<核戦争の狂気>
1949年8月、ソ連がついに核実験に成功します。これでアメリカと対立する国もまた核兵器を持つことになり、世界を巻き込んだ「核戦争」の始まりが現実味を帯びることになります。「原子力科学者会報」は、世界終末時計の針を午前零時の7分前へと進め、核戦争の危機を世界中が知ることとなりました。
1950年1月31日、トルーマンが水素爆弾の開発決定を発表します。その爆発力は、原爆をはるかにしのぐ破壊力を持つため、使用されれば軍隊だけでなく一般市民をも必ず巻き込むことになります。その発表に対し、科学者の間からも批判の声が上がることになりました。
「人間性そのものに対する脅威であり、どんな点に照らしても邪悪なもの」
エンリコ・フェルミ(物理学者)
「こうした取り組みが成功すれば、大気の放射能汚染と、それによる地球上のあらゆる生命の絶滅が、理論的にあらゆる範囲でもたらされるでしょう」
アルバート・アインシュタイン
1950年12月、ノーベル文学賞受賞記念講演でウィリアム・フォークナーはこう語っています。
「現代の悲劇は、一つの身体的恐怖を誰もが共通して抱いていることです。あまりに長くその恐怖にさらされたので、我慢できるまでになってしまいます。精神的な問題はもはや存在しません。あるのは、いつ私は吹き飛ばされるのか、という疑問だけです」
トルーマンの後継者となったアイゼンハワーは、原爆開発においてソ連をリードしていたことから何度も原子爆弾を切り札にソ連や中国との交渉に臨み、成果を上げたと言われます。この成功体験は、そのままこの後の大統領にも受け継がれます。1968年に当時の大統領リチャード・ニクソンは対ベトナム戦略についてこう語っています。
「私はそれを『狂人の理論』と呼んでいる。戦争をやめるためなら私は手段をいとわないということを、北ベトナム側の人々にわからせたい。こう言えばいい。『なんということだ、知っての通り、ニクソンは共産主義にひどくこだわっている。怒ったニクソンは止められない - そしてその手は、核兵器の発射ボタンの上にある』と。ホー・チ・ミンは二日以内に自分でパリに行って、講和条約の調印を懇願するだろう」。
(実際、もしアメリカが原子爆弾をベトナムで使用していたとしても、ホー・チ・ミンは決して白旗を上げることはなかったでしょう。・・・)
1954年春に戦略空軍が立てた計画によると、もし米ソの戦争が始まった場合は、ソ連を600発から750発の核爆弾で攻撃し、「2時間後には、煙が立ち上る、放射能で汚染された廃墟」に変えるとしていました。この計画では、118の主要都市で、人口の80%にあたる6000万人を殺害することになっていました。この年の終わりごろからは、アメリカはヨーロッパの同盟諸国に核兵器の配備を始めています。1958年までには約3000発の核兵器が西ヨーロッパに配備されます。それと同時にアメリカ国内の核兵器の備蓄数もまた急増。アイゼンハワー就任時には1000発をわずかに越える数だったのが、8年後の退任時には2万2000発にまで達していたのです。
1954年3月1日、アメリカは新型の水素爆弾の実験を成功させます。(「ブラボー実験」)その威力は15メガトンで、広島を破壊した原子爆弾の1000倍の規模に相当。その爆発は予想の2倍の規模に達したため、マーシャル諸島の236人の島民と28人のアメリカ人が被爆。さらに日本のトロール船「第五福竜丸」の乗員23名も被爆し、1名は数か月後に死亡しました。
<まさかの広島原発!?>
当時のアメリカの狂気を教えてくれる実にバカげた記録があります。
イリノイ州選出のシドニー・イエーツ下院議員らが、初の原子力発電所を広島に建設する案を提出したというのです。1955年の初め、イエーツは、世界で初めての原子爆弾を投下されて10年足らずの広島に出力6万キロワットの原子力発電所を建設するという法案を提出したのです。アメリカの発想は、原爆の被害に対する補償のつもりだったようですが・・・あまりにも皮肉なアイデアです! |
<「渚にて」の衝撃>
