- クリーム Cream -

<史上最強のロック・トリオ>
 元祖ハード・ロック、元祖ヘヴィー・メタルともいわれる白人エレクトリック・ブルース・ロック・バンド、クリームの知名度は在籍していたエリック・クラプトンのおかげもあり、かなり高いものがあります。しかし、彼らがどんな音を出していたのかは、以外に知られていないかもしれません。「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」や「ストレンジ・ブルー」のようなポップなヒット曲は別として、彼らが得意としていたパワフルなブルース・ロック・ナンバーはなかなか聴く機会がないかもしれません。
 クラプトンのライブでも以前はクリームのナンバーは定番としてかなり演奏されていたようですが、最近はソロ以降のヒット曲が増え、ファン層もその時代の人のほうが多くなったこともあり、クリーム時代の曲はぐっと少なくなったようです。しかし、クリーム時代の曲では、現在ではめったに聞けなくなった緊張感にあふれた音のバトルを聴くことができます。それは、かつてのジャズで聴くことができたアドリブの応酬に匹敵する演奏者たちの本気のぶつかり合いから生まれた音楽です。そうした熱い音楽を生み出すことができたからこそ、彼らはロック界最強のトリオと呼ばれることになったのです。
 ロックの歴史において最も激しい変動の時代だった1960年代後半。彼らはその時代の象徴としていまだに語られ続けています。たぶん彼ら自身もそうなることを意識していたのでしょう。なぜならバンド名の「クリーム Cream」とは、牛乳から取れるクリームのように、あるものの最も優れた上澄みを取ったものという意味があるからです。

<エリック・クラプトン>
 クリームについて語るには、やはり3人のメンバーがどうやって集まったのか、そこから始めなければならないでしょう。エリック・クラプトンについては、いまさら語るまでもないかもしれません。1945年3月30日生まれの彼は、クリーム結成以前、すでに「ギターの神様」と呼ばれていました。
 彼は自らが結成したR&Bのバンド、ルースターズからその活動を始めています。そのバンドではマンフレッド・マンやトム・マクギネス(後のマクギネス=フリントのリーダー)と共演していますが、同じ時期、後にストーンズのメンバーとなるブライアン・ジョーンズともセッションを行っていたそうです。その後、彼はケイシー・ジョーンズ&エンジニアーズを経て、伝説の名門バンド、ヤードバーズに参加します。しかし、ブルースにこだわる彼はバンドの目指すポップ路線に納得が行かず、わずか1年でバンドを脱退します。
 そして本格的なブルースを追求していたジョン・メイオールに誘われて、ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズに参加。しかし、そこでもブルースへのアプローチについて、ジョン・メイオールと対立。またもバンドを脱退した彼はレコード会社(エレクトラ)の企画アルバムのためにパワーハウスという臨時のバンドを結成します。この幻のバンドではスティーブ・ウィンウッドと共演。そしてこの時、もうひとり彼と同じくブルースブレイカーズにいたジャック・ブルースとも共演。意気投合した二人はいっしょにバンドを作ることになりました。

<ジャック・ブルース&ジンジャー・ベイカー>
 クリームでヴォーカルとベースを担当することになるジャック・ブルースは、1943年5月14日、スコットランドのランカシャーで生まれました。元々音楽の道を歩んでいた彼は奨学生としてクラシック音楽を学んでいました。しかし、1960年代中頃の若者たちのほとんどがそうだったように、彼もまた旧体制に反発する生き方を選び、クラシック音楽を捨てただけでなく、家を出てロンドンでロック・ミュージシャンの道を目指すようになりました。
 そこで最初に参加したのが、アレクシス・コーナーが立ち上げたブルース・バンド、ブルース・コーポレイテッドでした。この時期は急激な時代の変化、音楽の変化とともにバンドのメンバーも常に変化していました。ブルース・インコーポレイテッドのメンバーも、ドラムのチャーリー・ワッツがローリング・ストーンズに移籍。その代わりとして、ルイシャム生まれのドラマー、ピーター”ジンジャー”ベイカー(1939年8月19日生まれ)が参加することになりました。1963年、二人はグレアム・ボンドとともにグレアム・ボンド・オーガニゼーションを結成します。しかし、すぐにジャック・ブルースはバンドを脱退し、マンフレッド・マンのバンドやジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに参加、そんな活動の中でエリック・クラプトンと知り合うことになったのでした。

