
- チャーリー・パーカー Charlie Parker -
<チャーリーの死>
1955年3月12日、悪化した胃潰瘍からの出血によって呼吸困難となり偉大なるサックス奏者、チャーリー・パーカーは、この世を去りました。その死を看取ったフライマンという医師は、死亡報告書に患者の年齢を58歳ぐらいと記入していました。ところが、実際の彼の年齢は、まだ34歳でした。アルコールと麻薬が彼の肉体を、そこまでボロボロにしていたということですが、彼が元々肉体的に早熟だったのも事実のようです。そのため、誰よりも早く音楽的才能を開花させ、一流のミュージシャンとしての活動を始めています。
問題は、彼の精神的な成熟がそれに追いつけなかったことです。彼を愛した女性たちは、誰もが彼にとって母親のような存在だったといいます。まるで、子供のように幼稚とも思える行動を繰り返したかと思えば、誰にもマネすることのできない驚異的なテクニックで次々に新しいフレーズを生み出した天才。それは、麻薬のせいだったという意見もあります。そして、このことが「麻薬によって才能を得られるらしい」という間違った考えを広めることにもなりました。これは、この後、黒人社会において驚くべきスピードで麻薬が広まって行く原因のひとつにもなり、1980年代頃には、アメリカを悲惨なドラッグ漬け社会にしてしまいます。(もちろん、これは彼の責任ではありませんが・・・)
チャーリーは、けっして麻薬によって才能を得たのではなく、子供のままの感性が生んだ優れた音楽的性能が、今や伝説となった音楽的バトルによって磨き上げられて生まれたものだったと言えるはずです。実際、彼は麻薬でボロボロの人間になってしまったにもかかわらず、何故か回りの人間に好かれ、受け入れられていたようです。(麻薬や酒によって、暴力的になることは、けっしてなかったからかもしれません)ただ麻薬は、その天才の人生をあまりに短い期間に縮めてしまった事だけは、間違いありません。
<チャーリーの誕生>
チャーリー・パーカー(本名チャールズ・クリストファー・パーカー)は、1920年、当時のジャズのメッカのひとつカンザスシティーの郊外に生まれました。父親はしがない歌手兼ダンサーでしたが、ある日突然母と子をおいて家を出てしまいました。そのため母親のアディーは、息子がそんな父親のような人間にならないようにと、良い教育を受けさせることに全力を注ぎました。おかげで、彼は地元のリンカーン高校に通うことができたのですが、まわりの子供たちに比べ頭が良かった彼にとって、その学校の授業は物足りなかったらしいのです。そのためやる気をなくした彼は、もう少しで学校を辞めてしまうところでした。そんな彼を学校に引き留めたのが、伝統あるリンカーン高校のマーチング・バンドの存在でした。新入団員として、バリトン・サックスを担当していた彼は、その後生涯の友となるアルト・サックスと出会い、何人かの仲間たちとティーンズ・オブ・スウィングというダンス・バンドを結成しました。
<チャーリーの武者修行>
当時彼が住んでいたカンザスシティーの街は、全米でも有数のジャズの街でした。街のあちこちにあるジャズ・クラブでは、多くの優れたミュージシャンたちが毎夜ジャム・セッションを繰り広げ、新たなジャズの時代を切り開きつつありました。まだ十代前半だったチャーリー少年は、年齢をごまかしてジャズ・クラブに潜り込むとジャムセッションをかぶりつきで見る毎日を送りはじめ、いつしか学校のバンド活動からも離れてしまいました。(その頃彼にとって最大のヒーローはテナー・サックス奏者のレスター・ヤングだったようです)
しかし、ある日飛び入り参加したジャム・セッションで自分の音楽的知識のなさを思い知った彼は、自宅にこもると誰の助けも借りず独学で十二音階を修得してしまいます。(この時、本を使って学んだことは、他のミュージシャンたちの知らない数多くの知識をも学ぶことにつながり、それが彼の表現力の幅を大きく広げることになったようです)
<チャーリーのデビュー>
こうしてチャーリーは、どんどんその才能を伸ばしはじめ、わずか15歳でプロのミュージシャンとしてジャズ・クラブなどで働くために必要なユニオン・カードを取得しました。まさに早熟の天才と言えますが、彼の場合、それは音楽だけではなく私生活にまで反映されていました。彼はプロのミュージシャンになったと同時に19歳のレベッカ
Rebeccaと結婚。その時、花嫁のお腹にはすでに赤ちゃんがいたのです。このことは、ある意味チャーリーのその後の人生を象徴するものだったかもしれません。
