- チェ・ゲバラ Che Guebara(前編)-



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<チェ・ゲバラ、再評価>
 チェ・ゲバラ、70年代以降彼はテロリストたちのアイドルになってしまったため、危険な人物というイメージが先行していました。しかし、21世紀に入り、少しずつ彼に対する再評価が行われるようになり、その存在は輝きを増しつつあるようです。
 もちろん、彼の再評価には理由があります。それは、「チェ・ゲバラ」という伝説的英雄を、一人の人間として見ることができるようになった社会の成熟(それとも単に年月がたったせいか?)のせいもあるでしょう。「共産主義」という20世紀を代表する思想がソ連の崩壊とともに過去のものとなったことも、大きな理由のひとつです。ゲバラを評価すること=「共産主義の讃美」という時代はもう去ったのです。元々彼の考え方は、「マルクス・レーニンによる共産主義」とはまったく異なるものでした。そのことが、理解される時代となって初めて、「人間ゲバラ」の姿が明らかになってきたということなのかもしれません。
 さらにもう一歩踏み込むなら、9.11の同時多発テロ事件からイラク戦争への動きの中で、アメリカという巨大国家が、やはり世界一のテロ輸出国家だったという認識が、明らかになったことも影響しているかもしれません。この事実を知ったとき、ゲバラがかつて世界各地で行った反帝国主義、反アメリカの闘いの意味、そして正当性が明らかになってきたのです。
 以前、NHKの海外トピックスで、ボリビアで今ゲバラ・ブームが起きているというニュースを放映していました。残念ながら、それは海外からの観光客を当て込んだ、お金目当てのブームではあります。しかし、ボリビアといえば、ゲバラが逮捕され処刑された国です。彼はボリビアで革命を起こそうとしましたが、よそ者扱いされて大衆の支持を得ることができず、孤立したまま逮捕されてしまったという過去があります。そんな国で彼のブームとは、やはり「時代の流れ」は彼の評価を変えつつあるようです。
 そして、2004年映画「モーター・サイクル・ダイアリーズ」の公開によって、若き日のゲバラが生き生きとスクリーンに甦りました。チェ・ゲバラは、再び世界各地の大衆の心をつかもうとしています。さあ、伝説の英雄チェ・ゲバラの人生に迫ってみましょう。

<喘息もちのひ弱な子>
 チェ・ゲバラこと、エルネスト・ゲバラ Ernest Guevaraは、1928年6月14日アルゼンチンに生まれています。(キューバ人だと思っていた方も多いのではないでしょうか)
 彼の家は、かつて大牧場を所有する名家でしたが、当時はすでに落ちぶれてしまっており、父親は次々と事業に手を出しては失敗し、その資産を食いつぶしていました。
 しかし、両親の子供たちへの愛情は、けっしていい加減なものではなく、ゲバラの持病である喘息を治すため田舎町に引っ越すなど、子供のためにいつも心を砕いていました。そんな両親の愛情に答えようとゲバラはしだいに健康を回復、勉強に励むと見事ブエノスアイレス医科大学に合格しました。

<冒険好きの放浪青年>
 次々に新しい事業に手を出しながら住む場所を変えていた父親と当時の女性としては珍しく自由奔放な生き方を好んでいた母親。そんな両親の血を受け継いだゲバラが、冒険好きで無鉄砲な生き方を選んだのは当然と言えば当然でした。後に彼のこの放浪癖が自らを、あのキューバ革命へと結びつけて行くのですから、不思議なものです。そして、そのきっかけとなったのが映画化もされた「南米放浪の旅」でしたが、その旅のそのスタートもまたゲバラらしいものでした。
 ある日、高校時代からの友人アルベルト・グラナードと再会し、懐かしい話しに花を咲かせていた彼は、以前から夢見ていた放浪の旅の話しをし始めました。そして、南米からアジアまでの長い長い旅の計画を話しているうちに、彼は突然「ここから北米まで旅をしようよ!」と言いだしたのです。
 まだ学生だった二人は、その旅の移動手段にグラナードのもつ中古バイク、ポデローサU号(500cc)を選び、ほとんどお金を持たず、旅の計画もないまま、あっという間に旅立ったのでした。行き当たりばったりのこの旅は、二人が日記としてその細かな行程や感想を書き残していたため、後に発表されることになりました。(そのうちゲバラの「モーターサイクル・ダイアリーズ」が映画化されたわけです)

<南米放浪の旅>
 1952年1月にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスを出発した二人は、南米大陸を南下した後、西へ西へと旅をし、チリの南端に位置する町ペウージャに到着しました。お金のない彼らは、ハンセン病を専門とする医師二人による視察を兼ねた冒険旅行という話題をでっち上げる?ことで新聞社の取材を受け、そのおかげで各地で歓待を受けます。その後もちょっとしたサギまがいの方法で家に泊めてもらったり食事をごちそうになりながらの旅を続けますが、ついに唯一の移動手段だったバイクが使い物にならなくなってしまいます。しかし、どこまでも楽天的な二人は決して旅をあきらめず、その後はヒッチハイクよって北へ北へと移動を続けました。
 凄いのは、そんなギリギリの旅をしていたにも関わらず、彼らは旅の途中で興味のおもむくまま、いろいろなことに挑戦していることです。
 彼らは南米を飛び出してイースター島を目差しましたが船に乗れず、別の船に密航して今度は北上、途中で密航がばれると船の清掃をすることで乗せてもらったりもしました。
 チリの硝石鉱山を見学に行ったかと思えば、地元のサッカー・チームに雇われて対抗試合で大活躍したこともありました。
 その後、ペルーに入った二人は、チチカカ湖で泳ごうとしてみたり、インカ文明の故郷、マチュピチュやクスコを訪れ、遙かな歴史に思いをはせたりした後、アマゾン川を下る船に乗せてもらいサン・パブロにあるハンセン病の療養所を訪れました。
 世の中から見捨てられたハンセン病の人々とともにしばらく生活した後、彼らは手作りのいかだ「マンボ・タンゴ」号に乗ってアマゾン川をさらに下り、コロンビアへと入りました。
 コロンビアに入った彼らは、レティシアというという街のサッカー・チームにコーチとして雇ってもらいお金を稼ぎ、飛行機に乗って北上、首都のボゴタに到着、そこからさらにベネズエラまで旅を続けました。
 しかし、ここでアルベルトはカラカスのハンセン病療養所で職をえたため、旅をやめます。そのため、ゲバラは友人を残して、一人旅を続けることになりました。彼は競馬馬を運搬する輸送機に乗せてもらい無事アメリカのマイアミに到着。そこから飛行機に乗って故郷のアルゼンチンへともどったのでした。

