- デヴィッド・ボウィ David Bowie -

<あなたの好きな顔は?>
 あなたはデヴィッド・ボウィの作品のどれをベストだと思いますか?それは変容を続けるヒーローのどの顔をベストと考えるかということでもあるでしょう。例えばこうです。
 グラム・ロック最大のヒーロー、架空のアイドル「ジギー・スターダスト」こそ最高と言う人は当然多いでしょう。
 また大ヒット曲「フェイム」に代表されるユーロ・ファンクとも言える独自のファンク・ミュージックを生み出した両性具有のヴォーカリストこそ最高と思う人もいるでしょう。
 しかし、ロックを芸術の領域にまで高めたベルリン三部作こそ、彼の最高傑作だという人は、僕も含めて多いはずです。
 いやいや、そうじゃない。限りなくポップでスポーティーな大衆向けファンク・アルバム「レッツ・ダンス」こそ大衆芸能としてのロックの最高峰だ!確かに、それもまた正論です。
 そして、この多彩な顔こそが、デヴィッド・ボウィという人物を象徴するイメージと言えそうです。

<ボウィの不思議な家系>
 デヴィッド・ボウィことデヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年1月8日ロンドン市内のブリクストンに生まれた。父親は再婚で、前妻との間に生まれた兄が一人と父親が違う姉が二人いた。そして、この兄弟も含めて、彼の近親者には異常に精神病に冒される人間が多かった。もともと神経質だった彼の兄テリーは、兵役を終えて症状が悪化、一言も口をきかなくなり、ついには精神病院に入院、二度とそこから出ることはなかった。(デヴィッド・ボウィが主演した大島渚監督の「戦場のメリー・クリスマス」の主人公が障害者の兄との関係について、トラウマに悩んでいたというエピソードには、彼の実際の体験が関わっていたと思うのだが・・・)

<ボウィの生い立ち>
 デヴィッドもまたテリーに奨められてカフカの「変身」を読んでから、しだいに「狂気」のイメージに取り憑かれるようになり、危ういところでその精神の迷宮から脱出した経験をもっています。デビュー当時の彼のアルバムには、この時の「狂気のイメージ」が欠かせないテーマとなっていました。デヴィッドは、美術系の学校を卒業後、商業美術の会社や広告代理店に勤めた後、1963年にバンドを結成し、本格的な音楽活動に入りました。そして1966年に名前をデヴィッド・ボウィに改め、音楽活動を続けると同時に前衛的なパフォーマンス集団、リンゼイ・ケンプのグループに仲間入りし、彼らとの不思議な生活からインスピレーションを得たソロ・デビュー・アルバム「デヴィッド・ボウィの世界」を発表しました。彼独特のパントマイムなどのパフォーマンス・テクニックは、この頃体得したものです。
 その後彼は仏教徒となったり、フォークシンガーとして活躍したりしていましたが、人類が月面にその足跡を残した翌1969年「スペース・オディティ」を大ヒットさせ、一躍人気アーティストの仲間入りを果たしました。そして、彼の代表作のひとつ「ジギー・スターダスト」(1972年)が発表され、彼と彼が生み出したもう一つの人格との共同作業によるパフォーマンス的音楽活動の時代が始まりました。

<超人類ジギーとボウィ>
 自分がバイ・セクシュアルであることをいち早く告白していたデヴィッドは、まさに新人類でしたが、それは彼が生み出した数々のキャラクターの新しさにも現れていました。彼が生み出した新しい人格は、その現実を遙かに超える超人類的キャラクターばかりでした。(それは、後に彼が主演することになるニコラス・ローグ監督の傑作SF映画「地球に落ちてきた男」の原点でもありました)プロダクション・チームとともに始めたこの企画は大当たりでした。彼のカリスマ的容姿とグラム・ロックのブームは、彼をあれよあれよと言う間に大スターに押し上げてしまいました。(この当時のグラム・ロック・ブームが、かなり作られたものであったことは、映画「ベルベット・ゴールドマイン」に描かれています)

