
- シカゴ Chicago -
<史上最長寿の日和見バンド>
60年代にデビューした数々のバンドの中で、21世紀まで活動を続けたバンドは、ほんのわずかにすぎません。一度解散し、その後同窓会的に再結成したバンドはけっこういますが、30年に渡り活動を続けたバンドはそれだけでも賞賛に値します。
そんな数少ないバンドのひとつ、シカゴは同時にロック界において最も「日和った=ヒヨッタ」バンドのひとつでもあります。「日和った」とは、左翼系の専門用語のひとつ?で「軟弱化した」とか「右より、保守的な考え方に変わった」とかいった意味の言葉です。(今では死語に近そうですが・・・、元は「天気を読む」から来ています)
デビュー当時からの彼らのファンにしてみると、シカゴのラブ・バラード路線は、あの超硬派ヒップ・ホップ・ユニット、パブリック・エネミーが突然ライオネル・リッチーに対抗するラブ・バラード・コーラス・グループに変身したようなものです。なぜなら、シカゴはデビュー当時、ベトナム反戦運動や公民権運動に積極的に参加。シカゴにおけるデモ隊の流血事件を歌った「流血の日」や「1968年8月29日シカゴ、民主党大会」など、政治的な曲を数多く発表しており、それが彼らのイメージを決定づけていたのです。あのさわやかな大ヒット曲「サタデー・イン・ザ・パーク」も、単にのどかな土曜日の公園の風景を歌ったわけではありませんでした。(公園は当時、「憩いの場」ではなくデモや集会のための場所でした)
ただ、彼らの左翼的、反体制的バンドからラブ・バラード・バンドへの変身は、15年以上の年月をかけて少しずつ行われたため、その日和見主義に対するファンからの批判はほとんどありませんでした。いや、もしかすると、彼らのファンの多くはバンドといっしょに日和ったので批判する人がいなかったのは当然だったのかもしれません。それは、バンドの変化というより時代の必然的な変化だったということになるのでしょう。(高校生の頃、シカゴの大ファンだった同級生の宮下君は今頃どうしているのかな?)
<シカゴの誕生>
シカゴが誕生したのは、もちろんシカゴの街です。ウォルター・パラザイダー(horn)(1948年3月14日生まれ)とテリー・キャス(Vo,Gui)(1946年1月31日生まれ)が結成したザ・ミッシング・リンクス(「失われた環」という意味です。これについてはザ・バーズのページ参照)が、そのもととなり、そこにダニエル・セラフィン(Dr)、ジェームス・パンコウ(Tromb)、ロバート・ラム(Vo,KeyB)(1944年10月13日生まれ)が加わり、ザ・ビッグ・シングと改名。さらにそこに1967年、ピーター・セテラ(Bass)(1944年9月13日生まれ)が加わり、メンバーがそろいました。しかし、彼らがその名を全米に知られるようになるためには、もうひとり重要な人物との出会いが必要でした。それが彼らの運命を変えたプロデューサー、ジェームス・ウイリアム・ガルシオです。
<ジェームス・ウイリアム・ガルシオ>
彼は、フランク・ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンションのメンバーだったこともあるプロデューサーで、ソングライターとしても優れた才能をもっていました。彼はビッグ・シングの才能を見抜くと、バンド名をシカゴ・トランジット・オーソリティーと改名させ。ロスアンゼルスに移住させました。意外なことに、彼らの本格的スタートはシカゴではなくLAだったのです。
<ブラス・ロックのブームに乗って>
LAの人気クラブ、「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」などで活躍し始めた彼らは、さっそくコロンビア・レコードと契約し、1969年デビュー・アルバム「シカゴの軌跡/Chicago Transit Authority」を発表します。すでにブラス・ロックのバンドとしては、ブラッド・スウェット&ティアーズが活躍を始めていただけに、彼らはそのブームに乗ってすぐに全国的な活躍を開始し始めました。
B.S.&T.が純粋に高度な音楽的魅力でファンに訴えたのに対し、シカゴはその左翼的な政治姿勢を前面に打ち出して行き、それが多くのファンをつかみます。「いったい現実を把握している者はいるのだろうか?」などは、そんな政治的な歌詞をもちながらも、あくまでポップなロック・ナンバーとしての魅力を合わせ持っていました。
翌年のセカンド・アルバム「シカゴと23の誓い」からも「ぼくらに微笑みを」「長い夜」が大ヒットし、いっきに彼らは世界的な人気バンドの仲間入りを果たします。
<多作なソングライター・チームとしてのシカゴ>
