「未知との遭遇 Close Encounters of the third kind 」 1977年

- スティーブン・スピルバーグ Steven Spielberg -

<宇宙にいるのはわれわれだけではない>
 この映画のキャッチ・コピーは「We are not Alone 宇宙にいるのはわれわれだけではない」でした。実はこの映画が公開された1976年、世界中で大ヒットしたボズ・スキャッグスの名盤「シルク・ディグリーズ」のラスト・ナンバーが「We are all alone」こちらは「もう、僕たち二人だけ」といった感じになるのでしょうか。この曲はなぜかシングル・カットされず、逆に永遠の名曲として未だにカバーされることの多い曲です。ロックを卒業した「大人のための音楽」として、この後一世を風靡することになるAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)の名曲と大人になることを拒否した主人公が地球外生命体と交流するSF映画。この二つのヒット作が生まれた1976年は、前述二つのキャッチ・コピーにぴったりの年だったのかもしれません。
 1960年代末に絶頂に達したロックの黄金時代、1970年代初めには内省的なシンガー・ソングライターの時代となり、70年代の半ばになると「ソフト&メロー」な大人のロック時代に入ります。かつて、若者たちは「We Insist!(我々は主張する!)」(1960年マックス・ローチのアルバム・タイトル)と黒人解放やベトナム戦争反対を訴えました。しかし、1970年代半ば、彼らは仲間と肩を組むのではなく愛する女性と二人きりになることを求めるようになったいました。そして一方では「ウォーターゲイト事件」やべトナム戦争の敗北によって、政府をそして大人を信じなれなくなった子供たちは大人になることを拒否するようになり始めます。僕もそんな若者のひとりだったように思いますが、彼らの多くは大人、政府、神、ビートルズの代わりに信じることのできる何かを求めていました。今にして思うと、「未知との遭遇」はそんな時代空気にピタリとはまったのかもしれません。

<アレン・ハイネック博士>
 もともとこの映画は、この作品にテクニカル・アドバイザーとして参加しているアレン・ハイネック博士が関わっていたプロジェクト「ブルー・ブック」を題材とする作品として企画されました。ハイネック博士は天文、物理の専門家として政府に招かれ、空軍内にできたUFO目撃情報の調査を行う機関の科学顧問を務めていました。22年間、彼はよせられる情報の真偽を確かめる作業を行い、いつしかそれらの情報の中にはUFOの存在を証明するものがあること認めるようになってゆきました。
 そこで彼は自らUFO研究所を立ち上げ、本格的にその調査に乗り出したのでした。スピルバーグはハイネック博士を主人公として政府が隠蔽しているUFO情報を彼が明らかにする中でついに宇宙人と出会うというストーリーを考えていたようです。大人になりたくない子供たちが大好きなSFと反権力的なストーリー展開、それはスピルバーグが映画を取り出した時からテーマとしていたストーリーで、彼はそのテーマを中心に映画を撮り続けることになります。(「ET」もまたそのテーマで作られた映画です)「未知との遭遇」には、良い面も悪い面も含めてスティーブン・スピルバーグのすべてが収められた作品だったのかもしれません。