<チャーリーの旅立ち>
この後チャーリーは、トミー・ダグラス Tommy Douglasというサックス奏者が率いるバンドに加わり、初めてサックスを演奏するための基本を学ぶことになりました。チャーリーにとって、初めての師匠が現れたわけです。こうして彼はカンザスシティーを根城に、その実力を伸ばして行きましたが、そんな生活はそう長くは続きませんでした。
その直接のきっかけは、ジャズ天国カンザスシティーを支配していたペンダガスト市長の失脚でした。彼がサギと脱税容疑で一気にその権力を失うと、彼の庇護の元に黄金時代を築いていたジャズ界もまたその勢いを失ってしまったのです。
当時、母親と嫁の争いにうんざりしていたチャーリーは、この機会にニューヨークへの旅立ちを決意しました。
<チャーリー、「バード」となる>
カンザスシティーでは、それなりの知名度を得ていたチャーリーでしたが、やはりジャズの本場ニューヨークは、そう甘い場所ではありませんでした。彼はニューヨークに着いたものの演奏するチャンスを得るどころか、食べるのにも困る状況に追い込まれてしまいました。仕方なく彼は初めてミュージシャン以外の仕事に就きました。それはジミーズ・チキン・シャックというレストランでの皿洗いの仕事でした。そして、ここでこの後彼の愛称として永遠に語り継がれることになる「バード」が誕生します。それは、このレストランで働く者にとって唯一の贅沢、チキンの食べ放題で彼がとんでもない数のチキンを食べてしまったことからきたもののようです。そして、レストランの裏庭(ヤード)で練習に励むバードと言う意味で「ヤード・バード」というニック・ネームが生まれたようです。それは、けっして彼のサックスが鳥の囀りのように美しかったからではなかったようです。
<ジェイ・マクシャンとの出会い>
チャーリーはその後、行方不明になっていた父親の葬式に出席するため、カンザスシティーに戻ることになりました。そして、この時彼は当時人気者だったブギウギ・ピアニスト、ジェイ・マクシャンと再会します。以前から、二人は知り合いだったため、彼はさっそくジェイ・マクシャン・オーケストラに加わることになりました。ここで再び彼はミュージシャンとして多くのことを学ぶことになります。さらに、この時初めて彼はバンドとともにラジオ番組のための録音も行っています。それでもまだ、チャーリーはやっと20歳になったところでした。
再び彼はジェイの楽団とともにニューヨークに戻りました。しかし、今度は彼にとって状況は大きく変わっていました。彼は、今や人気楽団のサックス奏者であり、ジャズの流れもスウィングからビ・バップへと大きく変わろうとしていたのです。おけげで一気に彼の知名度はあがり、バンドが地方への巡業へと出かける頃には、充分一人でやって行けるだけの人気者になっていたのです。
<アール・ハインズとの出会い>
次に彼は、以前ルイ・アームストロングのホット・ファイブでピアノを担当していたアール・ハインズの楽団に入ります。この楽団で、彼はこの後死ぬまで彼のライバルとなるトランペッター、ディジー・ガレスピーと出会い、独立後も行動をともにして行くことになります。こうして、ビ・バップの中心地、ミントンズを中心に彼らはいよいよ時代の最先端に立つことになりました。
<ビ・バップとは?>
ところで、「ビ・バップ」とはどんな特徴をもつ音楽だったのでしょうか?もっともわかりやすいのは、スタンダード・ナンバーを解体し、和音構造とほんのわずかなメロディー以外まったく違うものにかえてしまうものでしょう。それは、ある意味ヒップ・ホップにおけるサンプリングの手法と似ているのかもしれません。それも、元ネタがわからないほどの短いサンプリング素材を再構成して作り上げる手法、最近ならベックの手法並みの高度な手法です。
<ビ・バップの完成型へ>
そんなビ・バップ的手法を完成型に近いかたちで録音したのが、1945年のサボォイ・レーベルによる作品でした。そして、この時のメンバーは、トランペットが若き日のマイルス・デイヴィス Miles Davis、ドラムスがマックス・ローチ Max Roach、ベースがカーリー・ラッセル Curly Russell、そしてピアノにはバド・パウエルの代役として急遽ディジー・ガレスピーが参加しました。こうして、いよいよビ・バップの黄金時代がやって来ました。この時に録音された曲"Now's The Time"、"Koko"などは、彼の代表曲として永遠に歴史に刻まれることになりました。
<チャーリー、麻薬の深みへ>