<仕掛け人、ロバート・スティグウッド>
 こうして、1966年6月、エリック・クラプトン(ギター&ヴォーカル)、ジャック・ブルース(ベース&ヴォーカル)ジンジャー・ベイカー(ドラム)によるブルースロック・トリオ、クリームが結成されることになりました。彼らのお披露目となったライブは、その年の7月3日に行われたウィンザー第6回ナショナル・ジャズ&ブルース・フェスティバルでしたが、残念ながら当日は雨に見舞われ不運なスタートとなりました。
 しかし、彼らのマネージャーだったロバート・スティグウッドは、デビュー・コンサートに向けて用意周到に仕掛けをしていました。1966年7月から3人はスタジオにこもってリハーサルを開始。3ヶ月をかけて曲作りを行いながら、コンサートの準備を行い、じっくりとクリームのサウンドを完成させてゆきました。彼らは、とりあえずデビューを飾るのではなく、デビュー・ライブに完成されたバンドとして登場し、観客たちに衝撃を与えることを初めから目指していたのです。そして、この作戦は見事に成功しました。デビュー・コンサート当日は残念ながら雨でしたが、雨と風による演出によって彼らのサウンドの衝撃度はさらに増すことになったのです。
 ちなみに、このやり手のマネージャー、ロバート・スティグウッドは、後に映画「ジーザス・クライスト・スーパースター」、「トミー」、「ダウンタウン物語」、「サタデーナイト・フィーバー」、「グリース」、「エヴィータ」など数多くの音楽がらみの名作映画を製作することになり、音楽映画の仕掛け人として大いに活躍することになります。

<クリームの音楽>
 ところでクリームはいったいどんな音を出していたのか?クラプトン自身はクリームのことを「リズム・セクションをつけたバディ・ガイ」(バディ・ガイは当時活躍していたアメリカの黒人ブルースマン)と評していたそうです。とはいっても、そのリズム・セクションは当時のロンドンの街で最高と呼ばれる二人組みだったのです。だからこそ、彼らの演奏は「神の手」と「英国最高のリズム・セクション」の真剣勝負によるハイレベルなバトル・セッション・サウンドになりえたのです。
 考えてみると、それまでのクラプトンは自らがバンドを結成するのではなく、誘われて参加しながらバンドを渡り歩いていました。常に彼はゲストであり、主役であることを約束されていましたが、ここでついに彼はバンド内でしのぎを削るライバルが現れたわけです。
 もうひとつ彼らが目標としていた存在、それはチャーリー・パーカージョン・コルトレーンのようなインプロビゼーションを売りにしたジャズ・ミュージシャンたちが生み出す緊張感にあふれたセッション・サウンドです。当時のあらゆるミュージシャンたちにとって、彼らのサウンドは演奏者ならいつかは到達したい究極の存在でした。特にブルースを志す者たちにとっては、ビートルズではなく、チャーリー・パーカーこそがヒーローでした。
 そんな目標をもつ音楽だっただけに、当然彼らの音楽が輝きをみせるのは、レコードに録音されたものよりもライブのパフォーマンスでした。だからこそ、彼らは短い期間に数多くのライブ・アルバムを発表しているのでしょう。彼らの最高傑作といわれるアルバム「クリームの素晴らしき世界 Wheels of Fire」(1968年)は2枚組みでしたが、一枚はスタジオ録音で、もう一枚がフィルモア・イーストでのライブ録音という構成になっていました。ラスト・アルバムとなった同じ二枚組みアルバムの「グッドバイ・クリーム Goodbye」(1969年)もまた一枚はロイヤル・アルバータ・ホールでのラスト・ライブを収めたもので、その他にも、1970年に「ライブ・クリーム Live Cream」、1972年には「ライブ・クリームU Live CreamU」を発表。2003年になっても、BBCラジオのためにスタジオで行ったライブ録音を集めたアルバム「BBCライブ/ BBC Sessions」が発表されるなど、多くのライブ音源が掘り起こされ続けています。
 ライブ演奏といえば、もうひとつ重要なことがあります。実は彼らこそが、ロックを大音量で演奏するへヴィ・メタル系サウンドの先駆けとなったバンドだったということです。ステージ上に山のようにスピーカーを積み上げ、観客たちを驚かすほどの大音量でブルースを演奏するというスタイルは、彼らからはじまったといわれています。そして、これが後のハード・ロックやヘヴィーメタルの先駆けとなったわけです。

