- キャット・スティーブンス Cat Stevens -

<ロックの歴史から消えた男>
 若くして亡くなったロック・ミュージシャンの物語をこのサイトの中では、いろいろと取り上げてきました。それぞれの死は伝説となり、死して後も彼らの曲がオン・エアされるたびに多くの人々に彼のことを思い出させます。
 しかし、キャット・スティーブンスの場合、彼は死せずしてロックの歴史から消えてしまいました。それはなぜか?彼の激動の人生は、今21世紀の世界が迷い込んでしまっている混乱した世界状況と大きな関わりがあります。彼の代表曲である「ワイルド・ワールド」や「ピース・トレイン」、「雨にぬれた朝」などを知る人は、彼がイスラム教に改宗しただけでなく西欧社会とのつながりまでも断ち切ってしまったのはなぜなのか?想像がつかないかもしれません。彼が自ら、その存在を消したのは1979年のことですが、それから30年以上がたち、イスラム教の存在は当時とはまったく異なる状況になりました。しかし、皮肉なことに、かつて彼が歌っていた歌は、今や昔以上に輝きを放っているようにも思えます。
 彼の生き方は、「アーティストとは?」「音楽とは?」「宗教とは?」「異邦人とは?」「人生とは?」「平和とは?」など、いろいろなことを私たちに考えさせてくれます。

<異邦人として>
 キャット・スティーブンスは、本名をかつてスティーブン・デメトレ・ジョルジョ Stephen Demetre Georgiouといいました。(その後、イスラムに改宗後、彼の名はユサフ・イスラムと改められています)彼の父親はギリシャ系のキプロス人でギリシャ料理のレストランを経営していました。その父とスウェーデン人の母親の間の子として、1947年7月21日彼はロンドンで生まれました。ロンドン生まれとはいっても、店ではギリシャの民族音楽ばかりがかかっていて、生まれた時からすでに彼は大都会の中で異邦人として育てられていたようです。
 それだけではありません。ギリシャとキプロスは昔からトルコの侵略を受けてきた歴史があるため、犬猿の仲です。宗教的にもギリシャはギリシャ正教、トルコはイスラム教ですから、彼にとってトルコそしてイスラム教の人々は子供ながらに天敵だったわけです。ただし、彼はギリシャ人ではありましたが、クリスチャンとしてカトリック系の学校にかよっていました。彼が熱心なクリスチャンだったことは、後の彼の大ヒット曲でありスタンダード・ナンバーとなった名曲「雨にぬれた朝 Morning Has Broken」(1972年)からもうかがい知ることができます。
 イギリス人の中のギリシャ人であり、ギリシャ人でありながらクリスチャンであるという常に異邦人であることを意識せざるをえない生き方は、後の彼の音楽にも大きな影響を与えることになります。

<ポップ・スターとしてのデビュー>
 彼は高校卒業後、ハマースミス大学に入学。その後はごく普通の学生として、当時流行のフォーク・ミュージックにのめり込みながら作曲なども行うようになりました。するとその才能はすぐに注目されるようになり、音楽プロデューサー、マイク・ハーストのおかげもあり、1967年彼はロンドン・レコード傘下のデラムと契約し、早くもレコード・デビューを飾りました。
 デビュー当初の彼の曲は、後の彼のスタイルとは違い、ポップロック的でキャッチーなものが多く、他のアーティストによってカバーされることもありました。例えば、「君と踊ろう」(1967年)はトレメローズによってヒットし、「Fast Cut is the deepest」(1967年)はP・P・アーノルドによってヒットしています。(この曲はさらにその10年後、ロッド・スチュワートによってカバーされ世界的に大ヒットすることになります)
 しかし、ここまで前途洋々だった彼の人生はここに来て大きな壁にぶつかることになります。彼は重い結核にかかり、その後2年間にわたりまったく音楽活動ができなくなってしまったのです。社会から隔離されることになったこの期間が、彼の音楽に、そして彼の生き方に大きな影響を与えることになります。

