
- 1986年 -
<ヒロシマ以前、ヒロシマ以後>
「20世紀は二つの時期に分けることができる。Before
Hiroshima、After Hiroshima。すなわち、ヒロシマへの原爆投下の以後と以前だ」こう書いていたのは、思想家、科学者のアーサー・ケストラーでした。核兵器はそれまでのいかなる発明よりも直接的に人類を全滅へと追いやる可能性をもつものとして、世界の歴史を大きく変えました。例えば、核兵器の登場によって、大国同士が直接戦うことがなくなり、その身代わりとなる小国が局地的な代理戦争を行うようになりました。(ヴェトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、アフリカ各地での紛争、どれもそうした戦争です)
確かに核兵器は、それを所有する国にとっては抑止力としての役目を果たしました。こうして、核兵器は国際間の戦略スタイルを大きく変え、それによって世界の歴史をも大きく変えたわけです。しかし、核について歴史を考える時、もうひとつ忘れてはいけない事件があります。ソ連で起きた悲劇的な原子力発電所チェルノブイリでの大事故です。それはヒロシマに匹敵する大事件であり、別の意味でその後の世界史を大きく変えることになりました。
それは事故によって発生した放射能が風に乗って世界中に広がることで、原子力発電所という存在が核爆弾以上に世界中に危険を及ぼしうるものであることを再認識させたということもあります。その影響の広がりは1979年にアメリカのスリーマイル島原発で起きた放射能漏れ事故をはるかに超えるものでした。しかし、それ以外に、この事故は間接的に世界史を変える出来事を誘発していることも忘れてはいけません。それは、ソ連におけるペレストロイカ(改革)を急速に進展させ、そこから始まることになる東欧全体の民主化、そしてベルリンの壁崩壊へと向かう共産主義時代の終わりをもたらすことになった最大のきっかけだったということです。
なぜ事故は起きたのか?今後、二度と事故を起こさないためにはどうしたらよいのか?そのことを検討する時、必然的にぶつかるソ連の社会主義体制のもつ本質的な欠陥の修正が事故をきっかけに本格的に始まったのです。確かに当時、すでにゴルバチョフは書記長に就任しており、その力を発揮しつつありました。しかし、まだ「グラスノスチ」(情報公開)という言葉はごく一部で使用される言葉にすぎませんでした。いつ保守派や軍幹部が動き出し、ゴルバチョフを政界から追い出しても不思議はない状況にあったのです。「ペレストロイカ」が本格的に始まったのは、1987年のことですが、その直接的なきっかけが1986年に起きたこの大事故だったことは間違いないのです。どうやても隠し通すことができないほどのあの悲劇的な事故があったからこそ、国民全体だけでなく軍や保守派ですら「改革」の必要性を認めざるを得なくなったのです。
その後「ペレストロイカ」に始まったソ連における民主化の動きは東欧へと広がり、東欧諸国の民主化、1990年の東西ドイツの統一へと発展、ついにはソビエト連邦の消滅へと至ることになります。20世紀後半のソ連を中心とする社会主義体制の崩壊は、まさにこのチェルノブイリ原発の事故から始まったともいえるのです。
では、チェルノブイリ原発の事故とは、具体的にはいかなる事故だったのでしょうか?SF作家として有名なフレデリック・ポール(「宇宙商人」「マンプラス」「ゲイトウェイ・シリーズ」など1950年代から活躍するベテラン作家)がソ連での綿密な調査をもとに書き上げた小説「チェルノブイリ」を参考にその事故を振り返ってみたいと思います。(その小説は架空の人物を主役にした小説ですが事故の詳細については限りなく事実に基づいています)
<チェルノブイリ原発>
事故が起きたのは、1986年4月26日土曜の夜午前1時23分のことでした。場所は、ソ連西部ウクライナ州の大都市キエフ近郊に立つチェルノブイリ原子力発電所です。そこではRBMK1000といわれる型の原子炉が4基稼動していました。それは1000メガワットの出力があり、当時としては最大規模の原子炉で、ソ連に24基あったうちの4つがそこにありました。
このタイプの原子炉の燃料は二酸化ウラニウム。自然に核分裂を起こしてゆくこの物質を鋼鉄とジルコウムニでできたチューブに入れ、黒鉛でできたブロックを組み立てたものの中に差し込んであります。この黒鉛のブロックはウラニウムが核分裂する時に発する巨大なエネルギーを抑えるために用いられていました。ウラニウムが放出する中性子のスピードを減速するのに黒鉛は最適で、さらにこの黒鉛ブロックには1700本の冷水管が収まり、それがウラニウムから発せられた熱エネルギーを冷却することで炉心の溶融(メルトダウン)を防ぎ、なおかつ、そこから生まれた蒸気がタービンを回し電気を作り出すようになっていました。
