「カンバセイション・ピース conversation piece」

- 保坂和志 Kazushi Hosaka -

<本を読むということ>
 考えてみると、読書とは面倒くさいものです。
 なにせ、本に書かれている文字を判読し、それを頭の中でイメージとして形作り、それをドラマのように展開させていく。中には、登場人物の心の中までも推測したり、見たこともない風景を想像力を働かせて頭の中に構築したり、やらなければならないことがいくらでもあります。
 その点、映画やマンガの場合は、そこにあらかじめ「絵」が用意されているので、ずいぶんと楽な気がします。最近、脳が衰えてきたのか、細かな描写の本を読んでいて脳に疲労を覚えることもあります。特にたまに推理小説を読むと、証拠や家の構造、人物の特徴など抑えるところが多すぎて疲れてしまいます。もちろん、面白い小説ならそうした苦労など気にならないのですが・・・。でも、読むのに苦労する本だからといって、それがダメな本かというとそうではないはずです。
 例えば、見知らぬ国や架空の世界を舞台にしたお話は、最初にその世界を読者が把握するのにそれなりの努力を必要とするでしょう。しかし、100ページかけてでも、その世界の全体像を理解できれば、もう読者はその世界の住人となり、どんどん物語の世界にはまりこんでくれるはずです。そして、その世界は想像力によって自由自在に変化させることが可能になります。キャラクターや世界だけでなく、言語体系や歴史までもゼロから作り上げたトールキンの「指輪物語」はまさにその典型といえます。
 それは例えるなら、「ジェットコースター」のようなものかもしれません。ゆっくりと上り坂を上がりながらワクワク、ドキドキし、その頂点から一気にスリリングなエンターテイメントが展開するわけです。もしかすると、このワクワク、ドキドキがないとその後の興奮は半減してしまうかもしれません。
 ただし、小説の世界には異なるタイプの作品も存在します。どれもが「ジェットコースター」ではないのです。例えるなら、それは「山手線一周」みたいな感じでしょうか。スピード・アップしたり、急カーブやアップ・ダウンがあるわけではなく、常に一定の速度で進む山手線は、けっしてスリリングな乗り物ではありません。しかし、同じところをグルグル回るだけの電車でありながら、そこには常に様々な人との出会いの可能性があります。駅だってそれぞれ個性的だし、乗り降りするお客さんも駅ごとに違います。「人間ウォッチング」するなら最高の舞台です。

<人と家、そして猫との対話集>
 というわけで、「本を読むということ」についてなら、いくらでも語れそうですが、こうした会話をするのって楽しいですよね。もし、こうした話をするのにぴったりの相手が周りにいてくれれば、たとえドラマチックな出来事が起きなくても、人生はなかなか楽しいものになるのではないでしょうか?この小説は、そんな気の合う家族や仲間たちとの会話「カンバセイション・ピース」を集めた「対話集」といえるでしょう。
 けっしてドラマチックな事件が起きるわけでもなく、淡々と時が過ぎる中、読者はいつの間にか、そこに登場する古い家の住人になっている気がするはずです。そして、その頃には、家の間取りや猫たちの顔つきまでが思い浮かぶようになっているかもしれません。
 この小説の本当の主人公は、もしかすると人と猫をうちに抱えた「古い家」なのかもしれません。その家で繰り広げられる様々な会話が「言魂」となって、家に少しずつ「記憶」と「歴史」を書き加えているのです。「記憶」とは人の「脳」の中にだけ存在するのではなく、「風景」の中にも存在し、人はそこに「記憶」を覗き見ることも可能なのです。
 さて、そんな対話集の中から「人」、「家」、「猫」、そしてそこから生まれる「記憶」について書かれた文章の中で面白かったものを選んでみました。(太字が本文からの文章です)

<猫と家と人>
 猫の動作は人間から見てとてもかぎられているので、自分が飼っている猫のやることを見ていても猫一般に考えがつながっていきがちだけれど、人間の動作だって本当のとこころたいして多いわけではないと寝っ転がりながら感じた。この家はこうして寝っ転がっている私の姿を伯父や英樹兄と区別しないかもしれない。
 ちょっとした仕草で、その人の心の内を読むことって、本当にできるものなんでしょうか?何も考えで生きている人がどんどん増えているように思えるのですが・・・。

