- キャロル・キング Carole King -

<シンガー・ソングライターの草分け>
 キャロル・キングとくれば、もちろんあの一世を風靡した超ロングセラー・アルバム「つづれ織り」ということになるでしょう。全米アルバム・チャートで15週連続ナンバー1、さらに302週に渡ってチャートにとどまり続けた驚異の作品です。(302週は、ほぼ6年近い期間にあたります!)
 しかし、彼女のベスト・セラーはそれだけではありません。それ以前にも、彼女は名うてのソングライターとして、数々の大ヒット曲を生み出しており、そのカバー・ソングは、今後もまたヒット・チャートをにぎわす可能性をもっています。彼女はローラ・ニーロとともに女性シンガー・ソングライターの草分けであるとともに、永遠不滅のソングライターでもあるのです。

<キャロル・キング、その活躍までの道>
 キャロル・キングは、1942年2月9日、ニューヨークのブルックリンに生まれています。まさに生粋のニューヨーカー、ブルックリン子です。音楽の才能に恵まれていた彼女は、小さな頃からハイスクール時代にソロ歌手としてレコード・デビューを飾っていました。(1959年のこと)しかし、その後大学に入学してからは作曲活動に専念、後に黄金コンビとして、ポピュラー音楽界にその名をとどろかせることになるジェリー・ゴフィンと出会い1958年に若くして結婚しています。(16歳で結婚したことになります!)そして、二人は大学卒業後、そろってニューヨークのアルドン・ミュージック社にソングライターとして入社しました。

<伝説のアルドン・ミュージック社>
 このアルドン・ミュージック社は、ドン・カーシュナーという人物が設立した音楽出版社で、ニューヨークにおける音楽出版ビジネスにおける最後で最大のヒット企業でした。当時、このアルドン・ミュージック社には、ライチャス・ブラザースの「ふられた気持ち You've Lost That Lovin' Feelin'」で有名なバリー・マンや後にシンガーとしてもスーパー・スターの仲間入りをするニール・セダカらの優秀な若手ライターが集まり、しのぎを削りながらその腕を磨いていました。そんな中、キング&ゴフィンのコンビは、いち早くその才能を開花させました。

<黄金コンビの誕生>
 1961年、二人が黒人女性ヴォーカル・グループ、シレルズのために書いた"Will You Love Me Tomorrow"が大ヒット。続くボビー・ヴィーの"Take Good Care Of My Baby(サヨナラ・ベイビー)"は全米ナンバー1に輝きました。1962年には、二人の家でお手伝いをしていた女の子リトル・エヴァの歌う「ロコモーション」が大ヒット(後にグランド・ファンク・レイルロードがリヴァイバル・ヒットさせています)、さらにエヴェリー・ブラザースの"Crying In The Rain"(1962年)、スティーブ・ローレンスの"Go Away Little Girl"(1963年)もまた全米1位を獲得しています。
 特に、後者の"Go Away Little Girl"は、1966年にハプニングスで12位、1971年にはダニー・オズモンドで再び1位に輝くという快挙を成し遂げています。こうして二度、三度とカヴァーされ、その度にヒットするということは、まさに名曲の証明であると言ってよいでしょう。

<ひとりでの新たな出発>
 1967年、パートナーとして共に歩んできたジェリー・ゴフィンとの別れから、彼女の人生は大きく変わって行くことになります。一時は完全に音楽活動を止めた彼女でしたが、今度は自らミュージシャンとして活動することを決意、二人目の夫、チャールズ・ラーキンダニー・コーチマー(後にジェームス・テーラーとのコンビで一躍有名になる)とともにシティを結成、1968年デビュー・アルバム「夢語り」を発表しました。このアルバムは、残念ながら商業的には成功しなかったのですが、それまでのアメリカン・ヤング・ポップスとはひと味違う大人向けサウンドとして評価を得ました。そして1970年、彼女はアルバム"ライターWriter"でついにソロ・デビューを果たし、ジェームス・テイラが同年に発売した「スゥイート・ベイビー・ジェイムス」とともにシンガー・ソングライター・ブームの先駆けとなったのです。

