- ダライ・ラマ14世 Dalai Lama -

<歴史とは?>
 歴史とは、人々に知られ史実として記録されて初めて存在しうるものかもしれません。誰にも知られていない出来事は、それがどんな大事件であったとしても、歴史とは呼べないのです。その意味では、歴史は常に良い意味でも悪い意味でも書き換えられ続けていると言えます。
 日本がかつて中国、満州、東南アジアで行った非人間的な侵略行為や虐殺行為を未だに認めようとしない人々がいるのにはあきれてしまいます。しかし、実際に教科書すら書き換えようとする動きが本格化し、それを認める市町村が現れるとは、驚きや怒りを通り越して将来に対する恐怖を憶えます。この流れのもと、憲法第九条の改訂さえもが当然のように語られるようになってきました。
 アメリカのイラク攻撃のきっかけとなった核兵器保有疑惑は早くもインチキだったことが明らかになりましたが、ブッシュ政権のニセの歴史作りは実にお粗末なものです。
 しかし、世界史におけるこうした歴史の偽造や消去は、もしかするとほとんどが成功しているのかもしれません。
 例えば、アフリカ各地で起きている内戦と民族、宗教の対立を原因とする大量虐殺の原因は何だったのか?それはほとんど明らかにはなっていません。そこには、ニュースを扱う側の都合もあります。アメリカ南部の台風被害とパキスタン北部の大地震。かたや数千人の死者と数万人の死者ですが、記事の大きさにそれだけの差があるようには思えません。歴史というものは、こうした取りあげられ方だけでも、すでに先進国用に書き換えられているのです。
 こうした歴史の書き換えは、強い者と弱い者の間ではさらにひどいものになります。弱者の歴史は、強い者によって簡単に書き換えられ、それが歴史の常識になってしまうのです。

<歴史から消された国、チベット>
 かつて、チベットという国がありました。場所は中国南西部。それも広大な中国の四分の一もの面積をもつ巨大な国家でした。18世紀、清の時代に征服されて以降、チベットは中国の一部として表記されるようになります。しかし、その頃はまだ民族的にも文化的にもチベットはひとつの国家と呼べる存在であり続けていました。
 ところがそんな時代も20世紀に入ると終わりを迎え、チベットは政治的にも中国の一部とされてしまいます。チベットという歴史ある国の植民地化。それが日本から独立を勝ち取ったばかりの中国の手によるものだったというのは実に皮肉なことです。中国はそのチベット征服を共産主義による旧体制からの「解放」と呼びました。かつて日本も西欧諸国からの「解放」を叫びながら中国を占領したのですから、悲劇の連鎖に終わりはないのかもしれません。
 そして、この激動の時代に若くしてチベットの指導者となったのが、今やその名を世界中の多くの人々に知られる存在、ダライ・ラマ14世です。

<ダライ・ラマの生い立ち>
 ダライ・ラマ14世は、もとの名をラモ・トンドゥプと言います。1935年7月6日に生まれた彼は、3歳まではチベットの北西部チャンタン省で農家を営む一家の子としてごく普通の人生を歩んでいました。ところが、1933年に亡くなったダライ・ラマ13世の化身(トゥルク)を探していた捜索隊が数々の予言に導かれ、彼を探しだし、彼こそがダライ・ラマ14世になるべき人物であるという判定を下しました。彼がダライ・ラマ13世の生まれ変わりである証拠が数多くみつかり、正式にダライ・ラマ14世として迎えられることになったのです。
 1940年、5歳の時、彼はチベットの首都であり、チベット仏教の聖地でもあるラサのポタラ宮殿に移り住み、ダライ・ラマ14世として即位します。チベットにとっては、新しい指導者を迎えた輝かしい年となりました。しかし、同じ年ヨーロッパではドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まろうとしていました。そして、後にこの戦争の影響がヨーロッパから遙か離れたチベットの地にまで及んでくることになります。

