- J・D・サリンジャー J.D. Salinger -

<文章を書き続ける理由>
 このサイトで文章を書き始めたのは2000年のこと、毎週新たなページを増やすには、毎日毎日書き続ける必要がありました。時にはしんどいこともあるのですが、不思議なことにやめたくなったことはありませんでした。どうやら、僕にとってこのサイトは精神安定剤の役目を果たしているようです。
 実は、僕がこうした文章を書く行為のもつ効果に気がついたのは、わりと最近のことです。
 1990年、僕はそれまでの仕事を辞め、故郷の小樽に帰ることを決意。これが最後の冒険と思いながら、一人モロッコへと旅に出ようとしていました。計画では3週間でモロッコからスペインへと旅をする予定でした。海外一人旅は以前にもトルコ3週間の旅を経験していたので、それ自体は不安ではありませんでした。しかし、なぜかその時の僕の気分は後ろ向きでした。
 ひとつには、彼女が空港まで見送りに来てくれたこと。その後、結婚することになる彼女を残して旅に出るのはかなり後ろ髪を引かれる思いでした。それまでの旅では、自分にとって失うものはなく、戻れなくても悔いはないと思っていました。(っていうほど、危険な旅に挑んでいたわけではないのですが・・・)しかし、その時の僕は人生の転換期であることを意識していて、ある意味青春時代の終わりかもしれないという認識もありました。それが僕の気分を重くさせていたのかもしれません。
 そのうえ、精神的な部分だけでなく肉体的な部分でも悪環境が重なっていました。格安チケットで乗ったアエロ・フロートの乗り心地は最悪でした。機内はやけに狭くて、窓際の僕の席だと立つと頭が天上に届きそうでした。(エコノミー・クラス症候群という言葉を知っていたらもっと恐かったかもしれません)おまけにフライト・アテンダントのおばさんたちのほとんどは典型的なロシア・ミセス体型で、機内サービスが始まると通路がふさがれてしまいトイレにも行けませんでした。(ちなみに2006年世界アマチュア相撲選手権でロシアは男子、女子ともに団体優勝を果たしていますが、あのおばさんたちなら勝つでしょう)
 そんな気分では読書をする気にもなれず、かといって眠ることもできなかったため、いよいよ僕の精神状態は不安定になっていきました。しだいに、僕は映画「トワイライト・ゾーン」のジョン・リスゴーみたいに、今にも叫びだしてしまうんじゃないかと思ったくらいです。
 結局、僕はリュックからメモ帳を取り出すと、そんな自分の精神状態の原因を書き出して整理、分析してみようと思い立ちました。まだ、客観的に自分を見る余裕があったということでしょう。すると初めはめちゃめちゃに書いていた文章も、しだいにちゃんとした文章になり、それとともに僕自身もしだいに落ち着きを取り戻していました。幸いその後、僕は旅の途中で二度とそんな状況に追い込まれることはありませんでした。それが、文章を書くという行為が、僕にとっていかに重要なのかがわかった時でした。

<文章書きの鉄則>
 文章を書く仕事につくための最大の条件は、ただひとつ「毎日、文章を書き続けること」。これはおそらく作家と呼ばれる人々のほとんどがあげる鉄則でしょう。でも、もしかすると「毎日文章を書き続けられる人」とは、文章を書き続けなければ生きて行けない人のことなのかもしれません。そんな人たちは、もしかすると自分の文章が世の中で認められなくても自分一人のためだけにでも書き続けられるかもしれません。もちろんそうやって自分のために書かれた文章が他人にとって面白い場合はまれでしょう。それが人に受け入れられるには、やはり他にはない優れた何かが必要とされるはずです。
 そして、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて The Catcher in the Rye」は、そんな優れた作品の代表格と言えます。なにせ発表から50年以上が過ぎてもなお新鮮さを保ち続け、売れ続ける20世紀を代表するベストセラー小説なのですから。
 しかし、おとぎ話ではなく、同時代の若者たちと自分自身のために書かれたはずの本が、なぜ21世紀になった今でも古くなることなく生き続けられるのでしょうか?たぶん、この謎は永遠の名作と呼ばれる映画や音楽、絵画などすべてに共通すること点なのでしょう。

<「ライ麦畑でつかまえて」>
 僕が小説「ライ麦畑でつかまえて」を最初に読んだのは、たぶん大学一年の時だったと思います。東京に出てきたばかりの僕は神田の古本屋街に並ぶ、文学のお宝の山にすっかりはまり本を読みまくっていました。理科系の学生だった僕にとって本のジャンルは何でも良かったので、俗に名作と呼ばれている本を片っ端から読んで行きました。そんな中に、当時も青春小説の最高峰と言われていたサリンジャーの「ライ麦畑・・」があり、同じサリンジャーの「フラニーとゾーイ」などもありました。彼の作品は、当時呼んだ太宰治、庄司薫、五木寛之などとともに「青春時代」を思い出させる小説のひとつとして心に刻まれています。
 しかし、実を言うとこの本の具体的な中身はほとんど忘れてしまっていました。このサイトを作り始めてからも、時々この本のことを思い出していましたが、今さら読み返すのもなんか・・と思っていたら、我が心の師、村上春樹による新訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が2003年に、2006年にはその翻訳作業の裏話を収めた対談本「サリンジャー戦記」という本までが発表されました。そこで、僕も二十数年ぶりに新訳版の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(新訳版はこのタイトル)を読んでみることにしたというわけです。