核戦争の危機的状況は、少しづつアメリカ国民の意識を変えつつありました。1950年代も終わりになると、アンケート調査でアメリカ国民の63%は核実験の禁止に向けた国際的な運動を支持するようになっていました。そんな中、ネビル・シュートによる近未来SF「渚にて」が「ワシントン・タイムス」や「ロサンゼルス・タイムス」などでの連載を経て出版され、大きな反響を呼びます。
4000発のコバルト爆弾が使用された37日間の核戦争後の世界。そこで生き延びていたのは、核兵器の被害を逃れることができた南半球オーストラリアに住む一部の人々だけでした。そのオーストラリアの大都市メルボルンに生きる人びとを描いたリアリズムに徹した核戦争後の世界は、世界中の人々に衝撃を与えました。
ワシントン・ポストのアール・ブラウンは小説「渚にて」についてこう書いています。
「ネビル・シュートは、原子力時代に書かれた小説のなかでも最も重要かつ感動的な作品を書きあげた。・・・ネビル・シュートのこの作品を、礎石やタイムカプセルに入れてほしい。もしも将来、ハルマゲドンの核戦争が実際に起こったとき、私たちの世代が十分に承知の上で破滅への道をたどったことを、未来の人々が理解できるように。本書は鉄のカーテンの両側で読まれるべき小説である」
あるパーティーでチャーチルが、友人たちにこの本をフルシチョフに贈ろうと言い出すと、その中の一人が「ならばアイゼンハワーにも贈らなければ・・・」と言いました。すると、チャーチルはそれに対してこう答えたと言います。
「それは金の無駄遣いだね。アイゼンハワーはいまではすっかり頭が混乱している。・・・地球はまもなく破壊されてしまうだろう。・・・」
1959年12月、スタンリー・クレイマーが監督した映画「渚にて」が公開されました。アクションも、特撮もない地味な作品ですが、その静かな終末の描写は高い評価を受けることになりました。
「この映画の大きな功績は、娯楽映画として優れている点に加えて、結局のところ人類は救うに値するという点を、強い説得力とともに観る人に実感させたことである」
ニューヨーク・タイムズ(ボズリー・クラウザー)
アメリカ政府はこの映画の影響を恐れ、米国文化情報局がこの作品の事実誤認を指摘する「想定問答集」を用意し、核廃絶のメッセージの間違いを指摘しようとしました。しかし、この作品は世界中でヒットし、核廃絶の運動に勢いをもたらすことになりました。
映画の中で、科学者ジュリアン(フレッド・アステア)は、なぜ世界がこんなことになってしまったのか尋ねられ、こう答えました。
「・・・自殺行為を伴わず使用することが可能だと推定される兵器を使って自衛すれば平和を維持できるという、浅はかな考え方を人々が受け入れた時、戦争が始まったのだ。誰もが原子爆弾をもち、誰もが報復のための原子爆弾をもっていた。報復攻撃に報復するための原子爆弾だってもっていた。その原子爆弾が増えすぎて、われわれはそれに追いつけなくなってしまった。増えすぎた爆弾をわれわれは制御できなかった。たしかに私は、その製造に手を貸した。そして神が私に手を貸した。哀れな男がどこかでレーダー・スクリーンを監視していて、その画面上に何かを発見したと思った。もしも1000分の1秒でもためらったら、自分の地図上から消滅してしまう。だから・・・だから彼は、ボタンを押し、その結果、世界中が狂気に包まれた。そして、そして・・・・」
映画「渚にて ON THE BEACH」 1959年
(監)(製)スタンリー・クレイマー(「招かれざる客」「手錠のまゝの脱獄」では人種問題、「ニィールンベルグ裁判」では戦争犯罪と社会問題に関する作品が多いニューヨーク派の監督)
(原)ネビル・シュート
(脚)ジョン・パクストン、ジェームズ・リー・バレット
(撮)ジュゼッペ・ロトゥンノ、ダニエル・ファップ(ルキノ・ヴィスコンティ作品などのカメラマン、ジュゼッペ・ロトウゥンノによるクールな映像が印象的です)
(音)アーネスト・ゴールド
(出)グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンス |
<なぜ原爆なのか?>
アメリカは、1959年から1961年までの間だけで19500発の核爆弾を製造しました。(一日当たり75発!)1960年時点でアメリカはヒロシマ型原爆136万発分を所有していたことになります。なぜこんなに多くの核兵器を?