<中国の共産化とチベット>
 1945年第二次世界大戦は終わりを迎えましたが、多くの国では戦乱は収まらず、逆に激しさを増したく国も数多くありました。 日本に占領されていた中国は、日本の敗戦により自由を得ますが、すでにその時毛沢東率いる共産勢力と蒋介石率いる右派勢力の内戦が始まっていました。この闘いは3年に渡って続き、最終的には共産主義勢力が勝利をおさめ、1949年ソ連に匹敵する巨大な共産主義国家が誕生しました。
 しかし、中華人民共和国の輝かしい誕生の歴史は、これで終わったわけではありませんでした。なぜなら中国の広大な国土はまだ赤い旗のもとに統一されたわけではなかったからです。もともと中国という国のうち漢民族の土地はごく一部であり、北東部に位置する満州国や西北部の東トルキスタン、そして南西部のチベットはまったく別の民族が住む異なる国でした。

<中国の侵攻とラサ脱出>
 そのため中国全土を共産化することを目指していた中国政府は内戦終了と同時にそうした異民族の住む地域へ軍隊を侵攻させ、共産化のための支配体制を確立しようとします。こうして1950年、中国人民解放軍が東チベットへと侵攻を始め、同年一気にチベットの首都ラサを包囲してしまいます。この非常事態の中、ダライ・ラマは摂政タタン・リンポチェの後を継ぎ、本格的にチベットの政治を司ることになりました。すぐに彼は中国の侵攻を国連に提訴しますが、すでにチベットを中国の一部と見なしていた国連はその訴えを却下。ダライ・ラマは一時ラサを離れざるを得なくなります。(この時彼はまだ15歳の少年でした)

<中国による懐柔策>
 1951年、北京での会議の後、チベット解放十七箇条協定の調印が行われ、無血状態でチベットは中国共産党の支配下におかれることになりました。こうして、一応は平和的に始まった中国による支配体制も、軍隊のラサ進駐とそのための食糧事情の悪化により、すぐに険悪な状態になり始めます。
 しかし、中国共産党の首脳陣はあくまでダライ・ラマに対して友好的な姿勢を装い続け、彼を全国人民代表会議において常務委員会副委員長に任命するなど、なんとか共産党の友好的メンバーに組み込もうとします。その効果もあってか、彼も一時は共産党への入党を考えました。(共産主義の思想は基本的には素晴らしいのです。問題は、その素晴らしい思想も人間という愚かな存在によって具体化されると、あっという間に理想とはほど遠い私利私欲に満ちたものに変わってしまうことなのです)結局彼は共産党指導部の言葉を信じることができなくなり、自体は平行線のままになりました。

<チベット仏教について>
 仏教の原点は、約2500年前にインドに生まれたシッダールタ王子(仏陀)です。彼の教えがチベットに伝わってきたのは紀元4世紀ごろ、それまで信じられていたボン教に代わるかたちで数世紀かけてチベット全土に広がりました。
 紀元763年には、チベット軍が中国の首都を落とし、巨大な帝国を築いた時期もありましたが、仏教が広く浸透してゆくに連れ、そうした戦闘的な民族性がしだいに変化し、しだいに平和的な民族性が定着して行きました。
 仏教の基本は因果の法則にあります。そして、誕生、苦しみ、死、再生という生命の循環から人間は逃れられないとされています。そこから逃れられるのは唯一、解脱に成功し仏性を獲得した大人だけです。しかし、チベット仏教ではこの解脱に達した人は、すべての人が悟りをひらくまで、死んだ後も何度でもこの世に甦るとされているのです。ダライ・ラマも当然その一人ということになります。(ちなみに「ダライ」とはモンゴル語で「大海原」のこと。「ラマ」はチベット語で「教師」の意味だそうです)
 ある時、毛沢東はダライ・ラマにこういったそうです。
「あなたの態度はとてもいい。だが宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。なぜなら僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、第二に宗教は物質的進歩を無視するからだ」
ダライ・ラマが毛沢東の言葉を信じられなくなったのも当然でしょう。今にして思えば、人口増加に悩む現代の中国にとっては、宗教こそ最高の人口抑制策になったのかもしれません。しかし、最近の中国は世界で最も無宗教の国、拝金主義の国になってしまっているようです。

