- チェット・ベイカー Chet Baker -

<ドキュメンタリー映画"Let's Get Lost">
 ドキュメンタリー映画"Let's Get Lost"は、チェット・ベイカーという超破滅型ジャズ・マンの人生を本人の生き様を追うことで見事にさらけ出した作品でした。(それは当初、半生を描き出すはずでしたが、結局その一生を描き出すことになってしまいました)
 タイトルの"Let's Get Lost"は、「ここから二人で逃げ出そうぜ!」といった意味らしいのですが、僕には「金を払ってでも、すべてを失ってやるぜ!」と言っているように思えました。彼の「壊れた人生」を覗いていると、彼にとっての人生の目的は「すべてを失うこと」にあったのではないか?そう思えてくるのです。彼のサウンドが、マイルス・デイヴィス以上にクールに聞こえるのは、そんな彼の生き様のせいだったのかもしれません。(マイルスの人生も、負けず劣らずの「壊れた人生」ではあったのですが、・・・)

<トランペッター、チェットの誕生>
 チェット・ベイカーことチェット・ヘンリー・ベイカーが生まれたのは、1929年12月23日のこと。場所はオクラホマ州イエールの街でしたが、すぐにオクラホマシティーに越し、そこで育ちました。その後、1940年にカリフォルニア州のグレンデールに引っ越し、典型的なウェスト・コースト風の少年時代を送って行きます。
 ヒルビリー音楽のラジオ番組をもっていた彼の父親は、音楽に興味をもっていた13歳のチェットにある日トロンボーンをプレゼントしました。ところが、トロンボーンは子供にとって大きすぎたため、ずっと扱いやすいトランペットに持ち替えることになります。こうして、トランペッター、チェット・ベイカーが誕生したわけです。
 1946年、彼は徴兵により軍隊入りし、そこで初めてモダン・ジャズと出会いました。その虜になった彼は、除隊後ロスのエル・カミノ・カレッジで音楽理論を学び、本格的にジャズ・ミュージシャンとしての活動を開始しました。こうして「ジャズ界のビーチ・ボーイズ」が誕生したのです。

<チャーリー・パーカーとの出会い>
 この当時ジャズの中心地は完全にニューヨークで、ロスでの活動を続けている限り、彼にはトップ・ミュージシャンへの道は開けていなかったかもしれません。しかし、チャンスは、向こうからやって来ました!それは、あのチャーリー・パーカーが西海岸ツアーを行うためにやって来たことが、きっかけでした。その時、ツアーのサポート・メンバーを決めるためにオーディションが行なわれ、そこにチェットが見事選ばれたのです。チャーリーは、チェットのことを気に入り彼を正式なトランペッターとして雇います。そして、1953年のアルバム"The Bird You Never Heard"など、何枚かのアルバムの録音にも参加させました。

<ウエスト・コースト・ジャズ>
 同じ頃、彼はロスのクラブ「ヘイグ」で行われたジャム・セッションに参加し、そこでバリトン・サックス・プレーヤーのジェリー・マリガンとも出会っています。二人は意気投合し、その後一風かわったピアノ・レス・バンドを結成。このバンドは大きな話題となり、ウエスト・コースト・ジャズという新しい流れを生み出すきっかけとなりました。しかし、このバンドは1953年にジェリー・マリガンがドラッグの不法所持で逮捕されたため、解散に追い込まれます。チェットは、ソロ活動を行わなければならなくなり、そこで生まれたのが、今や伝説のアルバム「チェット・ベイカー・シングス」(1954年)であり、翌年発売されたアルバム「プレイズ&シングス」だったわけです。

