1952年

- チューリング・マシンからノイマン型コンピューターへ -

<20世紀を変えた発明>
 20世紀に発明、実用化されたモノで最も社会を大きく変えたものは何か?ラジオ、テレビ、レコード、映画、飛行機、自動車、原子爆弾、電話、携帯電話、遺伝子操作、インターネット、宇宙ロケット、ロボット・・・etc.いろいろとあげることができますが、最も大きな存在はコンピューターだったと思います。なぜなら、上記の発明すべてにおいてコンピューターは使われており、今やそれぞれのシステムにとってなくてはならない存在になっているからです。あるモノでは、その機能を支え、また別のモノでは制御のために必要な裏方として、またあるモノ(インターネットなど)はその誕生自体にコンピューターの存在は不可欠でした。コンピューターと「20世紀の世界」との関係は、切っても切れない関係にあったと思います。実際歴史を振り返ってみると、コンピューターが生み出され、急激に進化をとげたのはコンピューターを必要とする様々なニーズあったからであり、それぞれがお互いに影響を与え合いながら20世紀の科学は発展し続けたともいえるのです。

<コンピューターの誕生>
 コンピューターはいつどこで誕生したのでしょうか?それを「計算機の延長」と考えるなら、その歴史はかなり古いものとなります。例えば、1642年「人間は考える葦である」という名言を残した数学者、哲学者のパスカルは歯車式の加算器という機械式の計算機を作っています。電気を用いた計算機として有名なのは、1890年ヘルマン・ホレリスの統計システムがアメリカの国勢調査に使用された逸話が有名です。(この時のお話はこの後で)しかし、これらの計算機においては、データの入力は人間の手作業によるものでまだ計算スピードも遅く、まして、現在のように機械の中にプログラムを内蔵しているというものでもありませんでした。
 それはまだ現在のコンピューターにはほど遠い存在だったといえます。

<伝説の男、アラン・チューリング>
 コンピューター開発の主な舞台はアメリカでしたが、その基礎となるコンピューターの理論を築き上げた伝説の人物がイギリスにいました。その男、数学者アラン・チューリング Alan Mathison Turing は、1936年から37年にかけてコンピューター開発の基礎となる「チューリング・マシン」の理論を発表します。(この時、彼はまだ24歳という若さでした)残念ながら、その時点で彼の理論を実現できる技術はまだなかったため、それは理論上だけのものでしたが、その機械は数値データを読み取り、それを自らの言語に変換して計算処理を行うという現在のコンピューターに近いアイデアに基ずくものでした。ここで用いられる言語こそ「コンピューター言語」というまったく新しい概念で、これが後のすべてのコンピューター開発の基礎となります。彼はこの後、アメリカのプリンストン大学に留学し、この時、「コンピューターの父」と呼ばれるジョン・フォン・ノイマンと知り合い、彼にも重要なヒントを与えることになりました。そのため、ノイマンは彼を助手としてプリンストンに迎え入れようとしますが、チューリングはそれを断りイギリスに戻ります。しばらく後、第二次世界大戦が勃発。イギリスはドイツとの戦闘状態に突入。この時、イギリス軍からチューリングへ重要な依頼がなされます。それは当時ドイツ軍が情報の伝達用に用いていた暗号エニグマ(「エニグマ」とはギリシャ語で「謎」のこと)の解読を解読せよという指令でした。イギリスNo.1の天才数学者として高い評価を受けていた彼なら、、誰にも解読できなかったエニグマの謎を解けるのではと期待されてのことでした。(彼は第一次世界大戦においても、暗号解読の専門家として活躍していました)チューリングはさっそくその解読に取り組むと暗号解読機「コロッサス」の製作にかかります。そして、それを1年で完成させ、その活躍によりドイツ軍の情報は連合軍に筒抜けとなります。こうして、第二次世界大戦の戦況は連合軍の有利へと傾いてゆくことになります。
 戦後、彼は仕事上の衝突が多かったらしく、研究所トラブルを起こしたり、同性愛者であるとして逮捕されたりし、ついに研究と仕事の場所を失ってしまいます。(現在と違い同性愛は、それがわかっただけで犯罪者として扱われました)
 1954年、彼は42歳という若さで自殺の道を選んでしまいました。人間関係の問題か、同性愛の問題か、それとも20代で下り坂といわれる数学者の才能の枯渇のせいだったのか?それとも自殺ではなかったのか?彼の死はいまだに謎に包まれています。