しかし、この頃すでにチャーリーは麻薬の深みにはまり込み、売人への支払いのためにも、仕事を切らすことはできない状況に陥っていました。(彼がロスアンゼルスに招待されダイアルというレーベルで録音した彼の代表曲のひとつ"Moose The Mooche"は、ロスで世話になっていた薬の売人のニック・ネームからとられたと言われています)
そして、麻薬による異常な行動も目立ちはじめ、ロスのホテルでは、真っ裸でロビーに現れ電話をかけ始め、それを指摘されると部屋に戻ってベッドに火をつけるという事件を起こしています。この時、彼は施設に強制的に入院させられ、6ヶ月間そこで過ごすことになりました。もしこの時、当時一般的に行われていた電気治療を受けさせられていたら・・・彼のミュージシャンとしての生命は終わっていたはずです。(ジャック・ニコルソン主演、ケン・キージー原作の映画「カッコーの巣の上で」に出てくるやつです)
<チャーリー、絶頂期へ>
彼がなんとか無事ニューヨークに戻ると、そこではすでにビ・バップが黄金時代に突入していました。いよいよ彼には、メジャー・レーベルからアルバムを発表するチャンスがやって来ました。独学で音楽を幅広く勉強していた彼は、クラシック界のニューウェーブ、ストラビンスキーが大好きだったこともあり、ニューヨーク・フィルのメンバーたちとの共演も実現させるなど今までない新しいチャレンジも行うようになります。
そして、ついに52丁目に彼のニック・ネームをとったジャズ・クラブ「バードランド:世界のジャズ・コーナー Birdland : The
Jazz Corner of the World」がオープンしました。その仕掛け人は、彼の才能を見抜き、彼を常に支え続けたエージェントのビリー・ショーでした。
<チャーリー、最愛の人と出会う>
1951年、彼は最後のそして最愛の女性との生活を始めました。ボヘミア系の白人、チャン・リチャードソン Chan Richardsonは、裕福な家庭に育った美しくそして優しい女性で、チャーリーをまるで母親のように愛しました。しかし、二人が出会ったとき、すでに彼の身体は麻薬とアルコール漬けの生活によってボロボロになっており、まともな演奏を期待できない状態になっていました。それに追い打ちをかけるように、二人の間に生まれた娘が肺炎で幼くしてこの世を去ってしまいます。この時、すでにミュージシャンとしてのチャーリー・パーカーは死んでしまったのかも知れません。
<チャーリー、最後の時を迎える>
完全に生きる気力を失ってしまった彼は、長年のパートナー、ビリー・ショーを首にしてしまい、チャンの元をも去ってしまいます。もう彼には住むところさえありませんでした。
それでも、最後の最後まで彼を助けてくれる人がいました。それが当時「ビ・バップの女神」的存在としてしられていた有名な女性、パノニカ・ド・ケーニグスウォーター Pannonica de Koenigswaterでした。ニューヨークの豪華ホテルを住みかとする男爵夫人、パノニカの元には、セロニアス・モンクを代表とするビ・バップ系のミュージシャンたちが出入りしており、チャーリーもまた彼女にかわいがられていました。こうして、行き所を失ったチャーリーは最後に彼女のもとに転がり込んだのです。
早熟の天才は、幼子のような純粋さをもったまま母親のような女性の元で死の時を迎えることになりました。
<悪魔のようなしたたかさと天使のような幼さ>
彼のわがままな生き方は、その演奏にも現れていました。彼の辞書に「コラボレーション(共同作業)」という言葉はなく、あるのはライバルを出し抜くことだけでした。(それなのに彼は、女性たちや仲間のミュージシャンたちに人気があったようです。人徳でしょうか?)
しかし、そんな貪欲な人間だったからこそ、それまでの枠を越えたモダン・ジャズの世界を生み出し得たのかもしれません。きっと彼もまた、悪魔に魂を売り渡したアーティストの一人だったに違いないでしょう。
<締めのお言葉>
「生物はそれ自身と環境との間に存するずれに苦しむ。どの有機体にも、確かに生きる意志はある。だが、意識と生命を放棄することへの秘かな同意もまた存在する。意識と生命、それは二つの厄介な獲得物であり、二つの緊張であり、両者の均衡の二重の破れが、放棄への同意を存在せしめるようになったのである」
ロジェ・カイヨワ著「神話と人間」より
<参考ページ> チャーリー・パーカーの伝記映画「バード」
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