黒いゴッドファーザー、驚きの生涯


「ブラック・ゴッドファーザー クラレンス・アヴァントの軌跡」
Black Godfather

- クラレンス・アヴァント Clarence Avant -
<驚きのドキュメンタリー!>
 世の中にはまだまだ知らないことがあるもんだ!と久しぶりに驚かされました。
 クラレンス・アヴァント?聞いたことないですが・・・と思いながら見たドキュメンタリー映画にビックリさせられました。
 人種差別が当たり前の1930年代アメリカの田舎町に生まれ育った黒人少年が、音楽業界トップのメジャー・レーベルの社長たちのアドバイザーとなり、映画業界では「燃えよドラゴン」のテーマを生み出し、スポーツ界ではハンク・アーロン、モハメド・アリに引退後の道筋をつけ、政界ではビル・クリントンの大統領選挙資金を集め、バラク・オバマを新人から大統領にまで導いたなんて・・・アメリカン・ドリームにもほどがあります!
 話半分じゃないの?と思いながら見ていたのですが、ビル・クリントンやバラク・オバマまで画面に登場しては信じないわけには行きません。
 最後に彼は、自分が唯一成し遂げられなかったのは、ビル・ゲイツのような大金持ちになれなかったことぐらいと語り、「人生は数字(お金)がすべてだ」とも語っていますが、それは本当なのでしょうか?
 「キング・メーカー」、「最初で最強のインフルエンサー」、そして「ブラック・ゴッドファーザー」と呼ばれた人物のドキュメンタリー映画からご紹介させていただきます。

<クラレンス・アヴァント>
 クラレンス・アヴァント Clarence Avant は、1931年2月25日アメリカ中東部ノースカロライナ州のグリーンズボロの貧しい農家に生まれました。母親は未婚の母として彼を生み、その後、別の男性と結婚。彼は8人兄妹の長男で、義理の父親から家庭内暴力を受けながら育ちました。
 中学卒業後、父親からの暴力に耐えきれなくなった彼は家出をして、ニュージャージーに住む叔母の元に向かいます。北部の都市であるニュージャージーには、南部の悲惨な暮らしから逃れ、奴隷制から逃れた黒人たちが増えていて、彼の叔母さんもその一人でした。(「黒人たち北部へ」参照)彼はその街で白人弁護士が経営する法律事務所の雑用係として働き始めました。

<音楽業界にて>
 彼は法律事務所で下働きをしながらビジネスのマナーを学んだだけでなく、白人との付き合い方、人間関係の作り方を学んで行きました。そしてその真面目な仕事ぶりや人柄の良さを認められるようになり、雑用ではない仕事を任されるようになって行きました。そんな中、真面目で優秀な黒人を求めていた白人のジョー・グレイザーというビジネスマンから仕事の依頼が来ます。
 ルイ・アームストロングデイブ・ブルーベックデューク・エリントン、サラ・ヴォーン、ビリー・ホリディなどのエージェントとして多くのミュージシャンを成功に導いた大物ビジネスマンのジョー・グレイザーは、当時、人気黒人ミュージシャンの70%を配下にしていたといいます。当然、仕事量も半端なかったはずで、黒人で使えるビジネスマンがいればすぐにでも自分の右腕として使いたかったようです。
 1959年、その人物がわがままで扱いずらかった「ブルースの女王」と呼ばれた黒人女性ヴォーカルの大物ダイナ・ワシントンのエージェントをクラレンスに任せたのでした。その後、さらにクラレンスが任されたのが黒人ジャズ・オルガン奏者のジミー・スミスでした。
 当時も現在もそうですが、ジャズ界においてオルガンという楽器は珍し存在です。(ただし、教会ではオルガンという楽器が多用されていまるので黒人音楽にはなじみのある楽器です)そのため、ジミー・スミスの才能を世に出すためには工夫が必要ということで、彼は白人のクリード・テイラーにプロデュースを依頼。さらにバックのメンバーに当時売り出し中だったクインシー・ジョーンズを抜擢。ジミーのアルバムはは大ヒットとなり、ジャズ・オルガンの一大ブームが訪れるきっかけになりました。その後も、彼とクインシーの関係は長く続くことになります。