<家と音>
 伯母が一人でこの家にいたときにも、伯母がいなくなってこの家に人が誰もいなかったときにも、私がいるこの場所で同じ音が聞こえていたのだろうと思った。音は聞く人がいてもいなくてもそこの空気を振動させている。
 私に聞こえているいろいろな音は、私がいてもいなくてもしていて、私だからその音が聞こえているわけではなくて、この家のこの場所だから聞こえていて、これからもここにこの家があるかぎりは今日と同じ音が聞こえつづけるということだった。

 その家ならではの音は、その家の空気に着実に刻まれ、同じように人の記憶にも刻まれるのかもしれません。もしかするとそんな音の記憶の中から、素晴らしい音楽が生まれるものなのかもしれません。

<風景と記憶>
 この部屋から見える外の様子は、風景といえるほどの一般的な面白さじはないけれど、それでもやっぱりここに住んで時間が経つにつれて、去年の秋ぐらいから何かしらの面白さが感じられるようになりはじめて、それからは私はずうっとここからの眺めを退屈しないで楽しんでいる。
 それはつまり同じ外の様子を毎日眺めつづけた時間か行為の蓄積が自分の中のもうひとつの視線になったということで、その蓄積と言葉を交わすようにしてみているということなのかもしれない。

 「視線の蓄積」は見慣れた風景をも「思い出」に変えることを可能にする。考えてみると、これって当たり前のことなのかもしれません。

<家と人をつなぐ霊?>
 何が言いたいのかというと、つまり奈緒子姉が見た風呂場の影は、奈緒子姉とこの家という建物を媒介させるための擬人化された何かだったのではないかということで、それは見間違いとかドッペルゲンガーというような奈緒子姉の側に一方的に還元して澄むようなものではなくて、そうかと言って幽霊とか地縛霊というような人間が引き起こす何かというようなものでもなくて、この家の側の何かだったというようなことが私の予想なのだが、<家>というものの広がりと<擬人化>という概念の意味するところがまだあまりに獏としていて、結びつけ方の見当がつかないために私は黙っているだけだった。
 家は視線の積み重ねにより、記憶としての形をもち始める。そして、それがある人には擬人化して見えることもあるのかもしれません。

<家と記憶>
 いまの私があの奥の部屋に明るい光が射しているのを廊下からちらっと見るだけで安心したり満足したりするように、伯父も、座敷にいても奥の部屋に光が射していることがわかっているだけで、この家に娘たちと息子たちが生まれ育ったことや、それより前に山梨から出てきた金のない学生たちがいた賑やかな年月が、かつて確かにあったことが保証されるという風に感じていたということなのではないかと思った。
 記憶が生み出す暖かさは、時間も場所も越えることが可能なのかもしれません。

<木登りと記憶>
 去年の夏も水を撒きながら、何度もここの木に登ったことは思い出していたけれど、思い出すというのは何かきっかけがなければ実感にいたるほどの密度が何もなくて、ただ調べものをして図鑑をパラパラめくっているような感じだったけれど、いまは木を見ながら子供の頃の体の動きが自動的に戻ってくるみたいだった。
 「体で覚える」というように、体の動きは様々な記憶を呼び覚ますものです。そして、その逆に、ある風景が体の動きを思い出させることもまたありうることです。

<「面白さ」と記憶>
「『あ、それ面白い』って思っちゃうと、嘘でも何でもダイレクトに思考回路に流れ込んで、逆に普通の思考回路に入るべきものでも、『面白い』って感情がともなわないと、形だけしか覚えないっていうか、全然身につかないっていうかさあ、そういう感じるんだよ。現代教育の弊害だよね。
 だから、怪談みたいなのが『あ、それ面白い』って、それだけ広まっちゃって、なんだかみんな本気なんだよね」

 教育の基本は、やっぱり「面白い」にこだわることなんですね。それはもちろん、学問だけではなくスポーツや芸術についても同じ事。

「だからね、怪談の世代はお話と現実の区別がおれたちと違ってるっていうかね。現実がうまくお話みたいに切り取られたときに、ワッと反応するっていうかね。まあとにかく、本当の話だとはどこかで感じてないんだと思うんだよ」
「『本当の話という作り話』みたいなもんか」

