株式会社の歴史から世界史を学ぶ


「株式会社の世界史」

平川克美 Hirakawa Katsumi

<ビッグ・ヒストリーと経済史>
 世界の歴史を、国や地域レベルの歴史を積み上げることで見てきたのが今までの世界史でした。
 しかし、情報や経済の結びつきが強まった21世紀の地球は、世界史を巨視的な目で見ないと理解できなくなりました。
 そうして生まれた「ビッグ・ヒストリー」が注目される中、「株式会社の歴史」から人類史を見直すという画期的な本が出版されました。
 
 「株式会社」というシステムは、人類にとっては、蒸気機関、電気、コンピューターなどに匹敵する重要な発明である。
 経済学にまったく興味がなかった僕でも、この本にはワクワクさせられました。
 「株式会社」という革命的なシステムは、なぜ、何のために生まれたのか?
 「株式会社」は、世界をどう変えたのか?
 「株式会社」がもたらす世界の未来とは?
 そこから見えてくる人類の未来に救いはあるのか?

 私がここに株式会社についての論考を付け加える理由は、人口減少時代あるいは成長の糊代を失ったかに見える現代という時代において、それでもなお株式会社は可能なのかと問うてみたいからである。そのために、歴史のなかで変態を繰り返してきた株式会社が何であり、何であり続けるのかについて、そのさなぎの時代、幼虫の時代、成虫の時代、そしておそらくは妖怪の時代の外観とその内部でうごめいてた生命力についての考察を開始したいと思う。
平川克美

<「株式会社」とは?
 先ずは「株式会社」とは何なのか?そこから話を始めます。

「資本と経営の分離と株主の有限責任」
 これが、株式会社を特徴付ける最も本質的かつ重要な要件であるとされている。ここに、株式の自由譲渡、株主主権という要件を付け加えれば、ほとんど今日の株式会社を構成する骨格が出揃うことになる。主権者でありながら、有限責任しか負わない株主によって支えられているのが、株式会社というものである。
 しかし、それはある意味では、誰も責任を取らないシステムである。いや、責任を取りたくとも、取れない仕組みこそが、株式会社の生命線なのだ。


<株式会社の5人の主役>
株式会社が生まれるには、5種類の人間が必要でした。
(1)自らのお金を人に預けて、働かずにそれを増やそうと考えるもの。
(2)それを斡旋するもの。
(3)他人のお金で、自らの事業を創造したいと考えているもの。
(4)自分の欲望を満たすために、労働力と貨幣を交換しようとするもの。
(5)その会社から市場に投入される商品の中に、自らの欲望の対象を発見する消費者。
 (1)投資家(2)銀行家(3)経営者(4)労働者(5)消費者の5人のプレイヤーが揃って初めて株式会社が動き出せる。そして、このシステムにおける重要な触媒の一つがお金とそれに付与される利息です。(「利息」は「欲望」と置き換えることもできます)

<「株式会社」誕生の理由とは?>
 では、この「株式会社」という経済システムは、どうして?何のために?生まれたのでしょうか?
 その誕生のきっかけとなったのは、このシステムによって巨額の資金を集めなければ成り立たない巨大ビジネス・プロジェクトの登場でした。
 帰ってこられるかわからず、何をどれだけ持ち帰れるかわからず、でも莫大な利益を上げられる可能性も持つビジネス。それは、東アジアとの貿易でした。莫大な利益を生み出すも、失敗すれば船主を破産に追い込む危険なビジネスは、「保険」会社誕生のきっかけにもなりました。
 巨額の先行投資を集めるため、イギリスが設立した「東インド会社」が歴史上最初の株式会社と言われています。ただし、東インド会社は国家ぐるみのプロジェクトで、あまりにも特殊な例ではあります。