<映画界への進出>
 次に彼が担当を任されたのは白人ジャズ・ピアニストのラロ・シフリンでした。アルゼンチン出身でアストル・ピアソラの楽団の後、ヨーロッパで活動していたラロ・シフリンは、1957年にアメリカでディジー・ガレスピーに認められ、ジャズ・ピアニストとして本格的に活動を始めようとしていました。そこでクラレンスは、彼をディジー・ガレスピー、ジミー・スミスらのバンドのメンバーとしてツアーに参加させ、テレビにも出演させます。白人、黒人両方のミュージシャンを扱い、テレビ界にも顔がきく彼の存在のおかげで、その後ラロ・シフリンはちょうど発展途上にあったテレビ界で作曲家として働くようになります。
 ジャズ・テイストの彼の音楽は当時のテレビにぴったりで「ナポレオン・ソロ」(1964年)、「ミッション・インポッシブル(スパイ大作戦)」(1966年)などサスペンス・ドラマのヒット作の音楽を担当後、映画界にも進出し、大ヒットしてシリーズ化されることになる「ダーティー・ハリー」(1971年)、そしてあの「燃えよドラゴン」(1973年)のテーマ曲を生み出すことになります。
 映画界での仕事が増えたこと、モータウンがデトロイトからLAに本社を移すなどして音楽業界の中心がLAに移動し始めたこともあり、クラレンスは北部のニュージャージーから西海岸ロサンゼルスの中心でありセレブの街、ビバリーヒルズに邸宅を構えることにします。まだ映画業界で働く黒人すら少ない時代に彼は白人のセレブたち住むど真ん中に家を建てたのです!もちろんその際、ジョー・クレイザーの多大な援助がありました。そして、そのクレイザーから次なる仕事の依頼が舞い込みます。

<スポーツ界への進出>
 彼が依頼されたのは、アメリカン・フットボール界の名選手ジム・ブラウンと親しくなり、彼の信頼を得て、俳優として映画界入りするよう説得せよ、というものでした。今で言うなら、大谷翔平やダルビッシュ、アレックス・ロドリゲス、メッシやネイマールを映画界入りさせるようなものです。もちろんアメフトに人生を捧げていたジム・ブラウンは、音楽業界人のクラレンス・ブラウンのことなど全く知りませんでした。しかし、そこは人たらしのクラレンスです。すぐにジムの心を開くと、引退後の選択として映画界で稼ぐ方法を示し、先ずは戦争アクション映画「特攻大作戦」(1967年)への出演を実現します。
 アクション映画の巨匠ロバート・アルドリッチが監督したその作品には、リー・マービン、チャールズ・ブロンソン、アーネスト・ボーグナイン、ジョン・カサベテスなど豪華な俳優が出演し、その中で彼は黒人兵士の役どころで活躍。アクション俳優としての才能を認められた彼は、その後、戦争映画や西部劇などを中心に多くの映画に出演することになりました。中でも1969年の西部劇「100挺のライフル」では当時の人気アイドル女優ラクエル・ウェルチと共演。白人の美人女優と黒人ヒーローがラブシーンを演じるという前代未聞のシーンが大きな話題となりました。それは一歩間違えば、命を習われかねない危険な挑戦でしたが、その裏にはクラレンスによるバックアップがあったようです。

