「市民ケーン Citizen Kane」

1941年


- オーソン・ウェルズ Orson Welles -

<映画という表現方法>
 絵画と映画の違いはどこにあるのか?「絵が動くか、動かないか」確かにその違いは大きいでしょう。しかし、もっと重要な違いがあります。それは絵画は作者が好きな題材を思い通りの手法で描くことが可能だが、映画はそうはゆかないということです。もちろん、自主制作映画なら好きな題材を選ぶことが可能でしょう。しかし、自主制作映画には予算に限界があります。そのため、作ることのできる映画はごくごく限られたものです。もちろん、資金さえあれば映画はあらゆる表現が可能です。CGの登場はそれを可能にしました。しかし、そうしたハイテクを自由に利用するためにはそれなりの資金が必要で、当然映画をヒットさせるという条件をクリアしなければなりません。自由な製作環境を得るには、それなりの代償を必要とするのです。
 そして、もう一つ映画と絵画には重要な違いがあります。絵画はどこで誰に見せようと問題ありませんが、映画には公開にあたり数々の制約が生じるのです。倫理上、公開してよいかどうかの審査があり、経営的にどんな映画館で上映するべきかという選択も必要です。そこには映画会社や映画館、それぞれの思惑もからんできます。映画はこうした数々の制約をクリアすることでやっと世に出る事が可能になり、そうなって初めて製作費を回収できるようになるわけです。
 そう考えると、映画監督にとって表現的にも資金的にも何の制約も受けずに映画を撮るというのは究極の夢なのかもしれません。しかし、この夢を実現させた映画監督が、映画の歴史上ごくわずかながら存在します。

<自由に映画を作った男たち>
 先ず最初にあげられるのは、「映画の父」とも呼ばれるハリウッド初期の映画監督D・W・グリフィスでしょう。彼は「国民の創生」がそれまでのハリウッドの記録をすべて塗り替えるヒットとなったことで、歴史的超大作「イントレランス」を製作する事が可能になりました。
 映画製作者として「風と共に去りぬ」を作り上げたデヴィッド・セルズニックもまた夢をかなえることに成功した一人です。ただし、彼の場合は、気に入らない監督を取替えたり、脚本を書き換えさせたり、すべてに口出しをしての成功ですから、ちょっと複雑な成功です。
 「ゴッド・ファーザー」シリーズの大ヒットにより、戦争超大作「地獄の黙示録」を撮ることができたF・F・コッポラも夢を実現した一人かもしれません。しかし、彼はトラブル続きだった撮影のためあまりに資金を使いすぎ、自ら破産してしまうという悲劇に見舞われています。
 「ディアハンター」の大成功によって巨額の資金を得て、超大作「天国の門」を撮ることができたマイケル・チミノ。彼の場合は、無尽蔵に資金を使いながら、それを回収できず大手の映画会社ユナイトを倒産に追い込んでしまいました。
 それから、「ターミネーター」などのヒット作を連発し、その実績や資金をすべて注ぎ込んで歴史的超大作「タイタニック」を作り上げたジェームズ・キャメロンがいます。彼の場合は、ヒットもし、アカデミー作品賞も受賞したのですから、大満足の結果だったといえるでしょう。
 こうした夢の作品は必ずしもヒットしてはいませんが、興行的に成功しなくても作品としては高い評価を受け、映画史に残る傑作としていつまでも見られ続けている作品もあります。その代表的作品の一つが、常に映画史に残る作品ベスト10で上位に位置し続けている傑作「市民ケーン」です。この映画もまた監督であるオーソン・ウェルズが映画会社から与えられた大きな権限を自由に使って作り上げた夢の作品でした。
 オーソン・ウェルズは、この作品を撮るにあたり映画製作会社のRKOから、巨額の報酬とは別に脚本、監督、主演、製作、編集、そのすべてを担当し、その決定権を与えられたといいます。これこそ、映画監督にとって夢のまた夢の実現でした。しかし、彼はなぜこれだけの権限を無条件で獲得できたのでしょう?驚くべきことに、それまで彼は短編映画しか撮ったことがなかったのです。年齢もなんと26歳という若さでした。