<チベット解放十七箇条協定>
 第一条にはこうあります。
「チベット人民はチベットから帝国主義侵略勢力を駆逐し、中華人民共和国という祖国の大家族に復帰する」(チベットは昔から中国の一部だったのだ、と言いたいのでしょう)
「チベット地方政府は、”中国解放軍”がチベットに進駐し、国の防衛を強化することに積極的に協力すること」(要するに、チベット軍は中国軍に降伏、吸収されよ、ということです)
 さらにこの協定には、「中国解放軍はチベット人民から針一本、糸一本すら勝手に取りあげない」ともありました。しかし、現実にはラサに進駐した解放軍は食料を無償で要求するようになり、さらに宿泊施設として家などを徴用しても代金を払わないなど、その行為はチベット経済を圧迫するほどになっていました。

<暴力による支配体制>
 1956年、チベットの独立を目指す解放勢力に対する見せしめとして、中国解放軍はリタン僧院を爆撃。さらに父や夫が抵抗運動に参加した女性やその子供たちを拷問の後に処刑。僧侶や尼僧への性的陵辱、さらにはお互いを殺させるなど残虐きわまりない行為を行いました。さらには処刑の歳「ダライ・ラマ万歳!」と叫ばせないために舌を引き抜いたりもしたそうです。
 その他、手足の切断、磔、腹を引き裂いて内臓を取り出す、打ち首、生き埋め、馬での引きずり回し、手足を縛って氷った水に投げ込むなどなど。中国軍はあらゆる虐待をチベットで行っています。なぜ、ここまで残虐な行為ができたのか?それはついこの間まで日本人が中国人に対して行っていた行為の繰り返しのようにも思えます。それは「悪の連鎖」なのでしょうか?それとも「人間のもつ性」なのでしょうか?なんとも痛ましい現実です。

<反抗と亡命>
 1956年、チベット自治区準備委員会が発足し、中国の支配がこうして本格化するとともに、反中国のゲリラ活動がしだいに活発化し始めます。1958年には南チベットで反中国の暴動が発生し、チベット全土が一触即発の状態になり、翌1959年3月ついにラサの市民が武装蜂起します。
 この時一歩間違えるとラサ市民のすべてが中国軍によって殺害されるという最悪の結果も予想されました。ラサの市民はダライ・ラマが中国軍に拘束されることになれば全員が中国軍に対し攻撃を仕掛け玉砕しただろうと言われています。そうした最悪の事態を避けるためには自分がラサを離れるしかない。そう判断した彼は3月17日夜半、極秘のうちにラサを出発。インドに亡命すると新チベット政府を樹立し、中国との十七箇条協定を否認しました。
 「亡命」というと、どうしても自分だけが危険から逃れたと解釈されがちですが、ダライ・ラマの場合、彼の死=ラサ市民全員の死につながりかねなかったのですから、亡命という行為を敵前逃亡と非難するのは酷だと思います。
 こうして彼はチベットの地を後にしましたが、その後二度と故郷に戻ることができなくなるとは思っていなかったかもしれません。

<新チベット国の設立>
 彼はインド北東部ダラムサラにチベットの亡命政府を樹立。その後チベットからの難民たちの手で開拓を行い新しいチベット国を築き始めます。(このためインド政府は土地や資金など多くのものを提供しています。ガンジーの精神はこの頃はまだ生きていたのでしょう)彼らは新しい土地で育つ子供たちがチベットの文化を忘れてしまうことのないよう教育の充実に力をつくしますが、それだけではなく、世界に通じる人材となるよう英語などの教育にも熱心に取り組みました。(1991年時点でインドに10万人、その他の国に1万5千人の人が亡命しています)