<音楽業界での独自路線>
 その後、恩師のジョー・クレイザーがこの世を去ったことから、彼は自らのレコード会社を立ち上げます。その名前「サセックス・レコード Sussex Record」とは、「Success」と「Sex」を組み合わせたもの。「人生は金だ!愛など無用」と豪語していた彼らしいネーミングでした。
 そんなレーベルから最初にデビューしたのは、ファンキーなダンス・サウンドを生み出すギタリスト、デニス・コフィーでした。70年代前半はディスコ・ブームに火がつく時期。そんな時代の流れに乗り、デニスの曲はすぐにヒットしますが、実は彼は白人ギタリストだったことが明らかになります。(イケメンかどうかや顔出しが契約問題でNGの場合や人種をなどを明らかにしたくないなどの理由からレコード・ジャケットにアーティストの顔を出さないことは当時よくありました)多くの黒人がデニスを黒人アーティストと勘違いしていたようです。これは黒人音楽についての逆差別のアルアルです。
 もしかすると、彼はこの時すでに人種の壁を壊すためには、白人アーティストをファンク・ミュージック界に進出させることも有効であると考えていたのかもしれません。その後も彼は、自分のレーベルからウェンズデーやウォッズワース・マンションなど白人のバンドをデビューさせています。さらに当時は目が出なかったものの、40年後に南アフリカで大ブレイクすることになるロドリゲスもこの時期に彼がデビューさせています。

<ビル・ウィザース>
 ちょうどこのページを制作中、2020年4月3日、大ヒット曲「Just Two of Us」などで有名な黒人シンガー・ソングライターのビル・ウィザースが亡くなりました。心臓疾患の合併症だったようです。彼もまたクラレンスがこの時期にデビューさせたアーティストです。ご冥福をお祈りします。
 黒人シンガーでありながら、ギター1本で歌うフォーク・シンガー・スタイルのビル・ウィザースは、黒人音楽=ソウル、ファンクという一般的な概念からはみ出していることからどのレコード会社も売り出そうとはしませんでした。そんな中、クラレンスだけは彼の歌を聴き、その才能を認めたのでした。
 ジャンル分けを拒否し、既成のスタイルからはみ出したスタイルを認める彼の姿勢がなければ、名曲「Lean On Me」のような名曲も世に出ることはなかったのです。もし、彼のモットーが本当に「人生はお金で決まる」だったとしたら、こうしたビジネス・スタイルを選ぶ必要はなかったはずです。

<ソウル・トレインを守れ!>
 彼の影響力は、当時の大人気番組「ソウル・トレイン」をめぐる事件でも発揮されることになります。
 1970年に黒人のドン・コーネリアスを司会者に迎えてスタートしたシカゴの黒人向けテレビ番組「ソウル・トレイン」は、黒人視聴者だけでなく白人の若者たちの間にもその人気が広がり、1975年には全国放送となりました。その人気が高まると共に、同じように黒人向けのテレビ番組の企画が浮上します。1960年代白人の若者層に大人気だった音楽番組「アメリカン・バンド・スタンド」の司会者として活躍していたディック・クラークが、ABC放送と組んで「ソウル・アンリミテッド」という黒人向けの音楽番組を企画し、パイロット版まで制作。クラレンスにアドバイスを求めてきました。
 その時、彼はABCの経営陣に対し、「あなたたちがこの番組で勝負するのはいいが、番組スタッフたちはすぐに路頭に迷うことになりますよ」と脅すかのような言葉を発したとのこと。こうして、「ソウル・トレイン」はライバルの登場を免れることになり、その後、長く番組は続くことになります。

<公民権運動との関り>
 1955年に起きたエメット・ティル少年の殺害事件で大きな衝撃を受けて以来、彼の心の中には「公民権運動」の問題がありました。まだ若かった当時の彼には何も協力することはできなかったのですが、1968年にキング牧師が暗殺されるとついに彼は動き始めます。
 彼はキング牧師の死を忘れないための平和的なイベントとして音楽フェスティバルを企画し、実現のための働きかけを始めます。その企画は、黒人たちによる黒人たちによるコンサートにすることにこだわり、レコード会社の垣根を越えるよう「モータウン」、「アトランティック」、「スタックス」の黒人音楽のメジャー3社をすべて参加させるという大掛かりなコンサートを目指しました。こうして、1972年5日間に渡る大掛かりな音楽イベント「Save The Childen」が開催されることになりました。このコンサートは映画として記録され、そのスタッフはすべて黒人で固められました。出演者の顔ぶれは、ジャクソン5、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、クインシー・ジョーンズ、キャノン・ボール・アダレイ、ロバータ・フラック、アイザック・ヘイズ、ザ・テンプテーションズ、カーティス・メイフィールド、サミー・デイヴィスJr・・・などレーベルもジャンルも越えたメンバーでした。

