狂った二大国による「冷戦」の時代


- トルーマン、アイゼンハワー、ケネディとフルシチョフ、ヘンリー・ウォレス -

<1945年~1963年>
<狂った二大国の時代>
 1945年、第二次世界大戦は、世界中を破壊した後に終わりを迎えました。その中で唯一、国土に被害がなく、経済的に大きな利益を上げた国が、アメリカです。GNPと輸出額は戦前の二倍以上となり、工業生産も戦争中にもかかわらず年率で15%の成長率を保ち続けました。終戦の時点で、全世界の金の3分の2、総投資額の4分の3をアメリカが握り、商品とサービスの生産でも、アメリカは世界の50%を占めていました。
 そんな一人勝ち状態でありながら、アメリカはそうやって得た富が他国に奪われることを恐れ、新たな戦争への危機を生み出してゆくことになります。膨大な富を得ながら、その富によって正気を失ってしまった巨大国家アメリカ。その暴走に対抗するように急激に発展したソビエト連邦。二つの超大国が対立しながら、20世紀の世界史が作られてゆくことになります。
 「富」に狂った国と「権力」に狂った国、二つの大国が始めた「冷戦」は、今でこそ「冷戦」と呼ばれますが、それは「熱い戦争」になっても不思議のない危機的状況だったことが明らかになってきました。ここでは、オリバー・ストーンとピーター・カズニック共著による「もうひとつのアメリカ史 ケネディと世界存亡の危機」から、「冷戦」に関する部分を書き出し、まとめてみました。

<「鉄のカーテン」>
 「冷戦」を象徴する言葉として有名な「鉄のカーテン」は、1946年3月に英国首相ウィンストン・チャーチルが行ったアメリカミズーリ州フルトンでの演説で使われました。

・・・バルト海沿岸のシュテッティンからアドリア海沿岸のトリエステまで、大陸を横切って鉄のカーテンが下りています。・・・警察政府が勢力を振るっています。・・・多くの国で・・・共産党や第五列がキリスト教文明にとってしだいに厄介で危険な存在となってきました。・・・私はソ連が戦争を望んでいるとは思いません。ソ連が求めているのは戦争の果実であり、またソ連の力と政策の果てしない膨張です。

<「冷戦」の始まり>
 第二次世界大戦末、広島、長崎で原子爆弾を使用したアメリカは、1945年9月、対立するソ連に対し、核兵器を使って強気の外交を行い始めます。ソ連がまだ核兵器の開発に成功していなかったその時点で、アメリカは核兵器を切り札にしてソ連の支配下となった東欧諸国を開放させようと考えていました。当時、ヘンリー・スティットソン陸軍長官は、政府のそうした対ソ連政策は世界を再び危機に陥れかねないと進言しました。

 ロシアとの円満な関係は、原爆の問題とかかわっているだけでなく・・・事実上それに支配されており・・・われわれがこれ見よがしにそうした兵器を腰につけていれば、こちらの目的や動機について向こうは疑念と不信感を募らせることになります。・・・私が長い人生で学んだ最大の教訓は、誰かを信頼する存在にしたければ、最も確実な方法は相手を信頼せず不信感をあらわにすることなのです。
ヘンリー・スティットソン

 政府内のヘンリー・ウォレス商務長官もスティットソンのこの考えを支持しますが、政府は対立を深めるソ連に対し、強硬な姿勢を取り続けます。
 この後、ウォレスは核戦争一歩手前まで行くことになるアメリカ政府の強硬路線に歯止めをかけようと孤独な戦いを続けることになります。当時はまだアメリカには正気の政治家がごくわずかながら存在していました。その中の一人ヘンリー・ウォレスは孤独な戦いを展開しましたが、歯止めをかけることはできませんでした。
ヘンリー・ウォレスの孤独な戦い

<核戦争の狂気>
 1949年8月、ソ連がついに核実験に成功します。これでアメリカと対立する国もまた核兵器を持つことになり、世界を巻き込んだ「核戦争」の始まりが現実味を帯びることになります。「原子力科学者会報」は、世界終末時計の針を午前零時の7分前へと進め、核戦争の危機を世界中が知ることとなりました。

