- ケミカル・ブラザース The Chemical Brothers -

<サイレンの音>
 世の中で最も危険を感じさせる音は何か?
 もしかすると、それはサイレンの音かもしれません。救急車や消防車のサイレンの音を聴くとびくっとする人は多いでしょう。しかし、それだけではありません。地震や津波など、災害時のサイレンもあるし、戦時下においては爆撃機の到来を告げる死の予告でもあります。
 ハード・コア・ラップの雄、パブリック・エネミーが白人社会への戦線布告の意味を込めて、そのセカンド・アルバム「パブリック・エネミーU」の冒頭にサイレンの音を響き渡らせたのは有名です。しかし、そんな危険な響きが大好きでサイレンのための曲を作ってしまった危ないコンビがいる。それが1993年"Songs To The Siren"でデビューしたテクノDJ系アーティスト、ケミカル・ブラザースです。

<ケミカル・ブラザース>
 ケミカル・ブラザースの二人、トム・ローランドエド・シモンズは、ともにイギリスの名門校マンチェスター工科大学の学生でした。時代は、1980年代の終わり、アシッド・ハウスがマンチェスターを中心に大きなブームになろうとしていた頃でした。二人は、昼間はレコード店、夜は彼らのアイドルだったニュー・オーダーが経営するクラブ「ハシエンダ」に入り浸っていました。その後、DJとしてハシエンダで活躍するようになった二人は、独自のビートを編み出し、しだいにその名を知られるようになって行きました。

<マンチェスターとテクノ>
 ところで、なぜブリティッシュ・テクノの発信源は、マンチェスターだったのでしょうか?
 もちろん、それは偶然ではありませんでした。そして、それは世界各地におけるテクノの発展史にある共通点が見られることからも推測できます。テクノ・ポップの原点と言われるクラフトワークがドイツの出身。それをよりキッチュにポップに展開し世界に広めたYMOが日本出身。ともにテクノロジー大国の出身だったというのは、偶然ではなかったはずです。それに、デトロイト・テクノが生まれたデトロイトの街は、ご存じアメリカ経済の基盤を築いた自動車産業の中心地だったし、マンチェスターもまた世界史上、産業革命における元祖といってよいかもしれないイギリスを代表する街のひとつなのです。テクノは、当然ながら「テクノロジー」の略なのですがその名前は、実に見事にその本質を現しているわけです。 そしてそんなテクノロジー(工業)都市には、技術系、理工系の一流の学校があり、コンピューターが得意なオタク系の男の子たちが集まっています。彼らは、仲間たちを集めてロック・バンドを組むよりも、ひとり、部屋でデスクトップ・ミュージックをつくるほうが得意かもしれません。(かなり先入観が入っていますが、僕のまわりの理系の連中もそうでした)その点では、ケミカル兄弟もまたそんなタイプに属していたのかもしれません。
 彼らは、見た目も意外に地味なファッションだし、トムの長髪もなんだかやけにさわやかで、目つきが実に優しげ好青年に見えます。あんのじょう、彼らは麻薬のたぐいにはいっさい手を出していないとのことです。そんな好青年の二人が、ダンス・フロアーのカリスマ的ヒーローになりえたのは、なぜでしょうか?

<危険な二人>
 なんとなく僕は、あの地下鉄サリン事件のことを思い出してしまいます。オウム真理教の理数系エリートたちのことです。彼らが実に真面目で、理想の社会を求める今時珍しい人間たちだったことは、良く知られています。しかし、それが麻原というひとりのカリスマ的狂人によって、不気味な殺戮兵器を開発するメンバーになってゆきました。(ケミカル・ブラザースのロゴ・デザインが、なんとなくオウム真理教のイメージに近い気がしていたのは、僕だけではないでしょう)もちろん、彼らもまた危ない人間たちだと言っているわけではありません。彼らのサウンドは、そんな「危険さ」を音楽の世界で秘かに昇華させていると言いたのです。その「秘かな危険さ」こそが、彼らの魅力の原動力のような気がします。

<デジタル・ロック時代へ>
 彼らのデビュー・アルバム「さらばダスト惑星 Exit Planet Dust」(1995年)は、DJの視点から作られたダンス・ロック・アルバムでした。それはコンピューターによって作られてはいても、ロックのフォーマットを借りた構造になっていたため「デジタル・ロック」という名前を与えられました。そして、テクノがロックと融合してゆく90年代末ポップスの重要な転換点となったのです。続く1997年発売のアルバム"Dig Your Own Hole"は、いよいよ世界的ブレイク作となりブレイク・ビーツを武器とするデジタル・ロックは、完全にダンス・ミュージックの主流として定着しました。同じ時期には、彼らよりベテランで、彼らよりテクノよりのアンダーワールド(セカンド・アルバム"second toughest in the infants"は1996年発表)、そして同じく彼らよりベテランだが、彼らよりロックよりのプロディジー(出世作"The Fat Of The Land"は1997年発表)なども活躍を始め、デジタル・ロックのブームは一つのピークを迎えようとしていました。

