- キャプテン・ビーフハート Captain Beefheart -

<平均律と音楽>
 「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」という今、我々が使っている音階を平均律といいます。なぜ、この音階を世界中のほとんどの人が使うようになったのか?ご存知でしょうか?
 かつて、音階というものは人それぞれが自由に選択していました。今でも有名な沖縄音階のように世界各地には独自の音階があります。昔から人々は、それぞれの地域で、それぞれの楽器を自分たちの好みに合わせて調律していたわけです。もちろん、クラシック音楽についても例外ではなく、バッハの時代に平均律というものは存在しなかったのです。しかし、モーツァルトが活躍していた時代、18世紀の終わりごろになってピアノが発明され、そこから大きな変化が生じることになります。当初、ピアノは職人によって一台一台手作りであったため、それぞれ使用する人の好みに合わせて調律が行われていました。ところが、時代が進みピアノが大量製作されるようになると、一台づつ音階を設定するより、一定の音階に設定しておいた方が効率が良いし、その後の調律も楽だということから、「ド・レ・ミ・ファ・・・・」の平均律が採用されることになりました。そして、そのピアノがヨーロッパから海外へと輸出され、世界中で使われるようになりました。そして、そのピアノが海外へと輸出され、世界中で使われるようになったため、それが世界の標準になっていったのです。それは、20世紀末に世界中で急激に進んだグローバリゼーションの先駆けだったともいえます。このウンチクは、以前爆笑問題の「爆問学問」に出ていた音文化学の専門家九州大学院芸術工学院の藤枝守教授が言っていたことです。(この番組、実に面白い!大好きです)
 その先生は音階について、こんなことも言っていました。
絶対音感を持っている人は、ある意味「フリーク」だというのです。なぜなら、算数に存在するはずの音階の中のたったひとつの音階だけを認識できるというのは本当はおかしいことだというのです。絶対音階を持つ人とは、ごく一部の人間が作り上げた枠組みに押し込まれ、音を楽しむ自由を失った人かもしれないというのです。なるほど、音を楽しむ「音楽」という文化を、そんな基本的なところから語ることもできるとは・・・・・。
 こうした、「音楽」という文化の本質的な枠組みについて考えることは普段あまりありません。しかし、かつてチャイコフスキーが音楽の歴史とは不協和音の許容の歴史であるといったように、音楽は新しいスタイルを目指して、常に不協和音もしくはノイズを生み出すことで、人々に衝撃を与えてきました。そのたびに聴衆は「音楽」について考えさせられ、いつしか感動させられ、その結果「音楽」という文化は、その幅と奥行きを広げ続けてきたわけです。
 だからこそ、音楽の歴史を振り返る時、そこには数多くの創造者、挑戦者がいました。その中には、成功者もいれば失敗者もおり、自らの死後になってやっと認められた悲劇のアーティストも数多くいました。(クラシック音楽におけるストラビンスキーとか、ジャズ界のチャーリー・パーカーとか、ソウル界のダニー・ハサウェイとか、映画「フィッシュ・ストーリー」のような例もあるはずです)そうした、知られざる「音楽の革命家」たちの中でも、キャプテン・ビーフハートの存在は特筆すべき存在でしょう。しかし、彼の革命がどこまで音楽を変えたのか?そのことを評価できる人はいまだにそう多くはありません。もちろん、僕のような音楽についての知識が不十分な凡人が、彼の音楽の価値を理解できるわけはありません。しかし、素人登山家でもエベレストをふもとから眺めてその美しさを語れるぐらいには、キャプテン・ビーフハートについて語らせてもらおうと思います。

<ドン・ヴァン・ブリート>
 キャプテン・ビーフハートこと、ドン・ヴァン・ブリートは、1941年1月15日カリフォルニア州グレンディールというロス郊外の街で生まれています。ごく普通の中産階級の家庭の一人息子でしたが、突然5歳の頃、彫刻家を目指すと宣言します。それは、4歳の時に作った動物の彫刻が高い評価を受け、天才少年としてテレビで紹介されたせいだったのかもしれません。彼はまさに神童 でした。そんなことから、彼はほとんど学校に通わず、プロの彫刻家に学びながらヨーロッパへ留学する準備をしていました。ところが、なぜか彼の両親はこのまま芸術家の道を歩めば、彼はホモになってしまうかもしれない、なぜかそう思った両親は彼を連れてカリフォルニアのド田舎モハーベ砂漠の小さな町ランンカスターへと引っ越してしまいます。砂漠の中なら、ホモも、芸術家もいないだろう。そう考えたのでしょう。(どこまで本当の話かよくわかりません)