 1950年1月31日、トルーマンが水素爆弾の開発決定を発表します。その爆発力は、原爆をはるかにしのぐ破壊力を持つため、使用されれば軍隊だけでなく一般市民をも必ず巻き込むことになります。その発表に対し、科学者の間からも批判の声が上がることになりました。
「人間性そのものに対する脅威であり、どんな点に照らしても邪悪なもの」
エンリコ・フェルミ(物理学者)
「こうした取り組みが成功すれば、大気の放射能汚染と、それによる地球上のあらゆる生命の絶滅が、理論的にあらゆる範囲でもたらされるでしょう」
アルバート・アインシュタイン

 1950年12月、ノーベル文学賞受賞記念講演でウィリアム・フォークナーはこう語っています。
「現代の悲劇は、一つの身体的恐怖を誰もが共通して抱いていることです。あまりに長くその恐怖にさらされたので、我慢できるまでになってしまいます。精神的な問題はもはや存在しません。あるのは、いつ私は吹き飛ばされるのか、という疑問だけです」

 トルーマンの後継者となったアイゼンハワーは、原爆開発においてソ連をリードしていたことから何度も原子爆弾を切り札にソ連や中国との交渉に臨み、成果を上げたと言われます。この成功体験は、そのままこの後の大統領にも受け継がれます。1968年に当時の大統領リチャード・ニクソンは対ベトナム戦略についてこう語っています。

「私はそれを『狂人の理論』と呼んでいる。戦争をやめるためなら私は手段をいとわないということを、北ベトナム側の人々にわからせたい。こう言えばいい。『なんということだ、知っての通り、ニクソンは共産主義にひどくこだわっている。怒ったニクソンは止められない - そしてその手は、核兵器の発射ボタンの上にある』と。ホー・チ・ミンは二日以内に自分でパリに行って、講和条約の調印を懇願するだろう」
(実際、もしアメリカが原子爆弾をベトナムで使用していたとしても、ホー・チ・ミンは決して白旗を上げることはなかったでしょう。・・・)

 1954年春に戦略空軍が立てた計画によると、もし米ソの戦争が始まった場合は、ソ連を600発から750発の核爆弾で攻撃し、「2時間後には、煙が立ち上る、放射能で汚染された廃墟」に変えるとしていました。この計画では、118の主要都市で、人口の80%にあたる6000万人を殺害することになっていました。この年の終わりごろからは、アメリカはヨーロッパの同盟諸国に核兵器の配備を始めています。1958年までには約3000発の核兵器が西ヨーロッパに配備されます。それと同時にアメリカ国内の核兵器の備蓄数もまた急増。アイゼンハワー就任時には1000発をわずかに越える数だったのが、8年後の退任時には2万2000発にまで達していたのです。

 1954年3月1日、アメリカは新型の水素爆弾の実験を成功させます。(「ブラボー実験」)その威力は15メガトンで、広島を破壊した原子爆弾の1000倍の規模に相当。その爆発は予想の2倍の規模に達したため、マーシャル諸島の236人の島民と28人のアメリカ人が被爆。さらに日本のトロール船「第五福竜丸」の乗員23名も被爆し、1名は数か月後に死亡しました。

<まさかの広島原発!?>
 当時のアメリカの狂気を教えてくれる実にバカげた記録があります。
 イリノイ州選出のシドニー・イエーツ下院議員らが、初の原子力発電所を広島に建設する案を提出したというのです。1955年の初め、イエーツは、世界で初めての原子爆弾を投下されて10年足らずの広島に出力6万キロワットの原子力発電所を建設するという法案を提出したのです。アメリカの発想は、原爆の被害に対する補償のつもりだったようですが・・・あまりにも皮肉なアイデアです!
<「渚にて」の衝撃>
 核戦争の危機的状況は、少しづつアメリカ国民の意識を変えつつありました。1950年代も終わりになると、アンケート調査でアメリカ国民の63%は核実験の禁止に向けた国際的な運動を支持するようになっていました。そんな中、ネビル・シュートによる近未来SF「渚にて」が「ワシントン・タイムス」や「ロサンゼルス・タイムス」などでの連載を経て出版され、大きな反響を呼びます。
 4000発のコバルト爆弾が使用された37日間の核戦争後の世界。そこで生き延びていたのは、核兵器の被害を逃れることができた南半球オーストラリアに住む一部の人々だけでした。そのオーストラリアの大都市メルボルンに生きる人びとを描いたリアリズムに徹した核戦争後の世界は、世界中の人々に衝撃を与えました。
 ワシントン・ポストのアール・ブラウンは小説「渚にて」についてこう書いています。
「ネビル・シュートは、原子力時代に書かれた小説のなかでも最も重要かつ感動的な作品を書きあげた。・・・ネビル・シュートのこの作品を、礎石やタイムカプセルに入れてほしい。もしも将来、ハルマゲドンの核戦争が実際に起こったとき、私たちの世代が十分に承知の上で破滅への道をたどったことを、未来の人々が理解できるように。本書は鉄のカーテンの両側で読まれるべき小説である」

