- ちあきなおみ Naomi Chiaki -

<生きながら伝説となった歌手>
 2013年藤圭子が突然の自殺をとげました。死によって彼女は伝説と化したといえます。それに対して、彼女と同じ時代に活躍した歌手、ちあきなおみは生きながら伝説となりつつあります。幸いなことに、ちあきなおみは、十分に復活する可能性を秘めており、彼女の復活を求める声は高まり続けています。その歌声は、ネット上ででも、テレビのCMなどでも聞くことが可能です。ではなぜ彼女は歌わないのか?美空ひばり亡き後、日本歌謡界最高の歌い手と言われてきた「ちあきなおみ」」とはいかなるアーティストなのか?なぜ彼女は生きながら伝説の存在になったのか?
 彼女への熱い思いを込めた石田伸也著「ちあきなおみ 喝采、蘇る」を参考に、彼女の歌と人生について調べてみました。これを読んで、彼女の歌を聴くとさらに深く心にしみるかもしれません。

<瀬川三恵子の生い立ち>
 後に「ちあきなおみ」としてデビューすることになる瀬川三恵子は、1947年9月17日東京板橋区に三姉妹の末っ子として生まれました。母親が芸事が好きなステージママだったことから、4歳からタップダンスを習い始めた彼女は小学校に入学する前から「白鳩みえ」という芸名をもち米軍キャンプで少女歌手として歌い始めていました。当時は朝鮮戦争中だったため、日本には多くの米兵が駐屯していました。そのため米軍キャンプ内のクラブは常にタレントたちを求めていて、多くのタレントがそこからデビューすることになりました。そんな中には、弘田三枝子や伊東ゆかりなどもいました。小学校に入学した後、彼女は芸能活動をやめますが、中学入学後、両親の離婚などもあり再び歌手活動を開始します。
 1960年、彼女は様々な歌手の前座としてステージに上がるようになります。芸名は「メリー児玉」、「五城ミエ」、「南条美恵子」など次々に変わり、橋幸夫やこまどり姉妹などの前座で経験を積むことで彼女は一流の「前座歌手」となり、業界でもそれなりの地位を獲得するようになりました。
 1960年代の終わりになり、いよいよ彼女はレコード・デビューのチャンスをつかみます。しかし、この頃、正統派の演歌歌手にとっては厳しい時代がやって来つつありました。あの美空ひばりですら、グループ・サウンズの人気を意識してブルー・コメッツとともに「真赤な太陽」を出す時代でした。そのため、レコード会社は彼女に対し、演歌ではなくポップスの歌える歌手としてデビューするよう指示。彼女にそのためのレッスンを受けることになりました。この時、彼女が目標にすることになったのは、西田佐知子やヘレン・メリル、ジュリー・ロンドンなどだったといいます。

<ちあきなおみデビュー>
 1969年6月10日、21歳になった彼女は「雨に濡れた慕情」(鈴木淳作曲/吉田央作詞)というジャズっぽいポップスナンバーでデビューを果たします。少女歌手時代をのぞいても、歌手としてデビューして9年もの長い下積みの後のことでした。今聞いても十分にお洒落なこの曲は、オリコンチャートで最高23位のまずまずのヒットとなりました。ちなみに、デビュー時の彼女のキャッチ・コピーは、「魅惑のハスキー・ボイン」と「苗字がなくて名前がふたつ」だったとか・・・やれやれかわいそう。しかし、そんな残念なコピーにもめげず、彼女は翌年さらなるブレイクを果たします。
 1970年、彼女は「四つのお願い」(鈴木淳作曲/白鳥朝詠作詞)(37万枚)と「X+Y=LOVE」(鈴木淳作曲/白鳥朝詠作詞)(22万枚)の二曲を連続してヒットさせ一躍スターの仲間入りをし、紅白歌合戦への初出場も果たしました。さらには歌以外でも才能を発揮し、俳優としてテレビ・ドラマに出演したり、バラエティー番組でバラドルとしても活躍、日劇でのワンマンショーも成功させました。
 1971年、彼女が発表したシングルはどれも10万枚にとどきませんでした。何を歌えばよいのか?その方向性が問われ始めます。そんな中、彼女の歌唱力に惚れ込み、曲を書かせてほしいと直訴したのは、当時、佐川満男の「今は幸せかい」やヒデとロザンナの「愛は傷つきやすく」をヒットさせていた中村泰士でした。作詞については、彼女がデビュー曲を担当した吉田旺を指名。その指名に答えようと、吉田は彼女に一世一代の歌詞をプレゼントします。
 こうして、あの名曲「喝采」が誕生することになりました。