<フランク・ザッパとの出会い>
 ところが、すでに彼の中の芸術家魂は目覚めてしまっており、さらにそれに火をつけるとんでもない人物までもが現れます。なんとド田舎のはずの同じ高校に若かりしフランク・ザッパが通っていたのです。その運命的な出会いは1956年のことでした。当時、ハウリン・ウルフ、ジョニー・ギター・ワトソン、サニー・ボーイ・ウィリアムソン、マディー・ウォーターズなど、ブルースやR&Bにはまっていた二人はすぐに意気投合。二人は学校が終わるとお互いの家でR&Bやブルースのレコードを延々と聞きながらマニアックな音楽クイズを出し合っていたそうです。
 高校卒業後、二人は別々の道に進みましたが、1964年にフランク・ザッパが自らのスタジオを手に入れると二人を中心としたバンド、「ザ・スーツ The Soots」を結成。スタジオでの録音を行うと、そのデモ・テープをレコード会社に送ったり、二人で映画を製作したりとアート一直線の生活に入りますが、ザッパがポルノ・フィルムを製作したとして逮捕されてしまいます。ドンの親心はすっかり逆効果になってしまったようです。

<キャプテン・ビーフハートの由来>
 彼はこの頃、すでに自ら「キャプテン・ビーフハート」と名乗っていたようですが、その名前の由来はというと、・・・。
彼の家に同居していた叔父さんが、露出狂かヌーディストかよほどのモノの持ち主だったのか、ドンが彼女を連れてくるとすぐに自らの巨大なモノを見せびらかしては「なんという見事なビーフハートだろう!」と自画自賛していたというのです。その叔父さんと血がつながっているドンもまた巨大なモノの持ち主だったのでしょうか?さらに元々「ビーフ Beef」という言葉には、スラングとして「不平、不満」という意味もあるそうです。したがって、「キャプテン・ビーフハート」には、不平不満の塊である「I Can't Get No Satisfaction」部隊の隊長という思いがこめられているのかもしれません。
 1964年、彼はロスで自らのバンド、キャプテン・ビーフハート&マジック・バンドを結成します。彼独特のハウリン・ウルフばりの強烈なだみ声と前衛的なブルース・ナンバーはすぐに注目を集めることになりA&Mレコードと契約。ボ・ディドリーのカバー・シングル「ディディ・ワー・ディディ」でデビュー。その曲はヒットしなかったものの、デビュー・アルバムの発表に向けてブッダ・レコードとの契約にも成功します。こうして、発表された記念すべきデビュー・アルバムが1965年の「セイフ・アズ・ミルク Safe as Milk」です。しかし、この前衛的なブルース・ロック・アルバムは時代の先を行きすぎていたのか、まったく売れませんでした。
 続くアルバムは2枚組みアルバムの予定で1968年に録音が行われました。ところが、彼らがイギリス・ツアーに出かけている間にプロデューサーのボブ・クラスノウが、勝手に途中の録音を一枚のアルバムにしてしまい「Strictly Personal」として発表してしまいました。さらにこの時、残された録音はブッダ・レコードが勝手にもう一枚のアルバムにしてしまいます。(それがアルバム「Mirror Man」です)そのうえ、このプロデューサーは、その時の録音テープをブッダ・レコードだけでなくMGMレコードにも売っていました。そのため、ビーフハートは両社から契約不履行で訴えられることになってしまいます。この後も、彼は法的なこと、営業的なことにまったく無頓着だったことから、契約問題、著作権問題などで数々のトラブルを抱えることになります。そのため、彼はもうすこしで、その音楽人生を終わらせてしまうところでした。そんな彼の危機を救ったのは、やはり盟友フランク・ザッパでした。
 ちょうどこの頃、フランク・ザッパはワーナー・ブラザースの中で自分のレーベルを立ち上げていました。芸術家肌でビジネスにまったく興味がなかったキャプテン・ビーフハートに比べ、ザッパという人物は、ヒット曲こそださないものの次々にアルバムやミュージック・ビデオを出し続けたやり手のプロデューサーでもありました。それは彼が音楽ビジネスを理解し、その中で生きてゆくことをマスターした人物でもあったというこです。だからこそ、彼は盟友のビーフハートに助け船を出し、彼に活躍のチャンスをもたらすことができたのです。