 公民権運動との関り以降、彼はより深く政治、政治家に関わり始めます。
 人種差別が根強く残るアメリカ南部ジョージア州で黒人初の議員に挑んだアンドリュー・ヤングは、クラレンスに相談を持ちかけ、それに対し、彼は応援コンサートを企画。アイザック・ヘイズや白人ソウル・グループのレア・アースを登場させました。無事にヤングを当選させた彼は、その後、ジョージア州の知事から大統領にまで上り詰めるジミー・カーターのバック・アップを務めることになります。

<ハンク・アーロンの世界記録>
 1974年、メジャーリーグでは黒人選手ハンク・アーロンがベーブ・ルースがもつメジャーリーグの最多ホームラン記録に並ぼうとしていました。しかし残念なことに、白人選手のもつ世界記録を黒人選手が破ろうとしていることに反発の声が巻き起こっていました。そのため、記録到達が近ずくにつれて彼の元には多くの脅迫状が届くようになったといいます。(かつて日本でも、王選手のホームラン記録が破られそうになった時、同じようなことがありました)そんな彼のもとにクラレンスが訪れ、彼を元気づけるだけでなくビジネス的な提案をします。
 当時、黒人選手への人種差別はまだまだ残っていて、彼らの収入は白人選手に比べ明らかに低く、ハンク・アーロン・クラスの選手でも引退後に悠々自適な生活を送れるほどのお金を稼げていなかったようです。(稼いだお金をどう貯めるべきか、どう使うべきかをアドバイスする人もいなかったようです)
 そこで彼がアーロンに提案したのは、彼の実績や記録に見合っただけのスポンサー契約をしようじゃないかということでした。そして、彼が選んだのはアメリカ南部アトランタに本社を置く大企業「コカ・コーラ社」でした。
「黒人もコカ・コーラを飲みますよ」
 こう言って、彼はコカコーラの重役たちに世界一のホームランバッターとなるハンク・アーロンとスポンサー契約を結ぶよう説得します。こうしてクラレンスは、ハンク・アーロンに巨額のスポンサー契約料をもたらしました。そして、黒人のスポーツ選手が白人選手同様にスポンサー契約を結ぶことができることを示したことで、この後のプロスポーツ界における黒人選手の境遇は大きく変わることになりました。
 この後、クラレンスはハンク・アーロン以上に有名なスポーツ選手モハメド・アリのためにテレビでのショーを企画するなど、スポーツ選手がエンターテイメントの場でも活躍できる場の提供など、経済的な自立を助ける道を切り拓いて行きました。

<経営破たんと新レーベル>
 勢いに乗る彼は、黒人向けのラジオ局「アバンギャルド・ラジオ KAGB」を設立しますが経営に失敗。さらに彼のレーベルの稼ぎ頭だったビル・ウィザースの移籍などが重なり、サセックス・レコードが倒産。巨額の借金を返済するために、自分の家も手放さなければならなくなりました。
 幸い彼には長年築いてきた豊富な人間関係があり、特に親しい人々のおかげで彼の借金は大幅に減額され、家を手放すことはしなくてすみました。立ち直った彼は、新たなレコード会社Tabuレコードを立ち上げ、新たなスタートを切ります。
 彼は新レーベルから黒人ファンク・バンド、SOSバンドをデビューさせます。この時、彼がプロデユーサーに抜擢したのは、この後、人気プロデューサー・コンビとして一時代を築くことになる大物プロデューサー・チーム、ジャム&ルイスでした。
 それまでは、演奏力や音楽的な創造力が重視されていたヒットメーカーでしたが、サンプリング・マシーンの登場以降、選曲のセンスが重要さを増し、彼らのようなセンスの持ち主が時代の兆児となるのでした。
 彼らはその後、アレクサンダー・オニールをブレイクさせ、伸び悩んでいたジャネット・ジャクソンの「コントロール」をプロデュースするなど黒人音楽の世界だけでなくポピュラー音楽の世界に大きな影響を与えることになります。