 あるパーティーでチャーチルが、友人たちにこの本をフルシチョフに贈ろうと言い出すと、その中の一人が「ならばアイゼンハワーにも贈らなければ・・・」と言いました。すると、チャーチルはそれに対してこう答えたと言います。
「それは金の無駄遣いだね。アイゼンハワーはいまではすっかり頭が混乱している。・・・地球はまもなく破壊されてしまうだろう。・・・」

 1959年12月、スタンリー・クレイマーが監督した映画「渚にて」が公開されました。アクションも、特撮もない地味な作品ですが、その静かな終末の描写は高い評価を受けることになりました。

「この映画の大きな功績は、娯楽映画として優れている点に加えて、結局のところ人類は救うに値するという点を、強い説得力とともに観る人に実感させたことである」
ニューヨーク・タイムズ(ボズリー・クラウザー)

 アメリカ政府はこの映画の影響を恐れ、米国文化情報局がこの作品の事実誤認を指摘する「想定問答集」を用意し、核廃絶のメッセージの間違いを指摘しようとしました。しかし、この作品は世界中でヒットし、核廃絶の運動に勢いをもたらすことになりました。
 映画の中で、科学者ジュリアン(フレッド・アステア)は、なぜ世界がこんなことになってしまったのか尋ねられ、こう答えました。

「・・・自殺行為を伴わず使用することが可能だと推定される兵器を使って自衛すれば平和を維持できるという、浅はかな考え方を人々が受け入れた時、戦争が始まったのだ。誰もが原子爆弾をもち、誰もが報復のための原子爆弾をもっていた。報復攻撃に報復するための原子爆弾だってもっていた。その原子爆弾が増えすぎて、われわれはそれに追いつけなくなってしまった。増えすぎた爆弾をわれわれは制御できなかった。たしかに私は、その製造に手を貸した。そして神が私に手を貸した。哀れな男がどこかでレーダー・スクリーンを監視していて、その画面上に何かを発見したと思った。もしも1000分の1秒でもためらったら、自分の地図上から消滅してしまう。だから・・・だから彼は、ボタンを押し、その結果、世界中が狂気に包まれた。そして、そして・・・・」

映画「渚にて ON THE BEACH」 1959年
(監)(製)スタンリー・クレイマー(「招かれざる客」「手錠のまゝの脱獄」では人種問題、「ニィールンベルグ裁判」では戦争犯罪と社会問題に関する作品が多いニューヨーク派の監督)
(原)ネビル・シュート
(脚)ジョン・パクストン、ジェームズ・リー・バレット
(撮)ジュゼッペ・ロトゥンノ、ダニエル・ファップ(ルキノ・ヴィスコンティ作品などのカメラマン、ジュゼッペ・ロトウゥンノによるクールな映像が印象的です)
(音)アーネスト・ゴールド
(出)グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンス
<なぜ原爆なのか?>
 アメリカは、1959年から1961年までの間だけで19500発の核爆弾を製造しました。(一日当たり75発!)1960年時点でアメリカはヒロシマ型原爆136万発分を所有していたことになります。なぜこんなに多くの核兵器を?
 それについて、リチャード・ローズはこう説明しています。
「核弾頭の製造コストは、一発につき25万ドルであり、戦闘爆撃機一機の値段よりも安かった。ミサイル一発、哨戒艇一隻、戦車一台よりも安かった」
(軍事予算削減のための核兵器とは!狂ってます)