<「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
 この本のストーリー自体は実に単純です。16歳の高校生ホールデンが高校を退学させられ、家にも帰れずにニューヨークの街を放浪する数日間の出来事。社会だけでなく自分の周りのすべてに適応できない彼は、あらゆることに対する不満と批判を語り続けます。その「語り」は大人になりきれない子供らしい純粋なもので、「甘えの構造」が見え隠れしますが、なかなか説得力があります。それは彼の語り口が実に生き生きしていて、うそっぽさが感じられないせいかもしれません。実は、そのうそっぽさが感じられない最大の理由とは、作者であるJ・D・サリンジャー自身がまさにホールデン少年と同じ考えの持ち主だったからであり、生き方自体がそっくりだったからなのです。

<サリンジャー少年>
 J・D・サリンジャーは本名をジェローム・デイヴィッド・サリンジャーといいます。生まれは1919年1月1日で典型的なニューヨーカーと言えます。父親はユダヤ系の実業家でしたが、母親がアイルランド系スコットランド人だったため、結婚の際カトリックに改宗していました。ユダヤ人でありながら、カトリックという中途半端な家庭に育ったことは彼のアイデンティティーを不安定なものにするだけでなく学校でのいじめの原因にもなったようです。おまけに彼は学校の成績もぱっとせず、そのうえ落ち着きのなさもひどかったようで、ホールデン少年同様、ついに高校を退学処分になってしまいました。
 彼はその後厳しい躾で有名な全寮制のミリタリー・スクールに入れられ、軍隊式の生活とユダヤ人への差別に耐えながらの学生時代を送ることになりました。それでもかろうじて高校を卒業したのですが成績が悪かったため、一流大学への進学はできず、田舎町の二流大学に入学します。しかし、すぐに自主退学した彼は再びニューヨークに戻ってしまいました。
 ちょうどこの頃、彼は初めてスコット・フィッツジェラルドの小説と出会い、文学の世界に目覚めました。それまでも学生新聞などに文章を書いていた彼は、それをきっかけに本格的に作家を目指してコロンビア大学の聴講生として勉強を始めました。

<作家デビューと戦場での悲劇>
 学生時代すでに作家としての才能を認められていた彼は、早くもいくつかの短編小説を発表。卒業後の活躍が期待されるようになりました。しかし、その前に彼には大いなる試練が待っていました。それはいよいよ重大な局面を迎えようとしていた第二次世界大戦における戦争体験でした。
 アメリカの参戦により、多くの若者たちがヨーロッパ戦線へと旅立つ頃、彼はアメリカ軍に入隊、多くの戦死者を出したノルマンディー上陸作戦にも参加した彼は、その後さらに悲劇的な戦闘に参加することになりました。その戦闘では、上層部の判断ミスによって、死ななくてもよいはずの兵士が数多く亡くなり、その時の精神的ショックにより彼には消すことのできない精神的病いが残ったと言われています。今ではこの症状のことをPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼び、ある程度理解されるようになっていますが、当時そうした障害は単なる神経衰弱と扱われていました。どうやらこのPTSDが、その後の彼の生き方に大きな影響を与えてしまったようです。
 彼はヨーロッパで精神的な治療を受けていた際に知り合ったフランス人医師の女性と結婚。精神的な落ち着きを取り戻してアメリカに帰還しました。ところが、アメリカに帰るとすぐ彼の妻はフランスへと帰国してしまい二度と帰って来ませんでした。離婚の理由は不明です。
戦場での体験と謎の結婚について

<ニューヨークでの放浪生活>
 一人になってからの彼の生活は「The Catcher in the Rye」の主人公ホールデン少年が繰り広げた放蕩生活とそっくりでした。そして1949年、そんな生活をする中で彼はいよいよ「The Catcher in the Rye」の執筆に取りかかります。翌1951年、この本は世に出ますが、当初は書評が賛否大きく分かれていたようです。しかし、評論家の論争などには関わりなく、売上は驚異的で、彼の名はいっきにアメリカ中に広まることになりました。ところが、こうして彼が有名になったことで、ニューヨークでの彼の生活はしだいに息苦しいものになり、ついにはホールデン少年もまた夢見ていた田舎での静かな生活を求めて、ニューハンプシャーの田舎へと引っ込んでしまいました。
 彼が購入した森の中の小屋には当初、水道も暖房も電話もありませんでした。1955年に彼は再婚し二人の子供をもうけており、生活もそれなりにちゃんとしたものになりましたが、完璧に社会から孤立した生活を望む夫の生き方について行けず、結局夫婦は離婚することになりました。
 いよいよ彼は森の中の隠者となり、そんな生活の中から、「ナイン・ストーリーズ」(1955年)、「フラニーとゾーイ」(1961年)、「大工たちよ、屋根の梁を高く上げよ」(1963年)の3冊を発表して以降は、まったく作品を発表しなくなってしまいます。(執筆活動は続けていおり、部屋には書き上げられた原稿が何冊分も積み上げられているという話しもあります)