<トラブル処理請負人>
 この頃、黒人音楽を白人の若者層に広めたモータウン・レコードが、LAに移転後、映画産業への進出に失敗するなどして急速に業績を落とし、倒産の危機に瀕していました。そこで彼はアラン・レヴィが率いるメジャーのレコード会社ポリグラム社に買収させることで「モータウン」の看板を守るよう動きます。クラレンス自身も新会社の会長に就任しています。
 1990年代はヒップホップの世界で様々なトラブルが起き、黒人音楽のイメージを悪化させた時期でもありました。そんなトラブルの際にもクラレンスはトラブルを収める役目を果たしています。
 1997年のラッパー、ノートリアスBIG暗殺事件の際、次に命を狙われると思われたショーン・コムズをフロリダ経由で脱出させたのは彼でした。同じ頃、悪名高いデス・ロウ・レコードともめ事になり脅迫事件に巻き込まれていたスヌープ・ドギー・ドッグを和解させ、命を救ったのも彼だったようです。
 黒人ミュージシャン、黒人映画俳優、黒人スポーツ選手、黒人政治家・・・トラブルに巻き込まれた時、最後に頼るべき人物がクラレンス・アヴァントだったわけです。映画「ゴッドファーザー」の主人公ドン・コルレオーネがまさにシチリア系移民にとって同じ役割を果たしていましたが、彼と同じくクラレンスもまたそうした救済行為への報酬を求めることはありませんでした。
「人生は数字(お金)で決まる」と言っていた彼ですが、やはり単なるお金儲けが趣味だったわけではなさそうです。

<キング・メーカー>
 人種を越えて影響力を増してきた彼は、政治の世界でもアドバイスを求められる存在になって行きます。民主党から大統領に立候補しようとしていたビル・クリントンを高く評価していた彼は、彼のために黒人層の支持を得られるように動き、100万ドルの選挙資金を集めたといいます。
「ゲームはプレイしろ、見守るんじゃない」
 この言葉も彼のモットーだったようです。黒人層への理解と配慮を見せたクリントンを支持する彼のおかげもあり、ビル・クリントンは見事大統領選挙に勝利します。当選後、彼は大統領の大切な友人としてホワイトハウスに招かれ、その後も大統領の友人として付き合いを深めます。そして、クリントンと同じ民主党の若手運動員の中に優れた黒人青年を見つけます。それが若き日のバラク・オバマでした。
 彼が政治家として地方の議員としての活動を始めると、クラレンスはすぐに彼を応援し始めます。そして、最終的には彼をホワイトハウスに送り込むことに成功したのでした。まさに「キング・メーカー」です。
 こうして彼の人生軌跡を見てくると、彼の人生最大の目的は、
「黒人を前に進ませること」
 この言葉に集約されそうです。

 共産主義国家のほとんどが21世紀を前に崩壊してしまった中、民主主義陣営の大国アメリカが生き残ったのには、クラレンス・アヴァントのように単純に資産を目的にした経済人とは異なる縁の下の力持ち的存在がいたからなのかもしれない。そう思ったりしました。
 トランプ大統領のような金のために生きる悪辣な資本主義的人物もいれば、キング牧師やオバマ大統領、そしてクラレンス・アヴァントのような優れた人物も活躍できる。そんな社会だからこそアメリカという国は、21世紀まで無事に生き残ってこられたのかもしれません。