<異色のヴォーカリスト誕生>
 肺活量に自信があり、普段からマウスピースを口に歌っているとも言えるトランペッターが歌うことは、それほど不思議なことではありません。(ルイ・アームストロングは、体力に自信がなくなったためにヴォーカリストとしての活動を始めたと言われています)しかし、チェットの場合は、声量を活かしたパワフルなヴォーカルを売り物にしたわけではありませんでした。それは、マイルス・デイヴィスのトランペット・スタイルと並び称される彼のトランペット奏法が生んだヴォーカル・スタイルだったのです。それは、「クール」であり「セックス・レス」とも言える独特の歌唱法で、男性だけでなく女性やゲイの人々の間で熱狂的に受け入れられることになりました。(逆に、当時はマスコミや評論家たちは、彼を正統に評価しなかったようです)
 それは、ジャズ・ヴォーカルにおける「クールの誕生」であると同時に、ジャンルの枠を越えた新しいヴォーカル・スタイルの誕生でもありました。

<ブラジルへ、そしてボサ・ノヴァの誕生へ>
 その影響は、ジャズの世界だけに止まらず、他のジャンルの音楽にも影響を与えることになります。その最も顕著な例が、南米ブラジルにおけるボサ・ノヴァの誕生でした。
 あのささやくようなボサ・ノヴァのヴォーカル・スタイルに大きな影響を与えたのが、チェット・ベイカーだったというのです。彼のヴァーカルに感激したジョアン・ジルベルトが、友人の家の風呂場を使って、その再現を試みたことが、あのボサ・ノヴァの独特の唄法につながったと言われています。(この時、彼が風呂場にこだわったのは、その音響の良さにあります。当時急速に発展を遂げていたマイクロフォンの進歩、それを擬似的に再現していたのが風呂場という音が響きやすい空間でした。チェットのヴォーカルも、ボサ・ノヴァの唱法も、テクノロジーの進化がなければあり得なかったのかもしれません)

<ドラッグづけ生活の始まり>
 一躍人気ミュージシャンの仲間入りを果たしたチェットは、1955年初のヨーロッパ・ツアーに出発しました。彼はこのツアーですっかりヨーロッパが気に入り、イタリアやフランスなどの国々は、彼にとって第2の故郷となって行くことになります。
 しかし、この頃すでに彼はドラッグにどっぷりとつかるようになっていました。1957年アメリカに戻ると、彼はドラッグと手を切るため療養所に入りますが結局上手くゆかず、1959年ついにドラッグが原因で逮捕されてしまいます。その後、彼は再びヨーロッパへ向かいますが、イギリスでも、イタリアでも彼は逮捕されます。居心地の良かったヨーロッパも、彼のドラッグづけを許してはくれませんでした。

<どん底の生活へ>
 1964年再び彼はアメリカへ戻りますが、ドラッグと手を切ることはできず、ずるずると深みにはまっていました。そして、1970年彼はドラッグがらみのトラブルが元で、5人組の黒人たち暴行を受け、トランペッターにとって命とも言える大切な歯をすべて失ってしまいました。
 2年間彼は演奏すらできない状況に追い込まれ、生活保護を受けたり、ガソリン・スタンドで働くなどして、かろうじて生き延びる日々が続きました。
 そんな彼に救いの手をさしのべてくれたのが、かつてのライバルであり友人のディジー・ガレスピーでした。彼がクラブとの交渉を行ってくれたおかげで、1973年やっとチェットはジャズ界に復帰することができました。そして、1975年再び彼はヨーロッパへ向かい、その後ドイツで謎の死をとげるまで、ほとんどの期間をヨーロッパで過ごすことになります。