<東インド会社>
 東インド会社とは、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、重商主義の象徴的存在です。
 東インド会社は、会社とは言いますが、いわば海の覇権を握り、アフリカ・アジアから富を収奪するための軍事的、政治的組織でした。暴力と金力を装備した半軍事的商業組織が東インド会社だったと言えます。
 しかし、東インド会社の商売の実態は、成功の確率の小さい貿易に頼るだけで、その利潤もまた取締役たちの私欲や放漫経営のために消えて行きました。そうした経緯から、会社を存続させてゆくためには絶えず資金を調達し続ける必要があり、株式を発行して外部から集める以外には、資金を調達するすべがなくなったわけです。しかし、商人たちを中心とする投機筋が、気軽に株式投資できるようにするためには、もし会社が欠損を出したとしても、株主が投資した金額以上の損害を受けないことを保証する必要がありました。いわゆる株主の有限責任制であり、これが東インド会社が今日でいう株式会社の原型と言われる所以です。

<永遠に続くシステム>
 「株式会社」が多額の資金を集めるために生み出されたシステムであることはわかりましたが、もう一つこのシステムには大きな特徴があります。それはこのシステムは、たとえすべての経営陣がこの世を去っても、機能を止めることなく存続することが可能だということです。

 永続的な資金調達を行うためには、株式譲渡のシステムが不可欠であった。つまり、株主は新たに出現した投資家に、自由に株を売却し、会社から手を引くことができるようになり、そのことが同時に、次々に新たな投資家が名乗り出る機会を生み出していくことになるからである。それは必然的に、会社の事業が作り出す現物の市場とは分離した形での株式の市場が出来上がってくる基礎を作り出していった。
 これで、今日の株式会社の主要要件である。資本と経営の分離、株主の有限責任制、株式の自由譲渡のスキームがほとんど完成したと言えるのである。
 そして、株式会社という「法人」の誕生は、ビジネスというものを「人間の一生の時間での出来事」という制約から解放し、永続性を保証された
・・・

<宗教組織となったシステム>
 「株式会社」のシステムは、その後、どんどん発展を続けます。そして、いつしか株式会社はそこに属する社員にとって、神を頂点とする教会のような存在となりました。そのために、社員は会社のために犯罪を行わうことも正義と考えるほど忠誠心を持つに至ります。神(会社)のためなら、たとえ犯罪だとしても間違ってはいない。そうまで考えるようになったのです。

 つまり、会社なるものが、単なる当座組合から、法人としての資格を持つ永続的な形態を持つ組織へと変身するためには、単なるその場しのぎの寄り合いの場ではなく、教会のように永続的な実体、つまり神秘体としての資格が与えられる必要があったということである。さらに重要なことは、その神秘体の価値観が、個人の価値観を凌駕する必要があるといことである。

<貨幣の誕生>
 「株式会社」のシステムを動かすために大きな役目を果たす潤滑油的存在となった「貨幣」の誕生も同じ時期でした。しかし、その誕生目的は「貿易」ではなく「戦争」でした。そして、その貨幣を生み出すために「国立銀行」が創設されることになりました。

 イングランド銀行が創設されたのはロンドンとエディンバラの商人40人 - その大部分がすでに国王への債権者であった - からなる協会が、対仏戦争を援助するため、国王ウィリアム3世に120万ポンドの融資を行ったときであることを思い出そう。その見返りとして銀行券発行を独占する株式会社の結成を許可するよう、彼らは王を説得した。そして、その銀行券は、事実上、王が彼らに負っている額面の約束手形だったのである。これが世界初の独立した国立中央銀行であり、それは小規模の銀行間でやり取りされている負債の手形交換所となった。その手形が、まもなく、ヨーロッパ発の国家紙幣に発展して行くのである。

<「南海会社バブル事件」>
 こうしてイギリスを中心としたヨーロッパの国々は、世界中の植民地と他国との間で物を動かすことで、利益を生み出し、莫大な利益を生み出して行くことになります。(「三角貿易」はその典型例)
 しかし、この最強の経済システムは、敵なしであるがゆえにその勢いに歯止めがかからなくなって行きます。そして、イギリス経済を崩壊寸前にまで追い込むことになる「南海会社バブル事件」へ発展することになります。