<スティーブン・スピルバーグ>
 スティーブン・スピルバーグ Steven Spielbergは、1947年12月18日シンシナティに生まれました。IBMにつとめ転勤の多い父親とともに何度も引越しをしたため、クラスではいつも一人ぼっちでした。そのうえ、彼はたいていクラスでただ一人のユダヤ人だったこともありいじめの対象になっていたといいます。(こうしたユダヤ人差別の体験が、後に彼に「シンドラーのリスト」や「ミュンヘン」を作らせることになります)そんな孤独な少年が逃げ込んだ先、それは宗教でもスポーツでもなく、SFの世界でした。当時は、特にSF小説、SF雑誌の黄金時代でもあり、彼は「アメージング・ストーリーズ」などの雑誌やアーサー・クラーク、ロバート・ハインライン、アイザック・アシモフ、アルフレッド・ベスターらのSF小説を読み漁りながら、いつかそれらを自分の手で映画化したいと考えるようになります。
 1964年、高校生になった彼は早くも夢を自らの手で実現します。いるかの町に住む人々がUFOによって拉致されるというストーリーの8mm映画を撮った彼は町の映画館でそれを有料公開してお金を稼ぎました。(なんと2時間半もある8mm映画「Fire Light」)この頃、彼は学校が休みになると、ハリウッドのユニバーサル・スタジオ見学ツアーに参加。途中で彼は一人でバスを降りると、勝手にスタジオ内を見て周り、それを毎日繰り返しながら、すっかりスタッフの一員のようになってしまったそうです。(この時のスタジオ見学ツアーの脱走は、「未知との遭遇」における主人公たちの脱走とデビルス・タワーへの侵入を思わせます)
 その後、カリフォルニア州立大に入学した彼はほとんど授業を受けず映画作りに熱中。自ら脚本も書いて初の35mm短編映画「アムブリン」(1968年)を完成させました。彼が尊敬する監督のひとりトリュフォー監督の「大人は判ってくれない」の青年版ともいえる青春ロードムービー「アムブリン」は、ヴェネチアとアトランタの映画祭で見事に入賞。ユニヴァーサルの重役がその出来に感心し、まだ20歳の彼は監督としての契約を結び、先ずはTVムービーの監督としてキャリアをスタートさせることになりました。あの刑事コロンボ・シリーズ初期の一作「構想の死角」を担当するなど、テレビで活躍し、その中で名作テレビ・ムービー「激突」をヒットさせ一躍その名を知られることになりました。「激突」はテレビ用に作られながらその出来のよさに海外では映画館で公開され、世界中で大ヒットを記録しました。
 劇場用映画第一作となった「続・激突カージャック」は、犯罪者の夫婦が奪われそうになった赤ちゃんとともに逃避行をするという、これまた大人になれない大人のロードムービーでした。(この作品は評価は高くないのですが僕は大好きです。それにしても日本版タイトルはあまりにご都合主義でかわいそうでした)
 第二作で、彼は尊敬する監督のひとりヒッチコックが得意とするサスペンス・ホラーの海洋冒険もの「ジョーズ」を撮り、一躍世界のその名を知らしめることになります。そして、「ジョーズ」の大ヒットは彼に、思いどおりの作品を撮るチャンスを彼にもたらします。当時映画史上最大のヒット作となった「ジョーズ」の監督となれば、映画会社は資金を惜しむわけにはゆかなくなったのです。そこで彼が選んだ題材は、彼にとって本当の意味のデビュー作だった「Fire Light」をもう一度巨額の予算をかけて作り直すことでした。それはまさに彼にとって夢の実現だったのです。ところが、この作品を彼が完成させるために必要とした費用は、最終的に1900万ドルを越えてしまいます。当時すでに大きな赤字を抱えていたコロンビアは、もし「未知との遭遇」がコケていたら、その時点でコロンビアは倒産していたでしょう。幸い、この映画の大ヒットのおかげで、コロンビアは息を吹き返すことになります。(しかし、その後、「ディア・ハンター」の大ヒットで勢いに乗っていたマイケル・チミノ監督の「天国の門」の大失敗により、本当に倒産してしまうことになります)