 面白くなければ真実ではない!そうみんなが思うようんあれば、世界は確実に変わるはず。

<「習慣化」と興奮>
 習慣化するものは退屈なものだが、しかし習慣化していないところに興奮はない。慣れていない出来事には唖然とすることしたできない。スタンドでファンは習慣化した動きの中で習慣化した思考をつづけ、通い慣れた道を辿って興奮するのだ。
 ラベル作曲の「ボレロ」しかり、マラソンしかり、世界各地のダンスしかり、最大の興奮いや幸福というものは「マンネリ」もしくは「くり返し」にあるものです。もしかすると、日本人ほど、そうした「繰り返し」の文化が好きな国民はいないかもしれません。もちろん「習慣化」したものほど、記憶にしっかりと残るものはないでしょう。

<死と記憶>
・・・死ぬというのはおかしなもので、死んだ途端に偏在をはじめる。生きているあいだは猫でも人間でも一つの場所にいて、離れたそこにいる相手といまここにいる自分がつながっているなんて感じられないけれど、死んだ途端にどこにいても死んだチャーちゃんとつながっているのだとリアリティを持って感じるようになった。・・・
 死んで初めて人は自由になれる。そう考えることができれば、死もまた良きことかな・・・?

<「理解」するということ>
 わからないことというのは知ってることに比例して増えるものなんだよ。だから、知ってることが少ない段階ではわからないことも少ない。逆説的な言い方になるけど、わかっていると思っているうちは、じつはろくに知っていないということで、これは詭弁でも何でもない。
 幻想しか見えていないっていうのはそういう意味で、相手のことっていうのは知れば知るほど、自分のことがわからないのと同じ意味でわからなくなってくる。・・・

 「知る」ということの不可能性を知ることは大切。だからこそ「知る」ために努力を続けることが重要だということでしょう。

<「見る」という行為>
 私が雲を見るとき、「見る」は雲によってもたらされていて、「見る私」もまた雲によってもたらされている。私が見なくても雲はあり、私がいなくても雲はあり、そして私が見なくても「見る」はある。「私」が「雲」を「見る」という関係の中で、「私」が「雲」よりも「見る」よりも「見る」よりも遅れて最後にやってきて最初に消えていくものではあるけど、雲によってもたらされた「見る」をしている私はそれでもやっぱり特別な何かであり、それは「私」だから私にとって特別だというようなことではなくて、雲や空や木が「見る」をもたらす送り先として自覚するものとして特別な何かなのではないか。
 「雲」も「見る」も「私」もすべてがなければ、「見る」という行為は完結せず、それがあって初めて「見る」という行為は意味を持ち「記憶」として残ることになるのです。

<初めに光と闇ありき>
 聖書が言うように言葉は光で、その光が闇を照らすのだが、言葉がまだ自分にとってよそよそしいものとしてある子どもには、闇は光が届かないだけのネガティブな場所なのではなくて、自分の知らない時間が流れ出てきているような場所で、そういう知らないことがあることが自分がいまこの世界にいることを保証する光のない光源のような機能を果たしてくれるというような・・・・・。
 「初めに光ありき」は神様の言葉ですが、光を浮き上がらせるのは闇であり、闇なくして光も存在しえないのです。

<幸福なる会話の世界>
 この小説では他にも、面白い会話がいろいろとされていて、いつの間にか自分もその会話に参加して一緒にその家から外の景色を眺め、その家の猫をなぜているそんな気になってきます。なかには、より深いテーマともいえる「神」についてなんかの問題についても語られています。「神」について語ることがタブー視されない、もしくは平和に行うことができるのは、もしかすると日本ぐらいかもしれません。それだけでも、我々日本人恵まれています。(その他の会話については、「思わずうなりたくなるお言葉の倉庫」も見てください。)
 今や、平日の昼真っからこうしてのんびりと顔を突き合わせて話をすることは過去のものになりつつある気がします。それは今や昭和の香りただようテレビ画面の中の出来事なのかもしれません。でも、彼らは皆幸せそうです。こうやって、取りとめもなく語り合うことの幸せをもっと感じるべきなのかもしれません。「すいべらない話し」じゃなくてもいいじゃないですか・・・。

「カンバセイション・ピース conversation piece」 2003年
保坂和志 Kazushi Hosaka(著)
新潮社

20世紀文学大全集へ   トップページへ