<多すぎた核のボタン>
 映画などで、アメリカの大統領が核攻撃を指示するためのボタンに手をかけるシーンはけっこうあります。大統領だけがもつその最後の「核のボタン」に人類の運命が・・・という緊張の場面です。でも、それが実はいくつもあって、何人もの担当者がいたとしたら・・・

 アイゼンハワーは戦域司令官や他の特定の司令官に、攻撃が必要な状況で大統領と連絡困難な場合、核攻撃開始の判断を委任していた。
 さらに複数の戦域司令官は同じ条件の場合にその権限をさらに下の司令官に委任していた。少なくとも数十人の軍人が核兵器のボタンをもたされていたわけです。そして、それらの兵器に安全装置はなくボタンひとつで攻撃が始まる可能性が十分にありました。

(その後も潜水艦に搭載された核ミサイルには1980年まで安全装置はありませんでした)

 多くの軍人とその家族は、核のボタンに近い人々ほど、その危機的状況によって精神的に追い込まれていたのかもしれません。
 1961年8月ごろ、国防情報局長ジョセフ・キャロルの息子ジェームズ・キャロルは父親とドライブ中にこう語りかけられました。
「ちょっと言っておきたいことがある。一度しか言わないし、質問は受け付けない。いいか、おまえは新聞を読んでいるから、ベルリンでいま、何が起きているか知っているはずだ。先週、爆撃機が迎撃された。これから何日か、帰宅できない日があるかもしれない。私はある場所に行かなければならなくなるかもしれない。空軍の幹部全員がそこに行くことになるだろう。もしもそうなったら、私の代わりに母さんと兄弟のことを頼む」
「それはどういうこと?」
「母さんが知っている。でも、おまえにも知っておいてほしい。家族全員を車に乗せて、とにかく南をめざすんだ。・・・できるだけ遠くまで車を走らせなさい」。
 父はそれ以上、何も言わなかった。

ジェームズ・キャロルの回想録「アメリカの鎮魂歌 - 神、わが父、私たちを引き裂いた戦争」より

 1961年の夏から秋のあいだにアメリカ国民は正気を失ってしまったように見えたかもしれない。8月、「タイム」誌が「隣人を銃撃せよ」と題する記事を掲載し、その中でシカゴ郊外で暮らす男性の言葉を引用した。
「自宅のシェルターが完成したら、核爆弾が落ちたときに隣人がそのシェルターに入り込まないように、シェルターのハッチにマシンガンを設置するつもりだ。冗談ではなく、本気でそう考えている。愚かなアメリカ人は自分たちを救うためにやるべきことをやらないのなら、自分の家族を守るために苦労して設置したシェルターが使えなくなるようなリスクを冒すつもりはない」
 核戦争後の近未来を描いたSF映画で、生き残った人々が食料を奪い合うように人々は本気で、そうなった場合のことを考えていたのです!アメリカ国民全体が狂気とはいわなくても強迫症に追い込まれていたことは確かなようです。

<狂気を生み出した真実の隠ぺい>
 アメリカ国民を精神的に追い込んでいたのは、政府による真実の隠ぺいだったのかもしれません。なぜなら、米ソの核兵器の保有数は圧倒的にアメリカ有利だったのですから。アメリカ政府は、自分たちが有利であることをわざと隠し、国民の不安を煽ることで軍事予算を思い通りに増やしていったのです。
 1960年代に入り、当時の国防長官マクナマラは、アメリカが「ソ連の数倍の核戦力」を有していることを公式に認めました。ただし、数倍というのは控えめな表現でした。当時アメリカが保有していたICBMはおよそ45基。それに対してソ連の保有数はたったの4基であり、アメリカの攻撃に対して無力といえるような数だったのです。
 そして、核爆弾を運ぶ重爆撃機の数はソ連の192機に対し、アメリカは1500機以上。総計すると、アメリカは約25000の核兵器を保有し、ソ連はその10分の1にすぎなかったということになります。そのことが明らかになってもなお、アメリカは軍備の増強をやめなかったのです。
 国民を巻き込んだ「アメリカの狂気」が、核兵器増産競争を生み出したのではありません。それをやめさせない強力な圧力団体が存在していたからと考えるべきです。それこそが、後に「軍産複合体」と呼ばれるようになる強大な企業グループです。