「喝采」誕生>
 中村泰士が服部良一の「蘇州夜曲」とアメリカの名曲「アメイジング・グレイス」をモチーフに作曲したという名曲「喝采」には様々な逸話があります。
「黒いふちどり」
 この曲の歌詞に出てくる「黒いふちどり」という部分は、縁起が悪いのではないか?と当初レコード会社(コロンビア)は変えるよう提案したといいます。作曲者の中村も「死」を歌詞に持ち込むことはないだろうと反対したといいます。しかし、そこまで「死」にこだわったことで、それまでの歌謡曲にはなかった衝撃的ともいえるドラマ性が生まれ、それをちあきなおみが表現豊かに歌い上げることで歌謡史に残る名曲が完成しました。タブーへの挑戦があったからこそ、この曲はそれまでにないインパクトを持つことができたといえます。
「黒い幕」
 この曲のレコーディングの際、彼女はスタジオに黒い幕を張り、スタッフからも自分が歌う姿が見えないように目隠しをして録音を行いました。集中力を高めるためのこのやり方は、その後も彼女のレコーディングにおいて必ず行われることになります。
「レコード大賞」
 この年、レコード大賞の最有力候補は4月に発売されて70万枚を売り上げる大ヒットとなっていた小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」でした。それに対して、9月発売の「喝采」は明らかに出遅れており、賞獲りレースにおいてはダークホースにすぎませんでした。しかし、ドラマチックな歌詞にリアリティーがあったことや彼女の下積みの長さが審査員の心をつかんだこと、さらにはコロンビア・レコードが社をあげて動いたことで大逆転劇が起きることになりました。(ちなみに、この日のレコード大賞授賞式の視聴率は46.5%でした)
 レコード大賞を受賞したことで、この曲は一気に売り上げをのばし、翌年には80万枚を越える大ヒットとなりました。 「喝采」の後、吉田、中村コンビによる曲「劇場」「夜間飛行」は、その後「ドラマチック歌謡」3部作と呼ばれることになりますが、いずれも今聞いても間違いなく素敵な曲です。

「・・・『喝采』は歌自体が歌い手を選んでいるという気がしています。ちあきさんに歌われるべくして歌われた、まさにめぐり逢いですね」
中村中

<最高の歌手ではあっても・・・>
 この後、彼女は歌手と同時にバラエティー番組のタレントとしても活躍するようになります。なかでも彼女の人気を高めたのは、「スターものまね大合戦」でのモノマネのレベルの高さです。美空ひばり、島倉千代子、松尾和子、園まり、欧陽菲菲、山本リンダ、いしだあゆみ、奥村チヨ、和田アキ子・・・どんな女性歌手でもマネできるだけでなく、マネをされていた美空ひばり本人が唯一自分に匹敵する存在と認めていたという逸話も残されています。
 しかし、こうしたタレントとしての成功とは逆に、彼女の発表する曲はその後再びヒットしなくなります。残念ながら、アイドル歌手全盛だったこの時代は歌が上手い歌手にとっては恵まれた時代とはいえませんでした。次なる時代をリードすることになるユーミン中島みゆきはデビューしていましたが、まだニューミュージックの時代は来ていませんでした。
 都倉俊一作曲の「花吹雪」阿久悠作詞の「円舞曲 わるつ」は、どちらも今聞くと十分に良い曲ですが、そんな曲に時代は向いていなかったのかもしれません。
 その後、彼女は不本意だった演歌ナンバーに挑戦し、「さだめ川」(石本美由起作詞/船村徹作曲)をヒットさせます。(15万枚)そのため、しばらくは演歌路線が続くことになりました。「恋挽歌」(1976年)、「酒場川」(1976年)などを発表しますが、再び彼女は路線を変え始めます。
 1977年、彼女は中島みゆきの曲「ルージュ」を発表。さらにはフォーク界の友川かずきに曲を依頼し、「夜へ急ぐ人」、翌年には河島英五の「あまぐも」を発表しますが、どれもチャートインすらできませんでした。泥臭いフォーク系アーティストの曲と演歌のコラボは、インパクトはあったものの、残念ながら当時ヒット性はありませんでした。(今聞くと「夜へ急ぐ人」は強烈な曲で、話題性は十分です)彼女の曲は、常に発表のタイミングが早すぎたのかもしれません。
 1976年発表の「酒場川」のB面に収められていた「矢切の渡し」が発売から5年以上たち突然、日の目を見ることになりました。それは当時「下町の玉三郎」と呼ばれ一大ブームを巻き起こしていた梅沢富美男が自らの踊りのバックにその曲を選んだことがきっかけでした。さらに彼のテレビ出演作にも使用したことから、「矢切の渡し」は一気に注目を集めることになりました。ところが、この頃、彼女はコロンビアから移籍していたため、レコード会社はもう一度その曲を録音してほしいと依頼しますが、彼女はそれを拒否。結局、「矢切の渡し」は細川たかしによってカバーされたバージョンが大ヒットとなり、その年のレコード大賞を受賞してしまいます。「矢切の渡し」のちあきなおみヴァージョンは、細川たかしのそれとは大違いです。一人デュエットで声を使え分ける彼女の歌はまるで一人芝居を見ているようです。是非、彼女のヴァージョンをお聞き下さい。
 彼女は森山良子がヒットさせることになる名曲「さとうきび畑」を、NHK「みんなの歌」で1975年に歌っていますが、それも当時はほとんど話題にならなかったようです。こうした時代とのミスマッチは、ついに彼女とレコード会社の関係を壊すことにもなってしまいます。