 イギリスの南海会社はスペイン帝国との独占的取引権を与えられた勅許会社としてスタート。しかし、議会のトップにいたロバート・ハーレーが戦費調達のために発行した国債の一部を会社に引き受けさせます。その代わり、会社には株券の発行権利、貿易の独占権を与えました。ところが、奴隷貿易しか実績のない南海会社はすぐに経営不振に陥ります。
 危険を脱するため、考え出された策は「宝くじ」の発行でした。そして、これが大成功となり、南海会社は金融機関としてイングランド銀行をも上回る存在となります。
 株券の発行も自由に行えたため、南海会社は大量の株式を発行。さらにイギリスの国債を自社株に交換することで、株価のさらなるつり上げにも成功。増資を行うことでバブルが膨らみ続けることになりました。
 1711年、まったくの虚業となっていた南海会社は倒産し、イギリス経済全体がバブルの崩壊を迎えることになりました。この後、イギリス議会は「株式会社」というシステムは、詐欺と結びつく可能性が高い危険な存在として「バブル法」により禁止されることになります。ここから100年にわたり、特別に許可を得た特殊な例を除くと、「株式会社」の設立は許されなくなります。

<株式会社の理論>
 株式会社は巨額の資金を生み出すためのシステムですが、そのシステムを有効に機能させるための数学的理論がなければ、すぐにシステムは破綻していたかもしれません。どうすればより確実に利益を生み出せるのか?そのために生み出されたのが「複式簿記」の理論でした。1494年に数学者ルカ・パチョーリが発表した「算術、幾何、比および比例全書」がその基礎となりました。その基本はこうです。

「一枚の紙、あるいは帳簿に、持ち物全てを記録しておかなければならない。最初はもっとも価値を評価しやすく、流動性の高いもの、たとえば、貨幣や宝石、銀などから始め、最終的には個人の所有物や不動産も記録しておく」
 これは現在の賃借対照表の基礎となるものでした。こうして「複式簿記」という手法の登場により、商取引の世界は大きく進化することになりました。
 商人たちは、自分が行っている取引が最終的に、どれだけ利益を出すのか、そのためにどんなコストが必要だったのか、総資産がいくらになっているのかなどを一覧することが可能になったわけです。これが「株式会社」を支える最終兵器になりました。
 こうして誕生した経済学の理論を学問のレベルへとまとめ上げ、一つの理論体系を作り上げたのが、アダム・スミスです。彼はそろぞれ個人が自分の利益を追求するように働けば、それが社会全体の利益に結びつくとして、それを「見えざる手」と名付けました。

<アダム・スミスの「見えざる手」>
 経済学における重要な「見えざる手」という言葉は、経済学者アダム・スミスが書いた以下の文章がもとになっています。この言葉は、学問として「株式会社」を研究する経済学の基礎の一つになりました。

 ・・・たしかに個人は、一般に公共の利益を推進しようと意図してもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。・・・個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれて、自分の意図の中にはまったくなかった目的を推進するのである。それが個人の意図にまったくなかったということは、必ずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである。

 スミスの功績は、第一に、国富の源泉が、権力者たちが溜め込んだ金銀財貨ではなく、市場を牽引する労働力にあること、つまり国家の生産性にあることを理論化したことである。第二に、その労働力の結集がキリスト教的な慈悲心によるのではなく、個々人の利己的な損得勘定にあるとしたことであった。そして、施しによってではなく賃金から得られる購買力の増加こそが、公共的な利益につながると考えたのである。

 ただし、彼は経営学がすべてを解決できるとは考えていませんでした。「株式会社」のシステムがもつ本質的な問題点についても指摘していました。

<株式会社の問題点>
 株式会社は、誰もが経営者になり得るシステムであるため、逆に誰も責任をとる必要がないシステムでもあります。要するに、働く全員がサラリーマンなので、会社がトラブルを起こしても、自分が責任を負う必要はないわけです。そうなるとどうなるか?