<軍産複合体の誕生>
 「冷戦」は、二つの超大国に軍備の拡大を続けさせることになり、そのおかげで軍需産業が大幅な成長を遂げ、巨大な軍産複合体を誕生させることになります。そのことが明らかになったのは、1960年代に入ってからのことでした。当時、アメリカの国家予算は810億ドルでしたが、その59%が軍事費で、ペンタゴンは320億ドル相当の不動産を管理していたということです。

 1960年末に行われたアイゼンハワーの大統領退任演説で、彼はその後のアメリカの危機を招くことになる「軍産複合体」の危険性について指摘しています。
「巨大な軍隊と大規模な軍需産業の結びつきは、アメリカの歴史上、かつてない経験です。経済的、政治的、さらには精神的な影響が、わが国のいたるところで感じられます。国中の都市、州議会、連邦政府オフィス・・・。私たちはその重大な意味を正確に理解しなければなりません。これはアメリカ国民の労苦や資源や暮しのすべてが影響を受ける問題です。つまり、われわれの社会の根幹にかかわっている問題なのです。政府の委員会等において、それが意図されたものであろうとあんかろうと、軍産複合体が不当な影響力を獲得しないよう気をつけなければなりません。・・・
 この軍産複合体の影響力が、私たちの自由や民主主義のプロセスを決して危険にさらすことのないようにしなければなりません。・・・」

 この演説は当時、それほど大きな反響はなかったようですが、今やこの予言が当たっていたことは明らかです。
<本当の「キューバ危機」の瞬間>
 1962年、アメリカ大統領ケネディは、カストロ打倒ための「マングース作戦」にゴーサインを出します。CIAの工作員がキューバ人たちを動かし、スパイ活動、破壊活動などを行ってキューバ国内を混乱させ、それによって経済的にもキューバを危機に追い込みます。そして国内が混沌とした状態になったところで、クーデターを起こし、その中で暗殺者によるカストロ暗殺作戦を実行。後は、その混乱を収めるという名目で国連平和維持軍としてアメリカ軍が軍事介入するというシナリオでした。
 その作戦を始めるきっかけとして、様々な案が出されたようです。例えば、マーキュリー宇宙船(ジョン・グレンが搭乗した)による地球の周回飛行が失敗した場合、それをキューバによる電波妨害として攻撃を開始するというもの。その作戦は「ダーティー・トリック作戦」と名づけられていたようですが、有りもしない核兵器を理由に攻め込んだイラク戦争と一緒です。
 それとも、キューバの共産党政権から逃れようとフロリダへと向かう難民船を攻撃し沈没させ、それをキューバ軍のせいにする。キューバ人テロリストによるアメリカの民間航空機ハイジャック事件や民間航空機の撃墜事件をでっち上げる。様々なアイデアが出されていました。もしかすると、その案の中にはニューヨークをハイジャックした飛行機で攻撃するというアイデアがあったかもしれません。
 1962年10月27日、キューバに核ミサイル持ち込もうとしたソ連とアメリカの間で核戦争の危機が迫った「キューバ危機」。その一連の危機的状況の中、最も危険な瞬間がこの日に訪れたのでした。
 米国海軍の駆逐艦がキューバへの向かう船舶を護衛していたソ連海軍の潜水艦B-59への爆雷攻撃を実施。恐ろしいことに、米軍はその潜水艦が核兵器を積んでいることを知りませんでした。そして爆雷の一つが潜水艦のすぐそばで爆発。潜水艦の艦内は突如停電となります。気温が上昇しただけでなく、二酸化炭素濃度の急激に上昇し、乗員が次々に酸欠により気絶し始めます。4時間近くそんな状況が続く中、船内はパニック状態となり、司令部への連絡もできませんでした。潜水艦のバレンチン・サビツキー艦長は、沈み始める前に報復攻撃を行おうと核魚雷の発射準備を指示しました。しかし、この時、ワシーリー・アルヒポフという将校が魚雷の発射を中止させます。結局、潜水艦は機能を回復し、無事に帰還することができ、世界の危機は誰も知らぬ間に回避されたのでした。
 ありがとう!ワシーリー!