<ジュニア・ボーイズ・オウン>
 ケミカル兄弟を育てた場所として、クラブ「ハシエンダ」は重要な存在ですが、もうひとつ彼らを育てたレーベル「ジュニア・ボーイズ・オウン」も忘れるわけにはゆかないでしょう。このレーベルは、マンチェスターを代表するDJ、アンディー・ウェザオールが設立したボーイズ・オウンが元になっており、このレーベルがケミカル・ブラザースとアンダーワールドという超大物を生み出したことによって、マンチェスターのダンス・ムーブメントは世界的なものになっていったのです。さらに言うと、アンディーは、テクノにロック側から接近し新境地を切り開いたロック・バンド、プライマル・スクリームの傑作アルバム「スクリーマデリカ」のプロデューサーでもあります。

<ケミカル色>
 この後、時代はファット・ボーイ・スリムを代表選手とするビッグ・ビート・ブームを迎え、よりダンスに重きをおいた文字通りビート重視の音楽が主流になってゆきました。しかし、ケミカル兄弟はけっして、その流れに乗ってはいませんでした。1999年発表のアルバム「サレンダー Surrender」で、彼らはケミカルならではの独自の調合によるダンス・テクノ・サウンドを作り上げてみせました。ある意味彼らは実に、うまく時代の流れに乗っていると言えるでしょう。
 もともと彼らはDJであり、Re-Mixの専門家です。アルバムにおいても、ヴォーカリストは曲によって、みんな違い、それぞれの曲がまったく違う雰囲気に作られています。それだけに、ケミカル色というのは、出しにくいはずですが、考えてみるとDJという仕事はそれで良いのかもしれません。彼らのことを、時代に合わせて上手に生きる連中と言う人も多いのも事実ですが、それで良いじゃないですか。彼らは、けっして芸術家ではないのですから。
 オアシスのノエル・ギャラガーが歌っても、ニューオーダーのバーナード・サムナーが歌っても、プライマルのボビー・ギレスピーが歌っても、それぞれのおいしいところを捕まえるのが、ケミカルの仕事なのです。
 もしかすると、ケミカル・ブラザースの音楽の特徴は、完成された曲そのものにだけあるのではなく、できるまでにミックスされたり、削られたりした音の数々と、その調合比率や音の隙間にこそ隠されているのかもしれません。

<ケミカルの魔法の調合比率>
 かつてミュージシャンにとって最も重要だったのは、確固とした自分独自の音楽スタイルでした。しかし、20世紀末以降、ポピュラー音楽の世界をリードしつつあるDJ系アーティストたちにとっては、ちょっと違うかもしれません。
 DJの役割は、観客(ダンサー)を踊らせることにあり、そこにはかつてのロックのコンサートのような「聴く人」と「演奏する人」という一方的な関係はありません。(いや、ロックでも観客とアーティストの生き生きとしたやりとりがあるライブもありますが・・・)観客のノリに合わせてDJはいくらでも内容を変えて行く用意がなければならないのです。だからこそ、彼らにとって重要なのは、確固たるスタイルより、多彩で柔軟なスタイルなのです。ということは、彼らを本当の意味で知るためには、ライブを聴くべきでしょう。でも、彼らのライブはもの凄い音のデカさらしいので・・・僕はちょっと遠慮させてもらいます。耳が良すぎるせいか、どうも大きな音は苦手なんです。
 そして、このようなスタイルの音楽をどう評価するかによって、ケミカルの価値は大きく違ってくるでしょう。実際、ケミカルのテクノについての評価は人によって大きく違っているようです。

<"Come With Us"の使用にあたって>
 ロックのもつとんがった部分とハウスがもつトランシーな部分、テクノがもつダンサブルな部分を絶妙なブレンドで混ぜ合わせた合法ナチュラル・ドラッグ。たぶんに人工的ですが、気持ちよさは保証付きです。
 ケミカル・ブラザースのサウンドは、人によっては習慣性をともなう危険がありますので、使用法にご注意の上ご使用下さい!

<締めのお言葉>
「万物は複雑に入り組んだ現象の織物としてその姿を現す。そこではさまざまな種類の結びつきが交錯し、重なり合い、結びつき、またそうすることで、その織物の姿が決定されてゆく」

ウェルナー・ハイゼンベルク(理論物理学者)

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