「アラン・チューリングは、コンピューターに明示的なプログラミングを与えることなしに、進化に似た過程によって学習させることができると考えていた。彼はそれを”知能を持つ機械”と呼んでいたが、当時の科学者たちの反応は概して冷ややかなものだった。・・・」
松井孝典「宇宙誌」より

映画「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密


<ENIACエニアック誕生>
 1944年、その後のコンピューター開発をリードすることになるアメリカのIBM社が開発したパンチカード式計算機「マークT」が登場。データを電気信号に変換することで、計算スピードを大幅にアップさせたこの計算機は世界を驚かせました。しかし、それでもなをその能力では不十分としてさらなる高速計算機の開発を急いでいる人物がいました。それは当時ニューメキシコ州のロスアラモスの研究所で原子爆弾の開発に参加していた数学者のジョン・フォン・ノイマン John Von Neumannでした。彼は簡単に実験を行うことができない原子爆弾を開発するための数値実験を行うため、より高速の計算機を求めていたのです。
 そんな彼のもとにフィラデルフィアにあるペンシルバニア大学が世界初の電子式コンピューターを開発したという情報が舞い込みます。それは真空管を用いることで、それまでのマークTなどの計算の1000倍ものスピードを実現したENIACエニアックというコンピューターでした。彼はさっそくこのコンピューターの開発者、ジョン・モークリーとプレスパー・エッカートに会い、彼らが進めていたプログラム内蔵型コンピューターEDVACの開発に協力し始めます。こうして、コンピューターはアメリカをその主な舞台として発展してゆくことになります。

<ノイマン型コンピューター>
 1946年以降コンピューターはノイマンやアインシュタインた、数多くの天才を抱えたプリンストン大学のIAS(Institute for Advanced Study高等研究所)において、研究開発が進められてゆきます。それに対して、ENIACの開発者エッカートは大学での研究ではなく事業化による経済的な成功を目指すため、別の道を歩み始めます。ところで、ノイマンはそんな二人の事業化の動きとは対称的に次世代コンピューターを完成させるため、その情報公開を行います。今では「ノイマン型コンピューター」として知られるコンピューターの基本的な構成、「演算」「主記憶」「入出力」「制御」を明確化し、基本演算を逐次的に行うことやプログラムを主記憶演算装置部分にあらかじめ記憶させておくことを提案。これらの内容も含んだ次世代型プログラム内蔵型コンピューターEDVACについての報告書が全米各地の研究者たちに渡ると、そこから次々にアイデアが生まれると同時に開発の動きが民間へと急速に広がってゆくことになりました。
 こうして、「コンピューターの父」と呼ばれたノイマンの手を離れたコンピューターは、いよいよ多分野そして民間企業へと拡散し発展してゆくことになります。当初は大型で高額なコンピューターを導入する企業が限られていました。自動車産業などの工場、発電所での制御システム、ICBMなどの戦略兵器への応用、航空機やロケットの誘導システムなどに用いられた後、1969年のアポロ11号による月面着陸ではその航行制御や通信システムにおいて大活躍をします。

<伝説を作ったコンピューター>
 1951年、IASをやめて独立したエッカートとモークリーはレミントン・ランド社で次世代型のコンピューターUNIVACを完成させました。そして、このUNIVACがコンピューター開発の歴史に残る伝説を作り上げます。それは1952年のことでした。CBSテレビが巨大コンピューターUNIVACを使って、ちょっとしたイベントを計画しました。それは、その年に行われることになっていたアメリカの大統領選挙においてUNIVACに当選予測をさせようというものでした。
 この選挙、共和党のアイゼンハワーと民主党のトルーマンどちらが勝つかの戦前の予想は、専門家の多くがトルーマンの勝利とみていました。しかし、選挙当日、開票率が5〜7%の段階でUNIVACがアイゼンハワーの勝利を予測してしまいます。驚いたテレビ局は、その結果を公表しませんでした。ところが最終的な選挙結果はUNIVACの予測どおりとなり、その誤差は1%にも満たない正確さでした。この衝撃的な結果はアメリカ中を驚かせ、この後しばらくはUNIVACという名前はコンピューターと同義語として使われることになったといいます。

