- カルリーニョス・ブラウン Carlinhos Brown -

<待ちに待ったソロ・デビュー>
 この男のデビュー作ほど、多くの人が待ちに待ったアルバムも珍しいかもしれません。1970年代にバック・ミュージシャンとしてスタートして以来、20年近く裏方に徹してきた男が、満を持して発表したソロ・デビュー作、それは70分におよぶ大作に膨れ上がっていました。この男には、アイデアとエネルギーが有り余るほど貯まっていたに違いありません。元々決して地味な裏方ではなく、ほとんど主役を食ってしまうような存在であっただけに、自分が主役になったからといって、萎縮するようなことは微塵もなかったのです。カルリーニョス・ブラウン、その名前は、彼が尊敬する「ファンクの父」ジェームス・ブラウンからとられたものです。そして、その名のとおり彼の生み出したファンクは、それまでのブラジル音楽の流れ(サンバ-ボサ・ノヴァ-MPB)に、より黒い血を混ぜ合わせ、新しい流れとなってバイーアから世界へと広がって行きました。

<ブラジル音楽の故郷、バイーア>
 カルリーニョス・ブラウンは本名を、アントニオ・カルロス・サントス・ヂ・フレイタス・マルクリーノと言います。(やたら長いのですが、それぞれに彼の家系のもつ歴史が含まれているのでしょう)彼は、1962年11月23日バイーア州の州都、サルヴァドール市のカンヂアルで生まれました。
 バイーアという地域は、ブラジルの中で最もアフリカ系移民の多い土地であり、当然アフリカから伝わった伝統も未だに色濃く残っています。例えば、アフリカ中央部からやってきたバントゥー族系の文化を代表するのが「カポエイラ」という格闘技で、これは奴隷達が秘かに舞踏として伝え続けることで現代まで残りました。(琉球の空手も同じようにして伝えられてきたのは、有名な話しです)
 もう一つの主流派ヨルバ系の文化を代表するのが、キューバの「サンテリア」、ハイチの「ヴードゥー」と同系統の宗教「カンドンブレ」です。しかし、なんと言っても、ブラジルの文化に対し、最も大きな影響を及ぼしたのは「サンバ・ヂ・ホーダ」と呼ばれるダンスです。これは人々が輪になって歌い、その中に順番に入って踊るというものなのですが、これこそがカーニヴァルにおけるダンスの元になったと言われています。

<バイーアが生んだアーティストたち>
 このバイーアの中心であり、かつてはブラジルの首都でもあったサルヴァドール市こそ、カーニヴァルとサンバを生んだブラジル音楽発祥の地であり、今もなおこの街は新しい音楽の発信地として、数多くの優れたミュージシャンたちを生み出し続けている場所です。
 サンバ界の大御所、ドリヴァル・カイーミはまさにこの街を代表する人物です。そして、ボサ・ノヴァの生みの親のひとり、ジョアン・ジルベルトもこの街から登場しているし、ブラジル最高の女性ヴァーカル・グループ、クァルテート・エン・シーもこの街の出身です。しかし、なんと言っても、バイーアと言えば「バイーア四人組」と呼ばれたカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、マリア・ベターニャ、ご存じトロピカリズモ運動のリーダーたちを忘れるわけには行かないでしょう。もちろん、その後もシモーネアントニオ・カルロス&ジョカフィなど大スターを生み続けています。
 しかし、バイーアはもうひとつ別の流れのミュージシャンたちを生むことで、ブラジル音楽に大きな貢献をしてきました。それは、この街のストリートが生んだとも言えるさまざまな音楽集団の活躍です。

