルトルにあった芸術家の共同アトリエ「洗濯船」には家賃が安かったこともあり、多くの若い芸術家が住んでいました。
 ピカソ、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、ヴァン・ドンゲン、ホアン・モリス、モディリアーニ・・・
「洗濯船はいつでも開いていたし、その時々の金銭状態によって多かれ少なかれ用意されていた食事は誰でもありつくことができた。アトリエの隅に置いてあるマットレスは、少し固かっただろうけれど、いつも遅くまで居た人や、そのとき家が無かった人を受け入れる準備ができていた」
フェルナンド・オリビエ(当時のピカソの恋人)

 彼ら「洗濯船」とそこに集まる芸術家たちもまた毎日のようにカフェを愛用していました。仕事場兼寝床である宿は居心地が良いとは言えないだけに、カフェは居間としての役割を果たしていたのです。

<カフェ・ド・フロール>
 1930年代カフェ・ド・フロールが多くの作家たちに選ばれ、利用されたのには理由がありました。
(1)サン=ジェルマン・デ・プレに出版社が多く、その編集者たちが作家たちとの打ち合わせに利用した。
(2)オーナーのブバルが当時まだ珍しかった石油ストーブをいち早く設置。他も店よりも冬暖かく居心地が良かった。
(3)静かな二階席があり、集中できる場所を求める作家たちに喜ばれた。
(4)広い店内には様々な空間があり、用途に応じて使い分けが可能だった。
 フロールの常連だったサルトルは、自身のカフェでの日課についてこう説明しています。

 午前9時から正午まではそこで仕事をし、昼食をとりに出かけてから、また2時に戻ってきて、4時までそこで出会う友人たちとおしゃべりをした。そして、8時までまた仕事をするのだった。夕食後は、そこで待ち合わせをした人々を迎えるのだ。奇妙に思えるかもしれないが、私たちにはフロールが我が家だった。

<カフェ・ロトンド>
 カフェ・ロトンドは地元のフランス人よりも外国人に人気のある店でした。それにも理由がありました。
(1)元々外国人が多い地域だったことから、オーナーのリビオンが各国の新聞、雑誌を揃えていた。それが情報に餓えた外国人に喜ばれた。
(2)「ラスパイユ海岸」という愛称が付けられた南向きの広いテラス席があったため、日当たりを求める人々に喜ばれた。
(3)リビオンが貧乏芸術家を愛し、支払いを容易にさせ、ツケも認めていた。

<カフェにある自由>
 パリのカフェが愛されたのは、芸術家にとって最も大切な「自由」が、そこにはあったからです。
(1)居つづけられる自由(一杯350円程のコーヒー代のみ)
(2)思想の自由(店内には政治・文化・宗教など自由に語り合える空気が広がっていた)
(3)時間的束縛からの自由(ほぼ24時間に近い営業時間でいつでも入ることができた)
(4)振舞いの自由(店内では読書だけでなくスケッチや討論、音楽など自由だった)

 パリのカフェはテラス席の椅子を外向きに於いていて、二人で座っていても目線は外に向かうようにできています。そのため、路を歩く人からもカフェに今誰がいるのかを見分けやすく、それがアトラクターに人が仕掛けになっていました。これが人が人を呼び、様々な人々が交流するカフェ空間を生み出したのです。
 そして有名店はみな店内は広く、柱が少なく店内が容易に見渡せるようになっていました。

<戦争とカフェの客たち>
 カフェの黄金時代はヨーロッパが戦火に巻き込まれた激動の時期と重なっていました。二度の世界大戦はパリを崩壊の危機に追い込みましたが、カフェはそんな時代も営業を続け、人々の心の支えとしての役割を果たしました。カフェ・フロールは第二次大戦中、灯火管制下でも営業できるよう店を改装し、戦時中も営業を続けました。

 第一次世界大戦中のロトンド。そこには戦争の混乱と孤独から逃れるため、多くのアーティストが集まっていました。その中には、ピカソ、モデキリアーニ、キスリング、藤田、ディエゴ・リベラなどもいました。その中の1人、ガブリエル・フルニエは当時のことをこう語っています。
「友人たちが皆軍人になってしまった戦争下のパリに一人残され、私は孤独を乗り越えられる避難場所を求めていた。そして私はロトンドに足を踏み入れた」

 モーリス・ド・ブラマンクも当時のことを語っています。
「ロトンドは第一次世界大戦の終りごろには面白い光景を見せてくれていた。朝も夜も、国際的なボヘミアンたちがここでおち合っていた。男も女も皆、それぞれの趣味に応じて自然発生的に文学を論じたり、芸術を学んだり、「エコール・ド・パリ」を形成したり、カップルになったりしていた。夏の夕刻になると、大通りのブラッセリ―にいる常連たちは、暑さで喉が渇くためロトンドのテラスに群がっていた。奇妙で不思議な後継は、もれなく地球上の全人類を表わしているかのようだった。ここにいる人々は、特別にその国から唯一の代表者として選ばれたかのようだった。・・・」

 幸なことにパリの街のカフェの多くは戦争で焼けずに済みました。しかし、残念なことにロトンドのオーナーだったリビオンは、第二次大戦後、タバコを密輸していたとして多額の賠償金を請求され、その支払いのためロトンドを手放してしまいました。