「株主の大部分は、会社の業務について、あえて何事かを知ろうなどと張り切ることはめったにない」

「取締役は、自分の金というより、むしろ他人の金の管理人であるわけだから、合名会社の社員が、自分自身の金を見張る時にしばしば見せるのと同じ鵜の目鷹の目で人の金を見張るとは、とても期待できない」

「こういう会社の業務運営には、多かれ少なかれ怠慢と浪費が常にはびこること必定である」

 これが株式会社にとって最大の問題点かもしれません。

<イスラム教と株式会社>
 「株式会社」のシステムが生まれた時代、ヨーロッパの国々が船でアジアに向かったのには理由がありました。それは陸路で行きたくても、その途中にはトルコなどイスラムの強国があり、侵入不可能だったからです。当時のヨーロッパの国々には、そこを突破するだけの軍事力はまだなかったのです。
 そう考えると、なぜイスラムの強国は自分で貿易を行ってヨーロッパを相手に利益を得ることを考えなかったのでしょうか?そんな疑問もわいてきますが、その理由は簡単です。イスラムの国では、宗教上の決まりにより金貸しは仕事として認められないからです。資金の貸し借りができなければ、株を購入してそれにより利益を上げる行為も許されないわけです。そうなれば、株式会社というシステムは成立しえないわけです。それがイスラム圏から世界的大企業が生まれていない原因なのかもしれません。

<キリスト教と株式会社>
 キリスト教においても、カトリックでは基本的に金貸しは悪とされていました。だからこそ、その金貸しを仕事にする人が多いユダヤ人は宗教的に異端であるとして迫害の対象になったのです。しかし、新大陸に渡ったプロテスタントの人々にとっては、お金の使い道には別の考え方がありました。カトリックを批判することで生まれたプロテスタントの教義においては、利子を得る金貸しという行為は否定されておらず、逆にそれを用いてより働き、より稼ぐことこそ神の思いに従う行為であるとされたのです。
 カトリックでは利子は禁止としながら、実際は高い利子での金貸しが横行していました。カルヴァンはその情況を改善するため、あえて5分までの利子は認めるとしました。そしてこれがプロテスタントにおける貸金業の発達の原因になりました。
 アメリカという未開の大地を開拓する彼らにとって、そうした誰よりも忙しく働き、誰よりも広い土地を開拓することで、誰よりも稼ぐことこそ正義であるとされたことが、「アメリカン・ドリーム」の基礎が生うんだとも言えるわけです。
 そんなアメリカの思想の基礎になった人物ベンジャミン・フランクリンの有名な言葉があります。
「時は金なりということを忘れてはならない。自分の労働で一日に10シリングを稼ぐことができる者が、半日出歩いていたり、何もせずに怠けていたら、その気晴らしや怠惰のために6ペンスしか使わなかったとしても、それで出費がすべてだと考えるべきではない。実際にはさらに5シリング使った、というよりも、捨てたのである。・・・」
 この調子で働けば、そりゃあお金も貯まります。そして、侵略戦争も正義になりますよ。

<株式会社の復活>
 国家の危機をもたらした「悪魔のシステム」である株式会社は、19世紀に入り復活することになります。そのきっかけとなったのは、「産業革命」でした。「蒸気機関」の発明から始まった世界を変えた科学革命は、設備投資のための巨額の費用を必要とする工業革命でもありました。工場の建設や設備投資に多額の資金が必要なものの、かつてのアジア貿易に比べれば、確実に富を生み出すシステムであることが認識されると、その革命への出資者は増え、それを利用するために「株式会社」の再登場が求められることになりました。
 こうして英国で株式会社の設立を禁止した「バブル法」は廃止され、新たに「ジョイント・ストック・カンパニー法」が成立。株式会社は法律に定められた要件を満たせば、設立が可能になりました。
 1785年蒸気機関を使った紡績工場が創業を開始。
 1804年には蒸気機関車の走行が開始。
 ここまでの実績から大規模な事業を行う必要性から、「バブル法」が廃止されました。