<シンガー・ソングライターとしての再デビュー>
 1970年、病気療養という空白の期間を終えてカムバックした彼はアルバム「白いバラ」を発表します。それ以前とは異なりヴォーカルを主役とするアコースティックなフォーク・サウンドはこの時に誕生しました。(このアルバムには、まだまったく無名だったピーター・ガブリエルがフルートで参加しています)それはちょうどシンガー・ソングライターの時代を迎えようとしていた音楽界の流れにぴったりの方向転換でしたが、それはたまたま一致しただけのことのようにも思えます。
 1971年に発表したアルバム「父と子 Tea For The Tillerman」はイギリスだけでなくアメリカでもビルボード・ヒットチャートの第8位にまで上昇。一躍彼は世界的なスターの仲間入りをします。このアルバムからは、21世紀に入っても日本のCMで使用されている名曲「Wild World」がシングル・カットされ大ヒットしています。この曲では、別れた彼女に対して、主人公が「世界は危険に満ちているから気をつけるんだよ」と歌いかけています。皮肉なことに、彼が信じるイスラム教が生んだイスラム原理派のテロリズムとアメリカを中心とする資本主義社会が対立を深め、いつどこでテロ事件が起きてもおかしくない状況にある現在の地球こそ、、まさに「Wild World」そのものかもしれません。

<スターであることへの疑問>
 前作発表と同じ1971年、彼は早くも次なるアルバム「Teaser And the Firecat」を発表します。そして、そこからは「ピース・トレイン Peace Train」が全米7位、次のシングル「雨にぬれた朝」が第6位と大ヒット。
 1972年発表のアルバム「Catch Bull at Four」はシングル・ヒットが出なかったにも関わらずアルバム・チャートで第1位にとなり、彼の人気の高さをうかがわせました。さらに音楽的にも、彼のサウンドは進化を続けており、デビュー当初のアコースティックでフォーキーなサウンドは、エレクトリックでロック的なものへと変化を遂げていました。
 1973年発表のアルバム「異邦人」には、フィル・アップチャーチやパティ・オースチンらのソウル、フュージョン系のアーティストも参加し、その音楽的な幅が広がり、翌年発売のアルバム「仏陀とチョコレート・ボックス」からは「Oh Very Young」が全米10位、「Another Saturday Night」が全米6位と、再びヒット・シングルが生まれました。
 これだけ売れると、その印税もかなりの額になっていたのでしょう。彼は当時の多くのイギリス人ミュージシャンがとっていた最も有効な節税対策として、海外への移住を実行、ブラジルに自宅を移しました。ただし、もともと彼が真面目な人間だったことからも推測できますが、彼は単に税金を払いたくないから移住を決意したのではなかったのかもしれません。確かなのは、イギリスと西欧社会全般の文化、そして資本主義経済社会に対して彼が失望していたことです。
 彼は東洋の宗教について学びながら、第三世界の国々を助けるため、ユネスコなどを通じて多額の寄付をしていたといわれています。そして、そんな頃(1977年)彼は兄からイスラム教の聖典コーランをもらい、それを読んで大きな衝撃を受けました。

<イスラム教徒として>
 富を分け合い助け合う経済システム。お金や名誉を求めない清貧を重んじる生き方。神のために殺人を犯しても、欲のために犯罪を犯してはならないとする宗教観。宗教に対して彼が求めていたものをイスラム教に見出した彼は、1979年イスラム教に改宗し、自らの名前もユスフ・イスラム Yusuf Islamと改めました。さらに、コーラン以外の歌を認めない本来のイスラムの教義にのっとり、すべての音楽活動を止め、それまでに得た財産をすべて処分。その資金を元にロンドンでイスラム教の学校を設立。その経営者として活動してゆく道を選びました。
 こうして、音楽界から自ら消えてしまった彼の名が1989年、再び取りざたされることになりました。それは世界中で話題となったサーモン・ラシュディーの「悪魔の詩」に対し、イスラム教関係者が非難を浴びせ、ついには作者への殺人予告と発展した事件の際、彼が「殺人予告」を当然の報いであると発言したことがきっかけでした。この発言をきっかけにアメリカでは彼の曲をラジオから締め出す動きが広がり、キャット・スティーブンスの存在は完全に音楽界から消されてしまうことになりました。
 もちろん、ユスフ・イスラムという一人のイスラム教徒にとっては、悪魔の国アメリカで自分の曲がかかろうがかかるまいが、もうどうでも良いことなのはいうまでもないでしょうが・・・。