 この「キューバ危機」においては、ケネディよりもフルシチョフの決断の方が勇気が必要だったのかもしれません。なぜなら、最終的にはケネディではなくフルシチョフの方が譲歩することでこの危機は回避されているからです。彼はロバート・ケネディからこう警告を受けていたといいます。
「大統領自身は、キューバをめぐって戦争を始めることに大きく反対していますが、大統領の思いに反して、後戻りがきかない一連の出来事が続く可能性があります。・・・もしもこの状況が長引けば、軍部が彼を大統領の座から引き下ろし、みずから権力を握らないともいえないと、大統領は心配しています。アメリカ陸軍が制御不能の暴走を始める可能性が否定できません」

 幸か不幸か、フルシチョフは1953年に核兵器に関する最初の説明を受けた際、数日の間眠れない日々を送った経験があり、面目を保つだけのために数億人の命を犠牲にすることに価値はないと考えていました。彼は、ケネディよりもずっと正気な精神状態を保っていたのです。さらに幸いなことに、ケネディもまた核戦争を始めたかったわけではなかったのでしょう。最後の最後にまともな精神状態の人に判断を任されたことで、人類はかろうじて救われたのかもしれません。
 当時、フルシチョフは潜水艦によって核弾頭をキューバに配備していた事実を公表していませんでした。その他にも戦術巡行ミサイル、弾道ミサイルも配備していたのですが、それも秘密のままでした。そのことが、ソ連の核抑止力を弱め、ケネディに強気の発言をさせる一因になったと言われます。
 逆に当時の国務長官マクナマラは、30年後にソ連軍がすでに核兵器や巡行ミサイルを配備していたことを知り、そうだったとすればアメリカ側には10万人の犠牲者が出ていただろうと概算。それでもアメリカの反撃は開始されることになり、双方で数億人の犠牲者が出たと推測しています。
 さらに当時沖縄では、1.1メガトンの核弾頭を配備したミサイル(地対地誘導核ミサイル)と水素爆弾を搭載したF100戦闘爆撃機が、臨戦体制に入っていたことも明らかになっています。そして、その攻撃目標となっていたのは、ソ連ではなく中国でした。したがって、もし、米ソ間の戦争が始まっていたら、それはそのまま米中戦争に発展、再び世界大戦が始まっていた可能性もあったのです。当然、基地のある日本も戦争に巻き込まれていたでしょう。

<フルシチョフの退場とケネディの死>
 フルシチョフは節度ある態度ゆえに中傷を受けることになりました。中国からはアメリカの要求に屈服したとして臆病者のレッテルを貼られ、ソ連の政府高官からは「恐怖のあまりお漏らしした」と言い広められました。
 それだけではありません。アメリカの政府高官の多くは戦争に対するアメリカの積極性がソ連を譲歩に導いたと思い込み、ベトナムを含めて他の場所においても、強力な戦力が効力を発するという結論を導いたのです。
 一方、ソ連は反対の教訓を引き出していました。恥をかいたり、弱さが原因で降伏することが二度とないよう決意するとともに、アメリカと同等の立場に立てるよう、核兵器の大幅な増強を開始することになります。そして、キューバ危機によって権力基盤が弱まったフルシチョフは、翌年、権力の中枢から追い落とされることになりました。
 1963年9月24日、投票の結果、80対19で部分的核実験禁止条約がアメリカの上院を通過しました。ケネディはこの時、大統領となって最高の満足を感じていたと言われています。そのことを証明するように、「原子力科学者会報」の編集者は、この記念碑的な成果を認め「地球最後の日の時計」の針を午前零時12分前まで戻しました。(一時は3分前まで進んでいました)
 フルシチョフとの対話の後、ケネディは軍縮、和平へと大きく舵を切る決意をかためましたが、それは彼がアメリカ国内に巨大な敵を生み出す原因ともなりました。フルシチョフは権力を失っただけで済みましたが、ケネディはその後2月後の11月22日テキサス州ダラスでのパレードの最中に暗殺されてしまい、命すら失ってしまいます。
 ケネディの葬儀に出席したソ連のアナスタシア・ミコヤン第一副首相にケネディの妻ジャクリーンは、こう話しかけたといいます。
「夫は死にました。今後、平和が訪れるかどうかはあなたがたにかかっています」