<オーソン・ウェルズ>
 オーソン・ウェルズ Orson Welles は1915年5月6日ウィスコンシン州のケノーシャで生まれました。アルコール中毒の発明家という父親と神秘宗教にはまったピアニストの母親のもとで育てられた彼は、頭が良すぎたのか小さな頃から周りから浮いた存在だったといいます。しかし、彼は母親を8歳で、父親を12歳で失い、後の「市民ケーン」の主人公に似た生い立ちをもっています。そんな孤独な少年時代を過ごしたせいか、彼は他人の注目を集めるのが大好きで詩、マンガ、演劇、手品など、あの手この手で人を驚かせたり、楽しませたりしていました。15歳の時、彼はアイルランドのダブリンで演技を学んだ後、モロッコなどを放浪。その後彼は演劇の道に進みます。
 しかし、1930年代の大恐慌により演劇界は非常に厳しい状況に追い込まれていました。そんな中、アメリカでは不況によって仕事を失った演劇人を救い、なおかつ演劇によって娯楽を労働者に提供するという国によるプロジェクト「連邦劇場計画(FTP)」が始り、彼の劇団にも公演のチャンスが与えられました。(こんな企画今の日本でも絶対にありえないでしょう。さすがはアメリカです)
 1937年、彼はFTPからの要請により新作の演劇「ゆりかごは揺れる The Cradle Will Rock」を上演するための準備を行っていました。その芝居で彼が描いたのは、企業によって搾取されてきた労働者が団結して闘いを始めるという当時の社会状況でした。しかし、こうした社会主義的な運動の広がりを恐れた政府は、芝居の上演を止めさせるため、劇場の使用許可を取り消し、なおかつその芝居の舞台での上演を禁じるという手段に出ました。それに対し、オーソン・ウェルズともうひとりの製作者ジョン・ハウスマンは、上演をする予定だった劇場の近くにあった劇場を押さえ、観客をそちらへと誘導、そこで上演を行うという作戦に出ます。そのうえ、舞台上での上演を禁じるという措置に対しては、出演者を観客席につかせ、そこで芝居を行なわせるという演出方法をとることで見事に回避してみせました。こうした彼らの対応は逆に大きな宣伝となり、この芝居は大ヒットを記録することになりました。

<火星人襲来!>
 こうして立ち上げられた劇団マーキュリーは、芝居以外に当時最新のエンターテイメントだったラジオ・ドラマにも進出。電波に乗って彼の名はいよいよ全国へと広がってゆくことになります。そのきっかけとなったのが、全米中を混乱に巻き込んだ伝説的ラジオ番組「「マーキュリー・シアター・オン・ジ・エア」でした。(この劇団マーキュリーには後にアメリカを代表する俳優となるジョセフ・コットンもいました)この番組はCBSラジオで毎週日曜日の夜8時から9時までの1時間番組でしたが、その番組の9回目「火星人襲来」で事件は起きました。
 1938年10月30日夜8時、全国ネットのラジオ放送局CBSが突然、火星人による地球侵略が始ったという臨時ニュースを流し始めました。現地から火星人によって攻撃されている街の様子を中継するリポーターの迫真の報告は、緊迫感にあふれていましたが、もちろんそれは事実ではありませんでした。それは有名なH・G・ウェルズのSF小説「宇宙戦争」を下敷きにして作られたラジオ・ドラマだったのです。しかし、番組を途中から聴いた人にとっては、それがラジオ・ドラマなのかニュースなのかはわからりませんでした。(もちろん、わからないように作っていたのでしょう)テレビがまだほとんど普及していなかったこの時代、ラジオのニュースは絶対的な価値をもっていました。(当時アメリカの3200万世帯のうち、2750万世帯にラジオがあったといいます)そのため、アメリカ各地では誤解によるパニックが起き、自警団が本気で武器を持って集まるなど、限りなく危険な状況が生まれてしまいました。それは単なるラジオ番組による事件ですまされるものではありませんでした。
 1938年といえば、第二次世界大戦が始る一年前。ファシズムという異性人の侵略に怯えるアメリカの大衆はピリピリとした緊張感を感じながら一触即発の状況にいたのです。そんな状況の社会に落とされた「マーキュリー・シアター・オン・ジ・エア」という一発の爆弾によって、アメリカ中がパニックに落ちてしまったのです。
幸いにして、各地でパニックが起きたものの、それが暴動に発展するようなことはありませんでした。そのために製作者は法的に処罰されることはありませんでした。それどころか、この番組の巻き起こした凄まじい効果が一人の男の才能の成せる業だったことが明らかになると、彼は一躍全米中の注目を集めることになりました。
 この後、1941年12月にアメリカは日本軍によって奇襲攻撃を受けますが、この「真珠湾攻撃」のニュースを当時アメリカ国民の多くは、このニュースをまたもあの男の仕業だと思ったといいます。
 オーソン・ウェルズは後にこう語っています。
「南米でわれわれの放送のまねをしたらラジオ番組の制作者たちは騒乱罪で逮捕されて投獄された。わたしは幸運だった。わたしは監獄ではなく、映画界に入った」
 さらに当時、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」は映画化の企画があり、その監督にソ連の巨匠エイゼンシュタインの名前が挙がっていました。ハリウッドに来ていた巨匠は結局この監督を受けませんでしたが、さすがに当時の映像技術ではまだ映画化は困難だったでしょう。しかし、ラジオ・ドラマならできるのではないか?オーソン・ウェルズはそう考えたのかもしれません。