<植民地争奪戦から産業革命へ>
 先進国による植民地争奪戦は、遅れた国から富を奪う直接的な泥棒行為だったと言えます。それに対し、産業革命が生み出したのは、地元の労働者からの賃金搾取と、それによって生み出された生産物を使った地理的差異を使ったより巧妙な世界規模の略奪行為だったと言えます。
 産業革命は、そうした二重の搾取によって、より効率的に富を集中させることになります。より複雑になった新たな株式会社の時代は、世界中から富を奪う構造が確立されたため、そう簡単にバブルははじけませんでした。(もちろんそれは、工場で働く貧しい労働者と第三世界の人々が犠牲になることで成立していたのですが・・・)
 社会主義運動の登場もあり、その莫大な富は、しだいに自国の労働者にまでは、行き渡ることになって行きます。そして、20世紀に入ると、大量生産、大量消費の時代が到来し、株式会社の役割は、必然的にどんどん大きくなって行くことになります。

<20世紀の大衆消費社会革命>
 蒸気機関車が19世紀に起きた産業革命の象徴だったのに対して、20世紀は自動車がその象徴になったと言えます。ヘンリー・フォードが1913年に自動車組立工場に導入した流れ作業による大量生産方式は、自動車を金持ちの娯楽品から大衆の乗り物へと進化させました。これは「大衆消費社会革命」と呼べるほど、その後の世界にとって大きな事件でした。
 自動車産業の拡大は、そこに関わる関連企業全体の発展に結びつきます。鉄鋼、ゴム、ガラス、プラスチックなどの材料関連。道路整備などのインフラ産業。道路周辺への出店の増加による街の構造的変化。燃料などのエネルギー資源に関する産業。その影響は社会だけでなく自然環境の破壊は改変にまで及ぶことになりました。確かにそのおかげで世界全体の経済力は底上げされることにり、より多くの富が世界中に広がることになりました。(格差もその間に拡大したのですが・・・)
 株式会社のシステムは、20世紀に入ってからも何度かの危機を迎えました。1930年の「世界恐慌」は株式会社がもつ本質的な欠陥が生んだバブルの破綻によるものでした。さらに2度の世界大戦もまた世界経済に危機的状況をもたらしました。ただし、その戦争における敗北により危機的状況に陥った日本とドイツは、そのどん底から立ち直っただけでなく、その後は世界経済をけん引するほどの力を持つに至ります。

<日本とドイツが復活した理由>
 第二次世界大戦の敗北により、経済的にも政治的にも崩壊した日本とドイツは、その後、見事に復興を遂げただけでなく20世紀後半の世界経済をリードする存在にまで成長しました。それはなぜだったのでしょう?その秘密については、いくつかの説があります。
 エメニュエル・トッドは、その秘密は二つの国の家族形態の特徴にあると説明しています。
 日本とドイツ、二つの国における親子関係は、いずれも権威主義的で、兄弟関係は不平等という家族形態が共通しています。英国やアメリカのような核家族形態に比べると、労働集約を実現しやすく、集団の団結力を発揮しやすい形態と言えます。戦後復興期、二つの国は、その利点を存分に生かしたわけです。
 さらに言うと、日本における株式会社のスタイルは、家族的な経営から発展した日本独自の経営スタイルとして高く評価されることになります。そもそも日本における株式会社の出自は、欧米が資金調達目的だったのに対し、血縁共同体としての家族を拡大した疑似家族共同体としての性格を保持していたのです。

<21世紀の繁栄>
 21世紀に入り、「株式会社の黄金時代」が来ているのかもしれません。その間も企業の巨大化は、異業種企業との合併にまで発展。その行き着く先には、国家を超えた規模の多国籍企業コングロマリットの誕生がありました。しかし、そうした巨大企業の誕生も「株式」という買収・統合のための便利なツールがあったことで可能になったと言えます。
 しかし、ここまで巨大化が進むとそれは国家のレベルで制御することはもう不可能です。そして、もしそうした企業の破綻が起きれば、国ひとつどころか世界全体の経済破綻に結びつく可能性も生まれてきました。
 では、株式会社は世界をより良くすることに成功したのでしょうか?
 そうなっていないとしたら、それはどうしてなのでしょう?