<バイーアから生まれたストリート・サウンド>
 バイーアのカーニヴァルは、リオのカーニヴァルのように巨大化、観光化しておらず、また型にはまったものにもなっていないと言います。したがって、ここには毎年新しい趣向のグループが登場し、それが新しいサウンドを生み出す原動力となっているのです。例えば、1950年という早い時期にエレキギターを導入して「トリオ・エレトリコ」というバンド・スタイルを確立したのは、この街でした。(ロックン・ロールより早かったと言われています!)その他、サンバ・ヘギ(サンバ・レゲエ)やランバーダを生んだのも、この街です。さらにアフリカ回帰を前面に押し出した音楽集団「アフォシェ」がカーニヴァルに登場したのも、この街が最初であり、「ブロコ・アフロ」という黒人だけのアフォシェ「イレ・アイェ生命の家」が1974年に誕生したのもこの街でした。こういった流れは、この後も次々と新しいグループを生み出し、この地の音楽だけでなくブラジル全体の音楽を活性化させ続けました。
 そして、このストリート・サウンドの歴史の流れとバイーアが生んできたMPBの流れが衝突し、渦を巻くことによって誕生したのが、20世紀バイーア・サウンドの総決算とも言える男、カルリーニョス・ブラウンでした。

<カルリーニョスの下積み生活>
 子供の頃から、街角で空き缶を叩いていた彼は、カンドンブレの儀式で使われるアタバキという太鼓を演奏する人物に弟子入りし、16歳になったころにはスタジオ・ミュージシャンとしての活動をすでに始めていたといいます。1986年には、バイーアを代表する若手アーティストに与えられる「カイーミ賞」を受賞しました。(もちろん、バイーアの英雄、ドリヴァル・カイーミにちなんで作られた賞です)さらに彼はもうひとりのバイーア産の英雄、カエターノ・ヴェローゾの作品にパーカッショニストとして参加し、ライブ・ツアーにも同行しました。彼が参加した二枚のアルバム「フェラ・フェリーダ」(1987年)と「エストランジェイロ」(1989年)がともにカエターノ代表作となったのには、彼のパーカッショニストとしての才能が大きく貢献していたのは間違いないだろう。

<チンバラーダ>
 こうして知名度を上げていった彼は、自費を投じて地元カンジアルに住む若者たちを集めて、ストリート・パーカッション集団「チンバラーダ」を結成しました。それはカーニヴァルでの演奏を目指して活動する総勢200名にもおよぶ大集団ですが、それは単なる大人数のバンドというものではありませんでした。それは、音楽による街おこしであり、青少年の健全な育成に向けたプロジェクトでもありました。彼にとっては、自分を育ててくれたサルヴァドールの街に対する恩返しでもあったのです。

<アメリカへ、世界へ>
 彼の活動範囲はいよいよ海外へも広がり始め、アメリカで企画されたビル・ラズウェル(80年代を代表するミュージシャン兼プロデューサー)主催のプロジェクトによるアルバム「バイーア・ブラック」では5曲を担当、セルジオ・メンデスの大ヒット作「ブラジレイロ」(1992年)でも、パーカション、作曲で大活躍した。そして、チンバラーダのデビュー・アルバムが1993年に発売され、いよいよ彼の時代は、目の前まで来ました。

<ソロ・デビュー>
 1996年、彼の体内にため込まれてきた世界中のファンク・サウンドのエッセンスは、ぐつぐつと煮込まれ凝縮され混沌に満ちたスープ、大作アルバム「バイーアの空のもとで」となってあふれ出しました。ファンク、ラップ、ロック、レゲエ、サルサ、アフリカン・ポップス・・・かつてアフリカの大地から連れ去られ世界各地で発展したアフロ系ファンク・サウンドをこれほど違和感なくまとめ上げることができるたのは、世界一のミクスチャー人種大国、ブラジル生まれの男ならではの仕業だったのかもしれません。その名が「ブラウン」というのは、ちょっと出来過ぎかもしれませんが・・・。
 あとはこの男が、さらに新しい「リズムの世界」もしくは「ファンクの世界」の扉を開くことができるかどうか?このファンクの混沌としたスープの中から、新しい生命を誕生させられるかどうか?それが僕の大きな楽しみです。

<締めのお言葉>
「有名なエントロピー増大の法則は、世界は秩序から無秩序へ進化していると述べているが、一方、生物進化や社会の進化は単純なものから複雑なものが生ずることを示している。これはどうして可能なのか?どうしたら無秩序から構造が生ずるのか?」
I.プリゴジン、I.スタンジュール著「混沌からの秩序」

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