原子力発電所に必要とされている最も重要な技術とは何か?それは核分裂によって生み出される巨大なエネルギーをいかにして制御し、そこから安定した電力を生み出し続けるか。巨大な核爆発のエネルギーを飼いならすことこそが最重要の仕事だといえます。原子力発電所の場合、原子炉の稼動を一度停止してしまうと、発電が行えなくなるだけでなく、キセノンという有害な老廃物がたまることで、原子炉が長期間再開不能になってしまいます。したがって、原発内部の修理などの際も原子炉は止めずにギリギリの出力に抑えながら作業をすることが一般的になっています。そして、この最重要の「制御作業」のミスこそがチェルノブイリの大事故を引き起こす原因となりました。
<恐るべき隠蔽体質>(追記2016年)
驚くべきことに、この事故についてソ連国民が最初に知ったのは、事故から2日後、28日19時のことです。それも隣国であるスウェーデン国営通信社イタルタスからの発表によるものでした。ソ連は、この事故をできることなら世界から隠蔽するつもりだったのです。
事故から56時間後の28日7時にストックホルムから北へ120キロの位置にあるフォッシュマルク原発で放射能汚染が検知されたことがきっかけでした。スウェーデン政府は、放射能のデータをすぐに公表。周辺住民の屋内非難が始まりました。
さらにデータの分析を行った結果、原子炉内で生成されるセシウム134が検出されたことから、ソ連への問い合わせを行い、初めてチェルノブイリでの事故が明らかになったのでした。
<原発の制御>
当時、原子炉を制御するために用いられた手法は以下のようなものでした。
(1) ボロンという物質からできた棒を黒鉛ブロックの炉心に差し込んでゆくと、原子核反応が抑えられ、中性子も吸収されるので、その出し入れによって制御を行う。
(2) 炉心の周りに中性子を吸収する性質をもつガスを充満させ、そのガスの濃度を変化させることで原子核反応の制御を行う。
(3) 水もまた中性子を吸収するので制御に用いることができます。ただし、放射線により有害になったその水を外部に捨てることはできません。さらに水は高温で水蒸気になってしまうと中性子を吸収することができなくなります。したがって、冷却水が流れる管内の水蒸気が増えると核反応は急激に活発になります。(これを正のボイド効果と呼びます)
事故の際、チェルノブイリでは、それまで原子炉を修理する際に出力を抑えたため一時的に発電に使用されなくなっていた熱を利用して発電を行うための実験が行われることになっていました。炉の温度を低く抑え、それでもそこから電力を得ようと、いつもは用いられている安全装置をオフにしてギリギリの制御作業が行われたわけです。
ところが、その制御作業におけるちょっとしたミスが急激な出力の上昇を招いてしまいます。おまけに安全装置が働かなかったことから、一気に核反応が活発化。ボロンの制御棒を挿入しようとしても、すでに原子炉の内部が変形していたため、それ不可能となり、ついには爆発に至ったのでした。
<爆発の過程>
チェルノブイリ原発での爆発事故とは、どうやって起こったのか?それは単なる核爆発だけではありませんでした。
最初に起きた爆発は、制御不能におちいった原子炉における核爆発でしたが、それが一気に発電所を吹き飛ばしたわけではありませんでした。それによって破壊されたのは、制御用の冷却水チューブで、そこから大量の水が高温の蒸気となって漏れ出しました。そして、それが一気に蒸気爆発となり、格納容器を破壊してしまいます。
次に起きた爆発は、化学的な爆発でした。先ず水蒸気が高温状態の中で水素と酸素に分解されました。それが水素-酸素の化学反応による強力な爆発を生み出したのです。この水素-酸素爆発は、ロケットの推進力にも用いられるほどの強力なエネルギーを発する爆発です。これにより、発電所の建物が破壊され、屋根も吹き飛ばされてしまいました。
ここまでの爆発により、ついに炉心を包んでいたカーボンの塊である黒鉛が空気にさらされることになりました。そこに高密度の水蒸気が降りかかると黒鉛(C)と水(H2O)が反応して、C+H2O=CO+H2となり、水素が発生。この水素が大爆発を起こし炉心からいろいろな種類の放射性物質が煙の煤となって上空へt舞い上がって行きました。
こうして、空高く舞い上げられた「死の灰」は雲に乗ってユーラシア大陸の半分を覆うほどの大きさへと広がっていったのです。
こうした「爆発」の過程は実際にはあっという間の出来事で、起きてからでは防ぎようがありませんでした。しかし、チェルノブイリの悲劇はそれだけではありませんでした。
<二次的被害の拡大>
次なる悲劇は、事故処理の現場で起きました。一番問題だったのは、駆けつけた消防隊が原発での爆発事故に対する訓練をまったく受けていなかったことにありました。もちろん、彼らにはそうした場合に用いるための装備もなかったのです。この事故での最大の被害者は、放射能についての知識をほとんどもっていなかった消防隊員たちでした。しかし、、この事故において最も英雄的な働きをしたのもまた彼らでした。彼らは放射能に冒されながらも原子炉への放水作業を行いました。しかし、あまりの高温のため、水をかけてもそれは水蒸気になるだけでまったく役に立ちませんでした。それどころか、その水は放射性物質を含んだまま流れてゆき土壌にしみこんだり、川へと流れ込むことになったのです。これがその後、現在にまで続くことになる人や動物たちへの後遺症を生み出す原因となります。