<リアリズムの追求>
 この映画の製作にあたり、スピルバーグが最もこだわっていたのはリアリズムの追求でした。SF映画といえば、その多くはリアリズムとは縁が遠いものばかりです。しかし、この作品は「スター・トレック」や「スター・ウォーズ」とは異なり、観客は映画の中のドラマを現実にあったことと錯覚してくれるようでなければなりません。そのためには、ドラマをより真実に近づけなければなりません。そこで、彼は映画のアドバイザーとして、世界最高のUFO研究者アレン・ハイネック博士に参加を求め、UFOや宇宙人のデザインにもリアリティーを求めたのでした。
 さらに彼は視覚的にもリアリズムを追求するため、二人の大物をスタッフとして参加させました。
 一人はハリウッドのカメラマンの中でも最も優れたテクニックを持つ男、ビルモス・スィグモンドです。ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ」、ジョン・ブアマンの「脱出」、マイケル・チミノの「ディア・ハンター」、「天国の門」、ブライアン・デ・パルマの「ミッドナイト・クロス」、ジェリー・シャッツバーグの「スケアクロウ」など、名監督の傑作を数多く担当してきた彼は、リアリズムに徹し自然光にこだわるゴードン・ウィリスのようなタイプのカメラマンと違い、フィルターの使用などによって作品独自の雰囲気を画面の色彩全体に語らせる名人と呼ばれています。
 それともう一人は、「2001年宇宙の旅」で未だにその手法が謎とされるほどの優れた特撮を駆使して伝説の存在となった世界一の特撮マン、ダグラス・トランブルです。すでに彼は映画監督として「サイレント・ランニング」を撮るなど、特撮の世界を卒業しつつありましたが、スピルバーグからの誘いに参加を決意、この映画のもう一人の主役であるUFOと宇宙人を創造することになりました。
 残念ながら、この映画でビルモス・スィグモンドは自分の思うようにテクニックを用いることができませんでした。なぜなら「リアリズム」にこだわるスピルバーグが画面上の色彩がフィルターによって現実とは違うものになることを認めなかったからです。さらにダグラス・トランブルが特殊撮影シーンのために画面の合成を行う際、映像がぼやけていると作業がしにくいということで、あえて映像はくっきりとした輪郭をもつように撮られました。CGが当時はまだなかったため、それは仕方のないことで、スィグモンドはトランブルとの連携をとりながら自分のこだわりを抑えつつ撮影、現像を行ないました。ただし、そうした合成の際、二つの映像が違和感のない明るさや色合いなどで撮られていなければ、できあがった映像にリアリティーは生まれません。そのために、ライティングはかなり工夫されているようです。この映画では、そうした目に見えないテクニックが完璧に機能していたため、今見ても合成された映像には見えないのです。こうした、撮影時の苦労が高く評価され、この映画でスィグモンドは見事にアカデミー撮影賞を受賞しています。(本人にとっては、思いどうりにできず不本意な部分もある作品だったのは皮肉ですが)

<特別編の誕生>
 この映画は1980年に「未知との遭遇・特別編」という別バージョンを生み出していますが、一本の作品をシーンを追加して二度公開するというやり方はそれまでなかったことでした。なぜそうなったのかというと、公開当初に時間と資金的余裕がなくて不十分なまま公開したことから、大ヒットのご褒美として再びスピルバーグにシーン追加のチャンスが与えられたのです。こうして、主人公のロイが乗ったUFOのマザーシップ内部の映像が追加撮影されて加えられました。しかし、このシーンの追加はコロンビア経営陣側からの要望があったからで、スピルバーグ自身は乗り気ではなかったようです。(後にこの映画がDVD化される際、スピルバーグはそれらのシーンをカットし、「ファイナルカット版と名づけました)確かにこのシーンが加わった特別編は、初回バージョンのもつリアリティーが損なわれてしまい、夢物語的なお話しになってしまった感があります。そうでなくても、主人公のロイは奥さんと子供を残してUFOに乗り込んでしまったという点で父親の役割を放棄した無責任な人間と見られても仕方ありません。こうして、いつの間にかこの映画が大人になることを拒否したピーターパン物語のSF版となってしまったことをスピルバーグはかなり後悔していたといいます。
 その後の彼の作品は、そうしたピーターパン物語からの脱却を図っているかのように主人公がしだいに大人になってゆく傾向にあります。「ET」(1982年)の少年、「カラー・パープル」(1985年)の奴隷の少女、「太陽の帝国」(1987年)の少年、「オールウェイズ」(1989年)の青年パイロット、「フック」(1991年)の永遠の少年ピーターパン、「ジュラシック・パーク」(1993年)の恐竜博士、「シンドラーのリスト」(1993年)のユダヤ人を救った英雄、「アミスタッド」(1997年)の黒人奴隷たち、「プライベート・ライアン」(1998年)の兵士たち、「AI」(2001年)の人間になりたいロボット・・・。
 しかし、スピルバーグがその後後悔したように「未知の遭遇」は人生からの逃避を奨励する作品だったのでしょうか?僕は多分そうではないと思います。あの年、あの映画はリアルに時代を映し出していただけなのだと僕は思います。だからこそ観客の多くはあの映画で描かれている出来事が実際に起きることを信じてワクワク・ドキドキしたのです。僕自身もそうでした。あの頃は、人々はみな新しい何か、信じられる何かとの出会いのチャンスがいつか必ず訪れると信じていたのです。
 しかし、残念なことに人類はその後も知的生命体とも神様とも出会うことがないまま21世紀を迎えてしまいました。今や、人々は資本主義も共産主義も神もビートルズも芸術も何もかもが信じられなくなりつつあります。今再び、世界各地で神と民族の誇りを信じる動きが増えつつあるのは、そのせいなのだと思うのですが・・・。