<ドキュメンタリー映画「Let's Get Lost」>
 1987年彼の半生をドキュメンタリー映画として描くため、撮影が行われることになりました。監督は、カルヴァン・クラインやラルフ・ローレンの広告を担当してきたファッション・スチール・フォトグラファーのブルース・ウェーバー。男を美しく撮ることにかけては、No.1と言われるカメラマンである彼は、ドラッグの乱用でまるでキース・リチャーズのように皺だらけになってしまったチェットの顔を時には少年のように若々しく映し出してみせました。そして、そんな美しい映像とは対照的なチェットの愚かで醜い人物像を、隠すことなくさらけ出しているところもまたこの作品の見事さです。
 彼のアルバム「プレイズ&シングス」の中の曲名からとられたこの映画のタイトル「Let's Get Lost」は、そんな彼の人生のテーマそのものと言って良いのかもしれません。
 失っても、失っても、その失敗に懲りることなく再び過ちを繰り返す。そんなダメ男の美学がそこにはありました。彼の何人もの元奥さんや家族、それに友人たちは、皆彼のことを「愚か者」と呼んでいます。しかし、誰も彼のことを憎んでいないようでもあります。それどころか、彼のことを心のどこかで愛しているようにすら見えるのです。
 考えてみると、そんな「ゲット・ロストな人物」は、僕らのまわりにもいないでしょうか?何をやっても上手く行かず、奥さんには逃げられ、仕事もパッとしない・・・にも関わらず、別れた奥さんも離れていった子供たちも、いつも迷惑をかけられている友人たちも、みんな彼のことを愛している。そんな人物が、確かに僕のまわりにもいます。(酔っぱらっては管を巻く彼は、けっして「クール」とは言い難いのですが・・・)
 結局、チェットは、この映画の完成直後、1988年5月13日の金曜日にドイツで謎の転落死を遂げてしまいます。彼にとって自分の人生を「喪失の美学」ととらえて評価してくれたことは、憎むべきことだったのでしょうか?それとも、認めてくれたからこそ、彼は安心して死を選んだのでしょうか?

<お奨めのアルバム>
「チェット・ベイカー・シングス Chet Baker Sings」(Pacific Jazz)
 1954年、1955年に録音されたチェット・ベイカーの代表曲が並ぶアルバム。「My Funny Valentine」など、彼の歌とトランペットの見事な融合を聞くことができます。ベスト・オブ・チェット的作品です。

「チェット・ベイカー・イン・パリ Chet Baker in Paris」(Barclay/EmArcy)
 1955年、1956年に行なわれたヨーロッパ・ツアーにおいて、パリで制作されたスタジオ録音アルバム。20代半ば、絶頂期のチェットによるヴォーカル&トランペットが聴けます。

「カルテット Russ Freeman/Chet Baker」(Pacific Jazz)
 1956年録音のピアニスト、ラス・フリーマン率いるカルテット作品。トランペッターとしてのチェットがいかに優れていたかがわかるアルバムで、チェットの代表作。その他のメンバーは、レイリー・ビネガー(ベース)とシェリー・マン(ドラムス)。

<追記>2012年12月
「Shipbuilding」 from 「Punch the Clock」 by Elvis Costello
 E・コステロのアルバムの中の曲「Shipbuilding」で彼のトランペット・ソロを聞くことができます。実に美しい曲です!

<締めのお言葉>
「君とチェット・ベイカーと僕の3人で、「ゼア・ウィル・ネバー・ビー・アナザー・ユー」を永遠に歌い続ける想像上のヴォーカル・トリオを結成しよう」

ジョアン・ジルベルトが、アストラッド・ジルベルトに言った口説き文句

<追記>2012年4月
「・・・彼が演奏するのは、自らのためですらない。彼はただそれを吹いているのだ。そういうところは彼の友人であるアート・ペッパーとまさに対極にある。アートは音符のひとつひとつに自らのすべてを注ぎ込むタイプだ。チェトは音楽に自らを一切含めない。そのことがまさに彼の音楽に哀感をもたらしているのだ。彼が演奏する音楽は、彼に見捨てられてしまったものとして感じられた。・・・」

「彼は常にそのように演奏してきたし、これからもそのように演奏してきたし、これからもそのように演奏していくだろう。ひとつの音符を吹くごとに、手を振ってそれに別れを告げる。手を振らないことさえある。・・・」

「・・・彼が演奏するやり方はただひとつきりだった。多少速くなるか、ゆっくりになるか。でもそれは常に同じ型の中にあった。単一のエモーション、単一のスタイル、一種類のサウンド。唯一の変化は哀弱により、またテクニックの劣化によりもたらされたものだった。しかし彼のサウンドの劣化は、同時にまたサウンドを拡げ、そこに哀感という幻想を賦与していた。それは、もし彼のテクニックが、彼が自らの身に与えたダメージを乗り越えていたなら、そこになかったはずのものだった。」
ジェフ・ダイヤー(著)「バット・ビューティフル」より

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