<世界を駆ける平和の使者>
 ダライ・ラマはその後も事態の打開を図るため、中国によって行われた暴挙を国連などを通じて世界に訴え続けます。その甲斐あって1961年には国連総会の場で「チベット問題に関する中国への非難決議」が採択されます。
 しかし、その後も中国の姿勢はまったく変わらず、逆にチベットに同情的なインドを非難し、ついには1962年中印紛争が勃発してしまいます。
 国土をもたない国チベットの代表として、その後もダライ・ラマは世界各地を訪問し、チベットの現状を訴え続けますが、彼の旅はいつしか母国の復活のためだけではなく、世界中の虐げられている人々、戦乱に苦しむ人々すべてのための「巡礼の旅」ととらえられるようになって行きます。
 1967年には日本やタイを訪問。1975年にはヨーロッパ各地を訪問し、ローマ法王パウロ6世とも会見しています。彼は仏教の指導者だけでなくキリスト教やイスラム教など他の宗教の指導者たちとも親交を深め、究極の全方位外交によって世界平和を推進する象徴的存在になりました。

<世界平和に向けた提案>
 さらに彼の存在を世界に知らしめたのは、1987年9月21日にアメリカ議会で行われた演説です。彼はこの演説の中で和平五項目として有名になる提案をしています。
(1)チベット全土を平和地帯に変える
  a. チベット全高原の非武装化
  b. 核兵器の製造、実験、保有の禁止(中国はチベットで地下核実験を行っています)
  c. 世界最大の自然保護区とする
(2)一民族としてのチベット人の存在そのものを脅かす中国の人口移住政策の廃止
(3)チベット国民の基本的人権並びに民主的自由の尊重。
(4)チベットの自然環境の回復と保護並びに核兵器生産にチベットを利用することを止め、核廃棄  物の処理場とすることの禁止
(5)チベットの将来の地位並びにチベットと中国国民の関係についての真剣な話し合いの開始
 こうした「チベット全土を平和地帯に変える」という発想は、日本が世界に誇る憲法第九条に匹敵する画期的なもので、もしそれが実現すれば中国とインドの間の国境紛争を終わらせるだけでなく中国による急激な環境破壊にも歯止めができるでしょう。(1955年以来1990年までの間にチベットでは1500万本もの木が伐採され、その後も森がどんどん失われています)

<その後のチベット>
 チベットの状況はその後一時は融和政策が打ち出されましたが、1980年に登小平が中央軍事委員会主席に就任すると再びチベットに対する弾圧が強まります。
 1980年代後半はチベットの独立を求める運動が再び盛んになります。それは1989年の天安門事件とベルリンの壁崩壊と時を同じくする世界的な流れでしたが、残念ながらチベットの状況が変わることはありませんでした。
 しかし、そうした状況においてもテロ活動や戦闘に頼らないダライ・ラマ率いるチベットの平和的独立運動はしだいに世界中から支持されるようになり、同年ダライ・ラマ14世はノーベル平和賞を受賞しています。
 国土を失った歴史と文化のある国チベット。その代表者ダライ・ラマがインドの地を借りて作り上げつつある新しいチベットは、ある意味架空の平和国家であり、未来の理想郷かもしれません。
 ジョン・レノンが歌った「イマジン」を絵空事と言う前に、少しでもそこに近づこうとする人々が今地球上にいるもっと多くの人に知ってもらうべきだと僕は思います。

<ハ・ジン作「自由生活」より>(追記2014年2月)
・・・その心を最も大きく動かしたのは、自分に敵意をむき出しにしてくる中国人たちを前にしても、ダライ・ラマが何ひとつ怒りを表さないことだった。魅力的でしかも強く、暴力的な感情などもはや超えた次元にいるのだろう。しかし心の深い場所では、猊下もまた、普通の人物のように悩める人間だった。それがおそらく何よりも、ダライ・ラマを憐れに見せているのだとナンは思った。
ハ・ジン「自由生活」より
(在米中国人との対話集会に参加したダライ・マラとの出会いについて)

<締めのお言葉>
「神は天地を創ったというが、その天地が今まであるものとすれば、随分古いものである。が、その実はわれわれが各々神となって、この古い天地なるにもかかわらず、それを日々に創ってゆくのである。われわれが実際の天地の創造主となるのである」

鈴木大拙著「禅とは何か」より

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