<伝説の名盤「トラウトマスク・レプリカ」>
 そんな親分肌のフランク・ザッパが自らプロデューサーを買って出て、彼のバンドに録音の場を提供してくれたおかげで、生まれたのがキャプテン・ビーフハートの名を世に少しは知らしめることになった名盤「トラウトマスク・レプリカ Trout Mask Replica」(1969年)です。ザッパのおかげで自由な音作りが可能になったことから生まれた28曲収録という2枚組みの大作そのアルバムは、以前あのローリングストーン誌が1967年から1987年にかけて生まれたロック・アルバム100選で33位に選ぶほどの歴史的名盤です。ところが、その100選が発表された当時でも、まだそのアルバムの総売り上げは7万5千枚程度だったといわれています。当然、日本でも売れているはずはなく、僕自身その異様なアルバム・ジャケットが気になってはいましたが、買おうとは思っていませんでした。(魚のマスクをかぶった男のジャケット写真をご覧になったことのある方は多いでしょう)
 このアルバム収録の28曲はすべてビーフハートによるもので、アルバムを録音するため、彼はバンドを再編成しています。ギターのジェフ・コットンとドラムのジョン・フレンチは、そのまま残しましたが、他のメンバーにはあえて音楽経験がほとんどない若手を起用しています。ベース・ギターを弾いたことがなかったというロケット・モートン(本名マーク・ボストン)と彼の友人だったというズート・ホーン・ロロ(本名ビル・ハークルロード)を加えた新マジック・バンドは、9ヶ月かけて合宿生活をしながら練習をつみました。ベースを弾いたことがなかったといえば、あのセックス・ピストルズのシド・ビシャスを思い出させますが、けっしてマジック・バンドはパンクの先駆けではありませんでした。なぜならこのアルバムにおいて、ハチャメチャに弾いているようにも聞こえる彼らの演奏は、アドリブでも適当に弾いているのでもなく、隊長が書いた譜面どおりにだったというのです。なんとこのバンドでアドリブが許されていたのは隊長だけで、他のメンバーは全員譜面どおりに演奏していたというのです。豊富な練習の結果、本番の録音ではほとんど一発でテイクが終了し、2枚組みのアルバムが24時間かからずにミックスまで終了してしまったといいます。この時のマジック・バンドの神がかり的な一体感を間近で見たプロデューサーのフランク・ザッパは強い衝撃を受け、このアルバムの録音終了後、自らのバンド、マザーズ・オブ・インベイジョンを解散させ新たなスタートを切ることになります。