<追記>2012年3月
以下はポーリン・ケイル「明かりが消えて映画がはじまる - ポーリン・ケイル映画評論集-」より
「スピルバーグの父は電気技師でSF狂、母はクラシックのピアニストであったというが、この映画のクライマックスで、彼は父と母の両方から受け継いだ素質を存分に発揮する。」

フランソワ・トリュフォーが演じるラコーム博士が宇宙人に招かれた奇人変人たちに共感を示す理由が説明されていないのは必ずとも欠点ではない。なぜなら、ラコーム博士は、『野生の少年』(1970年)でトリュフォー自身が演じた善意あふれる教育家と本質的に同じ人物である。」
(注)映画「野生の少年」は、森の中で狼に育てられ人間を知らなかった少年を育てた人物の物語でした。

「甘く優しい映画を作る監督は、たいへん下手な演出しかできない。そしてわたしたちはその不器用さを彼らの人の良さに免じて許してあげよう、というのはエチケットになっている。スピルバーグは、名人芸的な技巧によって、甘く優しい映画を作るただ一人の監督かもしれない。」

クロード・コラーム博士「ニアリー君、君の目的は?」
ニアリー「これが現実かどうか知りたかった」

「未知との遭遇 Close Encounters of the third kine 」 1977年公開
(監)(脚)スティーブン・スピルバーグ
(製)ジュリア・フィリプス、マイケル・フィリップス
(撮)ヴィルモス・スィグモンド、ラズロ・コバックス
(特撮)ダグラス・トランブル
(音)ジョン・ウイリアムズ
(出)リチャード・ドレイファス、メリンダ・ディロン、フランソワ・トリュフォー、テリー・ガー、ケリー・ギャフィ

<あらすじ>
 ある日、電気技師のロイ(リチャード・ドレイファス)はインディアナ州の自宅近くでUFOを目撃します。彼はその後、自分の頭の中に何かのイメージが刻まれていることに気づきますが、それが何なのか判らずに悩み、妻(テリー・ガー)との関係までおかしくなります。
 同じ頃、UFOを目撃した主婦ジリアン(メリンダ・ディロン)は、UFOによってさらわれてしまった息子を探し内にロイと知り合います。自分の頭の中に刻まれたイメージを模型にしていた彼は、それがワイオミング州に実在するデビルスタワーという巨大な岩山であることを知ります。そのイメージが自分たちをそこへ導くためのサインであると考えたロイは、ジリアンとともにそこへ向かうことにします。
 しかし、彼らがそこに近づくとその地域一帯は疫病による危険のため立ち入り禁止地域になっていて、軍による厳しい管理下にありました。もちろん、彼らにはそれがでっち上げであることはわかっていました。ロイとジリアンは、同じようにそこに呼び寄せられた人々と共に岩山を登り始めます。すると、そこではフランス人のUFO学者(フランソワ・トリュフォー)を中心とする研究チームがUFOを迎えるための準備をしました。いよいよ人類と地球外生命体との接触の時がこようとしていました。

<追記>2016年3月31日
<「麗しき淑女」号の発見>
 この映画のオープニングで第二次世界大戦中の爆撃機が砂漠の真ん中で発見される場面があります。実際に同じように砂漠の真ん中で爆撃機が発見された事件がありました。
 1943年4月4日午後1時30分にイタリア、ナポリ近郊の飛行場を空爆するため25機のB-24リベレーター爆撃機が出撃しました。作戦終了後、編隊はリビア北部の港湾都市ベンガジの基地に戻りましたが、その中の一機「麗しの淑女」号だけはなぜか戻らず、行方不明のまま終戦を迎えます。
 それから16年後、1959年になってその機体がリビア砂漠の真ん中で発見され、周囲では何人かの遺体も発見されます。極端に乾燥した気候により、機体は墜落直後のまま残されていて、ポットの中にはコーヒーもそのまま残されていたといいます。
 墜落の原因は、天候不順と通信に間違いによる飛行方向の間違いによる燃料切れだったと思われます。

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