<映画界からの誘い>
 芸術家として優れた才能を持つだけでなく、大衆の心を操る術を心得ているという点で彼こそは黄金時代を迎えていた映画界が求めていた人材だと多くの映画人たちが考えるようになりました。こうして、彼を映画界に迎えようという動きが起こり始め、その中で当時大きな力を持っていた映画製作会社RKOが前述の好条件を提示し、見事彼との契約にこぎつけたのでした。こうしてハリウッドに招かれたことについて、彼は後にこう語っています。
「ハリウッドは子供が欲しがる最高のおもちゃさ!」
 実は当初、彼の監督第一作として浮上していた企画は、ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」の映画化だったそうです。「闇の奥」といえば、フランシス・F・コッポラの超大作「地獄の黙示録」の原作です。もともとこの小説はアフリカであった実際の事件をもとにしたものなので、もし映画化されていたら、コッポラの「地獄の黙示録」とはまた異なる作品になっていたことでしょう。
 しかし、残念ながらアフリカ・ロケなど困難な部分が多かったこともあり、この企画は流れてしまいました。そして、次に浮上した案は当時28の新聞と18の雑誌を発行するメディア王ウィリアム・ランドルフ・ハースト William Randolph Hearstを題材とする人間ドラマでした。

<市民ケーン>
 こうして、彼はそれまに自分が学んできたすべての情報、知識、そしてRKOから与えられた巨額の資金と権利を用いて「市民ケーン」の製作に取りかかりました。彼はそのおかげで、当時最高の撮影技術、例えば画面内のすべてのものにピントがあうパン・フォーカス・カメラの使用やそれを使う最高のスタッフの採用によって、当時最高の映像を撮る事ができたのです。
 特に彼が採用した撮影担当のグレッグ・トーランドはこの映画にとって重要な役割を果たしました。すでに映画「嵐が丘」などで独自の革新的映像を生み出していた彼は、オーソン・ウェルズがよりドラマチックな映像を好むのに対し、あくまでリアリズムを追求。そのバランスが映画のテーマと合っていたからこそ、この映画は傑作になりえたといわれています。
 しかし、もし彼が撮影に入る前に脚本をRKO側に見せていたとしたら、それはけっして思い通りには行かなかったはずです。なぜなら、映画「市民ケーン」が取り上げていたのは、アメリカの経済界を代表する実在の大物、「新聞王ランドルフ・ハースト」の人生であることが明らかだったからです。そのうえ、映画の中で主人公はけっして英雄とは描かれてはおらず、富と権力を思うがままに手に入れながら、なおかつ孤独のうちに死んでいった不幸な人物として描かれていたのです。
 実は後にハーストがこの映画の公開に待ったをかけようとした時、最も彼が問題視したのは自分の描き方ではなく彼の愛人だった女優マリオン・ディビスの描き方だったといいます。
 この映画のテーマは、なぜ彼が不幸だったのか?その謎を観客とともに解くことにあり、その大きなヒントが映画の最後に明かされることになります。この映画の面白さは、一人の偉大な人物の実像を多くの人物の証言をもとに描き出してゆきながら、重要なキーワードである「ローズ・バット(バラのつぼみ)」の謎を解いてゆく推理小説のようなストーリー展開にあります。人間を描き出すという芸術性と謎解きもののもつ娯楽性、そしてそれを映し出す映像の完璧に構成された美しさ、さらにはテーマのもつ衝撃度と時代にマッチした社会性。この映画が未だに映画史上のベスト10上位に必ず入っているのは、これらのすべてを兼ね備えた史上まれに見る作品だからなのです。