<マジック・バンド>
 この時代のミュージシャンの多くがドラッグにはまっており、それがサイケデリックな音作りの原動力になっていたことはよく知られています。しかし、フランク・ザッパ同様ビーフハートもまたドラッグ嫌いで有名なアーティストで、バンドのメンバーにもいっさいドラッグを許しませんでした。したがって彼らは、グレイトフルデッドでもなくジェファーソン・エアプレインでもない当時としてはある意味異色のバンドだったといえるかもしれません。
 天才であるがゆえか、かなり偏執狂的だった隊長はアルバムの録音中、バンド・メンバーの誰かが録音を妨害していると疑い続け、何度もメンバーを問いつめ、彼のためにお膳立てをしてくれたザッパに対してもアイデアを盗んだと非難する始末だったといいます。そんな彼の性格からすると、彼はある意味、薬がいらないナチュラル・ハイ的な狂気ぎりぎりの天才アーティストだったのかもしれません。こうして、彼は自作では自らプロデュースを担当することになります。(絶対に付き合いたくないタイプの人間かもしれません)
 1970年、彼はストレイト・レコードからアルバム「Lick My Decals Off ,Baby」を発表。しかし、その後リプリーズで録音した2枚のアルバム「Kiss Me Where I Can't」、「Brown Star」はどちらもお蔵入りになってしまいます。そうでなくても売れていなかった彼のアルバムですから、よほど売れないと思われてのでしょう。隊長もさすがに売ることを意識したのか、次なるアルバム「The Spotlight Kid」(1972年)は初めて全米アルバム・チャートにランクインを果たし、彼にとって初のヒット・アルバムとなりました。同じ1972年発売のアルバム「Clear Spot」も当時大活躍していたテッド・テンプルマンのプロデュース作で、こちらも意外にポップな作品だったようです。(未聴です。すいません)続く2枚のアルバムは、1974年マーキュリーから発売されます。1枚目は「Unconditionally Guaranteed」。ところが2枚目のアルバム「Bluejeans & Moonbeams」は、制作途中でありながらマーキュリーによって勝手に発売されてしまいます。よほど1枚目が売れずマーキュリーの経営陣は頭に来たのでしょうか。
 再び、レコード会社に見放された隊長は再び盟友のフランク・ザッパに救われます。マザーズのアメリカ建国200年記念ツアーに誘われて参加することになったのです。このライブ・ツアーの中、テキサスでのライブ録音をもとに制作されたアルバムがフランク・ザッパ&キャプテン・ビーフハート&マザーズ名義のライブ盤「Bongo Fury」(1975年)でした。ザッパとの関係を復活させた彼は、再び彼のプロデュースのもとでアルバムの制作に入ります。「Bat Chain Puller」というタイトルになるはずだったそのアルバムは順調に制作が進んでいました。ところが再びトラブルに巻き込まれてしまいます。
 フランク・ザッパとワーナーが法廷闘争を始めてしまったことから、すでに録音済みだった隊長のアルバムまでもが、そのとばっちりでお蔵入りになってしまったのです。結局、このアルバムは新たなメンバーを集めて録音しなおすことになり、3年後の1978年にやっと「Shiny Beast ( Bat Chain Puller )」というタイトルで発売にこぎつけました。
 1980年、彼は久々のアルバム「美は乱調にあり Doc at the Radar Station」を発表。(日本語タイトルがあるということは、珍しく日本盤も出たということです)しあkし、この頃すでに彼は多くの時間を砂漠の中のモービル・ハウスでの詩作や絵画制作についやすようになっていたようです。そして、1982年、彼はラスト・アルバムとなったアルバム「鳥と案山子とアイスクリーム Ice Cream For Crow」を発表。完全に音楽活動から足を洗い詩作と絵画活動に専念する生活に入って行きました。彼の生み出した音楽を「音で作り上げた彫刻」と評した評論家がいました。抽象的でメチャクチャな形に見えても実は細部までしっかりと練り上げられ、詳細な図面どうりに職人たちによって作り上げられた高度な作品。それが彼の音楽だったのでしょう。問題は、それが理解できるのがフランク・ザッパのように優れた才能をもつごく一部の人々だけだったことなのです。
 芸術の世界では、昔からそうした例はいくらでもありました。特に抽象絵画や彫刻の世界は、ほとんどがそうした作家ばかりかもしれません。それでも、今ではピカソやミロの作品を多くの人が素晴らしいと感じるようになったのですから、いつかビーフハート隊長の音楽を最高!と感じることが当たり前になっているかもしれません。
 是非一度、キャプテン・ビーフハートの「トラウトマスク・レプリカ」を聞いてみて下さい。21世紀に育ったあなたなら、もしかすると普通にかっこいい音楽と感じられるかもしれません。人類の耳はわずか10年間に間違いなく進化しているはずですから・・・。残念ながら、僕も含めて20世紀に生まれ育った人々には、ちょっと難しすぎたのかもしれません。

 2010年12月17日69歳でお亡くなりになられました。ご冥福をお祈りします。(またも偉大なニュージシャンが12月に・・・)

<締めのお言葉>
「形は、たとえそれがまったく抽象的で幾何学的であっても、ひとつの内的な響きを持っている。形は、その形と完全に符合する意味を持つ精神的実在なのである」
ワシーリー・カンディンスキー

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