「ブラック・ゴッドファーザー クラレンス・アヴァントの軌跡」 2019年
The Black Godfather
(監)レジナルド・ハドリン Reginald Hudlin
(製)ニコール・アヴァント、レオン・チルズ、ネルソン・ジョージ他
(撮)マシュー・チャベス
(編)ワイアット・ジョーンズ他
(出)クラレンス・アヴァント、ニコール・アヴァント(長女)
ジェイミー・フォックス(俳優、ミュージシャン)
ネルソン・ジョージ(音楽評論家)
ベリー・ゴーディー(モータウン創設者)
バラク・オバマ、ビル・クリントン(元アメリカ大統領)
クインシー・ジョーンズ(ジャズ・ミュージシャン、プロデューサー)
ジェシー・ジャクソン(公民権運動活動家、議員)
シシリー・タイソン(女優)
ハンク・アーロン(元メジャーリーガー)
ジム・ブラウン(元アメリカン・フットボール選手)
ラロ・シフリン(映画音楽作曲家、ジャズ・ピアニスト)
ショーン・コムズ(ラッパー)
ベビー・フェイス(歌手、作曲家、プロデユーサー)
クライブ・デイヴィス(アリスタ・レコード創設者)
デヴィッド・ゲフィン(アサイラム・レコード、ドリームワークス創設者)
ライオネル・リッチー(歌手)
スヌープ(ラッパー)
ビル・ウィザース(シンガー・ソングライター)
<使用されている曲>
曲名  演奏  作曲  コメント 
「Use Me」  ビル・ウィザース Bill Withers  「Still Bill」(1972年)収録
「Whirly Bird」  カウント・ベイシー
Count Basie & His Orchestra
Neal Hetti スウィング・ジャズの大御所
「Theme From Joy House」 ジミー・スミス Jimmy Smith  ラロ・シフリン Lalo Schifrin ルネ・クレマン監督作品
「危険がいっぱい」(1964年)
「Walk on the Wild Side」  ジミー・スミス Jimmy Smith  Elmer Bernstein
Mack David 
ルー・リードの曲ではありません
1961年発表 
「Killer Joe」  クインシー・ジョーンズ
Quincy Jones 
Bernie Golson 「Walking In Space」(1969年)収録
「Eesom」  クインシー・ジョーンズ
Quincy Jones  
William Potts  「The Great Wild World of Quincy Jones」
(1959年)収録 
「Baby , I Love You」 アレサ・フランクリン
Aretha Franklin
Roosevelt Shannon ソウルの女王による1967年のヒット曲 
「Voce E Eu」  ラロ・シフリン Lalo Schifrin  Carlos Lyd,
Marcus Vinicius Da Cruz De Moraes
「ボサ・ノヴァ」(1962年)収録 
「California Soul」  マーヴィン・ゲイ、タミー・テレル
Marvin Gaye , Tammi Terrell
Marlena Shaw
Marvin Gaye , Tammi Terrell
「Easy」(1969年)収録のデュエット曲 
「Machinations」  ラロ・シフリン Lalo Schifrin   「There's A Whole Lalo Schifrin Goin' On」
(1968年)収録 
「If It Ain't Funky」  ソウル・サーチャーズ
The Soul Searchers 
Charles Brown  「Salt of the Earth」(1974年)収録
ワシントンGoGoの先駆者チャック・ブラウン
「Chicano」  デニス・コフィー
&デトロイト・ギター・バンド
Dennis Coffey
& The Detroit Guitar Band
Dennis James Coffy  モータウンのセッション・ギタリスト
多くのミュージシャンのバックを務めた
クラレンスのおかげでソロ・デビュー
ついに光が当たったわけです。
「Scorpio」  Dennis Coffey
& The Detroit Guitar Band
Dennis James Coffy   
「Crucify Your Mind」 ロドリゲス Rodriguez Sixto Dia Rodrigez  アパルトヘイトの南アフリカで再評価
一躍大スターになった南アフリカン・ドリーム
「Grandma's Hands」  ビル・ウィザース Bill Withers  ←   恋人ではなくおばあちゃんの歌
クラレンスが聞いて感動した曲 
「Ain't No Sunshine」 ビル・ウィザース Bill Withers  ←  「Just As I'm」(1971年)収録 
「リーン・オン・ミー Lean On Me」  ビル・ウィザース Bill Withers   「Still Bill」(1972年)収録
2009年オバマ大統領の就任式典
