- ダイアナ・ロス(ザ・シュープリームス) Diana Ross (The Supremes) -

<英雄たちの人物像>
 この英雄列伝で取り上げているのは、僕が素晴らしいと思うアーティストたちばかりです。しかし、だからと言って、彼らがみんな人間的に愛すべき人物だったのか?それは、また別の問題です。まして、ポピュラー音楽の世界は、弱肉強食の厳しい競争社会です。そんな世界でトップ・アーティストになるからには、それそうとうの精神的強さとともに多少の傲慢さは、必要不可欠のもののはずです。

<ダイアナ・ロスの場合>
 ダイアナ・ロスの場合、その登場は黒人の地位向上が、これからやっと始まろうとする1960年代初めです。まして、彼女は10代そこそこの女の子でした。そこから全米を代表するトップ・アーティストになるためには、どれだけの勇気と自信を必要としたことでしょう?
 しかし、こうしてどれだけ彼女のことを弁護しようとも、彼女ほどプライドが高く、わがままな女性は他にいないかもしれません。彼女は、スーパー・スターであると同時に、全米ナンバー1のスーパー・エゴイストだったようです!デビュー前の彼女を知るある人物がこう言ったという。
「ダイアナ・ロスについて一つだけ言っておきたい事がある。これは彼女の弁護のつもりで言っているんだけどね。まだ貧乏で、団地に住んでいる頃から、彼女は今とまったく変わらないくらい態度がデカかったよ。だから、彼女の態度がデカいのは有名になったせいじゃないよ」

<上昇志向のスーパー少女>
 ダイアナ・ロスは、1944年3月26日、ミシガン州のデトロイトに生まれました。父は、「モーター・タウン」デトロイトの自動車関連の下請け工場で働き、母は裕福な白人家庭で、メイドとして働いていました。小さな頃から積極的で、やり手だった彼女は、昼は高校でデザインを学び、夜はレストランでバイト、そしてその稼ぎで週末には、モデル養成学校と美容教室にかようという頑張り屋でした、それだけではなく、学校の水泳部、陸上部でも活躍し、教会の聖歌隊でも活躍するスーパー少女でした。

<スターへの第一歩>
 そんなスーパー少女のダイアナが14歳の時、近所に住むフローレンス・バラードメリー・ウィルソンが彼女を誘いにやってきました。それは、その当時、ニュー・ヨークを中心に人気が出てきたガール・グループを結成しようという誘いでした。こうして女性コーラス・グループ「プライメッツ」が結成され、彼女たちは、さっそく男性コーラス・グループのプライムズとともに、ステージに上がるようになったのです。地元の小さなレコード会社からシングルも出し、自信をつけた彼女たちは、その頃デトロイトで話題になりつつあった黒人経営者による新しいレコード会社、USAレコード・ヒッツヴィルへの売り込みを開始しました。(この会社こそ、後のモータウンである)

<あこがれのモータウンへ>
 何をやらせてもやり手のダイアナは、ここでも力を発揮。当時スカウトも兼務していたミラクルズのスモーキー・ロビンソンに自分たちのオーディションを行ってくれるよう頼み込むことに成功します。その場で、社長のベリー・ゴーディーは、高校を卒業したら契約しても良いと彼女たちに約束します。(ベリー自身は、それほど気に入ったわけではなかったようですが)それから彼女たちは高校を卒業するまで、毎日のようにモータウンに通い詰め、バック・コーラスや手拍子など、やらせてもらえる仕事には何でも参加しました。

<シュープリームスの誕生>
 こうして、1962年ダイアナ・ロス、フローレンス・バラード、メリー・ウィルソン、バーバラ・マーティンの四人によるグループが誕生し、グループ名をプライメッツから「シュープリームス」へ変更して、モータウンと正式に契約をかわしました。(この時、一緒に活動していたプライムズも、名前を変更しています。それがあの「テンプテーションズ」です!)

<モータウンでの下積み>
 シュープリームスは、いきなりスターになったわけではありませんでした。マーサ&ザ・バンデラスミラクルズテンプテーションズなどのグループが、次々にヒットを飛ばしスターの仲間入りをして行く中、彼女たちにはさっぱりヒット曲が生まれませんでした。それでも、ダイアナたちはそんな下積みのドサ回りの試練に耐え抜いていましたが、社内ではグループの顔であるメイン・ヴォーカリストについて疑問の声があがり始めていました。それは、線は細いが他とは違う魅力があるダイアナ・ロスをメイン・ヴォーカルにすえさせたベリー・ゴーディーの判断に対する批判です。この時、確かに実力的にはダイアナ以上のものを持っていたフローレンス・バラードかメリー・ウィルソンがメイン・ヴォーカルをとるようになる可能性もありました。(この頃、ダイアナは、ベリー・ゴーディーと恋人同士だったという説もあります)しかし、そうなる前に流れが変わる時が来ました。それは、モータウンの黄金時代を築いた最大の貢献者でもある作曲家チーム、H-D-Hとの出会いから始まります。