<ムーアの法則>
 この時期、コンピューターの心臓部を担うことになる半導体メーカー、「インテル」の創設者、ゴードン・ムーアは後に「ムーアの法則」と呼ばれることになるある予測をしました。
「半導体の集積密度は18〜24ヶ月で倍増するだろう」
 この予測は実際、この後20世紀中にコンピューターが発展するスピードを見事に言い当てていました。
 1962年、ノイマンが顧問をしていたIBMは「システム/360」を企業向けに発売し大ヒットさせます。これによりコンピューターの導入は民間企業にも広がりをみせますが1970年代の中頃にマイクロプロセッサー(集積回路を一枚のチップに収めた超小型のコンピューター)が登場すると、いよいよコンピューターはパーソナル・コンピューター(PC)への第一歩を歩みだすことになります。前述のインテル社が1974年に発売した「8080マイクロプロセッサー」は、その重要なカギとなり、ビートルズ世代によるベンチャー企業アップルが「アップル2」を発表。コンピューターはマニア中心とはいえ個人向けに広がり始めます。
 1981年にはIBMがIBM5150を投入。パソコンの販売はついに巨大ビジネスへと成長することになりました。

<オープン・アーキテクチャー>
 当時コンピューターの開発において、大きな力を発揮した手法として、「オープン・アーキテクチャー」という考え方があります。それは自社の開発した技術を秘密にせずあえて公開するというものです。(これはノイマンの思想を受け継いだものともいえます)これにより、コンピューターに関する技術仕様について、他社のもつ優れた部分をどんどん取り入れることが可能になりました。例えば、マウスでアイコンをクリックするとプログラムが起動するという基本的な操作がメーカーが違っても基本的に共通になっているのは、こうした情報共有のおかげです。そのために、多くの仕様が各社で共通になり、開発費の抑制だけでなく部品やデザインの共通化により、急激な低価格化が可能になりました。
 実は、この「オープン・アーキテクチャー」こそ、コンピューターが急速に発展し20世紀を変えた最大の原因だったのかもしれません。この流れがあったからこそ、インターネットという画期的かつ究極の情報共有システムが生まれ、リナックスのようにインターネットを用いた共同開発型ソフトなども生まれることになったのです。
 そして、ビル・ゲイツが立ち上げたマイクロソフト社のウィンドウズがメーカーの垣根を越えて、どのコンピューターにも使用され市場を独占してしまったのも、こうした業界のやり方があったからだともいえます。このことは、技術の向上や低価格化には大きな役割を果たしたといえますが、グローバリズムの流れと共に冨の独占による貧富の差の拡大を招くことにもなりました。
 今後も、コンピューターは世界を変えてゆくのでしょうか?現在のコンピューターはすでに完成の域に達し、今後は計算スピードのさらなる高速化とソフトの開発ぐらいしか発展の余地はないかもしれません。その点では20世紀中にコンピューターはまったく新しい次世代型の登場を迎える可能性もあります。それは情報を収集しながら理論を組み立てると同時にその理論を自ら修正し、より正確なものへと進化させることができる自己進化型ともいえるコンピューターとなるでしょう。それはもしかすると人間の脳に近いものかもしれません。また人間の脳や神経組織の構造を模倣もしくは利用することで、今までにないタイプの「生物コンピューター」的なものが誕生するかもしれません。どちらにしても、それらの次世代型コンピューターはもうコンピュータという名よりも「人口頭脳」と呼ぶべき存在なのかもしれません。
 その意味では、ここから先のコンピューター開発は限りなく人工的な脳を創造する研究へと近づいてゆくことになると僕は思うのですが・・・・・・。

「第五世代コンピューターはすでに知られているコンピューターではなく「細部の混乱、データの数値、たえず変化する情報を、秩序だった一般的でもっともらしい解釈のもとに包含する」力を持った””知識情報処理機”として出現するだろう。」
エドワード・ファイゲンバウム、パメラ・マコーダック


<締めのお言葉>
「第五世代コンピューターはすでに知られているコンピューターではなく『細部の混乱、データの数値たえず変化する情報を、秩序だった一般的でもっともらしい解釈のもとに抱合する』力を持った”知識情報処理機”として出現するだろう・・・・・」

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