その後彼らは「シカゴV」「シカゴ・アット・カーネギー・ホール」(1971年)と立て続けにアルバムを発表。しかも、ファーストからサードまで、どれも2枚組で、4枚目のライブ盤はなんと4枚組という超大作ばかりでした。彼らはロック・バンドであると同時に優れたソングライター・チームでもあり、曲のアイデアに困ることはなかったようです。そして、それが後にポップス・バンドとしての成功をもたらすことにもなります。
1972年「シカゴX」からは、彼らにとっての代表曲「サタデー・イン・ザ・パーク」が生まれ、その後も「遙かなる亜米利加」(1973年)「市我古への長い旅」(1974年)「未だ見ぬアメリカ」(1975年)と連続4枚をアルバム・チャートのナンバー1に送り込みました。
<ポップ・バンドへの方向転換>
1976年、彼らにとって初のシングル・ナンバー1ヒットが生まれました。それがアルバム「カリブの旋風」からのシングル「愛ある別れ」です。当時シカゴのファンだった人々は、「シカゴX」あたりからのポップス路線に慣れ始めていましたが、まさか彼らがこの後「愛あるバラード」を売りにするポップス・バンドになって行こうとは・・・予想もできませんでした。
<テリー・キャスの死>
その後も「シカゴXT」からは「朝もやの二人」が大ヒットし、その路線は本格化します。しかし、この頃、バンドの中心メンバーだったギタリストのテリー・キャスが銃の暴発事故によって死亡してしまいます。バンドの方向性に不満をもち、酒とドラッグに溺れていた彼にとって、その死はほとんど自殺と言ってよいものだったようです。彼の死はバンドにとって大きなショックでした。彼らはその悲劇を振り払うべく、当時売れっ子のフィル・ラモーンにプロデュースを依頼。しかし、ディスコ調を取り入れたアルバム「シカゴ13」は大コケ。「シカゴ14」も失敗し、コロンビア・レコードを離れることにもなりました。
<さらなる方向転換>
新たな魅力を確立するため、シカゴはテリー・キャスの後を埋めるために人材を補強しました。それが、ギタリストのビル・チャンプリンとプロデューサーのデヴィッド・フォスターの二人です。特に、ソングライター、キーボード奏者、アレンジャーとしてシカゴ以外でも大活躍することになるデヴィッド・フォスターの貢献度は高く、1982年発表のアルバム「ラブ・ミー・トゥモロー(シカゴ16)」からのシングル「素直になれなくて」は6年ぶりに全米ナンバー1となり、その後も「シカゴ17」から「忘れ得ぬ思い」、「君こそすべて」が大ヒットした。
ただし、それまでの路線を捨て、AORへと方向転換したことへの反発はファンだけでなくバンド内部にもありました。
1985年には、中心人物ピーター・セテラがソロとして独立したのですが、それでもバンドの人気にかげりはなく、「ルック・アウェイ」「リブ・ウィズアウト・トゥルー・ラブ」(「シカゴ19」)など、ヒットを連発します。
<ビッグ・バンド・ジャズへ>
1991年にアルバム「シカゴ21」を発表した後、4年間彼らはアルバムを発表せず、1995年久々のアルバム「Night And Day-Big Band」を発表しました。しかし、それは彼らのそれまでの作品とは大きく異なりビッグバンド・ジャズのスタイルによるスタンダード曲集でした。
<人々が求める音楽を追究し続けたバンド>
こうして振り返って見ると、70年代の彼らの作品は古き良きアメリカをノスタルジックに甦らせるサウンドでしたが、あれは60年代という過激な時代を生き延びてきた人々が求めていた心の安らぎにピッタリの内容だったのかもしれません。そう考えてみると、彼らの音楽は常にその時代の大衆が求めるものだったのかもしれません。(デビュー当時の政治的な内容も、そのひとつだったのでしょう)それを単なる「ヒット狙い」と言ってしまうことも可能かもしれませんが・・・。「サタデー・イン・ザ・パーク」で彼らが描いた公園は、デモ隊の集合場所であると同時に恋人たちのデートの場所でもあります。彼らは、そんな日常の風景を30年に渡って描き続けてきたのかもしれません。
ベビー・ブーマー世代とともに、その時代に求められているポップスを常に生み出し続けたサウンド・クリエーター集団、シカゴ。彼らの音楽は、たとえどんなに変化し続けていたとしても、あくまで「シカゴ・サウンド」だったのでしょう。
<締めのお言葉>
「六ヶ月ぶりに再会する友人の顔には、最後に会った時の顔にあった粒子はひとつもなくなっている。それでも、生命場のおかげで、新しい粒子が古くからあるなじみのパターンに落ち着くので、友人の顔を識別できるのである」
ライアル・ワトソン著「スーパー・ネイチャー2」より
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