<株式会社のもつ「原罪」>
 株式会社の目的は、利益を生み出すことであり、それは人間一般の目的と同じである。ただし、株式会社にとっては、利益を生み出すことは唯一の目的であるのに対して、人間にとってはそれは、数ある目的のうちの一つに過ぎない。

「皆さん、お金儲けは悪いことですか」村上世彰
 これに対して、私ならこう答える。
「お金儲けは悪いことじゃない。しかし、お金儲けは悪いことですかと私に聞くことは良いことではない。それは問いではなく、お前だって金儲けはしたいんじゃないのかという恫喝でしかないからだ」

(それは人によっては、悪いことかもしれません。その異なる答えを質問によって封殺しようとしているのです)

 こうした問題点が指摘されているにも関わらず、経済学者の多くはこう語っています。
「社会や環境上の目標を利益に優先する経営者 - 道徳的に振る舞おうとする経営者 - は、実は非道徳的だ」
ミルトンフリードマン(経済学者)

 ノーベル経済学賞を受賞した偉大な学者の言葉によれば、慈善は「見えざる手」に反抗する蛮行で非道徳的であり、悪だということになるわけです。
 著者は当然ながらこの考え方に異を唱え、会社のもる「原罪」とも呼べる「病」について、改めて指摘します。

 私は、会社は最初から病を抱え込んだ存在なのだと書いた。何度でも繰り返すが、会社というものをあえて偽悪的に描いて、それが悪であり、悪の芽は摘まなければならないとか、会社そのものを矯正して良きものにすべきだと、主張したいわけではない。反対である。会社の病は生得のものであり、これがなければ、そもそも会社というものが成り立たない。会社とはそういうものだと言っているだけである。・・・・・
 病は時に人を生かすためのアラームであり、時にそれによって人を死に至らしめる原因でもあるという意味である。


 食欲も性欲も、人間が人間として生きていくためには必要な欲望だろう。そこに、金銭欲や、支配欲や、独占欲というものを付け加えてもよいかもしれない。ただし、こうした欲望は、無際限に発露し続ければ、身体そのものを壊してしまうかもしれない。・・・
 欲望は、生きるための必要条件ではあるが、同時に生きることを阻害する要因にもなるということだ。・・・
 株式会社には、内発的に欲望の無制限な発露を抑制する機制は存在していない。だからこそ、それが会社の外部に及ぼす影響を制御するためには、外的な規制を作り、第三者的な目配りのできる監査制度を作る必要があったのだ。


 ここで重要な点は、このシステムの中に、労働- 生産 - 販売 - 資本回収といったプロ セスとは別の、投資 - リターンという投機的な要素が仕込まれたことである。これにより、このシステムの全体が、欲望という強力なエンジンを内蔵することになった。なぜなら、労働 -生産 - 販売 - 資本回収というシステムは単なる再生産のサイクルに過ぎないが、リターンに対する欲望は限りなく拡大再生産されるものであり、その拡大への欲求こそが企業を発展させる原動力になっていったと言えるからである。

<21世紀の株式会社>
 21世紀の今、人類のライフスタイルは、企業と人間が結びつき離れようがない関係になっています。
 近代化の過程で、都市生活者は、生産者としての位置から、しだいに消費者としての役割を拡大して行きました。特に、週休二日制が導入された1980年以降からは、彼らの精神的な軸足は、どこで、どうやって時間を消費するかということに移っていったと言えます。

 会社があり、人が集まり、都市は膨張を続ける。都市生活者にとって、会社とは生活の糧をそこから汲み上げるだけの場所ではない。現代というものの生活様式全般は、会社の存在によって確立し、現代人の価値観もまた会社とは切り離せないところで醸成されていると言ってもいいだろう。