H-D-Hとともに頂点へ>
 ブライアン・ホランドエディー・ホランドラモン・ドジャーからなる作曲、プロデューサー・チームが、1964年からシュープリームスに曲を提供するようになり、いっきに風向きは変わり始めました。それまで、ベスト20にすら入ったことのなかった彼女たちが、H-D-Hから与えられた2曲目の作品"Where Did Our Love Go"でいきなり全米ナンバー1に輝いてしまったのです。そこから驚異の快進撃が始まりました。"Baby Love","Come See About Me","Stop! In The Name Of Love","Back In My Arms Again"なんと、5つのシングルが立て続けに全米ポップ・チャートのナンバー1に輝くという未だかつてない快挙を成し遂げたのです。こうして、彼女たちは、1965年、1966年、1967年の3年間だけで、なんと10曲の全米ナンバー1を放つのです!

<夢の実現に向かって>
 栄光の時代が訪れると、ダイアナの夢はさらに膨らんで行きました。1967年、グループの名前は、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと改められます。ダイアナは、自分が主役であることにこだわり、他のメンバーとの関係は一気に悪化して行きました。一時は、グループのリーダー格だったフローレンス・バラードは、ついに脱退。この後、アルコールに溺れる生活におちいり、若くしてその一生を終えてしまいます。(この悲劇の物語は、1981年初演のブロードウェイ・ミュージカル「ドリーム・ガールズ」が詳しく描いていました。これは、東京でも上演され僕も見ることができました。さすがに、このショーを当のダイアナ・ロスはけっして見ようとはしなかったようです)
 そして1969年、ついにダイアナはシュープリームスからの独立を宣言します。

[逸話その一]
 1983年に「モータウン25周年記念コンサート」が開催された時のこと。
 このコンサートの目玉のひとつにシュープリームスの再結成があり、当日はそれが舞台の上でひさしぶりに実現しました。故フローレンス・バラードの後がまとなっていたシンディー・バードソングとオリジナル・メンバーのメリー・ウィルソン、そしてダイアナの3人が舞台に現れると、会場は大きな拍手に包まれた。3人は歌いながら少しづつ歩み寄っていったが、なんとダイアナは、近づいてきたメリー・ウィルソンにひじ鉄をくわせ、マイクを落とさせたのだ!(もちろん、そのシーンはテレビ放映の際、カットされました)すごい女です。「あんた目立ち過ぎよ!」とでも言ったのでしょう?

<銀幕のスターを目指して>
 それでもまだ、彼女の夢は完成されていませんでした。それは銀幕のスターになるという夢です。しかし、その夢もまた実現へと向かい始めます。それはモータウンのロスへの移転と映画産業への進出がきっかけでした。その第一作目は、伝説の黒人ジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリディの生涯を描いた作品「ビリー・ホリディ物語」で、主役は当然ダイアナでした。そして、この映画で彼女は、アカデミー主演女優賞に見事ノミネートされます。この勢いに乗って、彼女は映画出演を続けるますが、残念ながらどれも失敗に終わってしまいます。一流ファッション・モデルの苦悩を描いた映画「マホガニー物語」は、まさに彼女の異常なまでの最新ファンションへのこだわりにぴったりの作品でしたが、まったくの駄作と酷評され、「オズの魔法使い」の黒人版リメイクの「ウィズ」も、彼女の主役抜擢という無謀な作戦のおかげで、やはり大失敗に終わっています。(少女であるはずの主人公が、34歳のおばさんでは!)
 しかし、そんな事でめげるような彼女ではありませんでした。1981年、彼女はかつての栄光を失いかけていたモータウンからも独立、完全に独り立ちをとげます。
 彼女のことを好きにはなれなくても、それを補って余りある魅力が彼女にあったことは、認めざるを得ないでしょう。そして、彼女ほど露骨に感情を表し、誰よりも上昇志向の強いスターが、今や珍しい存在になりつつあるのも確かかもしれません。

[逸話その二]
 1983年、彼女はニューヨークの子供達に遊び場を作るため、セントラル・パークでチャリティー・コンサートを開催すると発表しました。しかし、土砂降りの雨による日程の変更や暴徒の乱入などにより、収支は大赤字。ニューヨーク市は50万ドル近い経費負担を余儀なくされたため、ダイアナ側の経費も明らかにするよう求めました。すると、なんと彼女は、このコンサートのために衣装、化粧品、リムジン代など2万ドル以上をかけていたことが判明します。彼女は批判の矢面に立たされ、結局、遊び場建設のために、25万ドルを市に寄贈したのだそうです。

 ダイアナは、以前子供の頃のことを、こう回想しています。
「私がやりたかったのは、歌を歌うことと、きれいな服を着ること - それだけだったわ」
そう、彼女のその考えは、今もまだ変わっていないのです。

<締めのお言葉>
「人の心はいつでも、その人を助けるのですか?」
「ほとんどは、夢を実現しようとしている人の場合だけだ」

パウロ・コエーリョ著「アルケミスト」より

[参考資料]
「モータウン・ミュージック」ネルソン・ジョージ著(早川書房)
「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著(音楽之友社)

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