それについて、リチャード・ローズはこう説明しています。
「核弾頭の製造コストは、一発につき25万ドルであり、戦闘爆撃機一機の値段よりも安かった。ミサイル一発、哨戒艇一隻、戦車一台よりも安かった」
(軍事予算削減のための核兵器とは!狂ってます)
<多すぎた核のボタン>
映画などで、アメリカの大統領が核攻撃を指示するためのボタンに手をかけるシーンはけっこうあります。大統領だけがもつその最後の「核のボタン」に人類の運命が・・・という緊張の場面です。でも、それが実はいくつもあって、何人もの担当者がいたとしたら・・・
アイゼンハワーは戦域司令官や他の特定の司令官に、攻撃が必要な状況で大統領と連絡困難な場合、核攻撃開始の判断を委任していた。
さらに複数の戦域司令官は同じ条件の場合にその権限をさらに下の司令官に委任していた。少なくとも数十人の軍人が核兵器のボタンをもたされていたわけです。そして、それらの兵器に安全装置はなくボタンひとつで攻撃が始まる可能性が十分にありました。
(その後も潜水艦に搭載された核ミサイルには1980年まで安全装置はありませんでした)
多くの軍人とその家族は、核のボタンに近い人々ほど、その危機的状況によって精神的に追い込まれていたのかもしれません。
1961年8月ごろ、国防情報局長ジョセフ・キャロルの息子ジェームズ・キャロルは父親とドライブ中にこう語りかけられました。
「ちょっと言っておきたいことがある。一度しか言わないし、質問は受け付けない。いいか、おまえは新聞を読んでいるから、ベルリンでいま、何が起きているか知っているはずだ。先週、爆撃機が迎撃された。これから何日か、帰宅できない日があるかもしれない。私はある場所に行かなければならなくなるかもしれない。空軍の幹部全員がそこに行くことになるだろう。もしもそうなったら、私の代わりに母さんと兄弟のことを頼む」
「それはどういうこと?」
「母さんが知っている。でも、おまえにも知っておいてほしい。家族全員を車に乗せて、とにかく南をめざすんだ。・・・できるだけ遠くまで車を走らせなさい」。
父はそれ以上、何も言わなかった。
ジェームズ・キャロルの回想録「アメリカの鎮魂歌 - 神、わが父、私たちを引き裂いた戦争」より
1961年の夏から秋のあいだにアメリカ国民は正気を失ってしまったように見えたかもしれない。8月、「タイム」誌が「隣人を銃撃せよ」と題する記事を掲載し、その中でシカゴ郊外で暮らす男性の言葉を引用した。
「自宅のシェルターが完成したら、核爆弾が落ちたときに隣人がそのシェルターに入り込まないように、シェルターのハッチにマシンガンを設置するつもりだ。冗談ではなく、本気でそう考えている。愚かなアメリカ人は自分たちを救うためにやるべきことをやらないのなら、自分の家族を守るために苦労して設置したシェルターが使えなくなるようなリスクを冒すつもりはない」
核戦争後の近未来を描いたSF映画で、生き残った人々が食料を奪い合うように人々は本気で、そうなった場合のことを考えていたのです!アメリカ国民全体が狂気とはいわなくても強迫症に追い込まれていたことは確かなようです。
<狂気を生み出した真実の隠ぺい>
アメリカ国民を精神的に追い込んでいたのは、政府による真実の隠ぺいだったのかもしれません。なぜなら、米ソの核兵器の保有数は圧倒的にアメリカ有利だったのですから。アメリカ政府は、自分たちが有利であることをわざと隠し、国民の不安を煽ることで軍事予算を思い通りに増やしていったのです。
1960年代に入り、当時の国防長官マクナマラは、アメリカが「ソ連の数倍の核戦力」を有していることを公式に認めました。ただし、数倍というのは控えめな表現でした。当時アメリカが保有していたICBMはおよそ45基。それに対してソ連の保有数はたったの4基であり、アメリカの攻撃に対して無力といえるような数だったのです。
そして、核爆弾を運ぶ重爆撃機の数はソ連の192機に対し、アメリカは1500機以上。総計すると、アメリカは約25000の核兵器を保有し、ソ連はその10分の1にすぎなかったということになります。そのことが明らかになってもなお、アメリカは軍備の増強をやめなかったのです。