<ジョン・レノンとの共作「フェイム」>
 こうして彼は一躍有名人になりましたが、彼の心の中には、そのことに対する反発も強く、同じ悩みをもつジョン・レノンと共作で大ヒットファンク・ナンバー「フェイム」(1975年)を録音しました。(ジョンは、この5年後にそのフェイム(名声)の故に、凶弾に倒れることになります)しかし、こうして彼がよりビッグな大スターになってゆくにつれ、彼が生み出したキャラクターたちの存在はその大きさを増し、現実の彼とのギャップはしだいに彼の精神のバランスを崩すほどになってゆきました。そのため、その状態から逃れようと彼は麻薬に溺れてゆくことになります。彼の精神は、こうして崩壊ギリギリの状態になってゆきました。

<救いの街、ベルリン>
 そんな彼の精神を救ったのは、意外なことに東西ドイツ分裂時代のベルリンの街でした。ヨーロッパ的な美学に満ちたファンク・アルバム「ステイション・トゥ・ステイション」(1976年)を発表し、カリスマ的アーティストとしての人気がピークに達した頃、彼の精神状態はついに最悪の状態に陥りました。彼は、自らその状態からの脱出をはかるため、アメリカを離れることを決意します。彼はベルリンの街で小さなアパートを借り、そこで隠れるように生活するようになります。
 かつては、頽廃の街として有名だったベルリンの街は、当時すでに変わっていて、最も芸術に理解のある健全な街となっていました。その街に住むことで、ボウィは少しずつ癒されてゆき、しだいにかつての活力を取り戻して行きました。さらに彼はここで重要なパートナー、ブライアン・イーノとの共作を始めます。こうして生み出されたのが、アートとしてのロック・アルバムとして最高峰とも言える作品「ロウ」「ヒーローズ」でした。

<精神の淵ギリギリからの生還>
 彼が天才と呼ばれるようになったのは、自らを精神の危機に追い込みながらも、ギリギリのところで立ち止まり、引き返すことのできる強靱な精神力をもっていたことにありそうです。精神崩壊ギリギリの地点まで、真実に迫ることのできる能力、これこそがパブロ・ピカソゴッホにも共通する芸術家として最も重要な要素なのです。彼はこうして何度かの精神崩壊の危機を乗り越える中で、そのたびに優れた作品を生み出すことに成功しました。しかし、もしかすると、ベルリンの生活で得られた精神の平安は、彼のその後の芸術活動にも大きな影響を与えてしまったかもしれません。なぜなら、この後の彼の作品からは、かつての狂気や退廃的な雰囲気が消えていったからです。

<時代がボウィに追いついたのか?>
 健康的で、スポーティーなボウィ最大のヒット作「レッツ・ダンス」が生まれたのはこの後でした。このアルバムでは、プロデューサーに当時最高の人気を誇っていたディスコ・バンド、シックナイル・ロジャースを起用、彼にとって最もアメリカ・ナイズされたファンク・アルバムとなりました。
 このアルバムの日本でのキャッチ・コピーが実に印象深かった。「時代はボウィに追いついた」、確かにそうでした。この時からボウィは時代に追いつかれ、その後時代の先を行く作品を生み出すことはなくなったような気がします。
 彼ほど時代とともに変化をとげ、次々に新しい個性を生み出したアーティストは他にいないかもしれません。しかし、それは彼にとって苦しみの連続だったのかもしれません。そう考えると、彼にとって幸福な時期とは、いつだったのだろうか?とふと思ってしまいます。
 もしかすると、精神が崩壊する前の兄テリーに遊んでもらっていたロンドンでの幼い頃の生活だったのではないだろうか?なんてことを思うのですが・・・。

<訃報>
 2016年1月8日、癌との闘いの末、彼はこの世を去りました。
 21世紀に入っても、なお彼は現役バリバリで音楽活動を続けていて、発表した作品こそ少ないものの、常に新しいスタイルに挑戦し続けていました。多くのロック・ミュージシャンが、過去のヒット曲を演奏し続けたり、バンドの解散、再結成を繰り返す中、彼は数少ない進化するロック・ミュージシャンとして生涯を全うしたといえます。
 ご冥福をお祈りいたします。

<締めのお言葉>
「・・・それゆえ余はあえて予言しようと思う。人間は、究極する所、多種多様にして調和を欠く独立した住民よりなる一つの国家であることが明らかになるであろうと」
スティーブンス著「ジキル博士とハイド氏」

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