<偉大なるアルバム「つづれ織り」の誕生>
 そして1971年、シンガー・ソングライター・ブームの頂点を究めただけでなく、1970年代を代表することになるモンスター・アルバム「つづれ織り」が発売されました。
 このアルバムがヒットしていた当時、僕はまだ10代前半で当然このアルバムを買ってはいなかった。にも関わらず、このアルバムからのヒット曲の数々はしっかりと僕の耳にこびりついています。特に"It's Too Late"や"So Far Away"などは、その後買ったどのレコードよりもよく聴きました。と言うのも、僕の家は当時、JUN&ROPEというブランドのブティックをやっていて、僕たち家族は店の二階に住んでいました。そのため、二階の部屋でボーっとしていると、当時流行っていた洋ものポップスが一階の店から自然に聞こえてくるようになっていたのです。そのためジョン・レノンの「イマジン」「ラブ」やクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「ティーチ・ユア・チルドレン」「ウッドストック」などとともに、キャロル・キングのヒット曲の数々もまた僕の脳の奥底に張り付いて離れない存在となりました。

<ちょっと話しはそれますが>
 ついでに言うなら、当時JUNは海外制作の音楽番組のスポンサーもやっていたため、僕は弟とともにそれらの番組を欠かさず見ることができました。(小学生が起きているには遅すぎる10時過ぎの時間帯だったはずです)それは、今や伝説と化したダンス番組の決定版「ソウル・トレイン」をはじめ、ヘレン・レディーが司会をしていた「ミッドナイト・スペシャル」それに一時は日本でも大人気となったトム・ジョーンズのワンマン・ショー「トム・ジョーンズ・ショー」などだった。
 さらに、言わせてもらえれば、当時夜中に放映されていたテレビ東京の「プロレス・アワー」もまた僕ら兄弟が欠かさず見る番組でした。プロレス・マニアならご存じでしょう。それはプロレスのメッカ、ニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデンからの中継番組で、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノやプロフェッサー田中、ジョン・L・サリバンなど、まだ見ぬ海外の強豪たちを本場の雰囲気で見ることができる実に貴重な番組でした。(ちなみに、当時僕はプロレス博士または怪獣博士と呼ばれていました)ああ、話しがすっかりそれてしまった!

<「つづれ織り」の凄さの秘密は?>
 全世界で2200万枚を売り上げたこのアルバムの凄さの秘密は、いったいどこにあるのでしょうか?そこにはいくつかのポイントがありそうです。
 先ず、このアルバムが見事に時代の空気をとらえていたこと。そして、この時代の流れは、その後5年以上変わらなかったということがあげられそうです。だからこそ、6年近くにわたってこのアルバムはヒット・チャートに居座り続けたのです。それは熱く燃えた1960年代の反動とも言える個人の時代であり、人々が「癒し」を求めてさまよい続けた時代でもありました。(ジェームス・テイラーのページ参照)
 もちろん、彼女が10代から鍛えてきたヒットを生み出す作曲の能力がなければ、12曲すべてがヒットしてもおかしくない驚異のアルバムを作り上げることは不可能だったでしょう。後年発売された彼女のボックス・セットには、このアルバムの12曲すべてが収められているほどです。
 彼女のけっして美人とは言えない普通っぽい容姿とけっして超一流ではない歌唱力もまた、ひとつのポイントだったに違いないでしょう。それは、世界中の多くのファンが彼女と自分を同一化し、感情移入することを可能にさせたのです。(男性なら自分の彼女と同一化したのかな?)このあたりは、日本のユーミンの場合と似ている気もします!

<「つづれ織り」、その後>
 あまり語られることはありませんが、「つづれ織り」の後も彼女は「ミュージック」(1972年)「ファンタジー」(1973年)などコンスタントに優れたアルバムを発表し続けています。(80年代も90年代も)けっして過去の栄光に押しつぶされることなく、あくまで自分のペースを守った活動に専念できるのは、やはり「つづれ織り」発表時、すでに一人前の女性として生き方を確立していたからなのだと僕は思います。
 それがまた実に彼女らしい気がするのです。

<締めのお言葉>
「秘密を教えよう。<フランケンシュタイン>と<マイ・フェア・レディー>は同じ話しなんだ」
映画「パリで一緒に」より

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