<公開に向けた苦労>
 彼のそれまでの作品もそうだったように「市民ケーン」もまた製作過程でのトラブル以上に公開に関して数々のトラブルに見舞われることになりました。この作品は公開前から、新聞王ランドルフ・ハーストをスキャンダラスに描いた作品であることは明らかだったため、当時強い権限をもっていた検閲機関が公開に強い難色を示しました。
 これに関しては、オーソン・ウェルズが検閲の責任者ジョー・ブリーンの信仰心に訴えかけることでうまく切り抜ける事ができたといわれています。(彼はアイルランド出身の熱心なカトリック教徒だったそうですが、オーソン・ウェルズも実家がアイルランドで一時期アイルランドに住んでいたことがあります)
 しかし、ハースト本人からの妨害工作はオーソン・ウェルズの才覚をもってしても防ぎきれるものではありませんでした。彼からの圧力によりアメリカの中部から西部にかけての500以上の映画館は「市民ケーン」を公開しませんでした。とはいっても、製作会社のRKOは当時アメリカの最王手企業だったため映画館側はRKOからの報復を恐れてフィルムの購入を拒否するわけには行かなかったので購入後、オクラ入りにするという方法をとりました。
 それに対しオーソン・ウェルズは、フィルムをテントで上映する個人経営の小さな映画館に売ることで公開館を増やそうとしますが、それでは巨額の製作費は到底回収できず大きな赤字を作ることになってしまいました。当然、RKOはオーソン・ウェルズに与えた当初の権限をすべて剥奪。彼はその後二度と思い通りの作品を作る事ができる機会を得ることはありませんでした。
 ただし、ハーストの妨害工作によって「市民ケーン」は完全に消されたわけではりませんでした。その年のアカデミー賞では最優秀脚本賞しかとれなかったものの、その後も作品に対する評価は時代とともに高くなり、いつしか映画史に残る最高傑作の仲間入りを果たしていました。残念なのは、この後彼は二度とここまで自由に映画にその才能を注ぎ込む機会に恵まれなかったことでしょう。そのうえ、彼はその後悪名高い「赤狩り」の渦にも巻き込まれ1948年、ヨーロッパへと亡命せざるを得なくなりました。映画を撮るための資金だけでなく、取る場所すらも失ってしまった彼は、その後は映画を撮る資金作りのため、俳優業(「第三の男」)やTV番組制作(「オーソン・ウェルズ劇場」)それにCM出演などにも手を広げなければなりませんでした。彼が「呪われた天才」と呼ばれるようになったのは、こうした悲劇的な後半生からきたものです。
 人生に置ける最大のチャンスを最初にもらい、それを成し遂げてしまった時、人はその後の人生をどう生きたらよいのでしょうか?彼の人生はそんなことも考えさせてくれます。彼は1985年10月10日、彼にとって最も大切だった土地ハリウッドで息を引きとりました。死の瞬間、彼が思い描いたのは、いったいどんな場面だったのでしょうか?
 自分勝手で思い通りにならないと気がすまなかった天才にとって、「市民ケーン」で描かれたランドルフ・ハーストの人物像は多くの部分で彼自身に近いものでした。もしかすると、彼自身、死の直前、あの映画の主人公のように「バラのつぼみ」を思い出していたかもしれません。彼にとって、人生最高の思い出は「市民ケーン」であり「バラのつぼみ」だったのかもしれないのです。