 アダム・スミスの時代と現代では、市場の意味は大きく異なってきています。アダム・スミスの市場とは、商品と貨幣が交換される市場であり、重商主義的な王の統治からの独立を意味していましたが、金融経済が実体経済を大きく上回るような経済システムの中では、市場とは商品市場以上に、金で金を売買する金融市場を意味するようになっていて、国家の統治システムと市場原理主義が手を携えてグローバリズムを推進しているかのようです。国家は、本来の役目である富の再分配や、貧富格差の解消という責任を放棄し、もっぱら私企業に国家事業を丸投げし、そのことによって国家自らの責任を回避しているのです。・・・
 今や人類は企業との結びつきだけでなく、世界中の「他者」との関係性を抜きに生きられない情況に置かれています。
 21世紀の世界はグローバリズムが行きわたりつつあり、その閉塞感に包まれています。そして、グローバリズムは失敗だったと考える人々が、その修正を試み始めていますが、そのほとんどは単なる保護主義の復活や逆に侵略による植民地主義の復活に過ぎません。そのうえ、やっかいなことに、大きくなり過ぎた企業は、もし破綻すれば国家経済をも崩壊させかねません。実際、アイスランドのように国家財政が破綻してしまった国もあります。
 もし今、世界規模の企業であるGOOGLEやアマゾンが経営破綻したらどうなるのか?ある意味、人類の運命はそれらの企業に握られているとも言えます。

<世界に株式会社は必要か?>
 グローバリズムに失敗し、地域連合ブロック(EU)にも失敗し、環境も破壊してしまい、エネルギーを使いつくしつつある世界は、今再び限界を迎えつつあります。しかし、株式会社にとって、企業の縮小、再編はあり得ません。となると、世界はこれからも株式会社の発想で動いてゆくのでしょうか?それとも異なる理論、異なる経済システムを見出すのでしょうか?
 そもそも「株式会社」が経済を動かしている限り、この問題が解決することはなさそうです。

 会社をどのようにすれば、早く確実に成長させることができるのか。どのような政策を用いれば、経済の安定的な成長を確保きるのか。科学技術の進歩は人間の成長を確保できるのか。科学技術の進歩は人間の生活をどのように変えてゆくのか。これらについては、それぞれの専門化が、それぞれの分野で創り出した言葉で語ることはできる。それは、必要なことであるし、実際に生活上の役に立つだろうことも事実だろうと思います。
 しかし、それらの努力は、それを推し進めれば進めるだけ、会社とは本来何なのか、経済とはどのように考えれば良いのか、科学技術は人間を本当に幸せにするのかといった原理的な問題から私たちを遠ざける結果を招来することになるのです。なぜなら、そこで語られるプラクティカルな言葉は、それぞれの分野の現在の枠組みを強化することはあっても、枠組みそのものを解体することも、越え出ることもできないからです。人口減少や戦争のように、枠組みそのものが変化したとき、これらの言葉はほとんど何の役にも立たなくなります。
 そこでは、民主主義か社会主義か、金か精神か、自由か平等かといった二項対立的な思考は役に立ちません。
(新型コロナの世界的蔓延は、その情況を生み出したようでしたが、これ以後、どう変わるのか?)

<世界経済は天井に至ったか?>
 もし、世界経済がもうこれ以上伸びることができないところまで来ているとしたら?残念ながら、その可能性も見えてきています。

・・・もし現在起きている総需要の減衰、あるいは供給過剰が、市場における一時的な需要のアンバランスによって生じたものではなく、文明史的な供給過剰であり、もはや市場原理の外部で起きている出来事だとすればどうだろう。つまり、貨幣的な解決が望めるような現象を超えた、文明史的現象としての供給過剰が起きていると考えるとしたら、どうなるのか。
 こういう状況の中では、たとえば生産物は「見えざる手」による市場価格の調整機能によって、確実に市場で捌くことができるという「セイの法則」は当然効かない。近代経済学の根底にある合理的選好で動く人間という概念そのものが揺らぐ。


 世の中にいっぱいいる経済学者の中には、その研究を行っている人がいるのでしょうか?
 そこを研究しないで、「経済学」って存在意味があるの?と問いたいです。

「株式会社の世界史」 2020年
「病理」と「戦争」の500年
A World History of the Corporation
(著)平川克美 Hirakawa Katsumi
東洋経済新報社

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