メアリ―・J・ブライジがこの曲を歌った
全米ナンバー1ヒット 
「Get Down」  カーティス・メイフィールド
Curtis Mayfield 
「ルーツ」(1971年)収録
公民権運動で活躍したソウル歌手 
「Save The Children」  マーヴィン・ゲイ Marvi Gaye  Marvin Gaye,Alfred Cleveland
Renaldo Benson
「That's The Way Love Is」(1970年)収録 
「I Want You Back」  ジャクソン5
The Jackson 5 
Berry Gordy, Deke Richard
Fonce Mizell, Freddie Perren 
モータウンからのメジャー初シングル
1969年発表で全米ナンバー1 
「Hung Up On My Baby」  アイザック・ヘイズ Issac Hayes  映画「スリー・タフ・ガイズ」サントラ盤より
1974年のインスト曲 
「No Name Bar」  アイザック・ヘイズ Issac Hayes  映画「黒いシャフト」サントラ盤より
1971年のインスト曲 
「Strawberry Letter 23」  ブラザース・ジョンソン
The Brothers Johnson 
Shuggie Otis 「Right on Time」(1977年)収録
チョッパー・ベースをブームにした大ヒット曲
「Sanford And Son Theme-NBC TV」 クインシー・ジョーンズ
Quincy Jones   
1972年~1977年NBC放送のテレビ番組
黒人ファミリーのコメディ 
「Another Part of Me」  マイケル・ジャクソン
Michael Jackson
←  「バッド」(1987年)からのシングル 
「S.O.S.
(Dit Dit Dit Dash Dash Dash Dit Dit Dit)」 
S.O.S.バンド Bruno Speight
John Alexsander Simpson 
「S.O.S.」(1980年)収録
「Take Your Time」のB面
「Take Your Time(Do It Right)」  S.O.S.バンド  Sigidi Bashir Abdullah
Harold Lee Clayton
「S.O.S.」(1980年)収録
全米ポップ、ディスコチャート1位
「Just Be Good To Me」  S.O.S.バンド   James Harris Ⅲ、Terry Lewis 「On The Rise」(1983年)収録
全米55位
「Saturday Love」  シェレル
with アレクサンダー・オニール
Cherrelle with Aexander O'Neal 
James Harris Ⅲ、Terry Lewis  「High Priority」(1985年)収録のシングル 
「Control」  ジャネット・ジャクソン
Janet Jackson 
James Harris Ⅲ、Terry Lewis  500万枚突破の大ヒットアルバム
「コントロール」(1986年)タイトル曲 
「Human」  ヒューマン・リーグ
Human League 
James Harris Ⅲ、Terry Lewis  ニューウェーブ系英国バンド
1986年の全米ナンバー1ヒット 
「The Finest」  S.O.S.バンド  James Harris Ⅲ、Terry Lewis  「Sands of Time」(1986年)収録
全米44位 
「My Girl」  ザ・テンプテーションズ
The Temptations
William Robinson, Ronald White  1965年全米ナンバー1ヒット
モータウン・ソウルの歴史に残る名曲 
「Who Is Me (And What is he to you)?」  ビル・ウィザース Bill Withers   「Still Bill」(1972年)収録
カバーも多い名曲 
「Root Down And Get It」  ジミー・スミス Jimmy Smith  「Root Down」(1972年)タイトル曲
ジャズではなくファンクのご機嫌な名曲! 
「Award Tour」  トライブ・コールド・クエスト
Tribe Called Quest 
Malik Izaak Taylor
Kamaal I. John Davis他
1993年の名盤「Midniht Marauders」収録
「Harlem」  ビル・ウィザース Bill Withers  「Just As I'm」(1971年)収録  
「Letter To My Godfather」  ファレル・ウィリアムズ
Pharrell Williams 
Pharrell Williams, Chad Hugo この作品のためのオリジナル曲 
 

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