「協力者は貢献をする。だが映画を作れるのは監督だけだ」
オーソン・ウェルズ

<追記>
「風の向こう側」
 幻の映画「風の向こう側」はオーソン・ウェルズ最後の監督作品でヘミングウェイをモチーフにした映画だったといいます。オーソン・ウェルズ自身をモデルにした監督を演じたのは、巨匠ジョン・ヒューストンで、他にもピーター・ボグダノビッチやデニス・ホッパーらも出演しています。ほぼ撮影は終わっていたらしいのですが、完成せずに終わってしまいました。フィルムは残っていて、ピーター・ボグダノビッチらよって完成されたという噂もあり、ついに公開されるという話が2009年ごろのカンヌ映画祭であったようですが、結局流れてしまったようです。
 

「市民ケーン Citizen Kane」 1941年
(監)(製)(脚)(出)オーソン・ウェルズ
(脚)ハーマン・J・マンキウィッツ(撮)グレッグ・トーランド
(編)ロバート・ワイズ(音)バーナード・ハーマン
(出)ジョセフ・コットン、ドロシー・カミング、エヴェレット・スローン、アグネス・ムーアヘッド

<1941年の出来事>
真珠湾攻撃から太平洋戦争始まる
対独抵抗国民戦線結成、ロンドンにド=ゴールの亡命政府誕生(仏)
ドイツ軍がオデッサを占領、モスクワへの進撃開始
トルコ・ドイツ友好条約調印
ドイツのナンバー3、ルドルフ・ヘスがイギリスへ和平交渉に行き逮捕される(精神に異常をきたしていた)
ヴェトナム独立闘争民主戦線(ヴェトミン)創立
中ソ中立条約成立

東条英機内閣成立、国民学校令発令
ゾルゲ事件
関門トンネル開通

<映画>
「偽りの花園」〈監)ウィリアム・ワイラー〈原)(脚)リリアン・ヘルマン〈出)ベティ・デイヴィス、テレサ・ライト
「ジキル博士とハイド氏」〈監)ヴィクター・フレミング(原)ロバート・スティーブンソン(出)スペンサー・トレイシー、イングリッド・バーグマン
「市民ケーン」(監)(出)オーソン・ウェルズ
「わが谷は緑りなりき」(監)ジョン・フォード(出)ジョン・ウェイン、ドナルド・クリスプ(アカデミー作品、監督、助演男優賞
「ヨーク軍曹」(監)ハワード・ホークス(出)ゲイリー・クーパー(アカデミー主演男優賞
「断崖」(監)アルフレッド・ヒッチコック(出)ジョーン・フォンティン、ケーリー・グラント(アカデミー主演女優賞
「偉大な嘘」(監)エドマンド・グールディング(出)ジョージ・ブレント、メアリー・アスター(アカデミー助演女優賞
「マルタの鷹」(監)ジョン・ヒューストン(出)ハンフリー・ボガート(フィルム・ノワールの先駆的作品)
「幽霊紐育を歩く」(監)アレクサンダー・ホール(原)ハリー・シーガル(出)ロバート・モンゴメリー、クロード・レインズ
「ダンボ」〈アニメ版)〈監)ベン・シャープスティーン

「戸田家の兄妹」〈監)小津安二郎(原)〈脚)池田忠雄〈出)藤野秀夫、葛城文子
「馬」〈監)〈脚)山本嘉次郎〈出)藤原鶏太、竹久千恵子
「みかえりの塔」〈監)〈脚)清水宏(出)笠智衆、日守新一

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