<宇宙戦争という狂気>
 米ソの冷戦は、地球上を離れ大気圏外、宇宙でも始まろうとしていました。いち早く宇宙にロケットを打ち上げたソ連は、1957年11月3日人工衛星スプートニク2号の打ち上げに成功しました。(ライカ犬が登場していました)その祝賀の席でフルシチョフは西側諸国に向けてメッセージを発表します。

「我々が打ち上げた人工衛星は・・・アメリカやそのほかの国の衛星がその後に続き、人工衛星の「星団」のようなものが形成されるのを待ち望んでいる。それを実現させるのは・・・説人兵器の製造を競うよりも重要なことだ。・・・私は資本主義国家と社会主義国家の代表者が集う首脳会議を提案したい・・・諸般の紛争を解決するために、国際問題解決の一手段として戦争という行為を放棄することで合意に達し、冷戦を終わらせるとともに、共存に基づく関係を構築する・・・文化および人間の欲求と必要が最大限に満たされるためには、平和的競争という手段を用いることが必要だ。・・・」

 ロケットの技術において、アメリカは完全に遅れを取り、ソ連から上から目線で握手を求められたのです。屈辱的な立場に追い込まれたアメリカは、この後ケネディ政権の下で宇宙開発においても巨額の費用を投じソ連を追い越すことになります。 


<赤狩りの狂気>
 1950年代にアメリカを巻き込んだ「赤狩り」によって、政治信条を疑われて収監されたのは数百人程度ですが、そのことで職を失った人は12000人をこえたといわれます。港湾労働者と船員だけでも3000人近い人が解雇されました。これによってほとんどの共産主義者が追放されてしまったため、それ以後、現代に至るまでアメリカにおける労働組合の力は弱いままです。(アメリカにおける貧富の差が大きい要因の一つはここにもあります)
 さらに非米活動委員会は、ハリウッドの映画人を見せしめにしようと調査を開始。映画人212人の人物をブラックリストに載せ、そのほとんどが映画界での職を失うことになりました。さらに110名の映画人が委員会に召喚され、58人がブラックリスト入りを逃れるため仲間の名前を密告。大量の粛清に入り、映画界全体が多くの人材を失うことになり、ハリウッド映画の黄金期の終わりを早めることになります。ある意味、この事件がニューシネマの若手映画人の登場を導くことにもなりました。
 あまり語られることがありませんが、「赤狩り」の時代、共産主義者が職を追われたのと同じように、「同性愛者」に対しても差別と粛清が行われています。
 歴史学者デヴィッド・ジョンソンの推算では、冷戦初期に職を失った連邦政府職員は5000人に上る可能性があるという。1953年にドナルド・B・ラウリー国務次官は、議会の委員会の場で、同性愛の解雇は国務省だけでも「ほぼ一日に一人」というペースで進んでいると話した。
 こうした数字は、「同性愛者狩り」による解雇者の一部にすぎない。世間体への配慮からか、解雇の理由を記録に残さないケースもあった。同性愛者であることが明るみに出る前に、自ら退職を選んだ人もいた。・・・ 