国民を巻き込んだ「アメリカの狂気」が、核兵器増産競争を生み出したのではありません。それをやめさせない強力な圧力団体が存在していたからと考えるべきです。それこそが、後に「軍産複合体」と呼ばれるようになる強大な企業グループです。
<軍産複合体の誕生>
「冷戦」は、二つの超大国に軍備の拡大を続けさせることになり、そのおかげで軍需産業が大幅な成長を遂げ、巨大な軍産複合体を誕生させることになります。そのことが明らかになったのは、1960年代に入ってからのことでした。当時、アメリカの国家予算は810億ドルでしたが、その59%が軍事費で、ペンタゴンは320億ドル相当の不動産を管理していたということです。
1960年末に行われたアイゼンハワーの大統領退任演説で、彼はその後のアメリカの危機を招くことになる「軍産複合体」の危険性について指摘しています。
「巨大な軍隊と大規模な軍需産業の結びつきは、アメリカの歴史上、かつてない経験です。経済的、政治的、さらには精神的な影響が、わが国のいたるところで感じられます。国中の都市、州議会、連邦政府オフィス・・・。私たちはその重大な意味を正確に理解しなければなりません。これはアメリカ国民の労苦や資源や暮しのすべてが影響を受ける問題です。つまり、われわれの社会の根幹にかかわっている問題なのです。政府の委員会等において、それが意図されたものであろうとあんかろうと、軍産複合体が不当な影響力を獲得しないよう気をつけなければなりません。・・・
この軍産複合体の影響力が、私たちの自由や民主主義のプロセスを決して危険にさらすことのないようにしなければなりません。・・・」
この演説は当時、それほど大きな反響はなかったようですが、今やこの予言が当たっていたことは明らかです。
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<本当の「キューバ危機」の瞬間>
1962年、アメリカ大統領ケネディは、カストロ打倒ための「マングース作戦」にゴーサインを出します。CIAの工作員がキューバ人たちを動かし、スパイ活動、破壊活動などを行ってキューバ国内を混乱させ、それによって経済的にもキューバを危機に追い込みます。そして国内が混沌とした状態になったところで、クーデターを起こし、その中で暗殺者によるカストロ暗殺作戦を実行。後は、その混乱を収めるという名目で国連平和維持軍としてアメリカ軍が軍事介入するというシナリオでした。
その作戦を始めるきっかけとして、様々な案が出されたようです。例えば、マーキュリー宇宙船(ジョン・グレンが搭乗した)による地球の周回飛行が失敗した場合、それをキューバによる電波妨害として攻撃を開始するというもの。その作戦は「ダーティー・トリック作戦」と名づけられていたようですが、有りもしない核兵器を理由に攻め込んだイラク戦争と一緒です。
それとも、キューバの共産党政権から逃れようとフロリダへと向かう難民船を攻撃し沈没させ、それをキューバ軍のせいにする。キューバ人テロリストによるアメリカの民間航空機ハイジャック事件や民間航空機の撃墜事件をでっち上げる。様々なアイデアが出されていました。もしかすると、その案の中にはニューヨークをハイジャックした飛行機で攻撃するというアイデアがあったかもしれません。
1962年10月27日、キューバに核ミサイル持ち込もうとしたソ連とアメリカの間で核戦争の危機が迫った「キューバ危機」。その一連の危機的状況の中、最も危険な瞬間がこの日に訪れたのでした。
米国海軍の駆逐艦がキューバへの向かう船舶を護衛していたソ連海軍の潜水艦B-59への爆雷攻撃を実施。恐ろしいことに、米軍はその潜水艦が核兵器を積んでいることを知りませんでした。そして爆雷の一つが潜水艦のすぐそばで爆発。潜水艦の艦内は突如停電となります。気温が上昇しただけでなく、二酸化炭素濃度の急激に上昇し、乗員が次々に酸欠により気絶し始めます。4時間近くそんな状況が続く中、船内はパニック状態となり、司令部への連絡もできませんでした。潜水艦のバレンチン・サビツキー艦長は、沈み始める前に報復攻撃を行おうと核魚雷の発射準備を指示しました。しかし、この時、ワシーリー・アルヒポフという将校が魚雷の発射を中止させます。結局、潜水艦は機能を回復し、無事に帰還することができ、世界の危機は誰も知らぬ間に回避されたのでした。
ありがとう!ワシーリー!