結局、この火災を抑えるためにとられた有効な方法は、ヘリコプターによって上空から大量のボロン、鉛、砂、砕石などを投下して黒鉛を埋め尽くすことでした。(その量は5000トンにも及びました)もし、状況に合わせてしっかりとした作業手順がとられていれば、消防隊の犠牲はずっと少なくなっていたはずです。こうした、消火作業や放射性物質の除去作業に参加した事故処理作業者のことをリクビダートルと呼びますが、その人数はなんと60万から80万人に及ぶといわれていますが、彼らのほとんどが放射線による後遺症に苦しみ、その子供たちもまた遺伝による癌などの病に苦しむことになります。
<もうひとつの危機>
ヘリコプターの登場により、やっと炉心の火は押さえ込まれましたが、その後すぐに次なる危機が明らかになります。それは5000トンもの投下物によって埋め尽くされた炉心部の下にある巨大なタンクが重さに耐えられなくなることでした。もし、タンクが破壊されれば再び大きな爆発が起きることになり、その威力は最初の爆発をも上回るであろうことが予測されていたのです。そこでタンクの水を抜いて、代わりにコンクリートを注入する作戦が立てられました。ところが、その水を抜くためのバルブはタンク内にあるものしか使えないことがわかったのです。当然、それを動かすためには誰かがタンクの中に潜りバルブを回さなければなりません。急遽、3人の技術者が潜水服をつけてタンク内に潜ることになりました。しかし、使用する潜水服はどこにでもある普通のウエットスーツで放射能に対する防護機能はまったくありませんでした。まさに命がけのダイビングです。彼らがその任務を見事になしとげたのは、奇跡に近いことでした。(彼らはその後、放射線の影響で倒れることもなかったそうです。まさに奇跡!)この奇跡の男3人の本名だけは、この本にも書かれています。アレクセイ・アナネンコ、ヴァレリイ・ベズロフ、ボリス・バラノフの3人です。いつかこの時のドラマが映画化でもされることになったら、この3人の活躍は最大の見せ場になることでしょう。
<事故の原因と責任の所在>
この事故の原因については、その後詳細な調査がなされましたが、結局それは社会主義体制ならではのいい加減な管理体制、決定の遅さ、仕事に対する責任感欠如、危機意識の低さなどが積み重なることで起きたといわれています。それはいつか必ずソ連で起きるはずの事故だったともいえます。それでも、この国の国民がもつ国家に対する忠誠心の高さは命がけの消火作業を行う際の高いモチベーションにつながったといえます。住民を避難させる際の軍隊による強制的な移住作戦も中央集権的な社会主義国家だからこそ可能だったのかもしれません。今の日本でこうした事故が起きたら、国民のために命を犠牲にできる政治家や公務員がどれだけいるか?そう考えると、チェルノブイリで命がけの作業に望んだ人々の勇気には頭が下がります。たとえ組織が機能不全を起こしており、腐敗や汚職が蔓延していても,やる時にはやるという人々はちゃんといるのかもしれません。いざとなったら人はまだまだ信じられるものなのかもしれません。
現在チェルノブイリの炉心部分はコンクリートなどによって固められ巨大な「石棺」として、そのまま眠り続けています。しかし、その危険さはいまだに失われたわけではありません。広島の原爆ドームは核兵器の悲劇を繰り返さないために永遠に保存されていますが、チェルノブイリの「石棺」は原子力発電所の危険性を忘れさせないためではなく、その危険性を取り除けないがゆえに未だにそこに存在し続けているのです。(当時の「石棺」はすでに老朽化が進んでいるため、現在第二次の「石棺」建設が始まろうとしています)
<追記>2016年7月
この事故が起きた時のことを振り返った言葉があります。
「二つの大惨事が同時に起きてしまいました。ひとつは、私たちの目の前で巨大な社会主義・大陸が水中に没してしまうという社会的な大惨事。もうひとつは宇宙的な大惨事、チェルノブイリです」
「チェルノブイリは第三次世界大戦なのです。しかし、わたしたちはそれが始まったことに気づきませんでした。この戦争がどう展開し、人間や人間の本質になにが起き、国家が人間に対していかに恥知らずな振る舞いをするか、こんなことを知ったのはわたしたちが最初なのです。国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史の中に消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切なのです」
スベトラーナ・アレクシェービチ(「チェルノブイリの祈り」でノーベル文学賞を受賞したジャーナリスト)
<参考資料>
「チェルノブイリ Chernobyl」 1987年
フレデリック・ポール(著)
山本楡美子(訳)
講談社文庫
「公評」2016年7月号「原発と国家」より
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