<かつて日本人が持っていた何か>
 僕はトルコ、モロッコ、二つのイスラムの国を一人で旅した経験があります。どちらも西欧寄りでイスラム原理主義とはほど遠い国ですが、それでもそこで知り合った人々は誰もが正直で真面目でした。(もちろん例外がなかったわけではありませんが・・・)
 家族を大切にし、アラーの神への信仰を大切にし助け合いの精神を尊ぶ彼らは、一人旅の僕に対し、恥ずかしがりながらも声をかけてくれ、泊まってゆけとか、これを食べろとか、カバンを取られないように見ててやるとか、何かと世話を焼いてくれました。そのうえ、家に泊めてくれたにも関わらず、けっして彼らは謝礼を受け取ろうとしませんでした。(もちろん、ガイドを本職とする人間は例外です)泊めてくれた家で大人数の家族と全員で食事をし、皆で居間にデーンと置かれたテレビを見る。そんな家族団欒のひと時が、かつて僕が子供だった頃の家を思い出させてくれ、妙に懐かしくてしかたありませんでした。
「ああ、ここには日本人がかつて持っていた心がまだ残っているんだなあ。この国ならずっと住んでもいいかもしれないなあ」そんなことを思ったりもしました。

<「雨にぬれた朝」>
 実は、以前から僕には彼の代表曲「雨にぬれた朝」について一つの疑問がありました。1980年代にこの曲を初めて聴いたとき、なぜか聴き覚えがあり、歌詞が日本語訳で口から出てきたのです。なぜそんなことがありうるのか?疑問でした。しかし、今回この歌のことを調べてみて、その理由がなんとなくわかってきました。
 雨にぬれた美しい朝の情景を歌いながら、そんな素晴らしい地球を創造した神を讃えるという明らかにキリスト教的な歌詞は、エレノア・ファージョン Eleanor Farjeonという作詞家の作品でキャット・スティーブンスのオリジナルではありませんでした。1965年に亡くなった作詞家のキリスト教思想に満ちた美しい詞に感動した彼がその歌詞に曲をつけて蘇らせ、それが見事に全米6位の大ヒットになったわけです。
 これは推測なのですが、僕が教会の日曜学校に行っていた頃、先生がこの曲を見つけてきてみんなに歌わせたのだと思います。それも何度も歌ったからこそ、歌詞が口から出るほどに覚えていたのでしょう。もしかすると、アメリカやイギリスでも、この曲はよく歌われていたのではないか?そうも思えます。それほど、彼の曲はキリスト教的な愛に満ちていると思われていたのでしょう。
 人間は本質的に変わらないとよく言います。確かに、スティーブン・デメトレ・ジョルジョは死ぬまでその人間的本質は変わらないのかもしれません。ただし、人間性は変わらなくても、信じる神や信条は変わりうるのもまた事実でしょう。心のよりどころを求めて人は、どの神、どの信条が自分にとって最も居心地が良いのか?その居場所を探し続けているのかもしれません。彼の場合はそれが、西欧社会でもなく、ロック・ミュージックでもなく、アラーの神でありイスラム教であったということなのでしょう。
 ただちょっとうれしいことに、彼の生き方から歌は完全に消えたわけではないようです。今でも彼はイスラム教に関わる音楽についての活動をしているのだそうです。音楽が好きな彼の人間性もまた変わらなかったということのようです。

<締めの言葉>
「人が自分の力の場所を見つければ、その人生のなかでも自分の場所を見つけたことになる」

ダグ・ボイド著「ローリング・サンダー」より

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