<南米縦断の旅が残したもの>
 この旅について、彼はこう記しています。
「・・・ここにあるメモを記した人物は、再びアルゼンチンの大地を踏んだとき死んでしまった。これらのメモを整理し、きれいに整える「僕」とは、僕のことではない。少なくとも内面は、前と同じ僕ではない。この『果てしなく広いアメリカ』をあてどなくさまよう旅は、思った以上に僕を変えてしまった」そして、こんなことも書いています。
「人間というものは、一生のうちの九ヶ月の間に最も高尚な哲学的思索から、スープ一皿を求めるさもしい熱情にいたるまで、実にたくさんのことに思いを馳せられるもので、結局のところ全てはお腹の空き具合次第なのだ。・・・」
 ペルーでは貧しさのため病院に行けないおばあさんを診察をし、チリの鉱山では劣悪な労働条件のもとで低賃金で働く労働者たちの現状を見ました。そんな状況でもなお、貧乏な旅人である彼らを喜んで助けてくれた人々の優しさに感動し、感謝の気持ちを覚える毎日でした。こうした体験が、「医師」であり「アルゼンチン人」であった彼を、より大きなスケールの人間へと変えてしまったのです。

<再び、旅へ>
 1953年、医学部を卒業した彼は再びベネズエラに向かい、アルベルトと合流して旅をを続けることにしました。しかし、この二回目の旅は前回とは大きく異なるものへと変わって行きます。それは、もしかすると彼自身がすでに変わっていたための必然的な結果だったかもしれません。
 1952年に起きた民族主義革命直後のボリビアを訪れた彼は、そこで農地改革の現実や農民たちの暴動を目にします。彼らはペルーでも同じ様な状況を目にしました。当時、中南米の各国ではアメリカによる経済的植民地支配に対して、次々に反乱が起きていましたが、それはどれも一時的な争乱で終わっており、社会全体の変革を実現した例はありませんでした。
 しかし、エクアドルで出会ったアルゼンチン人の学生たちから「グアテマラでは今本当の意味の社会革命が行われている」という話を聞かされた彼は、急ぎグアテマラに向かいます。

<グアテマラにて>
 当時グアテマラでは、ハコボ・アルベンス首相を中心に農地改革を中心とした社会主義的な革命が進行中でした。ところが、貧富の差をなくそうとする政府の試み、必然的に米国系企業の植民地支配と対立することになり、ついにはアメリカによる介入を導くことになります。こうして、1954年6月、CIAや米国系企業の後押しを受けたカスティージョ・アルマスを中心とした軍部によるクーデターが起き、グアテマラの短い「春」は終わりをむかえてしまいました。その後、反米思想をもつ人間が次々に逮捕され、処刑され始めたため、ゲバラは仲間たちとともにグアテマラを離れ、メキシコへと向かいました。

<メキシコにて>
 メキシコでは、1910年にメキシコ革命が起き、いち早く独裁者を追放、民主的な社会改革が行われていました。その伝統がその後も生き続けていたこともあり、首都のメキシコ・シティーには、反米思想をもつ各国からの亡命者たちが数多く集まっていました。
 1955年、そんなメキシコ・シティーで、彼は後のキューバ革命の指導者フィデル・カストロと出会うことになります。

<フィデル・カストロ>
 ゲバラより2歳年長にあたるフィデル・カストロ Fidel Castroは、キューバのサトウキビ農園主の子供として生まれました。裕福な家庭で育った彼は、大学で政治学を学び、社会主義政党からの立候補を考えます。しかし、ちょうどその頃バチスタによるクーデターが起き、キューバは軍事独裁体制へと移行してしまいました。それに対してカストロは、1954年軍事政府に対し武力闘争を開始します。しかし、準備不足もあり、すぐに作戦は失敗し、彼は逮捕されると国外へ追放されてしまいました。彼はメキシコでもう一度作戦を練り直し、再びキューバにもどろうと考えていました。ゲバラが出会ったのは、まさにそんな時期でした。前向きに物事を考える二人はすぐに意気投合。ゲバラはカストロを信頼し、自ら革命軍への参加を志願します。こうして、彼はキューバ革命軍の従軍医師兼部隊長として、キューバに向かうことになったのです。
 初めは煙たがっていたキューバ人たちも、彼の人なつっこさと真面目さに打ち解け、彼の口癖「チェ (やあ!)とか(おい!)の意味」をとって「チェ・ゲバラ」と呼ぶようになっていました。
「チェ・ゲバラ」の誕生です。

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