この「キューバ危機」においては、ケネディよりもフルシチョフの決断の方が勇気が必要だったのかもしれません。なぜなら、最終的にはケネディではなくフルシチョフの方が譲歩することでこの危機は回避されているからです。彼はロバート・ケネディからこう警告を受けていたといいます。
「大統領自身は、キューバをめぐって戦争を始めることに大きく反対していますが、大統領の思いに反して、後戻りがきかない一連の出来事が続く可能性があります。・・・もしもこの状況が長引けば、軍部が彼を大統領の座から引き下ろし、みずから権力を握らないともいえないと、大統領は心配しています。アメリカ陸軍が制御不能の暴走を始める可能性が否定できません」
幸か不幸か、フルシチョフは1953年に核兵器に関する最初の説明を受けた際、数日の間眠れない日々を送った経験があり、面目を保つだけのために数億人の命を犠牲にすることに価値はないと考えていました。彼は、ケネディよりもずっと正気な精神状態を保っていたのです。さらに幸いなことに、ケネディもまた核戦争を始めたかったわけではなかったのでしょう。最後の最後にまともな精神状態の人に判断を任されたことで、人類はかろうじて救われたのかもしれません。
当時、フルシチョフは潜水艦によって核弾頭をキューバに配備していた事実を公表していませんでした。その他にも戦術巡行ミサイル、弾道ミサイルも配備していたのですが、それも秘密のままでした。そのことが、ソ連の核抑止力を弱め、ケネディに強気の発言をさせる一因になったと言われます。
逆に当時の国務長官マクナマラは、30年後にソ連軍がすでに核兵器や巡行ミサイルを配備していたことを知り、そうだったとすればアメリカ側には10万人の犠牲者が出ていただろうと概算。それでもアメリカの反撃は開始されることになり、双方で数億人の犠牲者が出たと推測しています。
さらに当時沖縄では、1.1メガトンの核弾頭を配備したミサイル(地対地誘導核ミサイル)と水素爆弾を搭載したF100戦闘爆撃機が、臨戦体制に入っていたことも明らかになっています。そして、その攻撃目標となっていたのは、ソ連ではなく中国でした。したがって、もし、米ソ間の戦争が始まっていたら、それはそのまま米中戦争に発展、再び世界大戦が始まっていた可能性もあったのです。当然、基地のある日本も戦争に巻き込まれていたでしょう。
<フルシチョフの退場とケネディの死>
フルシチョフは節度ある態度ゆえに中傷を受けることになりました。中国からはアメリカの要求に屈服したとして臆病者のレッテルを貼られ、ソ連の政府高官からは「恐怖のあまりお漏らしした」と言い広められました。
それだけではありません。アメリカの政府高官の多くは戦争に対するアメリカの積極性がソ連を譲歩に導いたと思い込み、ベトナムを含めて他の場所においても、強力な戦力が効力を発するという結論を導いたのです。
一方、ソ連は反対の教訓を引き出していました。恥をかいたり、弱さが原因で降伏することが二度とないよう決意するとともに、アメリカと同等の立場に立てるよう、核兵器の大幅な増強を開始することになります。そして、キューバ危機によって権力基盤が弱まったフルシチョフは、翌年、権力の中枢から追い落とされることになりました。
1963年9月24日、投票の結果、80対19で部分的核実験禁止条約がアメリカの上院を通過しました。ケネディはこの時、大統領となって最高の満足を感じていたと言われています。そのことを証明するように、「原子力科学者会報」の編集者は、この記念碑的な成果を認め「地球最後の日の時計」の針を午前零時12分前まで戻しました。(一時は3分前まで進んでいました)
フルシチョフとの対話の後、ケネディは軍縮、和平へと大きく舵を切る決意をかためましたが、それは彼がアメリカ国内に巨大な敵を生み出す原因ともなりました。フルシチョフは権力を失っただけで済みましたが、ケネディはその後2月後の11月22日テキサス州ダラスでのパレードの最中に暗殺されてしまい、命すら失ってしまいます。
ケネディの葬儀に出席したソ連のアナスタシア・ミコヤン第一副首相にケネディの妻ジャクリーンは、こう話しかけたといいます。
「夫は死にました。今後、平和が訪れるかどうかはあなたがたにかかっています」 |