 チェコ人の画家ジュセフ・シマが調べたところによると、ロトンドの客層の国・地域別分類はこんな感じだったようです。
アメリカ(50%)、ロシア(30%)、ドイツ(7%)、ラテンアメリカ(4%)、イギリス(3%)、スカンジナビア(2%)、スペイン(1%)、ポーランド(1%)、チェコ(0.75%)、ユーゴスラビア(0.5%)、フランス(0.25%)
 ちなみにロトンドのお迎えさん、ドームの場合の客層は、大半がドイツ、東欧、中央ヨーロッパ出身者でした。
 セレクトの客層は、ほとんどがアメリカ人でした。

<天才を生み出したカフェ>
 歴史に名を残したカフェは、ブラックボックスのようにそこに入った人を変える力を持っていた。力を持った場というのはそこでしかできない経験を促し、そこに足を踏み入れる者たちの人を変えるほどの力を持っている。そうしたカフェには独特の磁力があり、自分の想像をはるかに超えた人々との出会いや刺激に満ちていた。

・・・自分たちのまわりの世界に一般的ではないことを本気で成し遂げたいと思った者には強い困難がを待ち受けている。「何者か」になりたいと思った者には、本人の強い意志だけではなく、様々な支援や理解、援助が必要である。幸にも、作家や画家、哲学者を目指す者は、医者や音楽家を目指す者ほど圧倒的な資金力が必要というわけではない。彼らにとって必要なのは資金というより理解ある仲間や寛容な環境との出会いであり、実際その道でなんとか生きていた家の出身というわけではない。しかし彼らはパリに集い、パリのカフェに通うことで、実際に新しい時代を創り出している先輩たちの生の姿を日々観察し、彼らの存在を身近なものとしていくことができたのである。

「あらゆる新しいものに対する最良の教養の場所はつねにカフェであった。・・・
 ウィーンの相当なカフェにはあらゆるウィーンの新聞、そしてウィーンだけではなくドイツ全国のや、フランス、イギリス、イタリー、アメリカの新聞が備えられ、そのうえ世界のすべての重要な文学、芸術の雑誌・・・も並んでいた。それゆえわれわれは、世の中に起こるすべてのことを直接に知った。・・・・」

シュテファン・ツヴァイク(作家)

<カフェから誕生した5つの世代>
 「カフェから時代は創られる」の著者飯田さんは、カフェの集まった人々から生まれたグループについて分類を行っています。
<第一世代>
 詩人ポール・フォールをアトラクターとして、カフェ「クローズリー・デ・リラ」に集まった芸術家たち。
 ポール・フォールは1903年からその店で「詩と散文」の火曜の集いを開催。その会に集まったジャン・モレアス、メシアス・ゴルベール、アンドレ・サルモンそしてギョーム・アポリネールらがパリの芸術を盛り上げました。
<第二世代>
 詩人・批評家のギョーム・アポリネールをアトラクターとするグループ。
 アンドレ・サルモン、マックス・ジャコブ、ピカソらがいました。
 1911年にロトンドがオープン。その店を中心にメンバーは集まりました。
 アポリネールはモナリザ盗難事件の容疑者として逮捕されてしまいますが、自由になった彼を元気づけるため、仲間たちは「ソワレ・ド・パリ」誌を創刊します。その編集部として使われることになったのが、カフェ・ド・フロールでした。アポリネールはその店でアンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちと出会い、彼らを世に出すことになります。
<第三世代>
 ロトンドに集まった近代絵画の出発点、エコール・ド・パリの世代。
 この時、アトラクターとなったのはピカソやキスリングで、彼らの周辺にモディリアーニやキキ、藤田嗣治らが集まりました。
 アンドレ・サルモンはこの時期のキスリングについて、こう語っています。

 キスリングはすぐにモンパルナスの王となった。それはモンパルナスが豊かになる時代よりも前のことだった。彼が来るとどのテーブルで皆、彼のために席をつくってくれた。バルザックの像に置き換えられてしかるべき主人のリビオンがいたロトンドでも、中央ヨーロッパや東ヨーロッパから来た画家たちが集う場所となり、キスリングが私よりも前から知っていたパスキンが居たドームでも、カンパーニュ・プリミエール街のロザリー婆さんのイタリア料理でもそうだった。
(キスリングはロトンドで用心棒として金を稼いでいたこともあったようです)
<第四世代>
 アンドレ・ブルトンがアトラクターのシュルレアリスト・ダダイストのアーティストたち。
 アポリエールがいたフロールがそのスタートでした。アポリネールの死後、1920年代メンバーはカフェ・セルタ(オペラ座)を根城にし始めます。彼らはそれまでのモンパルナスやモンマルトルを過去の遺物と否定し、新しい店セルタがダダの拠点となりました。
<第五世代>
 ジャック・プレヴェールをアトラクターとしたカフェ・フロールに集まった人々。ジャック・プレヴェールは、映画「天井桟敷の人々」の脚本家で、名曲「枯葉」の作詞家。
 ピエール・プレヴェール、レーモン・ビュシェール、オジェ・ブラン、マルセル・デュアメル、シルヴィア・バイタイユ、ジャン=ポール・ル・シャノワ、マックス・モリ―ズ・・・この頃からカフェに通うようになったボーヴォワールは、当時のことをこう語っています。

「彼らの神、教祖、考え方の師表となったのはジャック・プレヴェールで、一同は彼の映画や詩をあがめ、彼の表現や才気を真似しようと努めていた。私たちもまた、プレヴェールの詩やシャンソンを好ましく思っていた。夢想的で、少し辻つまの合わない彼のアナーキズムは私たちにはまったくぴったりきた」

「カフェから時代は創られる」 2020年
(著)飯田美樹
クルミド出版

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