<クリームが受けていた時代>
 彼らの人気は確かに凄かったのですが、逆にいうとけっしてポップではない彼らのライブが売れていた1960年代後半は、いかにブルースの人気が高かったか、ということでもあります。当時は若者たちにとってブルースこそがもっともヒップな音楽であり、現代におけるヒップ・ホップのように白人たちも黒人たちに憧れて、そのテクニックを身に着けようとやっきになっていました。だからこそ、クリームのようにブルースを徹底的に追求するバンドが人気を獲得することができたのです。
 ただし、彼らの人気は「ホワイト・ブルースの最高峰」といわれたその音楽性と、もうひとつ売れ線を意識したヒット曲を生み出すアイドル性にもありました。デビュー曲の「包装紙 Wrapping Paper」や「I Feel Free」(1966年)は、明らかに売れ線狙いの曲として作られたもので、彼らがビートルズやストーンズの路線を歩むように仕掛けられていたのも事実でしょう。そして、その路線が成功したからこそ、「クリームの素晴らしき世界」は、全英3位、全米1位の大ヒットとなり、「グッドバイ・クリーム」もまた全英1位、全米2位まで昇ることができたのでしょう。
 しかし、こうして彼らが二つの面で成功してしまったことこそが、クリームというバンドが短命に終わった最大の原因だったのかもしれません。

<ブルースにかけた男>
 アルバムがスタジオ盤とライブ盤に分かれていたように、彼らの音楽性もまたポップ路線とブルース路線に分かれていたわけですが、その二つを融合させることでビートルズやストーンズのように新しいポップスを生み出すという器用な真似は彼らにはできませんでした。特にそれまでもブルース一直線で生きてきたクラプトンには無理な相談だったはずです。そのことは、その後の彼の人生を見てもよくわかるでしょう。
 彼のギター・プレイは「クール」であると評されますが、それは彼の生き方、ブルースに対する接し方とも共通していました。そのことが、彼のミュージシャンとしての幅を狭くしていた面も確かにあったのかもしれません。クリーム在籍中のクラプトンのギター・プレイについて、フィルモアのオーナーであり、アメリカン・ロックの育ての親の一人、ビル・グレアムは、こう語っています。
「彼のソロはいつも抑制が効いていて、たまには少し羽目をはずせばいいのに、と思わせるほどだった・・・」
 ただし、クラプトンにとってクリームはギタリストとしての活躍の場であると同時に、作曲者としても一流であることを実証する場ともなりました。それまではブルース・ナンバーのコピーが中心だったため、彼が自ら作曲するということはほとんどありませんでした。しかし、この頃から彼も作曲を行うようになり、クリームの2作目「カラフル・クリーム」の中では「ストレンジ・ブリュー」、「英雄ユリシーズ」、「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を共作、その能力の高さを証明してみせています。こうして彼は少しずつオリジナル曲を作ることで、ソロ・ミュージシャンとして活躍できる下地を固めていったのでしょう。

<クリーム解散>
 1969年、クリームはあっさりと解散してしまいました。ロック・トリオの最高峰と呼ばれたこのバンドの活動期間は、わずか3年。残されたオリジナル・アルバムもまたわずか4枚でした。しかし、そこに収められたサウンドはロックとブルースを電気によって融合させる試みから生まれた極上のクリームとして、永遠に味わい続けられるでしょう。
 ただし、彼らの活躍はあまりに短かったため、「神の手」を持つ男と二人のリズムセクションの物語が神話となることはないのかもしれません。

<締めのお言葉>
「これから長い長い間、私たちは神話をもつことができません。物事は神話化されるにはあまりに早く変化しすぎているので」

ジョーゼフ・キャンベル著「神話の力」より

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