<朝鮮戦争における狂気>
 1950年6月、北朝鮮による韓国侵攻に対し、アメリカは数万人規模の軍隊を派遣します。アメリカは、ソ連がボイコットしていた国連安全保障理事会で国連軍(実質アメリカ軍)の派遣についての決議案を採決させます。この時、ある記者がトルーマンに対して「これを国連による治安維持活動と呼ぶことは可能なのですか?」と質問。
 トルーマンは、その後アメリカ軍による海外派兵のことを「治安維持活動」と呼ぶことになります。さらにこの時、トルーマンは議会の承認を得ずに軍隊を派遣していて、その後もアメリカの大統領は議会の承認なしに派遣することになります。
 1955年11月24日、マッカーサーは大規模な攻撃を開始。ところが、それに対して数十万人の中国兵が突如、鴨緑江を越えて侵攻。アメリカ軍(国連軍)はその多勢に圧倒され壊滅的敗北を喫します。オマール・ブラッドレー元帥は、その敗北を「アメリカの歴史上最大の軍事的失敗」といいました。
 アメリカ軍はこのままでじゃ地上戦によって多くの犠牲者が出ると考え、より簡単により安全により安価に戦争を終わらせるため、再び原爆の使用を考え始めます。マッカーサー最高司令官は、1950年12月9日、自らの判断で原子爆弾を使用できる権限を与えるよう政府に要請しました。また12月24日には、原子爆弾の投下地点26か所のリストを提出しました。・・・
 30発から50発の原子爆弾を「満州と接する地域全体」に投下すれば、「放射線コバルトの帯」を作り出すことができ、10日間以内に戦争に勝てるというのが、マッカーサーの計算だった。その放射線コバルト地帯は、「日本海から黄海まで」広がる。そうなれば、「少なくとも60年間は、北から韓国への地上侵攻は起こらないだろう」とマッカーサーは考えていたのである。
 大統領であるトルーマンの指示を無視して、中国に対し1951年3月24日マッカーサーは中国軍の撤退を求めて最後通告を発表。原爆の使用準備を進めます。こうした単独行動に怒ったトルーマンはマッカーサーを解任してしまいます。
 ただし、マッカーサーの人気は高く(日本でも)。帰国した彼はニューヨークでパレードを行い750万人に迎えられます。そして、上下両院合同本会議の場で歴史に残る別れの挨拶を述べました。
「私は主戦論者と言われてきました。これほど事実から遠いことはほかにありません。私は戦争について、誰よりもよく知っています。そして戦争は私にとって、何よりも嫌悪すべきものです。私は長年にわたり、戦争の完全な撲滅を訴えてきました。それは敵と味方の両方をひどく破壊するものであり、国際紛争の解決手段としての機能を失っているからです。私がウエストポイントで兵士になるための宣誓を行って以来、世界はなんども大きく変化してきました。しかし私は、その当時、兵士らのあいだで最も人気があったバラードの一節を今でも覚えています。それは誇り高く歌い上げます - 「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と。このバラードの老兵のように、私は今、軍での仕事を終え、ただ消え去ろうとしています。老兵が任務を果たそうとしたのは、神がその任務を光で照らしてくれたからです。さようなら」

 「老兵は死なず」というバラードの著作権も所有していたレミック・ミュージック・コーポレーションはあわてて楽譜を5万部増刷。歌手で俳優のシーン・オートリーはすぐにこの曲を録音し、2万5千枚のレコードを売りました。カントリー歌手のレッド・フォーリー、ジャズ・シンガーのハーブ・ジェフリーズ、バリトン歌手ヴォーン・モンロー、カントリー&ウエスタンのジミー・ウェイクリー、大物歌手のビング・クロスビーらがレコードを発売。そして、マッカーサー本人の演説も録音されていて、そのレコードが発売され、それもヒットを記録しています。
 この朝鮮戦争では、日本への攻撃と同じように一般市民も攻撃の対象となり、第二次世界大戦では使用されなかったナパーム弾も使用され、その被害をより大きなものにしました。「ニューヨーク・タイムズ」の記者ジョージ・バレットは安陽市の被害を目にしてこう書き送っています。
「村や田畑のあちこちで、ナパーム弾の爆撃を受けた住民がそのままの姿勢で死んでいる。自転車に乗ろうとしている男性、児童養護施設で遊ぶ50人の男の子と女の子。ある主婦には、不思議なことに傷跡ひとつなかった。その手には、シアーズ・ローバックのカタログから切り抜いたページが握られていて、そこには、3811294というメール・オーダーの番号がクレヨンで書いてあった。それは2ドル98セントの魅力的なベッド・ジャケット - コーラル色」の番号だった。」
 韓国では、この戦争において総人口3000万人のうち、300万から400万人が命を落とし、中国兵も100万人、アメリカ兵が3万7000人死んだと言われます。 

 ケネディの死後、幸にして米ソの冷戦は「キューバ危機」ほどの危険な状況になりませんでした。その代わり、米ソは直接戦わずに第三世界の様々な地域で代理戦争を展開するようになります。朝鮮戦争は、その最初の本格的な代理戦争でした。そして、その戦争は結局、両者の痛み分けで終わります。ある意味、それは超大国アメリカにとっては屈辱的な結果だったともいえます。しかし、その後、アメリカは朝鮮戦争以上に屈辱的な戦争に巻き込まれます。それがアメリカにとって、歴史上初の敗戦となるベトナム戦争です。

「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史(2) ケネディと世界存亡の危機」 2012年
The Untold History of the United States
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone 、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)金子浩、柴田裕之、夏目大
早川書房

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