<ホールデン少年との同一化>
 サリンジャーの人生は、まさにホールデン少年の人生であり、彼が思い描いていた将来の姿そのものでもありました。それはちょっと恐くなるほどの類似ですが、彼と同じように自分もまたホールデン少年と同じだと感じた若者もいまだに後を絶ちません。(だからこそ、未だにこの本は売れ続けているのでしょう)
 そうした若者たちの中には、ホールデン少年の考えをさらに進め、自分の考えこそ絶対的な善であり、そこからはずれているものはすべて悪であるという極端に狭い視野の考え方のもとで行動を行う者も現れました。
 その一人が1980年12月にジョン・レノンを射殺したマーク・デイヴィッド・チャップマンです。彼はジョン・レノンを撃った後、警察官が到着するまでの間、ダコタ・アパート前の舗道に座ってポケットから取り出した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでいました。
 そしてもうひとり、1981年に当時の大統領ロナルド・レーガンを狙撃した25歳の青年ジョン・ヒンクリー・Jrもまた、憧れの女性ジョディー・フォスター(映画「タクシー・ドライバー」)への手紙と「キャッチャー・・・」を持ち歩いていました。
 「キャッチャー・・・」のホールデン少年と同一化してしまった人物にとっては、ロック界のヒーロージョン・レノンもタカ派の政治家レーガンも同じように「敵」としか写らなかったのです。
ホールデン少年の影響による悲劇

<この小説が新鮮な理由>
 なぜこの小説が古くならないのか?その理由のひとつには、この小説が発表された時代の影響も大いにありそうです。
 この小説が発表された1950年代初めというのは、戦後世代の登場によって生まれる「反抗する若者たち」の存在がまだ明らかになっていない時代でした。映画「暴力教室」の公開と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のヒットが1955年ジェームス・ディーンの登場とその衝撃的な死も同じく1955年のことでした。「若者文化」もしくは「反体制文化」と呼ばれる存在がクローズ・アップされるのは、それ以後のことなのです。
 さらに1960年代になると、そこにヒッピー・ムーブメントやベトナム反戦運動、人種解放運動など若者たち主導による数々の運動が登場することになります。そのため、1960年代の若者たちは「キャッチャー・・・」の中で描かれた社会批判に大いに共感を持ちつつも、「だからこそ、社会を変えなければならないのだ!」という明確な目標をすでにもっていました。彼らはホールデン少年の疑問に対する解答をつかんでいたために思い迷う必要がなかったのです。(ただし、その解答が「完全な解答」ではなかったことが、1970年代に入り明らかになってきます)だからこそ、1960年代に生まれた小説や映画の多くは、時代の流れとともにその価値を失い。逆に解答を呈示できないまま、尻切れトンボになってしまった「キャッチャー・・・」は、未だにその輝きを失わないのではないでしょうか。
 このことは、映画の世界において「2001年宇宙の旅」や「市民ケーン」が解答をあえて示さないことで永遠の輝きを得たのと似ているし、ダヴィンチの「モナリザ」の微笑みの謎がその価値を永遠のものにしているのにも似ています。
 この小説は小さな小さな世界に逃げ込んでしまった少年の物語ではあっても、そこからどうすれば脱出できるのか、なぜ出られないのかを明らかにはしていないのです。(それができていれば、サリンジャーは小屋を出て次なる作品を発表しているはずです)
「ライ麦畑を走り回る子供たちが、間違って崖から落ちないようにつかまえる人間になりたい」
 ホールデン少年が言った言葉は、一歩間違えるとこの本を読む者を「ライ麦畑の世界」に閉じこめてしまう可能性を持っているということなのです。優れた芸術というのは、実は恐ろしいものなのかもしれません。

<追記>
2010年1月27日 J・D・サリンジャー氏は91歳でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈り致します。

<追記>
 「「キャッチヤー・・・」はすごい本だけれど、サリンジャーは自分のなかの閉じた世界のすごく近くに迫っていたんです。もちろん小説家としては開かれた世界にいるんだけど、彼の精神は、閉じた世界に接近していたんだと思う。出来上がった作品は、二つの世界について、最終的にはアンビヴァレントなものになっている。日本でも外国でも、たいていの人はあの本のことを、社会に反抗する子供の本だと考えています。でもそんな簡単な話じゃないんです。サリンジャーは生の価値観、そのものを裁いて量っているんです。そして彼の裁きはつねに変わっています。だからあの本はあんなにもスリリングなんです。
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」村上春樹インタビュー集より

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