<孤高の存在へ>
 彼女が演歌を歌うことを拒否し、フォーク路線に変更したり、俳優の宍戸錠の弟、郷^治と結婚し独立してプロダクションを立ち上げたことで、コロンビア・レコードは彼女との契約を解除してしまいました。そのため彼女は一時期レコードを発表することが困難となります。1982年にビクター・レコードに移籍して、久々のシングル「Again」を発表しますが、音楽活動はほとんどせず、「喝采」の担当ディレクターだった東元晃が社長に就任したばかりのテイチクと契約する1988年までほぼ10年、音楽業界から遠ざかることになりました。当時、彼女がその名を忘れられないですんだのは、「タンスにゴン!」のCMがブレイクしたおかげだったともいえます。
 1988年、久々に船村徹と組んだ彼女は演歌「紅とんぼ」をヒットさせます。
 1989年、彼女はビリー・ホリデイの伝記を一人芝居で演じる歌う舞台劇「LADY DAY」の主役をつとめ高い評価を得ました。この作品は翌年にも再演され、彼女の代表作となりました。
 1991年、彼女は日本の名曲をカバーしたアルバム「すたんだーど・なんばー」を発表。このアルバムからシングル・カットされた水原弘のカバー「黄昏のビギン」は、その後、何度もCMで使用されて彼女の新たな代表曲となります。しかし、この年に発表したアルバム「百花繚乱」とシングル「紅い花」発表後、彼女は夫、郷が肺がんで余命わずかであると診断されたため、彼女は夫の看病と音楽活動の掛け持ちで忙しい日々を続けることになります。(この間、夫の病については誰も知らされませんでした)そして、夫の死後、彼女は表舞台から静かに降りてゆきました。

「故人の強い希望により。皆様にはお知らせせずに身内だけで鎮かに送らせていただきました。主人の死を冷静に受けとめるにはまだ当分時間が必要かと思います。皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいます様、よろしくお願い申し上げます。」
ちあきなおみ

<終わらない伝説>
 しばしの休養、と誰もが思っていたにも関わらず、その後も彼女は活動を再開せず、時は過ぎてゆきました。ちあきなおみはもう過去の人なのか?しかし、時代は再び彼女にスポット・ライトを当ててゆくことになります。
 1994年、テイチク・レコードがちあきなおみのベスト版を発売したのをきっかけに彼女の再評価が始まります。
 1999年に彼女の「黄昏のビギン」がネスカフェ・プレジデントのCMに使用されリバイバル・ヒット。
 2000年に彼女の6枚組みCDBOX「ちあきなおみ・これくしょん」が発売されると10万枚に迫る大ヒットとなり、その後、多くの歌謡界のアーティストたちがCDBOXコレクションを発売するきっかけとなりました。
 2003年、彼女が在籍した3つのレコード会社が共同で10枚組のCDBOX「うたくらべ」を発売し、これもまた予想以上のヒットとなり業界を驚かせました。さらにNHKBSで放送された「歌伝説 ちあきなおみの世界」(再放送6回)が大きな話題となり、さらにテレビ東京の「たけしの誰でもピカソ」で彼女の特集が2度組まれて高視聴率を記録。彼女の再評価の流れは本格化することになりました。
 今振り返ると、もしかすると、そこまで彼女への待望の声が高まったことで、かえって彼女は活動再開がしずらくなったのかもしれません。それほど彼女に対する評価は高くなってしまったということです。ということは今は、静かに彼女への熱い思いをさまし、彼女が舞台の上に登場しやすい状況を準備するべきなのかもしれません。
 いつものように幕があき、そこに彼女が自然に立っていることを待ち続けたいと思います。

<追記>2014年10月
「深夜食堂3」第21回「メンチカツ」
 2014年秋放送の「深夜食堂3」の「メンチカツ」の主人公(美保純)は、明らかにちあきなおみさんのことでしょう。夫を亡くし、歌を歌わなくなった歌手。残念ながら歌では、ちあきなおみにかないませんでしたが、自ら歌って見せた美保純さんに感動。岩松了、渡辺真起子夫妻も良かった。本当にこのシリーズには癒されます。

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